土器文様解読への発想の軌跡

学芸員 内田祐治




TOPICS


第一章 文様解読への予備的段階

文様を生み出す人の意識と夢の力
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夢に現れた意識の痕跡(1)
 もう十年も前、土器文様の意味を心理学的に解明できはしないかと思い立ったとき、C.Gユングの『人間の象徴』
(河出書房新社)なる本と出あった。当時のわたしは、文様に秘められた意識へ何とか入り込むすべはないものかと、悩んでいた。しかし、時代はオーム真理教の事件を発端として心理学が一般の人々に拒絶される風潮が生み出されていた。考古学を志す仲間内でさえも、本来意識を開放して自由に討論できるはずの酒の席で「そんなのはね、心理学で分かるわけ無いんだよ」と、悪いことでもしているように会話を遮断され、孤立感を味わうことがたびたびあった。
 そうしたなかでユングの書はわたしに、独房で聖書を読むような平安と、そしていずれ見出すことができるであろう文様解読への希望を与えてくれていた。その書の夢にかんする論考は、それほどに魅力的なものだった。
 わたしは、それまでにも化石や土器を採集に行く、野外調査に燃えていた少年時代を夢見ることがあった。実景ではないのだが、多摩丘陵の藪を抜けた畑地の隅に、農家の人が耕作の邪魔にして捨てたのであろう、ヒスイやジャスパーなどの玉石で作られた大形な石器群を発見し、言いようもない喜びを夢の中でかみしめることを幾度も体験していた。
 脳にすりこみ的な太古からの記憶が無いとは限らない。ひょっとしたら、わずかなヒントでも夢から得ることができるかもしれない、こう思い、あるときから夢を明け方の覚醒した意識へ導入する訓練をはじめることにしたのだが、その方法とは、覚醒の状態に気づいたうろ覚えの段階で、夢の続きをわざとその先へ引き伸ばして見るよう心がけ、頭の中で映像が鮮明なうちに逆進して夢の記憶に残る断片を結びながら掘り起こしていくのである。
 地中に棺を置く不可思議な亜字形の埋葬窟のこと、崖棚にばり付くわれわれ襲う尾根を走り来る竜巻のこと、いくつかの段差のある部屋をもつ洞窟内のホールのことなど、それらをとおし、いまでは布団を片付けたり、顔を洗ったりと、しっかり覚醒した状態からもそれを追うことができる。そうしたなかで、ただ一度だけ確かに太古の情景と交わったという感触をもちながら覚醒したことがある。この時の心境は、それまでに感じたことの無い穏やかで神秘的な雰囲気に意識が包み込まれていたことを覚えている。しかし、このときばかりはただの一つも映像的記憶が残されておらず、夢に入り込むすき間さえも見つけ出すことはできなかった。したがって根拠は0%、自分の感覚を信ずることだけがそれを証明することになるのだが、それが真実なら、記憶のかなり深い位置から、あるいは自己の経験以外も想定できるであろうが、そうした状態から夢の起こされていたことが考えられてくることになる。
 そんな、他人から見たら馬鹿げたことを真剣に考えているのであるから、子どもや妻、仕事仲間からも夢を聞きだすことはある。しかし、自分の夢に関しては八割程度意味解釈ができるように思っているが、他人の夢となると、現実や夢を日常のなかで意識していない分だけ本人から情報を引き出せず、ユングのようには解読できないのが通例である。因って自分の夢を最良の資料として、その構造を分析しているのであるが、なぜそんなことをしているかというと、冒頭にも述べたように、こうした感覚が、現象の奥に隠された見えないもの、わたしの場合は文様に表わされた野生の思考の探求だが、それを引き出す効果をもたらすと考えているからである。 つづく
  
2007.2.8より


夢に現れた意識の痕跡(2)
 さて、ここからは昨日見た夢の全貌を記録していく。

 後から分かるのであるが、わたしは宿舎に
帰ろうとしているらしい。
 車の途絶えた夜更けの幹線道路の右側の歩道を真っ直ぐに歩いている。やがて踏み切りに出たが、右手から正面まで見渡してくると、それまで一本できた鉄路が分かれ、この場所では目の前の踏み切りのほかに、やや離れた位置にあるもう一つの踏み切りを越えなければ向こう側へ渡ることはできない。
 ここで小さなワイプがあり、わたしは駅前の時代がかった小さな商店街の前にいる。正面にモルタルで外壁を塗った二階建ての酒場風の建物が見え、その周囲には平屋の商店が立ち並ぶ。地面は土のまま。そこを人々が行き交う。中折帽にオーバーの人もいる。さっきより時間は巻き戻り、帰宅ラッシュをやや過ぎた20時ごろではないかと思える。
 人並みは、右斜め奥に見えるやや高まったホームへ向かうが、一度線路を越えてからホームへ上がっている。どうやらこの場所は先の鉄路の分かれた間の情景らしく、わたしは人並みに沿いホームの方向へ歩いている。
 線路まで行き着く間に再びワイプがあり、日中の田園地帯へと移り変わる。後ろ手遠くに見える林の裏手に先のホームがあるらしく、そこから真っ直ぐな道が延びていて、前方の断斜面の上に畑地で囲まれ背後に林をもつ大きな農家が見えている。
 わたしはその農家へ近づいて行く。庭先に入り込むと軽トラックがあり、その両脇に父親と息子らしい二人の男がいる。息子に向かい「ナショナルの工場は何処ですか?」 わたしは問いかけている。どうやらそこがわたしの帰るべき目的地らしい。
 しばらく父親と目配せする間があり、息子らしき若者はわたしの進んできた右手の方向を手で指し示し「ナショナルの工場はあっちだよ」と教えてくれた。
 ここで再び小刻みにワイプし、いったん平屋の大きな工場がイメージされた後、今わたしが実際に仕事をしている廃校の空き教室を利用した作業場へと場面が移り変わる。そこは現実とは違う五階という高所の設定になっている。
 わたしは「昼になったな」と思い、棚から眼を離し振り返る。すると窓際で若手の二人の営繕さんが長テーブルの椅子に腰掛け、わたしに背を向けて食事をしている。多少驚きながら「お茶はいらないですか?」と長テーブル脇のポットから急須にお湯を注ぐ。すると、警報機が突然鳴り出し、営繕さんの後につづいてわたしも廊下へ出て配電盤へ向け走り出す。
 配電盤は鍵が掛けられていて開かない。営繕さんはここで三人に増え、事務室へ向け駆け出している。わたしは配電盤に留まり、その下から鍵を見つけ出し「○○さん、鍵ありました」と叫ぶが振り向かない。追っかけて営繕さんの顔を確認すると呼んだヒトは含まれておらず、別の人々であった。
 ここで、小さな揺れがあったが、わたしは配電盤へ駆け戻ろうとしていて気づかない。何かおかしいなと思い振り返ると、窓の外の景色が動いている。驚いて営繕さんを見ると「地震だ!」と叫びながら、強度のあるらしい廊下端の階段へ一人がうずくまり、他の二人が距離を置いて這いながらそこへ向かおうとしている。
 わたしからその場所までは遠い、建物が崩れこむという恐怖が襲ってきた。しかし、五階の窓から見える景色は水平に移動している。崩れこむ最悪の恐怖が少し遠のき、窓の外を見渡して状況を判断する余裕が生まれた。
 景色は水平に弧を描いてかなりのスピードで動き出している。その弧状に移動する後ろ手の左奥に中規模のビル群が見え、前景には新たに広大な空き地が見えてきている。しかもそこには、五月の節句で用いる緋鯉のような色鮮やかな布が所狭しと地面に広げられている。だがそれは鯉幟ではない、細身の魚のキスや出目金のような金魚の形に染め上げられている。そのとき重大なことに気づいた。「この建物は列車になったんだ、そしてすべての物が入れ換わりはじめている!」
 この叫び声とともに、わたしは小さな動悸をともなって眼を覚ました。これが昨日見た夢の詳細である。ばかげた夢であるとお思いであろうが、これが覚醒時の意識では作り出せないものである以上、それによって動かすことができぬ無意識の作用を知る手がかりになることは何人も否定はできまい。つまり、この無意識が描き出すばかげた話に、神話やお伽噺に通有する思考構造の備わっていることが、わたしには気になりだしているのである。
 
つづく
  2007.2.9より


夢に現れた意識の痕跡(3)
 ここからは夢物語の分析に入るが、こうした未知なるものの実態を知ろうとするとき一過性の分析ですべてを判断できるものではない。重要なのは警察が行う事件における地域の限定された犯人捜査のように、分析視点を明確にし、優先順位を定めた幾度ものローラー作戦が必要となる。
 わたしが夢物語で用いている視点順位は、全体像の把握から細かい表現上の意味内容の分析へ入るもので、最初から表現上の細かい比喩を捜し求めていては興味本位の直接的な問題へ意識が流れ、、夢がどのように創られていくのかという大義を見失うことにもなりかねない。したがって、ここでの分析も、いつものように場面抽出からその展開法を観察し、全体の骨格をとらえたうえで内容の意味解釈へと踏み込んでいくことにする。

