火あぶりにされたサンタクロース
数年前、クリスマスは、ある書とともに縄文時代の遺物廃棄現象を解き明かすための貴重な歴史事象をわたしにもたらしてくれた。以下は、『掘り出された聖文』(未刊)からの抜粋である。
家の構造と弱体化にかんしては、それなりの痕跡の存在から、あるていど実像にせまることができたように思える。しかし、土器にかかわる問題となると、精神的なものの比重が増すためか、いっこうに何も見えてこない。
土器に描かれた文様の意味については、まだまだ遠い世界であるが、廃棄現象については何か見えてくるものがなければならないはず。
廃絶した住居跡から、多量の遺物が累積して発見されることで、そこがもの送りの場と考えられてはいるが、漠然としたままに、その問題に考古学者は踏み込むことができないでいる。いや、事象が立ち入ることを拒んでいるのかもしれない。
だが、住居跡という場が、彼らにとって意味をなすからこそ、そこに遺物が集められているはず。もし、もの送りの場であるのなら、どのような意識がはたらいているか背景を知らなければ、事象を読みとることもできぬままに、その言葉だけを使いつづけなければならない。
そんなことを想いつつ時を過ごしていたある日、『サンタクロースの秘密』という本を想い出した。
数年前の十一月ごろであろうか、妻が図書館から借りてきたのであるが、どんなにおもしろいことが書いてあるのかと、開いて見て驚いた。
なんと扉に書かれていた題名は「クロード・レヴィ=ストロース 火あぶりにされたサンタクロース」
そのころ神話的な思考方法を知ろうとレヴィ=ストロースの本を読みあさっていたので、他の本を後まわしにして読み進むことにした。
私が生まれる一年前にあたる一九五二年に『レタン・モデルヌ』誌に発表されたものを、宗教学の中沢新一氏が訳し、「幸福の贈与」という論説を併載した書である。
事の起こりは一九五一年十二月二十三日、フランス。
パリから南東へ二百六十キロほど離れた、辛子の産地として有名なディジョン。
この日は日曜日であったそうだが、その午後三時。ディジョン大聖堂正門前の広場で、教区内のクリスチャン家庭を代表する二百五十名の子供たちが、聖職者の同意のもとに、サンタクロースを火あぶりにしたというのである。
それは、戦後のアメリカから輸入された派手なクリスマスの習俗が、キリストの降誕祭を異教化させるものとして激しく非難するための行為であったという。
レヴィ=ストロースはこの問題の意味について、サンタクロースのもたらす子どもたちへのプレゼントという贈与のあり方をも含め、クリスマスの歴史的な変遷を追う。そして、火刑それこそが皮肉にも数千年間消滅していた、カトリック教会が異教視してきた儀礼を蘇らせてしまったと解き、儀礼を破壊しようとして、かえって儀礼の永遠性を証明する手助けをしたのだ、と結んでいる。
私は、この衝撃的なサンタクロースの火刑に興味を示したのではない。レヴィ=ストロースによって語られている「贈与」の歴史性に着目したのである。
先の廃絶住居跡がもの送りの場として存在していると仮定すれば、そこには他界へ捧げまつるという、ある種の贈与の意識が介在していると判断したからである。
レヴィ=ストロースの論を逆にたどる。
現在見られる、ラテン諸国やカトリックの国々の降誕祭は十二月六日に行われていた聖ニコラウス祭に、またアングロ・サクソンの国々の秋祭りを二分する、子どもたちが死者の役を演じ、大人たちから寄進を巻き上げるハロウィーン祭はケルト人のサムハイン祭に、そしてクリスマスに見られる、子どもの生命力を高めるために大人たちが子どもを贈り物で埋めつくそうとするサンタクロース伝説は、オランダ(聖ニコラウスを意味する言葉がシンタクラース)をたどり聖ニコラウス祭に行き着くことを述べている。
聖ニコラウス祭は死んだ子どもを蘇らせたといわれる聖人ニコラウスをたたえ、またハロウィーンの起源とされるサムハイン祭では死の神サムハインをたたえて新しい年と冬を迎えるが、いずれも子どもたちは変装し、村中をねり歩き、寄進集めをする。
こうしたあり方に着目し、レヴィ=ストロースはさらに歴史をさかのぼる。
