目薬の容器のこと
前号で約束したから、目薬の容器のことについて書くが、その前にわたしが研究者の資質にとって大切に思うことを述べておく。それは、前々号のweb雑記132で書いた通勤途中で会う小学五年生の君が、いつかその清々しい眼のままに研究者を志し、この一文に眼をとめるかも知れないからだ。
発掘をしていると、さまざまな時代の遺物や遺構が現れる。だから生半可な知識に基づく先入観で、それらを安易に結論付けると大変なことになる。一例をあげると、ある遺跡の発掘調査報告書で次のようなものを眼にした。
縄文時代の掘立柱の建物跡として記載されているそれが、明らかに半間、つまり三尺(約90cm)幅のL字形の縁を設けた江戸時代末ごろの建物の形態をしているのだ。しかし、調査者は柱穴、それは礎石を置くための壷掘りという突き固めとも思えるが、ともかくそこから何片かの縄文土器が出土したことで縄文時代の掘立柱の建物跡として報告したらしい。
弥生、古墳、奈良・平安時代の遺構が見られないことから、調査者は縄文時代のみの単純遺跡だと思ったのであろうし、そこに江戸時代の遺構があっても大方は埋没土が軟らかいから最近のものとして調査対象外におき、陶磁器なども除外したのであろう。そうしたことだから報告書には近世以降のものは記述もなければ遺構や遺物も載せられてはいない。
柱穴に埋まり込む土が固かったこと、そこから縄文土器が出土したこと、などを根拠にしたのであろうが、その建物跡の形態は農家建築を知る人なら見紛うことはないほど。縄文の掘建柱建物跡が当時話題を呼んでいたから、すわここにもと、という先入観を抱いていたのであろう。調査者の大敵は、考証に細心の注意を払わぬ安易な結論付けにある。
ということで、わたしは報告書においては状況報告に全力を注ぐから、他遺跡との比較を含めた論考の部分で積み残しているものがたくさんある。それは、発掘調査報告書は論文集ではないから、出土状況などの詳細な事実記載を漏れなく記録することを最優先し、対外的な論考は後に研究誌で行うべきだと考えているからなのだが、当節はその研究誌などに掲載される論考自体も思考上の方法論的なものへと偏り、形骸化しているように思う。基礎データーとすべき発掘調査報告書の資料提示を、箇条書きで済ませるような安易な流れがそれを助長し、いうなれば、現場での調査者の観察眼の衰えを映し出してきていることになる。
さて、そうしてはならじと一生懸命やってきたことに、どこぞの神さまが褒美をくれたのではないかと思えることがあった。それが目薬の一件。想い返してみても、まったく物語としか云いようがない。
そのことは突然起こった。もう13、4年ほど前のことであるが、ある郷土史研究会が発足した。設立委員の中に、陶磁器のことで、しばしばわたしのもとを訪れる方がいたから、近世の発掘調査の話しを講演してはくれまいかと相談があった。以前にも江戸遺跡の研究会発足当初に陶磁器の講座を頼まれたことがあるから快諾したが、一般の方々も多いと聞くから、突っ込んだ話よりは発掘から見通した農民の姿など話そうかと考えた。
ちょうどそのころ、仕事上では、近代絵画の展覧会を企画していたから美術書を読みあさっていた。なにせ国立近代美術館にはじまり、東京都美術館、日動美術館、青梅美術館等々へ絵画を借りに行くのであるから、こちらも必死で勉強し、借用する絵の選定のために考古学で鍛えた技をくり出し、壮大な近代絵画史の編年表を自作しながら、作業を進めていたのである。
ところが多摩地域史研究会で講演する日の夜明け、いつものように寝床の中で、岸田劉生について書かれた本に眼を通していたのだが、そこに掲載されていた劉生自らが描いたという実家の絵を見てハッとなった。いまの記憶だが、平屋の左半分が文具屋、右側に精リ水という目薬の看板があったのだ。
それはガラス瓶など考古学の資料対象ではないと思われていたころ、「昨日までが歴史」との思いのなかで遺物として保管してきた、気泡の混ざる粗悪なガラス瓶に型出しされていた名。一瞬にしてゾクゾクするような感覚が襲ってきた。
手当たり次第、枕もとの辞書やら歴史書を引き出す。この朝、講演の話をまとめようと思っていたのだが、そのような余裕は吹き飛んだ。
手元で調べ上げた精リ水。それは画家岸田劉生の父吟香が、ヘボン式ローマ字の辞書出版に助力したことで、そのお礼にと、ヘボンから水目薬の製法を教えられて売り出したもの。もちろんそれがわが国の水目薬のはじまりで、時は明治10年。
当時制作した報告書を引き出し、確認するが、実測図と写真を掲載せずに文章のみの説明。なんということだ、わたしはこのときまでその小さなガラス瓶が目薬の容器であることを知らなかった。精リ水の「リ」の字が不鮮明で、報告書作成の段階では判読できなかったのであるが、その後博物館に就職できたことで、時を隔てて文化地理学的な感覚で、近在の商品流通をひも解く資料として重要性を見出し、それらを再調査した時点で「リ」と判読できていたのである。その記憶が、このときの呼び起こしの連鎖をもたらしたことになる。しかし、ここに至ってもなお、それが目薬であることを突き止めてはいなかった。
この日の朝、わたしは出勤するなり収蔵庫へ向った。
木箱の中、互いにぶつからぬようにとほどこした新聞紙の仕切り、そこに気泡を蓄えたガラス瓶が横たわる。手に取り、間近に文字を読み取る。「精リ水」。その裏には「東京岸田吟香
謹製」、底に「A」。
飛び上がるほどに嬉しかった。
それから幾つかの調べごとをし、この話をしたためて講演会場へ向った。
やがて事務報告が終了し、それにつづく講演がはじまる。わたしの前に何人か登壇。それを奥まった席で聴くわたしには、その事項を羅列する研究発表的な内容が息苦しかった。わたしの話はまるで違う。しかし、こんな物語のような話が、この場の知識を深めようと燃えるような視線を壇上へ向ける受講者へ受け入れられるのであろうかと、不安が胸を突き上げた。