 まず場面設定から観察していく。
 物語は、明らかに四つの情景描写から構成されている。
  第1場面…最初に現われる踏切までの情景
  第2場面…線路間に挟まれた商店街の情景
  第3場面…農家の情景
  第4場面…もっとも動きのある作業場所で
       の情景
 この四つの場面展開で印象的なのは、前二者が時刻を違えた夜であるのに対し、後二者が時刻の関係を弱めてはいるものの日中という、夜と昼の対比で、物語の中央に前後を分かつ大割りの転換がはかられていることである。
 そのことに関連付けて登場するものを観察していくと、踏切を設けた線路の存在がクローズアップされてくる。それは、進もうとする前方への道筋に対して、それに直交し、さえぎるものとして現われており、これが物語の前半部と後半部を分ける大きな分割要素となっている。
 さらにそれは、二股に分かれることで第1場面と第2場面の双方に登場し、この踏切をもつ線路が、物語全体を二分するものとして現わされながらも、前半部の重要な構成要素として第1と第2場面に強い連続性を生み出す作用をもたらしていることが判読されてくる。そしてそのことから、物語の前半部に、線路と踏切による進行を妨げるもののイメージ的投影が予想されてくるのである。
 一旦ここまでの状況をまとめて置くと、この物語は四つの独立した場面展開をとりながらも、夜と日中の違いと踏切をもつ線路により、物語自体の中央で大きく二分割する構成を作りだしていることが指摘できる。またそれに加えて、第1場面から第3場面までが作業場所である第4場面の目的地(室内)へ至る道程(野外)として組まれていることから、第1から3場面までと第4場面という分割も可能で、その結果二分割する構成に以下のような複合するイメージの導入されていることが読み取れてくる。
第1場面 第2場面:第3場面 第4場面=夜:日中
第1場面 第2場面 第3場面:第4場面=道程:目的地

                 
(野外室内)
 次に目に付くのが第4場面の建物の中という、言わば領域を限った中で繰り広げられる動きの激しさをともなう場面内容の特異性である。ここにはどうも、建物が線路を走る列車に変化することですべての場面に関係するような全体性が潜んでいるらしい。
 これはこじつけのように思えるかも知れないが、登場人物に眼を向けると面白いことが分かる。
  第1場面…わたし一人
  第2場面…わたし特定できない複数の人々(これは二者関係に置き換えられる)
  第3場面…わたし一人→わたし親子(ここでは大単位として わたし:親子、小単位として親子内の 親:子 の二者関係に、さらに相互の わたし:親:子 の三者関係が重層)
  第4場面…わたし一人→わたし二人の営繕さん(第3場面の括弧内と等質な関係)→わたしと三人の営繕さん(大単位として わたし:営繕さん の二者関係、小単位として営繕さん内の 営繕さんa:営繕さんb:営繕さんc の三者関係に、さらに相互の わたし:営繕さんa:営繕さんb:営繕さんc の四者関係が重層)→わたし一人
 次に個々の要素を記号に変換し、単純化する。
   第1場面…Z
   第2場面…Z (: X(a:b:c…x))
   第3場面…Z→ZA(a:b)
   第4場面…Z→ZB(a:b)→Z:B(a:b:c)→Z
 この中で、第2場面のX(通行人)は、Z(わたし)と会話等により直接関係を持つものではないので括弧でくくっているが、それはある意味で第3場面に現われる関係の導入的な機能を果たしていることになり注意される。また、第4場面の最後のZは、窓の外の個人的な状況分析へ入るので、ここではB(営繕さん)との関係が消失したものとしてZを単独表記している。
 さて、これを見てお分かりのように、登場人物の関係にはこじつけとは思えぬほどに規則的な対比関係を積み上げるような変化が生じている。それから読み取れる動きは、物語の発端から次々と前の場面展開を踏襲しながら場面展開する姿である。登場人物の設定や話の内容が場面展開に沿って高次元化し、最後には意識のつくりだす爆発的な情景描写へとなだれ込む状態が確認できる。
 なかても最後の第4場面には、
  ・仕事部屋  第3場面の農家の情景と関係…今わたしが現実に仕事部屋で作業しているのが民具の写真整理であり、それと農家の情景が関係を結ぶ。
  ・列車になった建物  第1・2場面の踏切をもつ線路と関係
  ・鯉のぼり  第3場面の農家の情景と関係…これがもっとも重要な意味をもつが、問題が複雑なため後の具体的な意味内容の分析で説明する。
という、それ以前の場面間との因果関係が存在していて、第4場面に全体性の構築されていることは明らかである。
 次に、第1場面から第2場面への流れの強さにこの第4場面の全体性を考え合わせていくと、いかにも第3場面の内容には他の場面と関連を薄めた違和感がもたれてくるのである。しかし、少なくも第2場面までは目的地を明確にしている情景ではなく、このことからすれば第3場面が物語を方向付ける転換点として強く意識されていたことが見通されてくる。そこに突如現われる農家、これが夢物語を理解するための重要な鍵として浮上してきたことになる。

 わたしはこうした自己の夢物語の構造を探りながら、これまでにも何度も驚かされることがあった。それは、こうした構造が対立関係を重層化させて思考を深めていく認識の過程にあまりにもよく一致しているからである。これが、人間としてのわたしに備わっている認識法の根源的なものなのか、あるいは知識により高められてきたものなのかはわからない。しかし、ある時点から、土器文様の描出構造と非常に近しい動きをしていることを認めざるを得なくなり、驚嘆すると同時に、神話を呼び起こす力が現代人にあっても無意識の夢の内に潜在していることを確信しはじめている。   
つづく  2007.2.10より


夢に現れた意識の痕跡(4)
 いよいよ今日はこの夢物語の具体的な意味解釈へ入っていくことにする。しかし、その意気込みとは別に、それをここで分析することへのためらいが生じているのも事実である。なぜかといえば、これはわたしの今の心理状態を公にすることであり、わたしを取り巻く現在の問題へ直接に影響を与えてしまうからである。
 夢は、たとえそれが昼間の記憶を正確に描出していたとしても、現実ではない。この意識と無意識の関係を問いながら、夢というものの性格自体を見つめなおしていくと、そこに現実ではないが、しかし現実に極めて近い虚構の世界が見えてくる。それを表現上の問題として言い表せば、夢は直接にその中で「まるで〜のようだ」「あたかも〜のごとく」ということを気づかせず、UFOが飛ぼうが、ゴジラが現われようがすべて現実としてみなしていることから、全体が隠喩の世界を構築しているということが言えるであろう。
 比喩は実相が明らかに判断されている状態で意味をもつが、仮にそれが第三者にとって不明であるとするなら、この隠喩に基づくものは、判断を失い現実であるといわざるを得ない。ここに神話を現実のものとして受け入れることのできる野生の思考構造を理解するための入り口が切り開かれていると、わたしは考えているのである。
 ならば、ということで、先のためらいを打ち払うために、わたしも現実側から隠喩を仕掛けることにする。それはわたしの置かれている現在の状況を、よくは知らぬが、勝手に外資系の銀行の管財係あたりに比喩して表わしてみることにする。

 彼は銀行の職員である。この銀行は、外資系でありながら地域と密着したJAのような地方銀行で、職員の多くも地元出身者。支店長もそうしたなかから上りつめた人物である。
 バブルの頃に次々と支店網を拡大したものの、それがはじけた現在、海外にある本店からの締め付けが強まり、一方でリストラを敢行するなかで、予算を掛けずに実利の有る広告戦略を展開することが重要になってきている。そこで地域貢献という命題が上層部から沸き起こる。
 彼は、銀行の財産を管理する部門に席を置くが、そこには先代の支店長のはばひろい交友関係から数多くの絵画や工芸品が寄贈されており、必然的にそれを公開することで地域貢献を実践しながら地域密着型の銀行の姿をアピールしていこうということなる。
 それら保管物の中には、外資に吸収される以前、食糧難の時代に貸付金を回収できずに現物で支払われた時代がかった工芸品も数多く存在する。その骨董的価値を持つ品々に、支店長の身内のある人物(以後A氏と表記する)が関心を示し、たびたび管財係の保管庫を訪れるようになる。
 銀行の業務としては顧客の財産を管理する部門もあるが、ここは研修所的な一画に設けられた自社の財産を劣化させぬように保守管理していく世界であるから、派手な業務ではない。しかし、銀行とは無関係であるにせよ、支店長の親近者であるからには、このA氏の発言力は周囲にも絶大な影響力をもつ。それまで、いくら保守管理のために予算請求しても通らなかったことが、予想だにしない額であろうともすぐにトップダウンで下りてくる。
 そうしたなかで、当然としてA氏と彼との認識の違いが生じ、資料評価の根幹にかかわる歴史認識にさえもそれが現われてくる。多くは、A氏の、それらの資料への思い入れ、つまり美化しようとする意識からそのことが起きるのであるが、このことで彼には、A氏の興味から漏れた工芸品とともに廃止した支店への単身移動が待っていた。
 移動した建物、それは廃止から5年ほど経過している。傷みはひどい。、移った部屋の上階では内天井が抜け、床が大きく腐るほどの雨漏り。また、機械警備システムのうち、電気系統の配線の劣化から火災警報が鳴り響くため、その部分を警報システムから遮断。彼は予想もしなかった環境に身を置くことになる。もちろん彼は上司を通して危険性を進言する。しかし、事態は好転するどころか組織の切り離された部分で益々過酷なものとなる。彼の日常の仕事場での会話は、警備システムの中に記録された女性との「おはようございます」「ご苦労様でした。鍵を掛けて退出してください」に交わす二つの挨拶で終わる。
 彼の恐怖には、不当に美化する歴史認識が世間へのアピールを生み出す理不尽さ、組織の機能不全から発する人間関係のむなしさ、さらに資料を安全な環境で保管できないという火難・水難・地震への恐れ、などが交錯する。  
つづく  2007.2.12