古代ギリシア・ローマ時代から、中世にいたるまでの十二月の祭りには、古代ローマのサトゥルヌス祭にみられるような、階層身分を超えた贈り物の交換と、その後に乱痴気騒ぎを起こす祝宴が存在し、そこでは連帯の強化と、若者たちによる狂喜乱舞という対立的につながりあう構造の類似性が認められるという。
このサトゥルヌス祭は怨霊の祭りで、不慮の死者の霊を祀るが、主催者であるサトゥルヌス神は我が子をむさぼり食う老人として描かれる一方で、子どもたちへ贈り物をもってくる角の生えた地下界の悪魔とされている。
レヴィ=ストロースは、毎年村を訪れては子供をさらっていくという、ブエブロ・インディアンの「カチーナ」の仮面祭りにも触れているが、こうしたなかから注目すべき次の一文に言及している。
生者の世界に、死者がもどってくる。死者は生者をおどしたり、責めたてて、生者からの奉仕や贈与を受け取ることによって、両者の間に「蘇りの世界(モンド・ヴィヴェンディ)」が、つくりあげられる。そして、ついに冬至がやってくる。生命が勝利するのだ。そののちクリスマスには、贈り物に包まれた死者は、生者の世界を立ち去り、次の年の秋まで、生者がこの世界で、平和に暮らすことを認めてくれるのである。
こうしてみてくると、冬至を中心とするさまざまな祭りの基底に流れているものは、夏至より静かにせまりくる野枯れの季節への感得ということになってくる。
太陽の弱まる、あらゆるものの死を予見させる季節の到来。それはまさに人間界における霊界の進入を想起させ、ミヒャエル・エンデ「モモ」に登場する虚無の世界の広がりのごとくに、人々へおびえ、おののく心的なはたらきかけをもたらす。
このような祭りの庭では、成人にいたっていない子どもは、霊界の使者として、あるいは霊体そのものとしてあつかわれ、大人たちに贈与を求め、また大人たちが贈与することで霊界の退散を願い、光と生命の蘇りをはたそうとする。それが冬至である。
冬至祭りは、世界のさまざまな地域に認められ、わが国においても、旧暦十月亥の日の亥の子、あるいは十月十日の十日夜などに類似する行事を見ることができる。
これらの行事では、子どもたちが藁棒(亥の子)や縄をつけた石(亥の子石)で、土を打ちながら家々をめぐり、餅などの寄進を受けるのであるが、そのさいに子どもたちは「亥の子餅つかんものは鬼を生め、蛇を生め、角の生えた子を生め」と脅しのような文句をとなえるという。まさに、鬼・蛇・角という魔界を象徴するような言葉をならべて贈与を請うのである。
この行事は、文献では平安時代までさかのぼることができるが、このほかの行事も含め、どうもわが国の場合は聖ニコラウス、死神サムハイン、角の生えた地下界の悪魔サトゥルヌス、カチーナ神のような、明確な人格神がみえてこない。
このことについて中井真孝氏は「神仏習合」(『講座日本の古代信仰1』)のなかで、以下のように述べている
元来わが国の神祇観念はアニミズム的精霊神やナチュリズム的自然神の意識が強固で、人格神の観念はなお未成熟の状態にあった。ところが神仏習合の過程で、人格を有する仏菩薩との相関において、精霊神や自然神を人格化することが可能となった。そして、その造形的表現として、仏菩薩像に対比した神像が彫刻される。
さて、ここまでの過程で、わずかではあるがわかってきたのは、縄文時代の遺物廃棄に某かの儀礼的要素があるとすれば、そこに求められる意識は、このような冬至祭りなどに表される認識と無関係ではないかもしれないということである。
ここからは、背景となる問題をさらに人と神とのかかわりに絞り込み、時代をさかのぼるなかで縄文という時代の意識を見通していくことにする。
われわれの知る家の神。それは強い家意識のなかで存在している。しかし、平安末期の武蔵七党と言われる武士団の時代であってみれば、政情不安から血縁とともに地縁で結ばれた者たちが党を組織し、強固な連帯を築かなければならない世となっていた。
そのように共同体の意識が強固であった時代には、神は家に依るべき性格以上に、共同体全体の守護神(ウブスナ神)としての性格を強めていたと言われるが、それをもたらした大きなことがらは、奈良時代の公地公民制を崩壊させた、三世一身法(723年)と、墾田永年私財法(743年)にある。