わたしの番がめぐってきた。
「実は今朝、驚くことが起きたのです。発掘を終えてから何年も経ってから…」
話は飛ぶが、この講演から数年後、聞き取り調査のテープを文字化する作業過程で、機織で眼を病んだが、それをやめてから治った、という老婆の話を耳にした。そこで直感的に「精リ水」が想い出され、注意が向くと、眼を病む話がかなり出てくることに気付いた。わかったのだ、機場は土間の隅にある。朝となく、夕となくカマドの煙りにさらされ、しかも暗さの中で織り娘は眼を凝らさねばならなかったのだ。当時としては高価な水目薬、それが農村部から数多く発見される理由が見通されてきた。だが、この講演会の時点では、それを理解してはいないで、話は遺物としての特徴に終始していたこであろう。
やがて講演を終え、壇上から降りた。
拍手の中でわたしに声をかけて来た人がいた。
「ずいぶん立派になられて」
驚いた、それはわたしが高校三年に上がる春、本格的な発掘を経験したいという思いがつのり、新聞記事を片手に何の手づるもないままに踏み込んだ、その発掘現場へあたたかく迎え入れてくれた団長だったのである。しかしもっと驚くことが迫っていた。あるご婦人が、その場に親しげに割り込んできたのである。
「お話、楽しかったですよ」
そんな言葉につなげられた、次の言葉に驚愕した。
「あの岸田劉生の本書いたの、わたしの弟なんですよ。まさかこのようなところで弟の名を聞くとは思ってもいませんでしたわ」
あああああ……
もう30年以上も前、あの発掘をしていた時、「昨日までが歴史」と想い、また「調査者はどうあるべきか」と悩まなければ、このときの感動へ連なることはなかったであろう。わたしは考古学を通して人生の宝物をたくさん掘り出してきた。だから、あの少年と多くの子どもたちに、それを感じさせてあげたいと、パソコンを前にして悩みつづけるのである。この内なる青臭さ、どこまでつづくものやら。
2008.3.8より
『夜語り』の掲載に寄せて
しばらくweb雑記から遠ざかっていたが、それは『夜語り』の前半部分が終了間際を迎えていたからである。
この『夜語り』は、東京の多摩北部の大正時代から昭和初期にかけての年中行事を解説したものだが、書きはじめが「煤払い」であるため、何とか11月末までに、暮れから春までの前半部の行事を完結させようと、昼夜その執筆に没頭していたのである。その甲斐あって、何とか間に合わせることができ、誰でも閲覧できるようホームページへの掲載も完了させた。
こうした仕事の楽しみは、素材から積み上げる長い作業工程にあって、その最終段階へ進むにしたがい、諸事象が結合しだし、視野が広がるとともにある種の深い洞察を生み出してくることにあるのだが、この『夜語り』に関してはそれがひとしおであった。
以前、これもホームページへ掲載しているが、明治から戦争直後までの郷土史を描いた『耘(くさぎる)』を制作したときには、地元の古老が書き残した「親子三代記」という新聞への投稿原稿を下敷きとしていたため、その個人の観念に制約される部分もあった。しかし今回は、地域の80歳から90歳代の方々の語らいを納めた、おおよそ90分テープ89巻におよぶ昭和50年代を中心に収録された音声資料から組み上げてきているので、地域史に立脚したある種の自由さのなかで感じられてきたものであるから、またよい仕事が出来たとという思いとともに、喜びも大きい。
こうしたときいつも思うのは、素材の可能性と強さである。
それをイマージュしやすいように言えば、素材が本来もちえる意味範囲とでも言うべきことになるが、それが生かしきれているかということである。
研究者には専門分野がある。したがって、それら素材を研究対象とする場合、切り口を自己の得ようとする研究テーマに即応する形で限定し、範囲を設けて切り込んでいく傾向が多い。しかし、その範囲を最後まで通せば、素材活用を既成概念の範疇に狭めることに終始してしまう。
素材のもつ力は、料理と何ほども違わぬと思う。
ことに歴史の研究は、つねに未来へ移行する現代という時代の中で理解していかねばならぬ定めを負うものであるから、料理で、料理人が食する人を想って素材を調理していくように、歴史研究者もまた現代の文化に対し、そうした基点的意識が欠かせぬものとなる。
そうした意味で、たった一つの素材であっても、そこには無限大の意味範囲が構築されていると思えるから、研究の仕方も、素材の意味を問う柔軟な姿勢が問われてくると、常々考えていた。
学問は本来、創造的な自由さをもつ。
しかし、自由さとは、自由であればあるほどに素材の抽出に心がけ、その充分な観察の中から物事の仕立て方に、しっかりとした道理を見出していかなければよい結果は得られないと考える。
そう想いつづけて来たから、今回の作業も、90分テープ89巻を半年かけてワープロで活字化してから、すでに10数年が経過し、その間折あるごとに構想を練ってきたものが、やっと形を現してきたことになる。
このテープは、通常の民俗学における聞き取り調査とは異なり、際立つ良い点があった。
それは、専門的な知識のある方が聞き取りに技術を要して聴いたものではなく、故中山久子さんが中心となり、日常見知る複数のお年寄りに集まっていただき、基本テーマはあるものの自由な会話に任せて収録しているから、互いに世間話をするように「あれはこうだった」「いやそれはああだんべよ」「おお、そうよ」というように、聞き取り手の技術ではカバーできぬ自然な自浄作用がうみだされている。しかも、もっとも大切なのは、話題が限定されてはいないから予期せぬ重要な歴史事象が、話のなかの小さな言葉を切っ掛けにして次々と姿を現しているのである。
