はじめに
2019年11月2日より24日に、清瀬市郷土博物館で実施した企画展「柳瀬川縄文ロマン展」は、SNSの世界を駆け巡り、数多くの物議をかもした。
その多くの意見は「1メートル歩くのに⒈時間かかった」「狂っている」「難しい」。遠方や会期が終了して閲覧できなかった方々も含め、こうした記事が、いわゆる〈コピペ〉により拡散。ついには、子供のころからの「土器の文様は、なにをあらわしているの?」という純粋な気持から興し、土器文様に籠められた崇高な縄文的精神世界を知っていただこうとした展示は、携帯世代の若者を中心に「理解できない」展示との刻印を次々に押されたまま、いまだインターネットの世界で増殖している。
そこで、この世間を騒がせた、土器文様にかかわる展示を首謀した者として、企画展への経緯の詳細を明かし、何十年か後に顕れるであろう縄文の文様世界を、その野生の思考から解き明かそうとする若き学究者への踏石として遺しておくこととする。
発端
私が、土器の文様にはじめて魅せられたのは1963年のこと。そして、本格的に文様の解読作業へ入ったのが野塩外山遺跡の整理段階であった1995年。それは、未曽有の被害に見舞われた、阪神淡路大震災に始まる。
その渦中、震災で被災した児童の精神状態を推し量ろうと、あるカウンセラーが児童に絵を描かせていた報道があった。この情景が「絵画で心理状態が解析できるなら、土器文様も解読できる」という直感を私に与えてくれた。
いまとて、さほど変わりはないが、当時の考古学研究者の多くには「土器文様から数千年前の縄文時代の意識など、わかろうはずもない」という観念があり、土器文様は、その変化を推し測り、新旧の序列を組み上げた時間差を知るための編年を構築するための手段として研究されてきていた。そして、それこそが主観に左右されぬ、考古学者としての王道の研究であると。
そうしたなか、文様自体の研究もあった。だが、「ヘビ」「イノシシ」「カエル」等々、現代人にも造形的に判読できそうなものを観察対象とし、他の多くの幾何学的文様は、云わば置き去りにされていた感が強い。
これを読み進めている方々に、考えていただきたいことがある。それは、もしある造形表現が真に「ヘビ」であったとしても、縄文世界における「ヘビ」に与えられていた概念が分からねば、現代人の感覚で直接に推し量っただけで縄文人の意識を知り得てはいない、ということを。
江戸時代や少し前の古老であれば、安珍清姫の物語を通し、「ヘビ」は「女の情念」を映し出し、形なれば「三角」が蛇の鱗を連想させ、これも「女の情念」をイマージュするまでに高まることもある。
野塩外山遺跡から出土した、膨大な量の中期縄文式土器。その復元個体を実測しながら、高まっていった不可思議な土器文様に表わされた意識世界。この深淵なる意識世界へ、私を没入させたのは、心理学者C・G・ユングの「人間と象徴 無意識の世界」(河合隼雄訳 1975年 河出書房新社)であった。その上下2巻の構成は、
Ⅰ.無意識の接近 Ⅱ.古代神話と現代人
Ⅲ.個性化の過程
Ⅴ.個人分析における象徴
そこには、考古学では知りえなかった、豊かな、人間性を追求する視線がきずかれていて、まるでこれから進むべき遠くの自分を見通すように広がっていた。
この心理学への学問の垣根を、嵐のような勢いで超えた私が、次に出会ったのがユングに師事したE・ノイマンによる『意識の起源史
上・下』(林道義訳 1984・1985紀伊國屋書店)。そこには、書店の棚で漠然と本を探して流し見る私の眼が、射ぬかれたような驚きがともなっていた。
この書は衝撃的であった。ノイマンに「序文」を捧げたユングの言は、
「序文として一言書いて欲しいという著者の希望に、私は喜んで応じることにした。なぜならこのまれにみる労作は大いに私の意に叶ったからである。なにしろこの研究は、私がもし生まれ変われるものなら、自分の研究の《ばらばらになった身体》
─「手をつけたままでなげだしておいた」すべて─ を集め、整理し、まとまりをつけるべく取りかかっていたはずのまさにその仕事に取り組んでいるのである。」
世界神話を心理学的に解くこの書は、私が行なってきた野塩外山遺跡の諸種の情景を包み込み、「神話を構築する普遍的意識のなかに、確実に野塩外山遺跡の縄文人の意識も所属している」という観念を植え付けた。それは、私のなかでは、〈上巻
Ⅱ章太母 植物シンボル群と男根崇拝〉に極まり、まさにこの書に記されている現象が3号住居跡の埋没土中に、植物文をモチーフとした土器と石棒の共伴関係をもつ出土事例として展開していたのである(柳瀬川縄文ロマン展№28出品土器)。私は、この時点で考古学の垣根を超えた世界に、土器文様の意味を解読する方法論の構築に寄与する、膨大な研究上の蓄積のあることを確信した。