夢に現れた意識の痕跡(5)
 今日はこのテーマの締めくくりとなる。それは、夢の隠喩世界と現実から興した隠喩世界同士の葛藤という様相を呈してきたことになる。

 まず、夢の世界を整理しておくことにする。
   第1場面…夜更けの町を歩くわたしの前に
        二股の線路と踏切が現われる。
   第2場面…線路間に挟まれ時代がかった商
        店街の人並みにまぎれるわたし。
   第3場面…農家の庭先で目的地を訪ねるわた
        し。
   第4場面…作業場所が列車と化し、窓の外に
        物が入れ替わる状態を確認するわ
        たし。
 第1場面は夜更けの景観であるが、それは人気の無い暗さの中で過去から現在へ歩んできた私自身の心理状態を表わしていよう。
 幹線道路と両側に立ち並ぶ建物群。それは、考古学を通して直視してきたさまざまな事柄を象徴するものと思われ、歩みを進める時系列に立ちはだかる二股の線路と踏み切りは、学芸員として働き出してからの地域史の復元を求めて踏み込んだ、文献史学、民俗学などへの結節点と広がりを表わしているように理解される。
 この踏切と線路の夢の中での機能を想定すると、ここでは意識の強まりを現在のわたしの直接的な仕事内容(民具の写真整理)を通してその作業環境上の問題へと向かわせているが、仮に土器文様や古民家が強ければ二股のいずれかの線路をとり、それを第3場面の直進する道へ転化させて別な物語を創り出していくように推測できる。歩む道に現われる線路と踏切は、物語の方向を決定する機能を有するものとして登場してくるのである。したがって、第1・2場面までは何のために歩いているのかということが印象になく、目的地さえも明確にはされていない。
 第2場面には、ワイプで移行する。踏み切りは進路をさえぎるものであるが、滞る場面が二股の線路の先にもイメージされていないことは、考古学から他の分野へ入る状況が、地域史を復元するための資料として、土器も、石器も、民具も、古建築も、どれも同等に大切に思ってきたわたしの心理状態を端的に表わしている。
 ここでは、駅前の景観のように建物が囲繞し、正面にモルタルの酒場が現われている。第1場面の直線的な建物群から取り囲む景観へと変化しているのは、先の異分野の資料を同列において学問の垣根をとって観察しなければならないという心理の投影に他ならない。それはこの場面で一番初めに眼にした正面の酒場の存在から突き止めることができる。
 わたしの学問的な発想の多くは、年配のママさんのいる行きつけの酒場で、その落ち着いた雰囲気の中で凝り固まった意識を解放すなかから生じていることが多い。それゆえ、酒場で会う見知らぬ人々とのしがらみのない会話が、研究においてもっとも大切にしているわたしの生活者の視点をはぐくんでいるといえる。かように、ここでの酒場は重要な意味をもつ。
 次に、夜の人通りと、それに沿い向きを右斜めに変えて進む情景であるが、これは他分野へ入るとき感ずる精神状態を表わしているように思える。多くの場合、資料の直接的な観察から入り込むために、一般的な知識は書物からの独学に負うところがおおい。したがって、「この方法でいいのであろうか」という疑問が当初は常に付きまとい、それが人波に紛れ、周囲を気にする情景を生み出し、直進できないでやや右に流れ込む道のイメージを創り出していることになる。
 こう考えてくると、第2場面の冒頭で詳細に観察している中折帽にオーバーを着る年配者は、他の学問をリードする研究者を象徴していることが判読されてくる。わたしはその導きを欲し、人の流れ=学問の流れに身をあずけようとしているのであるが、それは遠方に見える皆が向かう高みのホームに表わされてもいる。
 第3場面。この段階では学問の垣根は取り払われ、新たにそうした状況が起ころうとも周囲を気にせずとも立ち向かえるだけの、経験からくる自信が備わってきているらしい。よって、ここまでの描写は過去の体験を因子として築かれていることが明らかになる。
 ここで景観は明るい日中へと変化し、第2場面の混沌とした情景は背後の林に隠されて遠のき、道は土道ではあるが、さえぎるものの無い畑中をしっかりと直進、上方に見える農家へと向けられている。
 現実に、昨年から民具の写真整理をはじめているので、この情景は現在へ入り込むイメージから興されていることが理解されてくる。目的地は明確になり、わたしは農家の父親と息子に目的地の方向を尋ねている。たぶん父親と息子は、いつも整理している民具の写真を通し、もう聴くことがかなわなくなった民具について自問自答しているわたし自身の姿の投影なのかもしれない。
 それをかすかに物語るのが、突如表わされる「ナショナル」という言葉である。わたしが多少なりともこの言葉に自分の宿舎をイメージしているのには、他人では分からない意識が働いている。 
つづく  2007.213より


夢に現れた意識の痕跡(6)

 「ナショナル」 このキーワードを、わたしは今までに意識の正面にすえたことがない。そこで、わたしの意識をふたたび遠い過去へ旅発たせなければならない。向かう先は短期の記憶を格納する海馬ではない。むしろ昔からの記憶を定着させている前頭葉と側頭葉の皮質あたりである。
 連想を試みる。
   ナショナル ─ ナショナルキット ─ トランジ
   スタラジオの基盤 ─ 懐中時計
それらにともなう感情には、好奇心に基づくワクワクする状態がかすかに読み取れる。
 この流れから察すると、「ナショナル」は次に現われた「ナショナルキット」との関係から企業名ということが確定できる。「ナショナルキット」は、幼い頃のテレビドラマであり、懸賞のアルミ製の、確か金メッキだったように思うが、そのメダルを欲しくてしょうのなかった想いが呼び起こされている。後に西郷山という駒場東大南方の遊び場所で偶然拾うことができ大喜びしたことがある。つまり、何かを求める願望とそれに到達する喜びが包み込まれていることが予想できる。
 次はラジオ工場の廃墟の中で見た、散乱する電子基盤への興味である。当時はテレビ、洗濯機、冷蔵庫と、次々と新しい電化製品が登場し、子供心に「どうやって動くのだろう」と興味津津だったことが想い出され、連想の最後へとつづく衝動が生み出される。これは、仏壇下の引出しから動かない古い懐中時計を持ち出し、分解してお父ちゃんから怒られるのである。
 それらを総合すると「ナショナル」には科学への興味と、それを作り出す研究者への憧れが潜んでいることになる。そのために「ナショナル」の工場を目的地としてイメージし、宿舎とする、わずかばかりの付加意識が働いていることになる。したがって次の第4場面で、いきなり現在の作業空間が引き寄せられてくることになるのだが、ここからの描写には現実味が加わり、No.22の隠喩で示した事柄が欠かせない判断材料となってくる。
 第4場面。振り返ると営繕さんがいる。営繕さんとは普段挨拶ていどの関係だが、部署が異なり普段一人で仕事をしているわたしにとり、施設を共有する人々として何か事が起きたときの頼りにしていることが改めて浮き彫りにされる。
 現実の施設に現われている欠陥が夢にも等質に描き出され、廊下へ出てからの営繕さんの二人から三人への増加は、状況の深刻さを予見していることになり、それが防ぎようの無い地震として感知されて建物が崩れこむ錯覚を呼び起こしている。
 しかし、それは、建物を列車にすることで回避し、さらにこうした状況を生み出す根源的な要因の描写が創り出されてくるが、ここからは具体的な記述を避けることにする。深く知りたい方はNo.20とNo.22の対比でその実相を判読いていただきたい。参考となる事例変換のイメージを下に記す。
   時代がかった工芸品─鯉のぼり─着物
   A氏の歴史認識の美化─緋鯉(鯉のぼりの、
   魚のキス、金魚への形状置換)─着物へ
   の意識
   さまざまな理不尽さ─建物の列車への置換
   ─逃避
 通常の夢分析であれば、この生々しい心理状態の把握で結論が出たことになろう。しかし、どうもそれだけでは済みそうにない。これだけまとまった夢には、その先を見通す何かが描き出されているような気がしてならない。実は、最後に発した「すべての物が入れ換わりはじめている!」という言葉に、わたしは驚きを抱き、夢を本格的に分析しなければならないという衝動を得たのである。  
つづく  2007.2.14より