この貴重な膨大な素材をどう整理し、子どもたちへ伝えていくか、わたしは悩んだ。そして活字化の基礎作業を終えたあたりから、考えを熟成させるため、誰かが時を置くことを仕向けでもするように、縄文遺跡の発掘調査が頻発して10年が経過してしまった。結果的にそれがよかった。10数年の間、土器文様の分析を通し、だれも踏み込めはしなかった土器文様の分析を通して野生の思考を追い求めてきたことで、先入観なく素材と対峙し、そこから意味を探り出す訓練が身についていた。そのことが幸いし、時期と内容を異にする作業ではあるが、この年中行事のまとめ上げに多大なる効果が現れてきた。具体的には、現象の内側へ入り込み通常では探り得ぬもの、それを詳細な分析から興される事物の相互関係からイマージュの力を借りて引き出し、具現化させる研究法である。
音源に残る数多くの話者と膨大な語り。その相互関係を深く洞察し、その構造を統合させることで、地域の明治から昭和初期の情景と年寄りの思考を、語りにより復元しはじめたのである。作業を進めるうちに現れてきたもの、それは年中行事の根幹にかかわる、長い伝承の中で維持されてきた野生の思考に起源を置く神と人の関係に他ならない。
その後、いろいろと最近の年中行事の書籍を調べてみた。しかし、いわば現象を記録した書籍は存在するものの、歴史性を含め、それを伝えてきた側の意識へまでも踏み込む一般書の希薄なことに気がついてきた。
わたしの為すべき事は、その時点で定まった。
それを具現化するには、架空の年寄りを仕立て、その年寄りが音源に実在する年寄りたちの想いを代弁する手法でしか表すことは出来ない、という考えに達した。
夏前から、民具の写真資料の作成と交互に作業を進めてきたが、秋の深まりとともに、この『夜語り』の執筆に比重が移り、ここ数週間の原稿のチェックと図版組を終え、ついに前半部が完成した。
この語りの中に、わたしは今までの想いを凝縮させている。それは10数年前から考えはじめていた「変わらぬものはなんだったのか」という、わたし自身の歴史研究の命題を具現化する可能性を現しはじめた。つまり夜語りをつづける年寄りは、わたし自身のうちに芽生えはじめた歴史観の表れで、それを為さしめるのは、多くの素材が発するわたしへの問いかけ、という奇妙な、しかしそれこそが長年求めてきた資料と調査者の関係にほかならなかったのである。
まだまだ先は遠い。縄文土器の文様から興された野生の思考は、わが国の場合、確実に近代まで連なっていたことが見通されてきた。それは別に行っている古語の分析作業からも明確に言えるようになってきているのであるが、そうしたいま、『夜語り』を終えた後の新たな構想も見え隠れしはじめている。
07.11.30より
記録映画監督 浅野辰雄氏のこと
16mmフィルムで撮影された、モノクロームの力強い映像がスクリーンに映し出されている。『号笛なりやまず』1948年制作。昨年9月15日、90歳で浅野氏が亡くなられ、今日偲ぶ会が催された。
新宿駅から南西へ10分ほど歩いたところに小さな、しかし五階建てのビルがある。わたしは当初この場所を見つけられずに、下った坂の反対側を上り詰めて行き過ぎたことを知った。
周囲は甲州街道裏通りの商店、事務所、住宅が入り混じる地帯だが、それらを取り去った地形をイメージすると、起伏激しく、甲州街道から見渡せばかなり深い谷の底辺りということになるが、そこに建つビルの4階日本記録映画作家協会事務所が浅野氏を偲ぶ会場であった。
狭い階段を幾度も折り返し、表札を確認してからドアをノックして開けると、そこに金子君の姿が見えた。
もう18年ほど前のことになる、古民家の解体にともなう記録映画の撮影を行うとのことで、地域の歴史を聞きに来られ、はじめて浅野さんと知り合った。わたしにしてみれば、当時70を過ぎていた年令から垣間見えるその人の人生観、函館にいたことがあるということ地域観、それにも増して刻々と感じとれる仕事に対する情熱観から、浅野さんを大好きになるまでに時間はいらなかった。
年令の開きは大きくあるが、お酒を介した話に開きは無く、それはわたしにとり実家へ帰り明治40年生まれの父と話すとき、また明治38年生まれの北海道の恩師峰山先生と話した日を想い出させ、明日にやる気を起こさせる誠に心地よい時間を与えてくれていた。
あるときこんなことがあった。はじめてお会いするカメラマンを交える席で、わたしは、滔々と地域の歴史を話していたらしいが、そこへ突如カメラマンが「あんた、しゃべり過ぎなんだよ。そんなもん全部できるわけないじゃないか!」わたしがキョトンとしている間に浅野さんが間髪をいれずに互いを割ってくれた。それも
「○○君はいいの! 彼はね、我々が知らないことをだね、できるだけ話そうとしているだけ。全部(映像へ)入れろと言ってんじゃないんだよ。我々にとってね、こんなにありがたいことはないよ、君もそう思うだろ」
と、短い言葉のなかで、カメラマンの気持ちを元の鞘へ収めさせ「そうでしたか、すいませんでした」と、その一旦は激高した意識をみごとに逆回転させてしまったのである。このときはありがたかった、と同時にわたしの性格を見抜き、受けとめてくれていたことに驚かされ、感謝した。
こんなこともあり、浅野さんが見えられる日はいつも楽しみだった。戦前、戦中など歴史のはなし、記録映画のはなし、古民家のはなし等々。
やがて、二つの記録映画の仕事を終え、浅野さんとは15年ほどお会いしてはいなかった。その間、わたしは縄文時代の遺跡発掘調査や古民家の調査に忙殺されていたが、浅野氏と、そしてもう一人ここでは紹介していないが都留氏という二人の映画監督と知り合えたことで、それぞれにビデオカメラによる記録を撮りつづけることができ、現在ではその素材長は30時間を越えるまでに及んでいる。
いずれ、インターネットが大容量時代を迎えたとき、浅野氏と都留氏から学ばせていただいたことを現しながら、映像による歴史記録を子どもたちへ配信していきたいと考えている。