だが、時代が悪かった。1995年に、大事件へ至ったオオム真理教事件」が起きていたのである。
そうした世相のなか、「心理学」を言葉に云い出せば、「心理学で土器文様などわかるわけはない!」、その背後で「変な宗教団体に入って、かぶれでもしたのか」という空気が、私の周囲に淀みはじめた。このような状況であるから、心理学や哲学の研究者はどれほどに精神的苦痛をうけていたことであろう。この時代に「SNSがあったら」、と思うと恐怖にかられる。
「考古学には、学問の自由さなどない!」と嘆き、「俺は考古学を離れ、学問の垣根を滅した調査者として生きる」とも夜更けの闇へ叫んだ。
それからは、活字のなかでのユング氏やノイマン氏との対話を唯一の道しるべとし、ひたすら土器文様を観察する日々を重ね、文様解読への自問自答の世界に閉じこもった。
ユング氏の『元型論』 (林道義訳 1982年 紀伊國屋書店)、『続・元型論』 (林道義訳 1982年 紀伊國屋書店 ※1999年増補改訂版刊行)では、多摩地域の東村山市屋敷山遺跡やあきる野市二の宮森腰遺跡から出土している中期縄文土器の顔面把手の傷つく片眼の意味が、北欧神話に登場するオーディンとの対比から深く理解できた。さらに同氏の『転移の心理学』(林道義・磯上恵子訳 1994 みすず書房)、これは錬金術で対立物が結合する過程を、人間性を比喩として描いた特異な10枚の絵を題材に「個性化」という意識の発達を説いた書。直接に土器文様の究明とのかかわりは見い出せなかったが、シンボルを生み出す心的働きを解く本書は、おおいに土器文様を接する際の私の観察眼を養ってくれた。
なかでも、『元型論』には、太古の意識の解明にのぞんだ観察者としての、かけがえのない言葉が刻まれていた。
「未開人は驚くほど主観的なのであるから、神話が無意識の心の動きと関係をもっているに違いないと、真っ先に見当を付けてみるべきであったのだ。未開人の自然認識は、無意識的な内的人格(ゼ―レ)の動きが言葉になり、衣裳となって外に現われたものである。─中略─ 内的人格(ゼ―レ)が神話を生み出すようなあらゆるイメージを含んでいるということ、またわれわれの無意識が行為したり影響を受けたりする主体であり、それと同じドラマを未開人が大小の自然現象の中に発見したということに、誰も気づかなかったのである」
この言葉は、その後の土器文様の観察者としての私の心得を為し、現代的な思考を直接に過去へ及ぼして判断することの過ちを諭した。
1999年、清瀬での発掘調査は野塩前原遺跡へと進展していた。
この現場では、野塩外山遺跡から導入したビデオカメラによる遺構・遺物の記録化を継続するとともに、翌2000年の整理段階では、新たに土器文様の展開写真の技術を開発。
この展開写真は、土器実測図作成時の下図としても応用でき、実測図を作成しながら土器面を詳細に観察することを可能にした。そればかりか、異なる文様表現を構造別に分離し、例えば粘土紐による区画帯やモチーフと、その空間に埋め込む線描き部を分離して観察することもでき、文様構造を解明するために多大な威力を発揮した。
なお、この展開写真の開発には、誰が見てもわかりやすいことを前提とした、他学への資料提供という側面も重視していた。とりわけ、現状の見通しによる一面からの実測図、加えて沈線なのか隆線なのか輪郭をひと目で判読し難い実測表現では、縄文土器を実見しない他学の研究者には資料提供もままならない、と考えた上での技術開発でもあった。
そしてこのことには、過去の経験が役立った。下宿内山遺跡の膨大な陶磁器の文様を実測するにあたり、当時主流であったインクによるベタ塗りの報告書の表現を、文様の輪郭をビニール上に油性ペンで写し取り、トレッシングペーパー上で鉛筆をもって実物の濃淡を描く手法を開発。それが後に、考古学の報告書における陶磁器の実測表現として一般化したこと。
ところが、この思惑は見事に外れた。それから20年もの歳月が流れた今でさえ、パソコンソフトphotoshoをもちいた土器文様展開写真の手法は普及しなかった。依然として、スリット法で不足がないと満足する研究者の固定概念が立ちはだかっていた。
それを分析してみると、原因は他にもあった。考古学において画像処理の技術が立ち遅れ、製図に特化したIllustratorが主流となっていたからである。私は表現能力の高さから、作図にもphotoshoをもちいてきたが、こうした云わばビジュアルな展開写真による二次原図が無くしては、土器文様の解読は困難を極める。そこで、今回の「柳瀬川縄文ロマン展」に併設した講座で「土器文様展開写真の作り方」を設け、その技術の普及を願った理由がそこにある。