夢に現れた意識の痕跡(7)
 事物の置き換え。それは夢の中では普遍的に起こる。それをことさら夢の中で意識しているのであるから、そこには何か重要な、具体的に言えば無意識と意識を取り結ぶ作用ということになるのだが、それが潜んでいるように思えてくるのである。
 「すべての物が入れ換わりはじめている!」という情景の創出には、わたしが追い求めている古語に焼き付けられた、訓読の発音組成の究明が大きな影響力をもつことが考えられる。それは、わたしにとって限りなく最新の意識である。その内容についてはNo.17で触れている。
 この分析過程では、現在われわれの用いる事物の名称に対する意識が、いかに形骸化しているかという問題が、時系列の一方の極に突きつけられてくる。作業が進めば進むほど、漢字の簡略化で引き起こされる、字形に託された象形的な意味の喪失と同じ状況が感受されてくるのである。少なくも古語には、一つひとつの事物の名称が生み出された認識作用が豊かにとどめられていて、「あ」「い」「う」…という一音に投影される意味を会意的に組み合わせて拡張してきたきた認識の過程が鮮明に記憶されている
 それを観察していくと、現代の、言葉の、なかば記号化した漠然たる意味が、具体性をもつ情景に置換されてくることになる。そこから見渡すと、現代における言葉に与える意識の崩壊が、恐ろしいほどに迫ってくる。
 言葉はその意味をしたがわせ、社会コードとして認知されることで機能する。しかし、その意味を希薄にする状態を想定すれば、それは混乱の生じることが眼に見えてくる。親子間、友人間、会社内の人間関係等、あらゆる場での社会問題を作り出す因子として存在してくることになる。そうして言葉が意味を弱めると、伝達上の判断材料は発音に秘められた抑揚や強弱に移る。その認識の違いは個人差が大きく、また周囲の環境にも大きく左右される。言葉はすでに社会コードという機能を弱め、コミュニケーションは機能不全に陥る。
 わたしの夢に現われる恐れとして感じる根源も、実は間接的な権威をかざし、コミュニケーションを失って突入してくる者にある。言葉が意味を失うと、「言った。言わない」の短絡的な世界に陥る。それが価値観の違いを増幅し、個々に正当化するなかで決定的な価値観の置換をはじめる。その端的な事例は、憲法の九条の解釈法により自衛隊の海外派遣がたやすくできてしまう不可思議さを生む。
 話がだいぶエスカレートしてきたので引き戻し、核心へ向かわせる。そこからは、社会コードという人々に共有される認識状態が重要な事柄として引き出されてくる。わたしの夢が下部構造に影響されない形態を示し、神話構造に極似しているといっても、神話ではないと断言できる。それは当たり前なのだが、では何故と考えたとき社会コード化していないことがもっとも大きな問題として提起されてくる。
 さて、最後の締めくくりに入る。夢に現われた事物の置換、そのネガティブな思考法にどれほどの意味を見出せるがは見当も付かない。しかし、幼いわたしがはるか上空から見渡す景観を夢の映像として結べず、飛んでいるにもかかわらず地上二・三階建ての低空からしか見られなかった時期があるとすれば、確実に夢の中の無意識の認識は体験をともなって進化を遂げていることになる。あるいは現実の世界よりも年令からくる気力の衰えを封じ込めて進んでいるのかも知れない。
 無意識のうちに視た夢の力は、わたしの未来を見つめる認識に作用してくることは間違いなかろう。とすれば、夢は過去から起こり、現在を確認し、途切れることなくその先へ向かっていることになる。
 わたしがこの夢の分析から手に入れたもの、それは土器文様と古語から、そこに現る認識構造を解き明かすための視点。そして、それらを包み込む社会コードという視点。一瞬の夢一つに、一週間以上の時間を費やせねばならなかった。同じ人間でありながら、遥か領域を違える野生の思考。途てつもなく遠い。それでも、わずかではあるが、近づいたような気がした。    
完  2007.2.15より


第二章  文様解読への始動
NE夢─土器文様─野生の思考─Emerald tablet,etc.(1)


 前回7回つづけて追ってきた実験的夢の分析から、わたしのなかに、ある思考上の流れが現われてきているらしい。
 わたしの夢の分析は、学問分野で言えばメタ超心理学におけるESPといわれる超感覚的知覚の事例として分析してきたに等しいが、その流れが土器文様の研究過程で孤立してとらえてきた幾つかの重要事項を強く結びつきはじめ、この場では円滑に表わすことが可能になってきているようなのである。こうしたチャンスはそう多く訪れるものではないので、ここでそれを数回に分けて紹介する。

 ことの起こりは昨日にさかのぼる。
 このホームページに、関西のある大学の漫画研究会の学生さんらしき方が入ったらしい。その入り方が、どうも『掘り出された聖文』の項に記載した「錬金術」という語にヒットしたらしいのである。
 わたしは、このホームページを通して外の世界を知ろうとしているので、想像たくましくインターネット上の変化を観察して孤独感を払拭しているのだが、この限定された小さなキーワードに反応してくれた方がいたことに驚きをともなう喜びの感情が湧き上がり、これまでに塞ぎ込めてきた事柄を書き表す気力が満ちてきたのである。
 
表題に掲げた Emerald tablet(エメラルド板) とは、錬金術の原理を解く伝説上の文字板のことである。土器文様解読の項にこのEmerald tabletという言葉を直接に入れ込めば、ナスカの地上絵─宇宙人 のような連想を生み出し、第三者の知りたいと思う欲求の強まりが本質をゆがめてしまう恐れがある。したがって、わたしとしては適所を選び、十分に意を尽くせるよう気くばせしてきたつもりであるから、その裏側に書き表さなかったことがたくさんある。
 
このEmerald tabletに記された文面解釈のほかにも、ロンゴロンゴというイースター島に残された得意な文字。これは文字の直接的な解読ではなく、文字板に記された横行の文字を一行ごとに上下に反転させながら読むと伝えられる、その意識の解明についての手がかり。またピラミッド構築法。これについてはEmerald tabletの起源とも関係し、その思考上の問題から提起される新たな構築法の可能性等々、直接求めるものではなかった事項が、土器文様を通して追う野性の思考の研究過程から副次的に現われてきていたのである。
 その概要をここで数回にわけ、紹介していくことにする。しかし、わたしはこれらを専門とする研究者ではない。これを読まれる方々は、そこに現われる視線の性格と内容的な可能性のみを受取って欲しい。
つづく
  2007.2.18より



NE夢─土器文様─野生の思考─Emerald tablet,etc.(2)
 夢に現われた物語の構造には、場面展開と各場面での要素の対立関係が存在していたが、それが何かを表わすために不可欠な発想の連鎖であると考えたとき、まさに文様に表われる場面展開と要素の対立も、それから興されていることに間違いは無い。
 これらを記号学的に考えれば、要素の形状的な表記の違いで生み出される、man ─ 人 … の違いはさほど問題ではない。むしろそれらを含む構成がどのように興されているかということへ関心が向き、それは表現を生み出す発想の連鎖として数式的な単純表記に置き換えて考えることを可能にしている。そうすることで名詞の意味は分からずとも、それを取り巻く環境が姿を現し、発想の展開が明確になるということなのだが、それをわたしは数百個体にのぼる土器文様の観察から学んできた。
 「人」というものを説明しようとしたとき、広辞苑の法律用語では自然人と法人の区別があり、さらに法人には財団法人と社団法人があるという。最初をAとするとその中にはaとbがあり、さらにbにはb’とb”があり、A{a:b(b':b")}というような意味上の関係式を表わすことができることになる。もしこれに全く異なる次元のものが入ってくるとしたら分子と分母で分けなければならないし、あるいはこれは法律用語として限定したうえで何らかの記号を付加しなければならなくなる。
 ここで重要なのは何かを説明しようとするとき、二項による対立的な状況が現われること。また、括弧でくくって進めるような対立関係の重層が生み出されてくることである。