浅野氏を偲ぶ会場に、映画のラストを締めくくる機関車の号笛が鳴り響く。わたしは浅野さんを忘れないし、もう会えないとも想ってはいない。わたしの映像記録はDVDへの写し替えをすでに終了させている。もうすぐ配信のための準備をはじめるが、そのとき一人で作業をつづけるわたしの意識に、浅野さんはきっと現れてくれるはずだ。多くのアドバイスを持って。
2007.3.10より
現代建築
わたしは酒場が好きだ。
おふくろが亡くなった28のときから出歩きはじめたが、酒はそれほど強くないし、食道楽の気質もない。したがって大衆酒場のカウンターで一人で飲むのは苦手で、必然的に多少でも話のできるスナックへと足が向く。しかし、若い娘さんのいる店は好まない。若いころに発掘現場で暮らしていたわたしには、ファッションや車など流行にかかわる話はできない。だから干支の廻りを五回りも六回りも重ねたママさんの切り盛りする、どこか時代から切り離された雰囲気のある店が好きで、過去の二軒は店を閉じるまでそれぞれ10年以上も通っていたが、今行きつけている店も例外ではなさそうだ。
その店へ、新年の挨拶かたがた飲みに行った帰りのバスの中、休日なのに仕事帰りのサラリーマン風の、年のころは30後半であろうか、男の人がわたしの横にすわった。書類ケースから何か取り出して見ているので、わたしの眼も自然にそちらへ向き「住宅の買い替えに伴う特例」という表題を読みとってしまった。すぐ連想されたのはあるマンションのこと。
その大型マンションは自転車で通勤する途中に建設されたもので、入居が開始すると間もなく、突然と足場組みがはじまり、緑の工事用ネットを張り巡らせたところからみて、どうやら外壁や窓等に欠陥があったらしい。その後数ヶ月して、違法設計による欠陥マンションが社会問題として現れてきた。
そんなことを思っていたら、隣の人はケースに書類を納め、次のバス停で降りる様子。そこはまさに連想していたマンションに最も近いバス停だ。このことで連想の確率は一気に70パーセントへ高まる。
バスから降り.る男の人、その暗がりの中を歩き出す姿を車窓から後手に追いながら、ある記憶がよみがえる。それは、博物館に寄贈された大正時代の建築の専門書である。本棚の隅で寝かされていたのであろう、その古びた表紙をめくると、セピア色をした重厚な洋風建築の写真とともに戸建て住宅の設計図や計算式が現れた。文章を読まずとも、そこに描かれた平面図から、従来の和風建築に洋風で機能的な生活スタイルを導入しようとしていることが判読された。近代的でモダンな建築構造、それを一般家庭に普及させようとする建築技師の熱い思いが伝わってきた。
読み進むうちに見えてきたもの、それは
・土地に建物の位置を合わせてはいないこと
・自然環境に配慮し、そこで永年暮らすことに
なる住まう人の側から建物の構造を考えてい
ること
先年発掘調査を終えた土地に建設された住宅群は、道路を方形に巡らせ、それを挟むよう住宅を配置したために玄関がすべで道路側を向き、東西南北いかようにも建物を配置させていた。このような状況では、日当たりなど初手から設計者の眼中になかったことは明らかである。
それに引換えこの書の中では、年間の陽光の角度と範囲、月ごとの温度や雨量さえも導入し、建物の方位設定にはじまり、縁側のひさしの角度と長さ、通風のための床下の高さ等を算出しているのである。なんと人間味を感じさせる設計であろうか。
わたしの勤務していた博物館は、建築当初から天井の採光部から雨漏りがあり、梅雨時など室内が蒸しても外気温が低いと空調が効かず、窓を開けようにもひさしがないので吹き込む雨でそれもできない。だが、有名な建築賞はいただいている。
開館して何年も雨漏り補修のために建築会社の方が訪れていたが、一向に直る気配はなかった。そのようななかで年配の担当の方と心が通ずるようになり、こんな話を聞いた。「建築屋が直接図面引けばこんなことはないんですがねぇ。設計だけ専門にする会社の人は自由だから、いつも泣くのはこちら側ですよ…」また、消防署の人からも次のようなことを聞いた。「こういう天井の複雑な建物は危険なんですよ。火災のとき天窓から消防隊員が落下することもあるので…」
その後10年以上過ぎ、台風の去った晴天の日、屋上が乾燥しているのを見計らい「雨漏りのする隙間に入れ」とばかりに仕事で使う樹脂系の接着剤の水溶液を大量に撒いたのだが、その方法が的中し、雨漏りの事件に自らの手で終止符を打つことができた。
フランスやイタリアへ留学し、わが国の現代建築を担ってきた設計者。彼らはバブルの時期にその習得した専門用語を駆使して公的な施設の建設を任され、潤沢な資金とともに自らの発想を高めてきたはず。しかし、その一つひとつは名を馳せるための実験材料でもあるかのように使われたのではないか、という疑問がわたしの胸に湧き起きたときである。
東京の椿山荘から見渡せる、わが国のカトリック教会を束ねる最高峰の教会。建築してまだ日は浅く、最先端の磨き上げたコンクリートの壁面をもつその建物さえも、いま数億の補修費に信仰篤き人々が胸を痛めているという現実。過去のこととして設計者側に建設会社への責任転嫁があるとすれば、それはわが国の建築にかかわる思想を脆弱なものへと導くであろう。
わたしの眼に焼き付けられた、「買い替えの特例」という書類を持ち暗がりの家路を急ぐ男の姿。そして大正時代の建築書。 バスを停車させていた信号が青にかわった。 それと同時にエーリッヒ・ノイマン著「意識の起源史」の巻頭に掲げられたゲーテのはき捨てるように言い放つ『西東詩集』の一節が脳裏を切った。
三千年の歴史から
学ぶことのできぬものは、
無知のまま闇にとどまり、
その日暮をするがよい。
わたしも、暗がりに消えた男も、この時代に何かを突きつけられていることを感じている。悩む者は無知ではないはずだ。バスがシューという油圧ポンプの音をたてて停車した。ここは、時代の流れからわたしを降ろしてくれる停車場でもある。
