歴史読本       学芸員 内田祐治著作集TOPICS


          

離縁と勘当
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江戸近郊のある村での出来事

 わたしはダリと呼ばれる猫。闇が降りはじめた港区南青山の骨董通り界隈にいる。
 二三日前から、ジップが青山霊園の南側に何かの気配が強まっているというので、会社帰りの人並みを避けて裏通りを抜け、それを見に行く。ビル街から外苑西通りを駆け抜けて霊園内へ入り込むと、動くものなど無い、静まり返った領域が広がる。
 石造りの、西洋の廃墟を思わせる墓石の群れ。それを幾度も曲がりこむうちには都会の喧騒が遠のき、闇に包まれた人の死後の気配が満ちてくる。それを陽気とすれば、ジップが感じ取っていたのは陰気。苔むした墓石の脇を抜けたあたりから、少しばかりの陰気がひげに伝わってくる。
 墓の囲み石に身を隠し、陰気を発する彼方の気配をうかがう。すでに瞳孔は闇を見通せるように開き、耳も、周囲の音をひろうために機敏な動きをくり返す。
 気配は、墓石を越えた奥へ強まっているだけで、動いてはいない。
 ゆっくりとした差し足をくり返し、陰気の元へ近づく。
 老木の根。その葉を落とした、枝ばかりの太い幹に小さな虚が見え、それが何とも髑髏の竅穴を想い出させ、そこに陰気が強まっている。
 尾を下げ、前足を屈ませ、その陰気の淵へ意識をもぐり込ませる。
 野猫だ! それもかなり古い時代から発せられてくる陰気。
 後ろ足を折り、人間が見たら陽だまりでくつろぐ猫の態を現し、その野猫の残気へ同化を試みる。

 今夕は人の世界の三月十三日。陰気の導いたのは天保八年(1837)の同じ月日。だがこの世界では旧暦であるから二月七日と云うことになる。

 吾は、江戸近郊の農村に住み着く名を持たぬ野猫。
 今朝から雨が降りだし、午前九時ころからは大雨となる。そうしたことだから前日から名主屋敷の床下へ忍び込み、雨を避けていたが、未明に、たまり水を蹴散らすけたたましい足音が近づくと思う間もなく、それが大戸脇の戸を壊れんばかりにたたく音へと変わる。
 「お頼み申す、お頼み申す。関東御取締小池三郎殿よりの書付を持参にて」
 やがて脇戸が引かれ、人の顔とて見えぬ土間内の闇のなかで、蓑を着けたままに笠のみ紐を解いて下ろす男。
 土間境の座敷上がりの床下からのぞく吾の眼は、暗がりであろうとも、その男の仕草の一部始終が映し出されている。
 しばらくして家人がいろりの灰から火種を掘り出し、灯明に火をともして運び来る。
 男は、揺れる灯火のなかで雨に濡れた蓑をよけながら、懐から油紙に包む書状を取り出して主人へ手渡しながら、それが田無村の関東御取締小池三郎殿御用先への村役人の呼び出しであることを告げて雨中をもどっていった。
 書状を手にして奥の間へ向う名主。その床下へ伝わる足音を追い、吾も移動。
 名主は戸棚から書類箱を出し、付書院に座した脇へ置いたようだが、それからしばらくは何か悩む様子。
 下男を他の村役人宅へ遣わしていたから、そのうちには配下の組頭たちが集まってきて、事の次第がおぼろげながら分かってきた。
 悩んでいたのは、呼び出しの書状に人名の誤記があることのようだが、この事件の全貌、つぎのような経過をたどっている。