 上の二つの図は、そのような考え方により制作した関係図の一部で、上段は粘土紐と、それにより分割された領域に描かれる線文を分離した図。下段は後者の描出意図を探るため、さらに先の手法で関係式を求めたものである。
 詳細な説明は「土器文様の解読」の項に表わしているので参照いただきたいが、こうした膨大な資料分析のなかから現われてきたものは、土器編年との関係から時系列に添い複雑化が生じていること。またその場面展開の構造に、等質、対立、反転、回転を通し、変容するイメージの与えられていることであった。なかでも重要な現象としてとらえられたのは、変化をともなう鏡像的反転が表われていたことで、このことが心理学からの究明無くして解析を進めることができなかった理由でもある。
 文様を構成する主要素は三叉、渦巻き、十字、S形等数えるほどしかなく、文様に表わそうとしたものは決して幅広くは無い。しかし、これら単独でモチーフをかたちづくれるような要素とは別に、それらに意味をもたせるための組み合わせでのみ表記される、点やうねりなどの補助的表現形態の存在していることが判明してきた。それは「ここ」「そこ」「から」というような意味機能を備えるものとして理解され、この指示的記号の発見により、場面展開により変化を生み出す土器文様の性格に、何らかの出現から生成までの過程をウロボロス的に(上の
INDEX斜め上に配した図で尾を食む蛇によって象徴される循環のイメージ)描き出していることが想像されてきたのである。
 それは、現存する表意文字の体系である甲骨文字にさかのぼる漢字の字形的な認識法との対比から、事物の認識の根源にかかわる空間認識を呼び起こし、さらにわが国の古語に伝えられた空間認識の抽出から、その具体的な全体像が顕現するに至った。そしていまは、縄文式土器の文様が彼らの事物や現象を理解するための空間認識法が表わされていると断言できるほどに分析が進んできている。
 その過程で問題となってきたのは、この縄文と呼ぶ、やっと近づくことができた世界が、現代社会へ容易にフィードバックできないという現実なのである。そこには、思考方法の違いが大きく立ちはだかっていたのである。 
つづく
  2007.2.19より



NE夢─土器文様─野生の思考─Emerald tablet,etc.(3)
 この空間認識法の詳細な説明は、本ホームページ上段に連載する『掘り出された聖文』(第七章以降。数ヵ月後に掲載予定)において明らかにするが、ここではその概要について説明していくことにする。
 土器文様の描出意識を理解するために重要な視点となったのが、構造人類学のレヴィ=ストロースによる記号定義である。それは構造言語学のソシュールの定義を発展させたもので、
 記号とは比喩(心像)と概念のあいだに存在する媒介であり、心像(イマージュ)と概念の結合である
という定義である。
 土器文様はこの定義の意味を浮き立たせ、この心像と概念の関係によって生み出される記号表現に、一律ではない、それぞれ二者の一方を強めたり弱めたりする相互作用のあることが想定されてきた。その現われ方は、概念の定義によりいっそう明確にされた。
 つまり、
 概念は多くの事物から、偶然的な性質を捨て去り(捨像)それらに共有される内容を取り出した抽象
と定義されるごとく、知ろうとする直接的な現象の類似例を列挙し、そのなかからイメージされる共通項をもって現象を理解しようとする心の働きということになる。したがって、それは風であり、雨であれ、蛇であれ、実態からは離れた抽象化をともなうことになる。
 ひるがえり、縄文中期勝坂式後半期の土器文様には、粘土紐の貼り付け文に線引き文を組み合わせた土器を主体にしながらも、両者の技法を個別に表わす文様群が存在し、前者には蛇などのわれわれにも判読できる形状がつくりだされたものもあることから、より具体的な表現を求めていることが知られる。
 二つの技法を組み合わせた多くの文様観察から導きだされてきたものは、粘土紐の貼り付けで表す部分にモチーフの骨格を描き、それで区画される個々の領域にモチーフを補助し意味づける線書きを挿入する、という表現形態である。そこから見通されてきたものは、両者の技法を個別に用いる土器群において、一方の粘土紐を用いて立体的に表す、より具体的な表現を求める技法と、それに対する線引きを用いて構図的に表わす、より説明的な表現を求める性格を異にする技法上の違いである。
 ところがここに一つの問題が潜んでいる。それは具体的にものを表わすはずの具象というあり方である。縄文式土器の文様には、われわれがイメージする写実的な描写はほとんど見られない。少なくも蛇や蛙とわれわれに認識されるものがあっても、かなりのデフォルメを感じさせ、博物画のように写真的に受取られるものは無い。それなのになぜここで「具体的な表現を求める技法」と書いたかということを説明しておかなければいけない。それは幼児のはじめて描き出す、ママやパパの絵になぞを解く視点が切り開かれている。



 想い出していただきたい、上図にあげたようにわが娘の幼い頃に描いた絵も、これはお母さんらしいが、眼は大きく、大方は鼻と胴体のイメージに乏しい。しかしこれは、娘にとって真なる具象の表現なのである。大人の具象感覚は全体を把握して均質に描き出そうとする写実を問うが、幼児のなかには部分へ向けられた写実の合成からなる具象感覚が優先されている。それは古事記の黄泉の国に現われる、人の各部に八雷神をイメージする魔物と化したイザナミに象徴されるように、対象に現われる個々の機能に最大の関心が払われ、それらを合成しながら全体を描き出す具象感覚なのである。
 わが国では江戸時代の後期にいたるまで、写真的な西洋風の表現は具象感覚に求められてはいない。
しかし、そこから変質してしまったわれわれ現代人たる大人の感覚では、縄文の文様のなかに具象を見出すことが極めて困難になってしまっているのではないか。そしてこのことが、記号の定義である心像と概念の関係を土器文様へ投影することをはばみ、これまで単なる文様変化としかとらえられていなかったのではなかろうか。
 土器文様を野生の思考が求める精神の表出と考えてきたわたしには、この関係は、先の記号定義を意味づけるものでなくして何を表わすものか、と思えるほどに説得力をもっていた。
 さらに、土器文様を古い順に観察しつづける過程で、時系列に沿い表わされた文様要素の対立関係が複雑に重層し高次元化していく姿が確認されてきた。それは、先の二つの技法のうち、粘土紐の貼り付け文を単独で用いるグループが形骸化していくなかで、それとは対照的に線書文を単独で用いるものが独立した群として極度の開花を見せる現象により確実なものとして映し出されていた。
 ここで極度という表現を使ったのには意味がある。Mと∞形のモチーフをもつ群で、ある土器では個別にそれを取り扱い、別の土器では複合させ、配列を違えることでさまざまなバリエーションを生み出していたのである。




 この現象は、土器文様を描き出したかれらが、Mと∞形で表わされるイメージを徹底して追求していたことにほかならない。それも、要素分解という分析的な感覚をしたためて。
 かれらは明らかに何らかの概念を求め、さまざまな土器文様を作り出していたのである。このことを知ったとき、あることが理解されてきた。それは、概念であるからこそ図形的な表現をともない、その部分において、われわれが数千年の時を埋め入り込むことができるわずかな扉が開かれているという想いである。そこから姿を現したものは、絵画の黄金比の論理に匹敵する四方円による空間概念の構図であった。

 
つづく  2007.2.22より


NE

NE夢─土器文様─野生の思考─Emerald tablet,etc.(4)
 四つ組の四方円。それは一口に言えば、上下観に左右観を導入することにより、上なるものの左右と下なるものの左右という領域を作り出すことで、存在するものに空間的な意味を与え、実態を認識しようとする概念で、下図のようにある段階から(加曽利E式初頭)区画性を喪失させ連珠するような展開を見せてくる。



 それは、四方円を一単位として水平方向へ複数配列する構造をもつことから、その構造自体に時間的な流れのイメージされていることが十分考えられてくることになる。かれらは、ものの存在を認識するため、円による明快な領域概念を創出し、この単一な領域を四方円に組み上げることにより空間全体の構図化をはかり、さらに時間的な観念を導入することで時空概念を体系化したことが想定されてきたのである。
 特徴的なのは、この段階で線書き文の技法が消失していること、そして前代から一貫してこれら四方円の内部には関心が示されていないという事実であった。このことについて、前者からは文様構成に説明的な表現を用いなくて済むほどにかれらなりの理解が進み、社会コード化することで普遍性を帯びてきたことが予見され、また後者からは、円の内部が、古語に表わされる隠(なばり)の思想、平易に言えば神霊の領(うしは)く人の入り込めぬ聖処のイメージから起こされていることが想定でき、そこから文様を表わす四方円の間隙にこそ、かれらが表わそうとしたものの顕現した姿を描出しているかも知れない、という重要な手がかりを導き出すことができたわけである。
 このことを仮定としてイメージすれば、神霊の実態は分からない、されど雷として、あるいは雲の異常なる動きとして、蛇や竜巻としてあらゆる実在するものに化身して姿を現すものとして認識する、かれらの精神状態が浮かび上がってくることになる。
 「神」の字形は古く 「神─申─S」 へと表記を変えていく。「S」は無限空間を表わすかのように左上から起こるものを右下へといざない、すべてのものを逆転し、はじめと終わりを意識させるような作用を働かせて昼─夜、夏─冬、生─死など、あらゆるものへそのイメージが投影されてゆく。
 この段階以後の動きを略述すれば、空間に対する概念を体系化させたことにより、それが社会コードとして普遍化されたことで、文様は単純な楕円文の連鎖として動きを止める(四段階区分の加曾利EV式期)。



