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大塩平八郎の手配書
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江戸近郊の村への大塩平八郎の乱の伝わり方

 天保八年(1837)二月(1日は新暦3月7日)のありさま。その情況は名主の日記にこう記されている。
 「山方にて多分貯え候 野老(所沢市の語源ともなった野生の芋)、暖気なるにしたがい、苦味いで食し難く、二月に限り食物にはあい成るまじく、当節におよぶ飢渇難儀の者多きよし、このあたりにても、ことのほか難儀の者多く、素人乞食益々多し、十に八九人は女なり」
 
 野猫は小夜が去ったことで食に窮していた。わずかばかりの食物ではあったが、毎日のことであるから、それなりに食を心配せずともよかったが、それがそうもいかなくなった。
 血の奥に隠れる、山猫との交配の記憶が呼び覚まされ、夜中、竹やぶに潜む雉など襲うようになっていたが、それとて仲間同士の縄張り争いから傷つくこともあり、また雉も警戒心を増して山深くに移り住むから、おいそれとは食にあるつくことはできない。
 野猫のなかには、道端に野たれ死ぬ飢人の死肉さえむさぼるものが現れている。そうした猫は、遺恨のこもる死臭に精神を侵され、人間におぞましい意識を抱き、野良仕事でやむを得ず畑脇に置かれる幼子を襲ったりもするようになる。
 そうしたことだから、人の世も地獄の姿を見せはじめ、無慈悲な盗賊に身をやつす者も日に日に数を増す。
 あの、与七勘当の件で名主が呼び出された二月七日の大雨の朝。芝高輪町(港区)、それはいまダリがいる青山霊園から南へ3.5qの位置にあたるが、そこでとんでもない事件が起きた。
 京屋弥兵衛という商人から馬で附け出されたという、銀四五百両と金二十両入りの皮財布が強奪された。犯人は伊州(三重県西部)出生の馬士。盗み取って逃げ去ったことで、すぐさま道中御奉行所から下知がなされ、関東御取締役湯原秀助、原戸一郎殿より村々へ、見つけ次第取り押さえ報告するようにとの御達しの写し書きがめぐった。
 この騒動、ダリの所属する闇族の古き首領から伝えられてもいた。
 それによると馬士は高輪で付き人の不意を突いて殴りかかり、そのまま馬にまたがり逃走。いまの外苑西通りを北上して新宿へ入ったが、その途中、青山通りと交差する外苑前あたりに所在する青山氏の仏園であった長青山梅窓院あたりで馬を乗り捨て、何処やら手車を盗み取ってきて皮財布に薦(荒織のむしろ)掛けして新宿の人並みにまぎれたという。
 当時の闇族の首領は、ジップの属する暁族などにつなぎをとり、その一部始終を見据え、役人へ夜中の泣き声をもって潜伏先を知らせて捕縛に協力したと伝えられる。こうして馬士の召し捕らえられたのは事件から五日後の十二日。その日は彼岸の入りにあたり、地獄の釜が開いた日であったと云う。
 飢饉を背景に、江戸には諸国から流れ者が集まり犯罪が頻発。こうした大事件もさることながら、村内では昨年来より芋盗人が後を絶たず、四月の末(新暦5月末)には常人では到底食し難い芋の芽さえ掻き食らうありさま。
 つい先だっても油菜を摘み盗む事件があったが、世間にまん延するこうした者への恨みは、案山子よろしく藁人形を仕立て、それに竹やりを添え、近隣の寺から住職を招いて祈念するという、まことにもって念を入れた呪詛を現すほどで、人の心はすさぶ一方。
 こうしたなか、大坂で徳川入府以来の驚愕の事件が発生した。乱である。その中心人物が大塩平八郎、号を中斎という。
 二月も終わる二十九日。野猫は名主屋敷の夜更けた土間へ入り込んでいた。戸をたたく音に竈裏の荒神様の下へ身を潜める。
 住み込みの下女が戸を開ける。
 「夜分のことで申しわけねぇども、名主さまお呼びいただけねぇですか」
 下女は名主に声を掛けてもどり来ると、その見知った村人を座敷上がりより勝手のいろりへうながし、火種を掘り起こしながら暖をとるように進めた。
 しばらくして名主が現れ、いろりの首座へ座り込む。
 「どうしただね、こんな夜更けに…」
 「はあ、明日府内からもどろうと思っただが、大変なことを耳にしたで急ぎもどりましただ。なんでも、西国から来た商人が云うには、十九日から二十一日にかけて、大坂表で打ちこわし一揆の大騒動があったそうで、大井川の渡しも止められただと」
 「なに、市中で一揆とな」