さて、この野塩前原遺跡の発掘調査以来、清瀬での開発は相次ぎ、2000年から翌年にかけて野塩前原遺跡の東側で3件の本調査がたて続けに起きた。それが野塩前原東遺跡の一次から三次にわたる調査である。
このころ、私の土器文様の探求を導く人は増え、心理学のユング氏のほか、人類学のC・レヴィ・ストロース氏が加わっていた。『野生の思考』(大橋保夫訳 1976 みすず書房)、『やきもち焼きの土器づくり』 (渡辺公三訳 1990年 みすず書房)、『構造人類学』(荒川幾男・川田順造
他 1972 みすず書房)。
さらに、記号学のパース氏、言語学のチョムスキー氏、漢文学者の白川静香氏、言語哲学者の佐藤信夫氏等々、異分野の方々が多数加わり、自分のなかでは、科学革命を起し、異種の学問分野が集う言語学の生成文法の研究のような状態が生じた。これを従来の考古学から俯瞰すれば、絵画で云うならダダイズムの洗礼を受けた奔放さとして映し出されるに違いない。
それから2013年までの間、『野塩前原遺跡群』(2003年)の報告書を完成させ、これまでの発掘調査をリアルタイムで記録し、出土土器の文様解読の研究をまとめた『掘り出された聖文』(2005年)を仕上げ、一応の土器文様解読の到達点とした。
この土器文様の解読にかかわる論考は、研究誌に発表できる紙数を遥かに超え、インターネットを介してPDFで発信するより、手立てはなかった。もちろん出版社にもかけあったことはある。しかし、知名度の無い私を受け入れてくれる出版社はなかった。
こうして2013年、次なる日本書紀の編年の研究へ入るため、土器文様にかかわる人生最後の仕事と位置づけ、これまでの『掘り出された聖文』における最終の七・八・九章でおこなった論考─この三つの章は、刑事事件のローラー作戦のように、視点をかえて文様の系統を分析したもので、七章は文様構造からの分析、八章は図像的側面からの分析、九章は総括的分析─を整理し、新たな『中期縄文土器の文様構造』という論考を著した。当時の思いのなかには、考古学のなかでの私の孤立感を支え、日本での野生の思考を垣間見せてくれたユング氏やレヴィ・ストロース氏等々への感謝の意図がこめられていた。
展示へ
こうしてまた、長い歳月が流れた。私はすでに再雇用の期間も過ぎ、完全なるアルバイトとして博物館で働いていた。
2019年春、博物館の職員となった若き学芸員から「柳瀬川縄文ロマン展」の開催を告げられ、土器の展示を分担して欲しい旨を要望された。だが、私は断りつづけた。ただ土器を並べることでは、済まされなかったからである。
『掘り出された聖文』に実名で描かせてくれた多くの風雪を共にした作業員、そして私を導いてくれた海外の多くの研究者への想いを、展示をもって一般の方々へ届ける自信がなかったからである。しかし、たった一人の、若き学芸員の熱い視線は、強烈にして、私への研究の賛辞を武器に、遂に私の退路を断ってしまった。
そうなると、私の想いは逆転し、与えられた途轍もなく狭い展示スペースを前に、爆発をくり返した。
SNSのなかで、冷静にそのことを正確な言語で伝えてくれた人がいた。要約すれば「この展示の難解さは、スペースの狭さにより、書き表わされない膨大な学問的な蓄積が背後にあるのだろう」と。まさに、その通りである。この対極の意見に、本展示を「美術的な展示」と捉え、「だからこうした展示もありなのか」というものもあった。正直驚いた、通常の展示こそが「美術的展示」ではないのか。何故ならば、今回のように土器文様の分析を展示にまで伸張した展示はなかろう。
ところが、私がこの意見に驚いたように、他者から見れば今回の展示は「狂った」と映り、また(思い付きの)個人の研究を公立の博物館で行なうべきではない」との意見も頂戴した。
さてここで、こうした物議をかもした今回の展示手法を明示する。
それぞれの土器を前に悩んだのである。それは、先の『元型論』で述べたユング氏の「未開人は驚くほど主観的なのであるから…」という言。つまり、見学者が、勝坂式とか加曽利E式とか、現代の研究者が付した用語情報を指標とし、その範疇で土器文様を見ることを避けさせること。
このことに関してとった展示手法としての措置は、代表例をもって、毅然とした時系列の中でそれぞれの個体を配置して文様の流れを展示すること。その動線として置いたのが、壁面を走らせた時間軸を象徴するツルの意匠。
中心となる土器の個体別の展示は、見学者が観察しやすいよう、大人のやや低めの眼線の高さに固定。主要な土器に対しては、自動回転台を導入し、見学者の立ち位置で不動のまま器面全体の文様を観察できるように工夫。
展示計画者としての意図は、この実物の土器の配列だけを見ていけば、従来の展示での見学者の閲覧感覚は十分に満たすことができるものと位置付けた。