しかし、この状態は重要な意味をもつ。心理学者ユングの提唱した個性化の過程における、結合の次にくる神秘的体験後のうつ状態、言い換えれば祭りの高揚した気持ちが翌日にしらけた感じへと入り込む状態に相当するものとして、わたしはとらえている。
 それ以降粘土紐による貼り付け文は消失し、数十年の意識の沈み込みを経た後、線書きで 8字形を単純に繰り返し配列する文様から連鎖する各種の波文が力強く生み出されてくる。



 その描出意識を漢字の字源や古語との対比から探り出せば、同形を連鎖する発想に代表される「衆」、その結び合うものへの神秘なる心的な作用へ向けられていったことが想像されてくる。 
つづく
  07.2.23より
  

NE夢─土器文様─野生の思考─Emerald tablet,etc.(5)
 さて、前回までの土器文様に現われた描出意識の変遷を想像的にまとめたどるが、それは型式年代でB.C.2500からB.C.2000年というほぼ500年の間、少なく見ても16世代以上にわたる東京北部の小地域集団に受け継がれた意識の変遷を映し出していることになる。
 当初、土器文様は南関東全般に、帯状の領域に粘土紐で交互の斜線を貼り付け、それで表わされる上下反転形の三角領域を対置させる描出法が広まっていたが、それを発展させ、その三角領域内に何がしかのモチーフの変化を線描きすることで、領域間に対立を生み出し明確にものの変化を描出する表現方法を手に入れたらしい(web雑記No.27下段図の最上段の文様構成)。
 かれらは、当初三角の領域内に一単位ずつの大柄な文様を描いていたが、その意味を問うにしたがい、その領域内に描き出す文様をある箇所で分解しはじめた。つまり分析的な手法を用いだしたのである。この段階で同一領域内における対立表記が生み出されてくるわけであるが、この場合同じ形状の並置では意味を成さないため、具体的には区画性のなかから表わされてきたものであろう三叉の線描き文を、輪郭取りの手法をもって基本は同形でありながら異質な文様に変化させ、AとA’のような関係をもつ新たな文様要素を作り出している。
 さらに表わすべきものへの問いかけが深まるなかで、指示的に用いる表現が生み出され、それらは区画展開する上において位置を限定させる点表記、同形であっても対立を明確にさせる線表記、継続を表わす交互短線(うねりの表現に通有)等を用いるようになる。
 たぶん、これらの対立表記が分解的な手法から興されているので、過去へ向かうような認識作用から構成してきたものと思うが、対立の表記の複雑化に次元を超えて重層させるような構造が現われてくる。一方そうしたあり方に呼応して場面展開において鏡像的反転、180度回転等の技法が現われ、全体として500年間の前半期の末には、区画性を有した構成法としてこれ以上のバリエーションは生み出せないのではないか、と思えるほどの段階まで達している。
 そうしたなかから現われてきたものが領域を円でイメージする認識形態で、はじめはモチーフ形の部分、おそらく渦的な表現からと推察されるが、それがすべての文様を描き出す構成要素として高められてきていたようである。そしてそれが四方円の領域イメージを呼び起こしてきたとき、対立の極まった重層、推測ばかりが続くがわたしのイメージのなかでは地下的な何層にも分かつ、言わば次元の階層が統一され、改めて現状認識を優先して考えていく認識形態が興されたのではないかと推測している。☆
 この段階に至り十字文が現われるが、この構造は四方円をベースとした新たに興る認識へ向けられていることは明らかで、それと対象をなすMと∞形のモチーフをもつweb雑記No.28中段で図掲載した土器が、それまでの描出意識が極まった構造を示していることが注意される。
 この四方円からなる領域イメージの創出により、かれらの問うてきた過去的な問題は一応の解決を見たように判断される。それはこれ以後、説明的に用いていた線書きの技法が陰の朽木のごとくに姿を消し去ることが傍証となろう。
 かれらはこのことにより、いままでの認識過程を統合したことになる。その現われは、先の線書き文の喪失のほか、区画性の排除を可能にし、web雑記No.29上段に掲載した図の変容を映し出すかのような新たな連鎖するS:形モチーフを生み出す。彼らがモチーフの描出に粘土紐による二条の線を必要に用いること、それは四方円の上下、左右に四方円の領域輪郭がモチーフの構造にイメージされていることに他ならない。そしてそれが、四つ組の領域差を強弱によって自在にイメージさせることのできる高度な指示記号を生み出すことになる。
 かれらは、領域が収縮し破られることで、眼に見えない何ものかが現われてくる状態を想定していたようである。それは、雷、暴風、豪雨などをイメージし得るのであるが、そのことにより、領域境界を示す線、基本形は複線の十字であるが、その垂直方向の線を主にモチーフに付加し、線数を変え、あるいは構図上の定位置からずらすことにより、個々の領域の満たされた状態と減縮する状態をイメージさせる表現を編み出している。
 自在に変化するS形モチーフ、しかし、その背景には四方円による空間認識の構図が密接に表わされていることになる。なお、そのあり方については本ホームページの「文様の解読 No.77」に一部ではあるが詳しく解説している。
 こうした状況は500年間の後半の中ごろに一気に終息し、それまでのあらゆる好奇心を捨て去ったかのような状態をつくり出していく。文様はweb雑記No.29中段に示した楕円文の連鎖に固定され、動きを止めるのであるが、ここで見逃してはならないことがある。それは、激しい動きをともなって表わされてきたこれら一連の描出形態の最後に表わされた表現が円に帰着するという事実なのである。
 つまり、われわれが想定してきた領域を円のイメージでとらえる認識が、文様描出にかかわる思考を停止したときに脚色を削ぎ落とし、直接に現われてきたことになるのであるが、それはまさに幸田露伴の描く『風流佛』において、主人公の仏師が自己の欲望から開放され、菩薩的な飾りを一心にノミで削り落とすなかから求め得ることができた真実の仏の姿のような状態をわたしに想起させる。
 この段階を境に、かれらは土器文様の描写のなかから対立表記、場面展開、モチーフの変化等、これまでの意識を表現するために編み出してきた多くの手法を解き放った。それは、関心を寄せてきたものへの理解が空間という概念の導入により構造的に認識されたことを物語っていようが、このことによりかれらの意識は、自らの人に宿る、より直接的な現象理解へと向けられていったことが想像される。
 先の意識の沈み込みを経て、再び活動をはじめた当初に現われた力動的表現★。web雑記No.29下段右上端であるが、それはかつて岡本太郎氏がフランスから委託されパリ市内に建造しようとした人間の本性を映し出すモニュメントの造形表現に極めて近い形態を表わしている。それは図の左下にあげた字源的表現とも類似し、思考が表わす人間の普遍的な表現形態を見せている。とすれば、この500年の間にかれらは、かれらを包み込む環境への理解から人自身の理解へと認識を深めてきたことになる。 
つづく  2007.2.24より

夢─土器文様─野生の思考─Emerald tablet,etc.(6)
 前回までの話で、わたしの話に違和感をもたれた方は、ここから先へは踏み込まないでいただきたい。わたしのなかにはまだ迷いがある。意を尽くしてきたつもりではいるが、多くのことを端折りながら流れをつくってきている。したがって『信長にみるサラリーマン哲学』のような短絡的な状態では、わたしが感じてきたことの話を進めることができないのである。ここからは多分に独り言の世界へ入り込み、記述していくことになる。