2007.1.7より
魂の行方
2週間ほどもWeb雑記を休止していた。それは翌月の10月15日、百歳を迎えるはずの義父の死を家族で看取っていたことによる。
縄文中期の神秘なる土器文様を追ってきたわたしにとり、野塩前原東遺跡での墓域調査以来、死については深く考えつづけていた。
4年前、義父と同い年の明治40年生まれの実父を失ったとき、実家の座敷に安置された父に寄り添い、二昼夜レヴィ=ストロースの『野生の思考』を読みつづけていた。
「死は、その魂に何をもたらしているのか。そして残されたものに何をもたらすのか」
それを、原初の野生の思考の中で考えたかったのである。
2007年9月21日、そろそろ仕事を終え、帰り仕度をはじめようかと思っていたころ、廃校の作業場にけたたましい電話の電子音が響きわたった。
いつか、そうしたことが起こると思っていた。電話口の妻の声。そう思ってはいても、とり止めのない刹那さが身を包む。家にもどると、団地の階段前に妻の自転車がある。妻は病院から一度もどったうえで、義父の容態の急変を告げる電話を受け、病院へ急ぎ向かったらしい。
夕餉の、買い物袋に入れ置かれた葱を横目に、子どもの居場所へ電話を入れた後、帰り来るのを待つ。その間、遠方の年老いた義母へも連絡を入れ、火元と戸締りの確認をうながし、転ばぬよう気を付けてタクシーで病院へ向かうよう話す。
わたしと子どもは、18時半ごろ病院へ着く。
父に付き添う妻。
父は90歳を越えてもかくしゃくとしていた。幼いころ両親を失い、新聞の広告で募集していたアテネフランセの書生となる。その清貧のゆえに、誰にも負けぬ自己研鑽によりフランス語を習得。後にアテネフランセの教師となり、戦後の東京裁判においては、通訳として東条英機の特徴あるかぶろ を後ろの席から確認もしている。フランス大使館の政治向きの翻訳、国際基督教大学の教師を勤め、晩年はヨーロッパの古代・中世史を原書の翻訳の中で楽しんでいた。
4年ほど前、父は国立博物館で開催されていた「雪舟展」へ足を向けた。向学心の弱まりは年齢にはあらず、父にとっては老いて益々のこと。しかし、社会意識の貧困が、長蛇の列に加わる父を脅かし、それが体調の崩れとなって現れ、手術を経て闘病生活へと入った。
しかし、父の意識には「敬服」の二字をもって以外、表しえないほどのものがあった。教会系の病院へ転院し、環境が落ち着くと、新聞を契約させ、毎日病室のベッド上で世界の動きを読み解いていたのである。
90歳を過ぎてからも、単身、誰の手も煩わせずフランスの空気を吸いに出かけていた父。それができずとも、一畳足らずのベッドの上で、新聞を通して世界を旅していたことと思う。父は夜遅くまで机に向かう仕事をつづけてきた。この誰もが耐えようとして耐えられぬ狭きベッドの空間が、父には、それまでの永きにわたる勉学意識の鍛錬により、乗り越えられていたように思う。
今年に入り、父には、夢と現実の境界が薄らいできていた。毎日、病院へ見舞に行く妻から、ときどきのこととして
「地震に遭った」「アテネフランセへ行って来た」
さらに、
「死ぬので、誰かが迎えに来るようだ」
などと言われたことが、わたしに伝えられた。
しかし地震は、確実に新聞の記事からの連想であった。新聞記事を読んだ心象が、関東大震災の自らの記憶を呼び覚まし、いまの情景のものとして夢で結びとめたものに相違ない。夢と現実の境界の薄らぎが、父にこうした現実のものとしての実感を与えているのだと思った。そのことが理解されたとき、単なる認知症ではない、意識の混濁なのだと妻に話し、強く否定する外側からの見方が、本人には混濁を深めることになるであろうから、それを避けるようにと話し合った。
アテネフランセへ行ったことも、そのころアテネフランセにかかわる人の書いた本の広告が、日々に届く新聞に掲載されていたことによるものと思われる。
そのころ、父は実際に立ち上がって歩くことなどはできなかった。そうした実際の状態認識が薄らいでいることは確かだが、昼夜のベッドでの生活が意識の混濁を起こしているとするなら、誰が意識上に起きた現実を否定できよう。むしろ、家人が穏やかにそれを受け入れることこそが、混濁から緩やかに意識を回復させることに連なるものと考えたのである。
父の意識は、こうして混濁と現実、意識と無意識の世界を彷徨っていたように思う。父のそれは絶対的な無意識に入り込んだ認知症ではない。命の尊厳を自らが保とうとしていたことにほかならない。
20時近くなって、母が到着した。しばらくして、神父様が参られ、病を乗り越えるお祈りを捧げてくれた。
父の意識は遠のいてはいるが、呼吸は激しく、強い。母も高齢であるから、わたしが病室へ残り、家族は自宅へもどる。
その夜、わたしは怖かった。死に向かう父の、その激しい呼吸。その機械的な呼吸が、父のかすかな意識により引き起こされる口元の動きにより、閉じたときに起こる
「プハァー,プハァー」
という呼吸音への変調となって現れ、また病室の外のナースステーション前の通路に出された、脈と呼吸の振幅を測定する機械から発せられる
「ピーッ、ピーッ、ピーッ…」
という測定音の、わずかな変調が怖かったのである。
気を紛らわせるため、病室に置かれていた父の愛用する国語辞書をたどりながら、幾度も父の顔に近づくなかで、時は刻まれていった。
さまざまなことを想いだす。
嫁姑の因習の中で、臨終を間近にしたわたしの祖母が「お前はいい嫁だった」と母に告げ、二人で手を取り合っている姿をわずかな戸の隙間から垣間見た高校生のとき。その母が癌に侵され、寝泊りする発掘現場の公衆電話の近くに布団を引いて連絡を待っていた28歳のとき。
そのときは休み番で自宅にもどっていた。
「おかあちゃんがもう駄目みたいだよ」
という姉の声で起こされ、最後の呼吸の止まるのを家族全員で看取ったときのこと。