そのうえで、今回の展示では、見学者にさらなる観察欲を発揮していただかねばならぬので、それを起させる工夫が必要となった。だが、一気に解説を立て並べれば見学者の拒絶反応が起こることは目に見えていた。そこで、思いついたのが、高校受験などにもちいられる参考書の構成である。「【要点】何々」として述べる概要を用いる手法。それを応用し、年代、特徴的事項、象徴的文様を組み合わせ、土器列の観察を妨げない上段へ時系列をもって配置。また土器列の下方に展開写真を置き、さらに詳しく知りたい人のため文様構造のビジュアルな分析を配置。
つまり、見学者の観察力の在り方により、美術展から専門研究者の観察にも耐える状況を構築し、中段の実物個体の展示を中心に、上・下段の解説をとることにより、それぞれの思いのままに土器文様に特化して観察できる仕組みを構築したのである。したがって、先のSNS上での「美術的な展示」と捉えてくださった方がおられたことは、驚きとともに、存外うれしいことではあった。
さて、「階段からすでにヤバさがただよっていた」、というようにSNS上で評された階段部の展示である。
展示スペースの狭さから、清瀬で出土している土器の全貌を展示するができない。悩んだ末に思いついたのが、本来展示スペースではない部分の有効活用である。「実物ではないが、写真なら貼れる。しかも、一目で、現代とはかけ離れた縄文的意識世界の存在を…」と思った刹那、私の脳裏に飛来したものは、先に上げたユングの『元型論』にあった言葉「未開人は驚くほど主観的なのであるから、神話が無意識の心の動きと関係をもっているに違いないと、真っ先に見当を付けてみるべきであったのだ」。
この空間を活用すれば、「勝坂式」・「加曽利E式」などという先入観を一瞬にして打破し、そうした言語で区切ることもなく、連綿とした意識の発達の中で描き続けてきた縄文人の思考、その失われた自然と共生していた時代の「野生の思考」の存在を実感することができる。
それは現代人と異なる「思考」が、かつて存在していたことを実感させ、「現代人の思考が歴史を経て到達した至高のものなのであろうか」という問いを見学者に起させるには十分な衝撃性を有していた。さらに私は、そのことへ見学者の意識を向けるため、ある仕掛けをした。それは戦争への批判を、研究者の立場から発信していたユング氏やレヴィ・ストロース氏の啓示のように仕立て、メッセージとして展開写真の要所要所に配置したのである。「文様に意味はあるか!」「S形モチーフに唯一絶対神の観念は宿っているか」等々
SNSでは、この部分について、「挑発か」「S形モチーフに唯一絶対神の観念は宿っているかなど知るか」などと、強烈な感想が返ってきたが、本当にありがたかった。その見学者は、その実際の土器文様を誰よりも深く観察したであろうから。
私は見学者に、この特異になってしまった展示に戸惑わぬよう、観察視点を事前に送ったつもりでいたのだ。しかし、確かにこれは「挑発」と受け取られてもしかたなく、言葉づかいやその表現に反省すべきところはあった。不快に思われたのであれば、ここで謝罪したい。
さて、総括に入る。
これほどに反響を呼ぶとは思ってもいなかった。今回の展示は、私にとっては思い付きでなければ、ダダイズム的な考古学に対しての反動があったわけでもない。すでに縄文の研究からは身を引き、肩の荷も下ろして久しい。自分で土器文様の世界をとおして知ろうとしてきた「野生の思考」を究明する過程で制作してきた資料を公開しただけで、この展示のために新規に調べたものなどは一切ない。ある意味では、それほどに自分のなかで、問題点が諸学のなかで淘汰され、納得もし、理解していた研究結果なのである。それを公開した途端、これほどの現実とのギャップを生み出していたのかと、驚かされた。
かねてより思っていたこと。それは、世界に類をみない表現形態をもつ縄文の土器文様が、数千年前の人類の意識を、云わばフリーズドライしたように封じ込めた化石のような状態にあること。そしてそれは、口承で伝えられてきた神話よりも、直接的に太古の意識を伝える資料であること。つまり、心理学・人類学・言語学・記号学等の「野生の思考」にかかわる研究者にとり、このうえなき資料であること。
おわりに
今回の展示を実行した背景には、これら土器資料の重要性を各分野の専門研究者へ再認識していただくとともに、さらなる人間性への探求の深化を望む願いがこめられている。人類が、自然との共生を認識する感覚を失い、互いが争い、悲惨な世紀を迎えぬために。
『火あぶりにされたサンタクロース』の著者、C・レヴィ・ストロースに捧ぐ。
清瀬市郷土博物館 内田祐治
2019.12.22より