 村に、大勢の養い子を抱える家があった。
 主人の名は与七。二年前、その何番目かの息子の治平を、継嗣なき他村の家へ婿養子として縁組させていたらしい。ところが身持ちが不埒と云われるほどの態をあらわし、離縁に至る。しかも、昨年引受人の惣右衛門を介し、元親の与七へ差しもどされたにもかかわらず、今度は村を飛び出し、行方知れず。
 どうやらそのことで、家人ならびに村役人一同、当時の戸籍にあたる人別改書の記入にも困り果て、ついひと月ほど前の正月には、名主が親の与七と立会人を連れて判を押した書面を持参し、支配御役所へ申し立てて勘当という手続きに踏み切っていたらしい。その取調べが今日。
 しばらくして村役人らは、高齢の与七の代理としてせがれの源五郎を召し連れ、支配御役所へ向った。
 夜、雨はあがり、北風強まる。
 たまには干物の残り骨などくれる名主も、今日は出先で書類の清書を頼まれたとかで、ここへはもどらぬ様子。腹は減るが、野鼠一匹いない時節だから、座り流しから外へ流れ出る洗い水に紛れる汁気などなめて飢えをしのぐが、そうしたとき、村を飛び出た治平のことが想いやられる。 あの男、本当に不埒と云われるほどの悪態をついたのであろうか。
 婿養子として迎える側の期待、送り出す方の貧しさ。年が若ければ若いほどに、家へもどりたい気持ちがつのっていたのかもしれぬ。その心の弱さが離縁へと向わせ、親元へも帰れぬ事態をまねいたのではないか。
 猫といえども辛い世の中。
 前年まで、それは天保四年から七年(1833〜36)にかけてであるが、天候不順が毎年のように襲い来ていた。
 しかも年々深刻なものとなり、昨年秋の場合は、冬の暖かさという異変からはじまり、春を過ぎ夏といえども冷え冷えとした気候がつづき、秋には作物への甚大な被害を及ぼした。  
 飢える村人が増加し、それが年が明けてから作付けがはじまるまでの期間に怖ろしい情景をあらわしてきた。わずかばかりためこむ農作物を食い尽くした人々。そのあとは野枯れた大地から野草すら採ることもできぬ地獄の世界が広まる。
 そして、いまがそのとき。
 治平が親元へもどったとて、食い扶持を与えられることは無い。あの男の消えたわけも、そんなところにあるのだろう。なれば、治平は江戸へ向ったか……
 それから九日ばかり過ぎた十六日、この日も雨だった。
 御支配所から治平勘当の件につき、婿養子先で後家となった娘の名前が不詳であるから、明日人を遣わし名前をうけたまわるという伝言が名主のもとへ届く。
 さらに十日後の二十六日、御支配所から前日の日付をもって治平勘当願の認められたことが通知されてきた。
 翌日の朝、父親与七に代わり、せがれ源五郎が治平一件につき名主のもとへ謝礼に来た。
 それを床下で聴く吾には、息子を帳外へ置く、憔悴しきった父親の顔が映し出されている。飢饉さえなければ、借財に換えて土地を手放し小作に甘んじることも無かったであろうし、年若な息子を婿養子として出さずとも家内の働き手として農事にはげませることができたであろう。
 勘当、それは宗門人別帳という戸籍からの抹消を意味する。その帳外者となれば、もはや農村に生きるすべはない。諸国の民が流れ込む江戸、あるいは宿場。盗賊に身を落さずば、荷運びや諸職の下働きによる、日銭を稼ぎながらの生きる道しか残されてはいない。         2008年2月29日筆了