土地の私有化が認められたことにより、地方の豪族は荒れ野の開発を積極的におしすすめる。しかし、そのことにより労働力が分散し、古い時代からの氏族のなかに強くいきづいていた相互扶助の関係が一気に崩れてきていたのである。
つまり、それまでは、母子は母方の家で生活が営まれ、また労働力となりがたい老夫婦や経済的な援助を受けられない母子であっても、氏族の強い結びつきの中で生活を維持していくための相互扶助の慣行があり、村内の首長の流れをくむ富豪層が食を供与している光景が『日本霊異記』にも描き出されているが、それが崩壊してくるのである。
開墾に失敗し、流浪の民となる者も諸国にあふれかえるが、国家による救済とは、いつの世も対処療法的な側面をもつ。民衆の間には夫婦・子が強く結びつけられた、夫が妻子を養うという自力救済的な家族が求められることによって、十世紀ごろには家父・家長の支配権を絶対とする家父長制が成立してきたのである。
つまり、それ以前の時代にあっては、神は共同体全体の守護神(ウブスナ神)としての性格を強めていたのである。
さらにさかのぼると、それらの共同体は血縁を強めた三世一身法(723年)施行以前の氏族による族団組織が人々の強固な絆を形成していた社会へと行き着く。
そこでは、神は祖先神としての性格を強め、祖霊信仰を背景として氏族の系譜を重視する意識がはたらいていた。
このあり方は、古墳時代の稲荷山古墳(埼玉県)から出土した鉄剣の銘文にも表されており、そこには西暦四七一年(または 531年)に記された、オホヒコからオワケノオミにつづく、八代にわたる系譜が金象嵌で刻み込まれている。
このオワケノオミは「无邪志」国造家を先祖として代々大王(天皇)家につかえ、このとき雄略天皇のもとで皇居を警備する近衛兵の隊長となっている。
こうした時代にあって、系譜にたいする意識は、地方の有力な氏族にとり、自らの存在を証明するものとして重視されていたようで、またそのことが祖霊信仰を発展させていたことにもなる。
ここからさらに古い時代は、明確な資料を欠くために、古代から見通した意識世界へと入らなければならない。
祖先神の観念は相当古い時代から発生していたことが予想されるが、その創出にはシャーマンとしての巫女が大きな役割をはたしていたと考えられている。
こうした呪術世界のひろがりのなかでは、自我や観念の強まりを背景とし、人間自体の主体的な機能に関心があつまっていたとされる。
そうしたなかで、人間の、行動を起こさせるかくも不思議な精神活動について、その根源を超越的なヒトダマの機能として感受していたという。
これは精霊信仰のなかで生じたものであるが、その祖形には、自然界のなかからもっとも強い霊威的現象を起こすものが選び出され、その機能を可能にする根源的なエネルギー、そのタマにいだかれていた強烈な宗教観念が存在していたといわれているのである。
水、火、雷、風、蛇などの自然神が生みだされ、そうした自然神のもつエネルギーを潜在させた人格神も生み出されてくるわけであるが、この人格神は権力と結びつきやすく、男性性を強めながら表象化していく。
しかし、わが国では、この人格神の観念がきわめて希薄で、先に述べた死神サムハインや悪魔サトゥルヌスのような神は見えてこない。
では、この古き時代にある自然神に対する意識とは、いったいどのようなあり方をみせていたのであろうか。
民俗学者の宮本常一は『民間暦』の中で、自然神話学派マックス・ミューラーの次の一文を引用したのち、民間暦における自然現象との深い結びつきを語っている。
人間が世界へ投げた最初の注視に於て、自然ほど自然でないものは無いと思った。彼等には自然は偉大な驚駭であり偉大な恐怖であった。それは驚異であり永遠の奇蹟であった。この奇蹟の或る方面が自然的であると呼ばれたのは遙かに後に、それが恒常であり、不変であり正規的に回帰することが発見されてからである。しかるに宗教思想や宗教上の言語に最初の刺戟を与へたのは、驚駭と恐怖と感情を開かれてゐるこの茫漠たる領域、この驚異、この奇蹟、知られたものに対するこの広大な知られざるもの等々である。(『宗教生活の原初形態』)