90歳を過ぎてからも、毎月のように一人で温泉へ出かけていた実父が、旅先の常宿にしていた旅館で倒れ、その地の病院で、家族が到着するのを待つかのように亡くなり、その父の遺骸が実家へもどり着いたときのこと…
わたしは、いまここに居る。
午前3時過ぎ、父の呼吸は安定しだす。それは意識の遥かに遠ざかった機械的な呼吸領域へ入ったことによるものと思えた。わたしは窓際の椅子へ移り、目を通していた国語辞書が、いつしか父の書き残したローマ史の翻訳の綴りへと向かっていた。
綴りといっても、昔かたぎの几帳面な父のことであるから、新聞広告の裏白を使って書かれた原稿で、その量は半端なものではない。その中から手紙の下書きが目に入った。
父は怒るかもしれない。しかしそれを読むわたしには、文面を読み進むほどに父の意識がなだれ込み、それと同時に病室に伝わる荒い呼吸音のうちに、言うに言われぬ、平穏な、そして何がしかの力強い心的な領域が満ちてきたのを覚えている。
これが意識の同時化、シンクロナイズではなかろうか。たぶん、父さんの文面から、その意識に、わたしの意識の歯車が噛み合ったことによる現れと思え、唐突だが、このとき芥川龍之介の網膜を脅かした歯車の正体が、自己意識の象徴としての誰もが受けることのできなかった、孤独な空回りする無数の歯車であることが見通されてきた。
父さんの長い闘病生活は、一人きりの娘そして孫と居る時間を、普通の生活では考えられぬほどに濃密に持たせてくれた。父さんの意識の歯車は、決して孤独ではなかったと思う。家族の皆としっかりと噛み合っている。いま、この場においても。
薄らぐ父さんの魂が、いま何処にあるのかはわからぬ。しかし、荒い呼吸により、いまだ強くここにとどまっていることは確信できる。
翻訳原稿から目を離し、カーテンを引き、わずかばかり窓を開けて明けはじめた外の空気を病室に入れ込む。その風は昨日を蘇生させるほどに感じられた。穏やかな呼吸の音づれ=訪れ。
昼間、家族と入れ替わりにわたしは自宅へ帰る。
夕方、病院へもどる。呼吸が安定しているため、付き添っていた家族を帰し、二日目の夜に入る。
昨日より、わずかではあるが呼吸が浅くなってきている。その傍らで、古語辞典を追う。このころから、父さんの生活を学究者として考えはじめていた。いつか見た「家族の肖像」という映画のラストシーンが漠然と想い起こされてくる。
人生のすべてを、翻訳を通し、調べ事の世界へ身を投じてきた父。わたしの実父は、宮内庁の営繕に長く勤め、園遊会の設営やら美智子様のドアノブも修理したことがあり、それより前、長野や、岩手に戦前の大林組の元で蚕糸工場などを建設してきた大工であるから、義父とは正反対に手先が器用である。
この明治40年生まれの二人の接点は、さらに前の大正時代の帝国図書館にある。実父は当時白木屋のメッセンジャーボーイをしていたが、若き向学心は、夜間も開けられていた帝国図書館へ向けられ、そこで世界四代小説など読んでいたという。
義父も夜間そこへ通っていたというから、一緒にいたことのあったことは疑いなかろう。その義父は、幼いころ、家具屋に居たというが、手先が器用ではないため、そこを出て、いろいろな職を経て、アテネフランセの創始者コット氏の書生募集広告に応募したという。器用不器用など問題ではない。双方ともに向学心は強く、そのことを想うにつけ、私自身の気持ちのあり様がいつもだらけ切っているように見え、歯がゆい。
穏やかさを増す病室の父の横で、古語辞典を開き、そこから野生の思考のあり方を求めようとするわたしに、どうか二人の父たちから年齢を無に帰すほどの向学心を授けて欲しいと願い、文字を追う。
縄文土器に描きとどめられた文様の意味。そこから興された最終章がこの古語辞典に収録された一つひとつの言葉の広がりのうちに潜んでいるはず。いまは失われた野生の思考が。
「とんでもないことだ。父の死を目前にして、何ということだ」
そうした声は聞こえてこない。そればかりか、病室全体が異常な緊迫感をもって、古語の意識世界へ向かっているように思えてきていた。亡き実父が語り、亡き母が語り、亡き祖母がかたり、病室の父さえも語りはじめている。古語の単音に凝縮された根源的意味世界。
記憶と、この場の現実が、意識の歯車を巨大なものへと構築し、野生の思考の中へわたしを誘ってくれるような、強いシンクロナイズが現れているように感じられる。
1時間ごとに顔を見せる看護婦さんは
「足を伸ばしてお休みください。何かあればナースステーションの方でも感知できますから」
と、二日目のわたしを気遣ってくれるが、わたしは父との意識の共有をもっと、もっと深めたかったのである。父の魂が最後の強き光を発するこの場で…。
23日。二日目の開けの空が近づいた。また、少し窓を開け外気を呼び込んだ。
「みなが来るまで、もう少し頑張って」
と祈る。
8時ごろ家族が来て、10時ごろまで一緒してから家へもどる。
昨日と同じに16時少し前に家を出る。
三日目の夜が来た。
みなを送り出したあと、病室へもどり父の様子をひとしきり見た後、額に手を当て、父に重大なことを告げた。
「すみませんでした。父の亡くなったことを報告せずに…」
義父が病を患ったちょうどそのころ、わたしの実父が亡くなっていたのである。お互いに明治40年生まれとあって、会わずとも、双方元気でいることを何よりのことと思っていたのであるから、夫婦で話し合い、実父の死を義父夫婦に伝えることを控えていたのである。
もはや言葉では通じぬと思うから、義父の額に我が手を添え、ようく、ようく実父の亡くなっていることを謝罪とともに申し伝えた。いずれ行く魂の行方にはわたしの実父も、会うことのかなわなかった母や祖母も居る。安心して欲しいと祈る。
義父の暖かな額が、その意をきっと解してくれたと理解した。呼吸は穏やかさをさらに増していた。