 わたしは、これらの研究過程で、イメージ学とでもいうような分野を創設しなければ野性の思考を現代へより良く伝えることはできないと強く思うようになった。その表れが「文様の解読」に表わしたムービー手法なのである。言葉では表わせない世界を共有するには、この方法が最良の手段と考えつくりつづけてきたのであるが、一方で明治の文豪の作品を書き下し、現代へよみがえらせるのと同じ効果ではないかと思うようになってきてもいた。そこで、逆に縄文人をイメージし、これであればかれらにも現代語訳が通じるはずだという対象の得られない想像を巡らせ、表現を逸脱しないような規制を働かせてきたわけである。
 その大きな背景を担ってきたのが心理学なのである。なかでも錬金術の書である『哲学者の薔薇』に掲載された「メリクリウスの泉」からはじまる10枚の絵をテーマとし、個性化の過程を論及するC.G.ユングの『転移の心理学』(みすず書房刊)は、この土器文様に表わされた描出意識の変遷を理解していくための最良の書となった。
 この絵は、錬金術において対立物が結合する過程を精神世界のものとして表わしたものであるが、それゆえユングは転移という臨床での症状として起きる現象理解をそれによって求めたのである。わたしがこの場違いな本を手にして引き込まれていったのは、錬金術という、精神世界から理解しようとした物質の変容過程が、あまりにも土器文様に投影される意識の変遷に符合しているという驚きからであった。
 こうしたとき、異分野の、それも予備知識の無い難解であるはずの文意が、土器文様という具体的なイメージを呼び起こすためスムースに入り込んでくるのである。そのことはまた、現代の思考からよりも、野生の思考からの方がより近しい状態をつくり出していることをわたしに感得させるものともなった。
 錬金術の思想を映し出す10枚の絵。それはメリクリウス泉からはじまり王と王女─裸の真実─浴槽の中に漬かること─結合─死─魂の上昇─浄化─魂の帰還─新たな誕生という題目によって表わされているが、それをユングは、絵に表わされる描出意識の詳細な分析から自我の意識を獲得するまでの個性化の過程へ投影している。
 わたしは全く別の世界からそれを感じとっていた。文様描出意識を探るなかから、三角形の領域を上下反転させて連ねる循環のイメージを感じとり、そこに文様要素を対立させるイメージを得、それが 直接的二項対立─対立の重層 ─ Mと∞形、および十字形を主題とした円による領域概念の創出 ─ ☆すべての区画を取り去りモチーフの結合形態を表わす段階 ─ 対立物が合一化し描出意識が静止したような段階 ─ ★文様要素が連鎖する新たな描出意識の創出 という流れを表わしていることが明らかとなった。そしてここに、もっとも興味をひかれる点が二つ現われた。
 一つは、この両者の流れにユングの個性化の過程、先の錬金術の絵では「浄化」で現われるエナンチオドロミーという現象の介在していることが予想されたことである。
 エナンチオドロミーとは、『転移の心理学』の訳者林道義氏の解説によると、無意識が、極端に偏った意識のあり方に対して補償的に働くことで、それまでの暗い無意識への下降という方向が、光の、すなわち意識の方向へと転化したことをさすとされていている。この状態を具体的に言い表せば、分析的作用により激しい対立をともなって進められてきた過去的─暗─地下的な認識作用が、飽和状態に達することで意味を成さなくなり、それまでのすべての対立が合一化されるなかから、現実的─明─地上的な逆方向の認識作用が求められてくることになろう。
 注視すべきは、認識の方向が逆転することで、このことを反対の視点から言えば、それまでの複雑な対立関係を生み出しながら認識してきた状態を、合一化により捨て去ることで新たな逆転する思考方向が現われてくるとも言える。そのことはまた、概念の形成にも深くかかわりをもつ。
 このエナンチオドロミーは、その動態からかなり明確に把握できる現象で、しかも臨床における症状として無意識の中の沈み込みから意識への回帰を示すことから、無意識の優れる、野生の思考における認識を深めていく過程に現われてもなんら不思議ではない。
 先にも述べたとおり、土器文様に想定される認識の深まりの過程と、ユングの解く錬金術の絵に表れているそれには、かなりに近しい構造が読み取れ、エナンチオドロミーの存在についてもその位置を特定することができる。つまりこの現象は、両者の関係を知るための指標となり得ることを意味し、それを確認することにより互いの結びつきをいっそう強く指摘できることにもなる。わたしは、上記の太字で記した土器文様に表われる認識過程のうち、星印を付記した位置にそれをイメージしているが、★は強く現われている部分、☆は弱く現われている部分の区別を想定している。なお、このエナンチオドロミーは前テーマでの夢にも第3場面への転換、それは過去的な夜の情景から目的地を明確にする昼の情景への転換でもあるが、その間に現われている(web雑記No.29参照)。
 このことで少し気になるのは、全体の流れの中で「─結合─死─」を境に鏡像な反転の関係が構築されているのではないかということで、そのことにより二種に分けたエナンチオドロミー的な性質を示す箇所が、☆は流れに沿う正(+)を強めた変化として、また★が流れに逆らう負(−)を強めた変化として現われるのではないかということが想像されてくる。先の夢には☆は現われてはいるものの★は確認できない。夢の最終の第4場面は夢の中にのみ存在するかたちで終わる。とすると、臨床例に現われる治癒し現実に引き戻ったかのような患者が、何年も症状を潜伏したままにあるとき突然症状を再発する症例は、この☆印段階の反転しない状態を、新たな兆しが出てきたことにより快方へ転じた★印の段階と誤認することにより生じるのではないかという疑念がわきあがってくる。しかし、わたしは臨床医ではないのでなんとも言えない。ただ大切なのは、縄文式土器の文様がそうしたことまでも問題視させるほど、現代社会にとってかけがえのない重要な資料だということである。
 さて、興味をひかれるもう一つの点は、土器文様へ向けられた500年間の最後の変化が、人という内なる心的機能に向けられている可能性が指摘できることである。
 先の錬金術に表わされた認識の過程との直接的な対比は論外として、土器文様に表わされる流れは、認識されるものを内なるものとして抱きとめ、その葛藤の中から現象の理解を深め、自我を獲得していく過程にあまりにも極似していた。  
つづく  2007.2.25より





夢─土器文様─野生の思考─Emerald tablet,etc.(7)
 Emerald tablet それは前にも述べたように、ヘルメス神によって現されたと言われる錬金術の原理を解く伝説上の文字板のことである。詳しくはネット上で公開されている多くの解説を検索して欲しい。
 
 現代へ伝えられているものはその写文であるが、古くからヘルメス学として錬金術の根幹をなす思想を形成してきている。ここでは、イメージの博物誌S.K.ド.ロラの『錬金術』をあげ、その本意を探っていくことにする。なお、後の解析の都合上、文字の大小、強調、段落を加えている。
 
 上なるものは下なるものと相同じく、下なるものは上なるものと相同じく、
しかして一なるものの奇跡の成就すべきこと、そは真であり偽りなく、確実かつ至高に現実である。
 そしてすべての物が一なるものを思念することによって実在し、一なるものよりやって来るように、すべての物はこの唯一なる物から適応を通じて生み落とされた。
 太陽は一なるものの父であり、月はその母である。
 風は一なるものをみずからの胎内に孕んでいた。大地は一なるものの乳母である。
 全世界のあらゆる完全性の父がここにいる。


 地中にあって一なるものが姿を変えるとき、その力と能力は完全である。
 
汝はすべからく大地を火より分かち、粗野なるものより精妙なるものを分かつべし。しかもやさしく、絶妙の手練を弄しながら。

 一なるものは大地より天空に上昇し、ふたたび大地の懐に舞い降り来たり、
上なる物事と下なる物事の力をともに受けるものなり。
 汝はかかる仕方によって全世界の壮麗を獲得するであろう。
 そしてそれゆえにすべての闇は汝より立ち去るであろう。


 これはあらゆる強者中の強き強者(なる女性)である。
 
なぜならこのあらゆる強者中の強き強者なる女性はあらゆる精妙なるものに立ち勝り、あらゆる固きものを貫き通すからである。
 世界はこのように創造されている。

 これからして、その手段がここに記されているところの驚くべき適応が生まれくるであろう。
 そしてこの意味において、余はヘルメス・トリスメギストス(三倍賢いヘルメス)と称せられるものなり。なぜなら余は全世界の哲学の三つの部分を具えおる者なればなり。
 余が太陽の動きについて言い来たりしことは、これにて終わる。


 わたしは、はじめてこの文面に触れたとき神話的表現形態を具えていることを直感したのだが、それと同時に「上なるものは下なるものと相同じく、下なるものは上なるものと相同じく」という文頭の言葉に強く引かれ、土器の文様観察で得られていたある具体的な描出イメージが脳裏に文意を説明するかのように対置されてきたことに驚かされた。
 それは、文様要素が激しい対立を生み出す段階のもので、三ないし四区画の文様展開が、下から起こるうねりや十字形等の指示記号をともない、順次階層を越えて上昇するイメージをつくり出していた土器群である。