そして、宮本常一が語り継ぐ。気候が生産生活を規定していたことにより、われわれの祖先は、
雪消え ………田耕の労働の始まり
辛夷(こぶし)の花 ………苗代種まき
ほととぎすの鳴き声………麦が熟れる
のように数理的に割り出された暦書によるよりも、自然の暦のほうが安全だったのである、と指摘しているのである。
季節を知るには、太陽の運行が欠かせない、しかしこうしてみてくると、わが国は、自然学者がかつて「箱庭的な景観」と称したように、植物、動物、大風、雷など、直接的に季節を知ることのできるものが多い。それも単に季節の変化だけではなく、例えば、カマキリが木の下のほうに巣を作ると冬に雪が少ないなど、季節を先取りした豊凶をも予見しているのである。
太陽の運行は計算できるほどに正確である。しかし、箱庭的な景観にあるわが国では、地表の気象は朝夕で異なり、突発的な雷雨や烈風をも巻き込み、複雑に千変万化する。
秋から冬にかける時期も気候が荒れる。
それを鎮めるための風の神追い、雷追いなどの祭りが各地に見られ、また宮廷神道にも風神の協力を祈願する竜田風神祭、火神を支配するための鎮火祭がある。
これらは、九二七年に完成した律令法の法典である『延喜式』にその祝詞が記載されていて、風祭りの起源や火の起源神話を宣ることにより、災いを転じさせ、有益なものとなすことを祈願している。
ここに、われわれは、自然神を祀る精霊信仰の絶えざる意味を見い出すことができる。
その源流にあるものは、まさに
草木咸物言………………………『日本書紀』
石根、木立、青水沫も
言問ひて荒ぶる……「出雲国造神賀詞」
草木言語ひし時…………………『常陸国風土記』
という、精神世界にほかならない。
それらは、みな物言ところの精霊であり、危険、あるいは何らかの判断を必要とするとき、物言をしてくれるものでもある。感受されていた根源的なエネルギーは、タマとよばれるもの。
火魂 水魂 木魂 舟魂 人魂 言魂 ………
それらは具体的なものから、次第に概念的なものへと移行していくことが考えられているが、人間に害を及ぼす精霊を鎮めるためには、古代において言葉の霊威をもって言祝ぐ(言葉で祝福する)魂鎮めの神祭りを行うことで、災いを回避しようとしている。
もちろん、これらのなかには舟霊のように、人間がつくり出したものへの霊力の感受も存在している。それは、弘計の室寿に見ることができる。
この弘計とは、のちに西暦四八五年から二年間天皇に在位する顕宗天皇のことであるが、このときは雄略天皇に父を殺害され、兄の億計とともに名を変えて播磨(兵庫県)の屯倉の首であった縮見のもとに潜伏していた。
そして、そこでの縮見の新築祝いの席で、身分を明かすことを決意し、祝詞をはじめたのが「日本書紀」に登場している次の室寿である。
築き固めて立てた、新しい室を結びつける葛の根や、築き固めて立てた柱は、この家の主人の、お心を鎮めるものです。しっかりあげた棟木や梁は、この家の主人の、お心を美しくさせるものです。 ……しっかり据えた垂木は …… しっかり置いた桟は …… しっかり結わえた縄や葛は …… しっかり 葺いた萱は……
すべてはこの屋の主人となる縮見への賛辞であるが、ここで注視されるのが家の構造的な各部位が引き合いに出されていることで、それらはすべて主人の心を鎮めることによる長寿へと向けられているのである。
つまり、そのことを逆にたどれば、
結びつける葛の根
築き固めて立てた柱
あげた棟木や梁
据えた垂木
置いた桟
結わえた縄や葛
葺いた萱
についての強固な永続性ということになり、それは主人に対しての魂鎮めであると同時に、それらものに対しての魂鎮めでもあったはずである。
ひるがえって、伊勢の皇大神宮には、かつての古い神体であったとされる、天御柱がある。
この柱は、内外宮正殿の中央の床下に六十センチほどに埋め込まれた柱で、地上へは九十センチほど出されている。
そしてそれには五色の布が巻かれ、八葉榊が飾られているらしいが、そのまわりに、神々が参集する神座として、八百枚もの天平瓮といわれる土器が積み置かれているといわれる。
関連する事項は、『日本書紀』神武天皇の事績にも登場している。