19時過ぎ、何か、呼吸が一段と穏やかになってきたのを感じた。家に一度電話しておこうと、玄関口の横の公衆電話の前へ立つ。
「穏やかだから、心配しないでゆっくり休んで」
受話器を切ったとき、何か話そうと、引き延ばしていた自分の会話に気づき。なんでそんなことをしたのかと、小さな疑問を持った。
病室へもどる。何かが違う、呼吸がなんとなく穏やか過ぎる。父の横につき、しばらく目を離さずに入ると、呼吸が静かに止まり、またすぐに
「プハァ」
と深くなり、元の調子にもどった。しかし、呼吸の振幅は、また一段浅くなっている。
「もう待てない。もう躊躇しては駄目だ」
そんな気持ちが瞬間的に襲ってきた。
ナースステーションへ駆け出すが、二階の病室へ行っているのであろうか、呼びかけに返事が返ってこない。横の測定器の波形は限りなく水平に近づいている。もう一度病室へ駆けもどるが、小さな、いつ消えても不思議ではないような呼吸の動き。思い切り駆け出し、玄関近くの外来の窓口に行き、若い医者にその旨を告げる。急ぎ公衆電話へ向かい、家に居る家族へ至急来るように伝え、身をひるがえして病室へもどる
父の額に手を添え
「何も心配はありませんよ、もうすぐみんな来ますから」
と何度か祈り伝えるうちに、父の口元が大きく結ばれ、額に皺が浮き立った。
それが最後の息だった。すぐに額は元の平滑な状態へともどり、口元は緊張を緩めた。胸を圧すことも、人工呼吸することも、わたしにはできはしなかった。ただ耳元で
「父さんっ、父さんっ」
と呼ぶことしかできなかった。
数十秒であろうが、随分たって若い医者が来て、心肺は停止していますが、まだわずかに電気的な反応の残されていることが告げられた。その反応もすぐに止まるであろうと。
19時27分。父の最期の呼吸の一つまでを看取った。
わずかばかりして、家族全員が父の周囲に揃い、父の強き魂が、みなの意識の歯車に合一した。
いま、わたしは、父が最期に遺した「聖 アウグスティヌス」の翻訳文を夜毎まとめている。翻訳にもかかわらず、新聞広告の裏白に書き連ねられた自筆の文字から、さまざまな想いが伝わってくる。父の魂は、ここにあるのだと思うほどに。そしてそれは、ヨーロッパの古代末期の民衆意識を映し出し、カトリックの信仰の礎となる思想をも解くものとして、わたしの野生の思考へ向かう道筋をつけてくれているように思える。
父は、わたしたち家族に、その身をもって人生最大の思想という要を与えてくれた。ここに書き表した文言は、その父、青山清松に捧げる、わたしたち家族の諷誦文である。
2007.9.30より
意識のシンクロナイズ
末期(まつご)の一息を看取った義父の死。その数日前からの夜間の付き添いにおいて、わたしは義父の私文に触れることで強い意識の同時化(シンクロナイズ)を経験した(Web雑記75)。
これは直接に、何かを見た、何かを聞いた、ということではない。すべてが心的作用として表れ、直面している心配や不安、苦悩が引き潮のように薄らぎ、満たされた心地よい、情景として例えれば陽光を受けてきらめきをもつ細砂、その暖かな砂浜が現れたような開放的で淀みの無い空間、とでも言うような感覚が心のうちに起こったのである。
もとより、このときの心配や不安、苦悩は、父の容態の負の心理状態に極まっていたのであるから、それを払拭するものとなれば、負を正の状態に変換する、父への何がしかの思いと言うことになる。そしてそれが父の私文で引き起こされたとすれば、このときすでに意識を失い機械呼吸となっていたにもかかわらず、その私文を読むことにおいて父の直接の声を聞いた状態が心的に作り出され、わたしの閉塞した心に多大な影響を及ぼしたということになる。
これは手紙の下書きという、父の思いを直接に読み取れる文章体であったことが、わたしに理解力を深めさせ、こうしたシンクロナイズをもたらしたものと思われるが、わたし自身の理解が深ければ、長年父が使用していた木製の杖や帽子を見ただけでも、それは起こり得たもののように思われる。
このことの意味は大きい。それはイギリスの人類学者フレーザーがかつて提起した、感染呪術と類感呪術の、後者にかかわる極めて近しい心的作用が現れていたということになり、さまざまな宗教体験を、その心的作用の内なるもののなかから理解する糸口が潜んでいるように思える。
話は少々変わるが、わたしは、発掘調査のリアルタイムの調査状況を『掘り出された聖文』と題する書をもって記録するため、5年以上にわたり、注意深く自己意識を見つめてきた。その過程で、通常見過ごしてしまうような事柄のうちに、不可思議な意識のシンクロナイズの隠されていたことを知った。
それは、発掘調査において、ある現象を確認したのが1999年12月18日。それを『掘り出された聖文』において書いていたのが2003年12月18日。さらに、640頁を超える膨大な記録の下書きを終え、その部分の文意の推敲へ入ったのが2004年12月18日。
この事実を知ったとき、偶然ではすまない何かを感じた。人間社会において、唯一絶対的基準たりえる「時」。そのなかで意識のシンクロナイズが起きているのである。
世間では、体内時計というと、起床や食事など、おおよそ24時間内のものとして意識されている。しかしわたしは、開発にともなう期間の決められた発掘調査において、一ヶ月、三ヶ月、一年、最長で八年という先を見通し、それぞれの完了日に標準を合わせて仕事を組み上げてきたが、そうしたなかで偶発的なことは除き、内容を落すこと無しにそれを成し遂げてきた。
毎回、終わってみれば完了日によく合わせられたな、と思うだけで次の仕事へ移行し、それを意識せぬままに過ぎてきたが、こうして改めて考えれば、そうした調整能力の多くが若さに任せた夜間の作業で発揮されていたとしても、根底に目的を意識し、それを思いつづける事で、何らかの長期的体内時計を働かせる能力が引き出されていたように思える。