          
極窮民のこと

江戸近郊のある村での天保の飢饉

 その野猫は、まだ名主屋敷の床下に潜んでいる。よほど居心地がよいらしいが、それは機織に雇われる下女の一人に、ことのほか可愛がられているからのようだ。
 夜遅く機を打つ音が止む。
 下女の名は小夜。まだ縁付いたばかりであるが、夫と離れて住み込みの下女働き。外便所へ出る庭先で猫の鳴きまねをするのが合図だ。床下から、いつものように音もさせずに現れると、小夜は夕飯のわずかばかりの残し物を懐に忍ばせているから、それを与えてくれる。
 たいがいは頭など撫でながら、何やら話しかけてくる。少々わずらわしいが、その夜は少し違っていた。
 小夜は餌をくれるなりしゃがみ込み、じっと見つめているだけ。一握りも無きほどの粟の糅飯(菜ものなど混ぜた飯)を食べ終わり、頭をもたげると、何やら眼に光るものが浮いている様子。
 しばらく見つめられた後、頭を撫でられながら聞こえてきたもの、それは
 「おとうが、おとうが亡くなるかしんねぇ…」
 御支配所から治平勘当の知り調べが来た翌十七日、小夜の父親は亡くなった。
 無常とはいえ、名主は反物の織りあがるのを待ち、あわだたしく小夜を実家へは帰したものの、亭主には別に遣いを出し、このままに下女働きがつづけられるか相談に行かせもいた。
 その遣いの報告によるところ、母一人の畑仕事を手伝わなくてはと
 「実父死去につき、奉公相成り難し」
と名主はその夜の日記に書き留めている。
 こうして二日後、麦の一番作の畝間から顔を出す野猫にも気付かぬまま、視線を畑道へ深く落とし、小夜は去っていった。
 所帯を持つにもかかわらず、夫と別れ、住み込みで働かねばならなかった小夜。そして実父の死。それらは飢饉とは無関係ではなかろうと野猫は感じている。
 天明三年(1783)の全国規模の未曾有の飢饉以来、多摩地域では文化十三年(1816)、そして六年後の文政五年(1822)にも深刻な飢饉に見舞われていた。
 この文政五年の武州多摩郡上清戸村では、家数三十二軒で百十五名の村人のうち、たった十名を除く百五名もの村人が飢餓に苦しんでいたというが、天保期にはそれが常態化してきていた。
 野猫は小夜の夜毎の独り言をとおして知っていた、名主家の使用人の多さが豊かさを誇るものではないことを…
 飢饉となれば、農民は名主や組頭を頼り、田畑を担保に金を借りる。しかし返せるはずも無く、質として土地の所有権は流れる。当時、土地の売買は自由ではない。しかも税が村に一括して掛けられている。名主のもとに土地の所有権が寄っても、そこから生み出される税は払わねばならぬから土地を遊ばせておくことはできない。手放した農民を小作として耕作させるが、そこでの収量は検地によって定まっている。だから、平時は野猫の安息場としている庭の植え込みも、すでに大木を残して大方は取り払われ、前栽物(野菜)などの畑に変えられている。
 使用人の多さは、困窮する人々の働き口を少しでも増やすことと、こうした涙ぐましい畑の拡張によるもの。なんといっても、検地帳に上げられた「屋舗」には定率の税はあるものの収穫物までは想定されていないから、いうなれば隠し畑として、これは幕府も黙認せざるを得なかったわけだ。
 さて、そうした村人の困窮がつづくなか、年明けからはたびたび村役人たちの寄り合いがもたれ、小夜の実父が亡くなった日にも
 「村内極窮民救方」
と、名主がたびたび日記に表わす寄り合いが催されている。
 この日は、名主、組頭、百姓代と云われる村役人のほか、村内の主だった百姓衆も名主屋敷へ集まり、床下までも大きな声が聞こえてきていた。
 「名主さま、わしら一両ずつったって、これで仕舞いならいいが、そうとは限らねぇだんべ」
 「したがな、このままじゃ、素人乞食どころじゃ済まず、餓死人で溢れかえる。何とかあとふた月しのげば、一番作の収穫物が得られる」
 「だども名主さまよ、この時節の暖かさ、気にならねぇか。去年と同じに、冬場暖かく、また夏場に涼しげな陽気にたたられて凶作になるじゃあるめぇか。少しは銭の蓄えも…」
 名主にはこうなることが分かっていた。銭など誰も出したくは無い。だから、いろいろと考えを巡らしてきた案を皆の前へ出す。人を動かすには、まず自ら動かねばならぬという、信念の案。
 「そこでだ、おらほと(わたしと)組頭とで先に詰めさせていただいたが、身持ちよろしき者、おおよそ二十人を上中下三段になりとも分け、上は金二両っつ、中は一両、下は三分(一分=一両の四分の一)。それで大麦と稗を買い入れ、百人ほどを目安に割り渡し、三月と四月のふた月の手当てとする、という案じゃ。勿論お集まりの衆に余剰があれば、この資金にて買い入れるから、その分の銭は入ることになる。野たれる者をこの村から出しては、それぞれのご先祖様に申し開きができねぇ。どうかこの案、のんでくだされ」
 少しの静寂が床下へ伝わる。
 みな、「ご先祖様…」という名主の悲痛な叫びに、幾ばくかの勇気が現れたようで、先の不安をご先祖様の庇護に払しょくしていただき、話はまとまったようだ。
 月が明けて三月。
 四日、五日ごろ、集めた資金で村内の余剰穀物、大麦、小麦、粟、稗などの買い付けがはじまり、遠くは砂川へも人をやって大麦を買い出しているらしい。
 十三日、窮民への割り渡しが行われている。それは、一家の当主と長男を除き、主に老人と女・子どもを対象とし、一軒に対象者が一人の場合は一斗五升、二人以上の場合は、幾分か、やりくりも付け易かろうということで一人前一斗二升に減じている。
 みな、名主の役宅の式台の前で、村役人から御救米を授かる。周囲には立会人としてお金を出した者たちも居並び、村人の深々とこうべを下げる礼を受け、それを返す姿が長くつづく。
 やがて、青鼻を垂らし、やせこけた母の裾にしがみつきながら現れた子ども。その子どもが母の顔を仰ぎ見て問う。
 「今日、マンマ食えるのかえ…」
 野猫の眼は、階段状をなす式台の隙間の裏にある。そこから見通す先には、居並ぶ人々の顔がある。一同の胸内に押し寄せる熱きもの、それが飢饉にあって忘れ果てていた暖かな顔をつくり出しているのを野猫は感じ取っている。
 「そうだよ、マンマ食えるだよ」
 誰の胸にも、声にならぬ熱き思いが湧き上がっている。その列の奥に、やつれ果てた小夜の顔が見えた。             2008年3月4日筆了