このとき神武天皇は、現在の奈良県桜井市あたりにいた賊軍に悩まされていたという。そうしたなか天皇自らが祈請をし、その夢の中に現れた天神が、次のことを告げる。
天香山の社の中の土をとって、天平瓮(平らなかわらけ) 八十枚を作りあわせて厳瓮(神酒を入れる神聖な瓶)を作って天神地祇を敬い祭れ、また厳呪詛(心身を清めて行う呪言)をせよ。こうすれば賊は自然に平らぐであろう。
天皇はこの夢のお告げにより、八十枚の平瓮と、八十枚の手で土をえぐった器、さらに厳瓮をつくり、吉野川の上流で天神地祇を祭る。
そして、それ以後、天皇自身が天神の憑代として祭りをおこなうこととし、埴瓮を厳瓮、火の名を厳香来雷、水の名を厳罔象女、薪の名を厳山雷等々と名付けることにしたという。
これらのことからすれば、柱や土器は神霊が招きよせられて乗り移るものとして意識されていることは明白である。
一方、先の室寿のムロについても、興味深い神事が十二世紀まで伝えられていた。
それは諏訪上社(長野県)の冬祭りとして、旧暦の十二月から翌年の三月まで行われた御室神事で、ここでは藁でできた神体の蛇を、土室に籠もらせ、脱皮させるがごとくに作りかえたといわれ、最後には長さ十六メートル五十センチ、太さ二十四センチほどの大蛇をなしていた。そして、この場が、冬季の上社の重要な祭事の場となることが吉野裕子氏により紹介されている(『蛇―日本の蛇信仰―』)
この室は、
大穴を掘りて、其の内に柱を立て棟を高くして萱を葺きて軒の垂木、土を支へたり(『諏訪大明神絵詞』)
と、記録されているが、それはまさに野塩前原遺跡で見てきた縄文時代の竪穴式住居跡と同じ構造のもので、「土を支え」というくだりから土屋根の形態であったことも類推されてくる。
ここでのあり方は、蛇の冬籠りする状態を竪穴式の住居に見立てており、それを地下的なものとして、とりあつかっている。とすれば、連想されてくるのは縄文時代の廃絶住居跡も地下への入口と考えられているのではないだろうか、という疑念である。
しかも、先の伊勢神宮の秘密めいた柱と土器のありようを交錯させれば、廃絶=寿命のつきた=地下的で死した住居跡に存在する、これもまた廃棄=寿命のつきた=死した土器という構図の中で、いずれも神の憑代的な要素が強く観想されてくるのだが……
この長き幻視の旅も、もうそろそろ終わろうとしている。私の脳裏に浮かび上がろうとしているもの、それは次の幻視の旅を予感させる言葉である。
クロード・レヴィ=ストロースの『やきもち焼きの土器つくり』。何とも風変わりな書名で、表紙のカバーにはヨタカとナマケモノとホエザルの鮮やかな色の絵が描かれている。まるで絵本の表紙のようなのだ。
ある大きな書店で、偶然にこの本に出会ってから、私の縄文土器の文様世界を知ろうとする感覚が、研ぎ澄まされることになる。
その序に書かれていた言葉が、浮かび上がる。
土器作りの職人とその製品が、天界の支配者と地上、水界、地下世界の支配者との仲立ちとなるという考えを含む宇宙始源論は、なにもアメリカ大陸のみに固有のものではない。ここでは、日本の古い神話の例をあげておくにとどめよう。この例を選ぶのに下心がないわけではない。というのも日本神話もまた、太平洋をはさんだ大陸それぞれにその痕跡をとどめた、信仰と表象の古層から発していないとも限らないからである。
この一文を読んだとき、縄文土器の文様に神話的な世界の投影がありや、なしや、というテーマに踏み込むことを決意したのである。
数年前、この『掘り出された聖文』を書くために枕元に集合させていた膨大な書籍類。いまはさまざまな場所に散り、代わって古語に関する辞書が集まりだしている。古語の構造分析を通し、わが国の古層の精神を読みとろうとしているのであるが、四年目にして、ようやく訓の音節に秘められたそれぞれの源意を抽出できるまでに至った。同時にそれは試行錯誤していた方法論をある基本的な路線へ導きはじめてもいる。何年かかるか分からぬが、これを体系化できれば、土器文様に表された野生の思考へ現代という時代から精密に見渡せるレンズ機能を与えることができるかもしれない。
2006.12.24より