だが、そうしたことがあったとしても、期間的制約のなかった『掘り出された聖文』の執筆作業における二度のシンクロナイズは理解できない。
最初に発掘現場で確認した事象、その記憶は、単なる直接的な現象の記憶だけではなしに、無意識に草木、風、陽などの細かな情景をともない、気候的変節の中などで、限定された固有の記憶素として認識されていたのであろうか。そしてそれが、秋の深まりとともに水分の吸い上げを滞らせ、カサカサと鳴りはじめた樹木の葉音。また、気温の低下とともに高まり行く空の心象。そうした、微妙な体感情報が心の無意識の記憶領域に働きかけ、やがてそうした複数の刺激が記憶回路を彷徨いだし、それらに包み込まれた、まったく一致する過去の固有の記憶を蘇らせたのであろうか。
「今日こんなことがあった。こんなことに気がついた」
と普段何気に意識する事柄の中に、月日を同じくする、過去の記憶から呼び覚まされたシンクロナイズするものの現れていることは、充分考えられる。
楽しいこと、辛いこと、それぞれに閉塞した意識へ入り込んだとき、夢という無意識の領域からの働きかけが逆作用し、意識の平静を保つ。あるいは、その意識の平静に、長期的体内時計による覚醒時の記憶のシンクロナイズもかかわっているのであろうか。
義父の死を直前にして現れた平穏な気持ち。それは、本来夢の中に構築された無意識の領域で体感する状態と思え、それを脱してまでも等質な感覚が覚醒時に生じたことが、極限的精神下に現れる、歴史に記録された数多くの宗教体験のあり方に通ずるものではないかと、いま振り返っているのだが……
2007.10.4より
意識のシンクロナイズ(続)
Web雑記N075.76で話してきた、意識のシンクロナイズについて新たに加わった事実がある。
わたしは数日間、夜中、義父の書き残した仏書『聖 アウグスティヌス』の翻訳原稿の入力をつづけている。明治40年に生まれた義父の、広告の裏白につづられた書き馴れた走り書きであるから、横書きとはいえ江戸時代の古文書に近い風格があり、また今日では表しがたい威厳ある用語使いも含まれている。
そうした原稿であるから、翻訳原稿とはいえ、さらにわたし自身がその文字をもう一度翻訳するような操作を経て、パソコンに入力しているが、昨日その作業を見ていた妻が
「よくわかるわね」
と言った、その言葉に正直「はっと」なった。
わたしは、学芸員としての長年の仕事の中で、必要に迫られて門外漢ではあるが江戸時代の古文書を少々読めるようになっている。もとより独学の我流であるから、平仮名や定型化したものなどはほぼ読みこなすが、複雑なものになると文意を追えるていどで、とても正確な読解などはできない。なかでも明治以降の日記や手紙文となると、個人の癖が前面に出て、江戸時代では考えられぬほどに文字の崩し方が多様化しているので、半分も訳せれば上々。
これがわたしの隠すことの無い実力である。しかし、何ということであろう、この父の遺した原稿に関しては、病室で一見したときから、辞書引きもせずにほとんど読みこなせていたのである。そうしたことがあり、何の違和感も感じずに、この膨大な原稿の整理を思いたち、躊躇もせずにすんなりと作業へ入り込んだのであるが、その作業スピードは平常の印刷物を読みながら入力するのに等しいほどの状態が保たれていた。
ところが、「よくわかるわね」という一言で我に返ってみると、わたしのこれまでの実力からして、こんなにすらすらと読めるはずは無い。しかも、これら原稿の題材がヨーロッパ史にかかわることであるから、そのような歴史知識は高校時代の授業で習ったていどのことで、それも40年近くも前のことであるからほとんど消えうせている。
事前の学習も無しに、言い換えれば、読もうとする崩し字の前後の文脈から連想させる、歴史的な知識もないままに読みこなせることの不可思議さに、このときの妻の一言ではじめて気付いたのである。
以前、ある古老の書き残した原稿を下に、地域の近代史を市民向けの読み物として復元していたとき、それは本ホームページにPDF版として掲載している『耘(くさぎ)る』であるが、その原稿を残した古老の語り口として地域史を表そうと考えていたことがある。だが、それは考古学を専攻してきたわたしにとり、多大な努力を強い、壁に突き当たるたびに夜な夜な、その古老が我が身へ
「のり移れ、のり移れ」
と念じるほどであった。ほかの人から見れば馬鹿なような話だが、その親子三代にわたる50幾枚かの原稿用紙に綴られた文を、通史に導入し、地域史として復元するには、すでに他界しているその古老にまだまだ語ってもらわねばならなかったし、また同じ時代を生きていた身近な実父の姿もその古老に投影して考えることも必要だった。
そうしたことで、当時のわたしの抱いていたイメージは、わたし自身が恐山の「いたこ」のような巫女の状態を創り出せれば、近代史に埋もれた、歴史的真実の声を書き表すことができるのではと、悩めば悩むほどにそれほどに馬鹿げたことが頭に浮かんできていたのである。
しかし、今日それを想いだすにつけ、それは間違いではなかったと確信する。歴史を書き表すのに、現代からの一方的なアプローチでは、ことの重要性に気がつかぬままに欠落させてしまう事象や、またことのほか記録に直接に残され難い民衆の意識を掘り起こすことも、できないと考えるからだ。
義父を想うこと。それは亡き実父や実母を指向し、やがて仕事上で知りえた資料上に現れる古老らをも包み込む意識領域を創出。それがわたしの潜在能力を高め、難解と思える文字を難なく通読させているように感じている。
その作業においては、文字を追うわたしの心がいつしか義父の声を呼び寄せ、穏やかさに包み込まれる満ち足りた意識空間を招き入れるのだが、そこにわたしは意識のシンクロナイズの顕現していることを確認するのである。
2007.10.5より