        
 詳細な説明は割愛するが、上にあげた土器の場合、指示記号的に用いる四方円の領域境界を表わす十字文が、右への展開にしたがい小→大へと区画を越えて連鎖を生み出すように構成され、遠→近への心的な作用をもたらしている。
 この文様の観察から得られていたのは、地下的な階層を支配するものが三叉で表される文様要素(暗─地下的─過去的シンボル)で、それに階層間に形成された結界を打ち破る機能イメージ(間隙のイメージ)が導入されていたことであるが、それがわたしの記憶から呼び起こされ、先の一文に結びとめられたのである。
 そうしたイメージが、モチーフの形状を変えていても共通してこのグループの土器群には構築されていて、この文様ではモチーフの基本形を180度回転形で変化させ、右上方へ走馬灯のようにめぐるイメージを構成表現することにより時間的な観念の投影を明確に読み取ることができたのであるが、その文様イメージが次々と参考書に掲載された例題のようにEmerald tabletの文章に表れてくるのである。これは不思議な感覚で、それだけ両者に近似性があることを物語っていた。
  土器文様から見通す先の一文「上なるものは下なるものと相同じく、下なるものは上なるものと相同じく」、これは別なテキストでは「下なるものは上なるもののごとく、上なるものは下なるもののごとし」と訳されるが、その文意を下から起こったものが対立関係を生み出し、限りなく充足するなかで、上方のそれが結界を打ち破り上位の階層へ転じるものと判読させた。
 その状態は、まさに階層内の上なるものが新たな上位の階層へ出ることにより一瞬にして下へ転じる状態をイメージさせていた。この文様から得られたイメージをさらに増幅していくと、自身の内に秘められていたウロボロス的循環作用が、さらに大きな循環を求めて動き出すとき、上なるものは下なるものという渦的な形態を表わしながら、幾重もの地下的結界を貫け、現実に認識できる空間へ顕現する、ということになる。
 それらはまさに、ダヴィンチの手記に伝えられる水への神秘なる追求をほうふつとさせる。錬金術が水銀という、固体であって液体であり、気体でもあるという変容する一なる物質に限りない関心を寄せるなら、液体であり、低温で固化し、高温で気化する水もまた神秘なる変容の性質をもつ。ダヴィンチは山から湧く水が洞窟に満たされ低地からも湧き出ること、土手下で巻き込み洞をつくり出すこと、二つの異なる水流が結合することにより渦を巻き不可思議な窪みを生ずること、多くの神秘を解き明かそうとした。錬金術師の求めた神秘は特殊世界のことではない。ダヴィンチの水の論考を通してみれば、現代にも、そして縄文の世界へも普遍性が築かれていることをわれわれはイメージの基底へ焼き付けなければならない。
 さて、話が本筋を離れたので戻す。先に、このEmerald tabletの文面に神話的な構造が見られることを指摘したが、ここからはそうした視点から観察を推し進めていくことにする。
 少々読みづらかったとは思うが、先の引用文の大文字の行は環境変化が強く表れているところ。それにつづく小文字の行は説明的な意図が感じられるところと考え、それをこれまでの土器文様や夢の場面展開に準ずる段落として取り扱うことにした。
 本文の末に「世界はこのように創造されている」と明記されていることから、文全体に経過的段階のイメージされていることは確かである。そうしてみると、この四つの段落構成に漢詩体の絶句的表現である「起承転合(結)」という機能の生み出されていることを知ることができる。以下段落名をそれにより表わす。 
 「起」…段落の大文字部分は、他も同じように文意の環境を説明的に表わしている部分で、その下の小文字部分の内容では、一者から起こったものが太陽(父)─月(母)という二項対立を生み出し(二者関係)、さらに風(母?)─大地(乳母)との対置から四者関係へ高められている。しかしここで問題視されるのは風で、それがが例えば叔父のように表現されていれば単なる対比として意味が単純化されるのであるが、この箇所のみ特定を避けるように間接的で曖昧な表現をとっている。そのことから、ここに大きなイメージの広がりが求められているように見受けられてくる。「孕むもの」であるから本来ここには前文の対立関係の母が置かれなければならないはずで、そうするとこの四者関係には二つの対立項のどちらにも転化できる状況、言わばトリックスター的な機能が挿入されていることになり、三者関係の介入が明らかにされる。つまりこの説明的に介入させた語意により、太陽、月、風、大地は、どのような組み合わせでも対立関係を結ぶことができることになる。
 この関係は、マリアの公理と呼ばれる伝説上の女予言者による「一は二となり、二は三となり、三者のものから四者のものとして、一者が生まれる」という言葉を呼び起こす。それについてユングは、一は全体性をあらわすから、四には合一化されたものとしての全体性が現れていることを指摘している。
 この図形イメージは四角の中に対角線を結ぶものとしてイメージされるが、それはまさにweb雑No.28中段の図にあげた土器文様にも現われているのである。しかもユングにより、その構造がさまざまな神話に表わされていることが確認されており、それは古い口語伝承にもとづくアンデルセンの童話にも現われるほどの普遍構造を示している。
 振り返って「起」をまとめると、少ない言葉の中に激しい対立関係の起こされていることが理解され、それが「全世界のあらゆる完全性の父がここにいる」という段末の文により、太陽へ向けられていることが読み解かれる。しかし、ここに矛盾が生じている。なんとなれば、全体の末文は女性が世界の創造者として締めくくられているからである。したがって、先の一文には後に重ね合わせたイメージ上の作為が感じ取れる。ちなみに別なテキストでは
 万象の「テレーム」(テレスマ=意志)はそこにあり。
というように記されているので、その方がより本意に沿うものと思う。
 「承」。ここでは、一者から対立を深めて表わされてきたものが明確な目的をもつ。それは乳母であった大地からの火の分離である。
 人類学者レヴィ=ストロースは、多くの神話に、火が文化の象徴として表わされていることを提起している。それは『やきもち焼きの土器つくり』(みすず書房)という、一風変わった書名の本に詳しいが、そのことから考えるなら、さまざまな対立関係の中から現実的な人の気配(自己を内証する意識=個性化)が生じてきたことになる。「地中にあって一なるものが姿を変えるとき」とことさら明記し、別テキストでは「その力は、大地の上に限りなし」と直接記されるように、前段の地下的世界に対し、この段では地上へと出たことをイメージさせている。そこに表れるのが現実の人が生み出す文化を象徴する火である。
 このヘルメス神によって伝えられた書が、普遍的な神話素材から興されていることがベールに包まれた彼方から見透されてきたことになる。
 ここで、少々長くなるがポピ族の神話を紹介しておくので、イメージ的な対比を試みて欲しい。
 
 はじめに太陽の精霊が現れ、虫たちの洞窟世界がつくられた。
 虫たちには生命の意味が理解できず、精霊は蜘蛛の祖母をつかわすことで虫たちを高次の段階へ導き、動物にした。
 だが、これらの動物も不十分であることがわかると、、あるものはふたたびクモの導きで変身し、人類の世界に到達した。ここで人間たちは最初の文化をその地で築き、生命の意味を探りはじめた。
 彼らはここから、終極の居住地を求めて苦難の旅をつづけるが、大空を飛翔する鳥が彼らを導き、新しき世界を発見する。そして彼らは、人間としての生活を営みはじめた。
 あるものはふたたびクモの導きで変身し、人類の世界に到達した。ここで人間たちは最初の文化をその地で築き、生命の意味を探りはじめた。彼らはここから、終極の居住地を求めて苦難の旅をつづけるが、大空を飛翔する鳥が彼らを導き、新しき世界を発見する。そして彼らは、真の人間としての生活を営みはじめた。

 「転」。ここに現れるのは天空と大地の関係。「闇は汝より立ち去るであろう」とは、地下的─過去的なイメージが払拭され、眼に見える世界の認識へ入ったことを告げている。
 そして「結」において、女性が「あらゆる固きものを貫き通す…」と締めくくられる。そこに表わされているものは父、母、乳母でもない、女性という人間性の認識に他ならない。別なテキストでは、この部分が明確にはされていないが、「汝」という語によって構成されていることからそれが人間性を通した万物を司る真理へ向けられていることは明らかである。
 母は、同性だけを産むものではない。まったく異なる形質を持つ男性をも産む。したがってすべてのはじめには母が太母としてイメージされてくるのであるが、錬金術の10枚の絵にもそうした、人間性の追及から起こされた認識が投影されている。
 この章の結語に入る。
 以上のことにより、伝えられるEmerald tabletの文は、口述的な神話記録を原書としていることが推察される。そして文の締めくくりが作為的に削られていないかぎり、人間性への入り込み方の薄さから、かなり古い段階の神話構造であることが予想され、その無意識からの認識を強めるあり方にこそ、錬金術師ならびに現代人においても神秘なる意味をみいだしていることが直視できてくる。
 先にも述べたように原典は口承による古きエジプトの神話伝承かもしれぬ。それが黄金帝国を築いた文化への憧憬となり錬金術の思想を支配したように思えるが、その本意をわたしなりに書き表すと、以下のようになる。
 
 
Emerald tablet
に具体的な意味を求めてはいけない。それは人間が認識を深める過程を表わしたものなのであるから。もし、秘術を求めるというなら、遠き祖先からの歴史を、その時代時代の人々がたどり返し、問題とするところの現状の認識を深めるなかから、最も良き解決の術を探求していかなければならない。唯一の秘術は、人:─霊処(ひと)という神秘なる心の作用を知ることに極まる。Emerald tabletはそれを遠き過去から告げているような気がする。
(完)  2007.2.26より