 事のあらましはこうだ。大塩平八郎というお方は元大坂東町奉行所与力。陽明学者でもあった大塩は、飢饉に苦しむ人々の窮状を救うため千二百冊の蔵書を売り払い、救済金を人々に与えるとともに、その一方で救済策を打ち出すように町奉行所へたびたび進言もしていた。
 しかし役人は特権を持つが故に、いつの世も庶民とはかけ離れた世界を築くもの、いっこうに聞き入れられない。そこで二月十九日の孔子を祀る日に、大塩は、幕府に窮民救済を訴える最後の行動に出たという。
 それは、大塩宅から道を隔てた朝岡助之丞という与力屋敷へ向け大砲をぶっ放し、自宅も焼き払うという荒業からはじまった。その轟音と火炎を合図に、かねてより申し合わせていた同士が集結。大砲と火矢で家々を焼き払いながら進軍。それから幾ばくも無く、午後には鎮圧されてしまうが、この暴挙で大坂市中の四分の一が灰燼に帰したと伝えられ、大塩が身をかくしたことで諸国へ手配書が巡った。
 この第一報が村へもたらされた十九日、大塩の乱の情報はまだほんの概略だけであった。
 二週間後の三月十四日。村へ、逃走をつづける大塩ほか五名の人相書きが支配所からもたらされた。もっとも武州の村によっては、それより一週間も早い六日に届けられたところもあるから、街道沿いの村々を重点に手配書を迅速にまわしていたのかもしれない。
 それはともかく、こうした廻状は村人へも読み聞かせねばならぬから、村中の高札場の前に村人が集まりだしている。野猫は、雉のいなくなった竹やぶに身を伏せて、その光景を凝視している。
 やがて名主が、その人相書きを示しながら大塩の特徴を読み上げはじめた。
  一、年齢四十五、六歳
  一、顔細長く白き方
  一、眉毛細く薄き方
  一、額開き月代(頭頂の剃り部分)青き方
  一、目細くつり候方
  一、鼻常体
  一、耳常体
  一、せい常体中肉
  一、言舌さわやかにて突き方
なお、その節の平八郎の着衣は、鍬形付き兜に黒き陣羽織なり、その余の着用これ分からず候なり。
 風聞によると、箱根で大塩が幕府の大学頭林述斎、老中大久保忠真、水戸藩主徳川斉昭さま方に当てた書状が見つかったと云われるから、こちらへも来ているかも知れぬ。みなこころして気を付けるよう」
 大塩は一ヶ月以上大坂の隠れ家に潜伏し、三月二十七日に追っ手の迫るのを察知して自刃したが、村に詳しい情報がもたらされたのは四月一日になってからで、その時点でも自刃は知られていなかった。
 村に届いた一揆の生々しい情景、野猫は例のごとく、それを床下で聴いていた。
 「大坂はえらい騒ぎのようじゃ。市中は黒煙で白昼といえどもおぼろ月夜のごとくで、御城のくるわの外は鉄砲やら、火矢の音が絶え間なく、御城の口々は柵を結んで大筒を仕掛けて武具で固め、近国の御大名様方も甲冑にて追々はせ参じて陣取りなされた様子。
 一揆の衆は、一夜明けた二十日の夜明けには落ち行く態を見せ、ある者どもは丹波大江山に、またある者は摂州(大阪、兵庫の一部)の神峯山寺に立てこもっていると聞く。それでなよ、大坂近国で見つかった者の中には切支丹に組する者も居ったそうで、その者たちは宗教上の理由から自らに刃を立てて死ぬことがためらわれ、首をくくり死んでいたそうじゃ。
 それでな、張本人の大塩親子は見つからぬままじゃが、どうも外船で海上を伝って姿をくらましたというのが大方の見方らしいが、まあ実説は分かりかねるようじゃな。したが、いくら窮民のためとはいえ、大筒と火矢で庶民を巻き添えにしてまでも事を起こすとはなぁ…」
 村へ大塩平八郎自刃の廻状が来たのは、その月の二十五日のことであった。
 その後、いよいよ食物を得難くなった野猫は、ついに安住の地と定めていた名主屋敷の床下を離れ、姿を消した。いや、感覚が薄まり、ダリの意識に何も映し出されなくなってきたのだ。白い、その深い霧に包まれた状態。そうしたなかから、かすかに人に抱かれているような気配が現れてきた。何かが聞こえてきた。
 「おとう、おかあに逢いてぇ。もう駄目だ。おらは飢死ぬ」
 抱きかかえる野猫の体に置いた手から、わずかな震えが伝ってくる。野猫は、その男の言葉にはならぬ意識を読み取った。
 「お前に元気があるなら、おらほの生まれた村へ行き、親父の与七に伝えて欲しい。おらは悪さしたが、いまは心をいれかえて働いていると…おらの名は…治平……」
 江戸へ流れては来たものの、気弱な治平に仕事は見つからなかった。そして野猫も甲州街道の宿場を点々としながら、いつしか新宿へ入っていた。その路地裏で嗅ぎ覚えのある体臭とともに治平と出合ったのだ。治平はもちろん同郷の野猫であることは知る由もない。ただ、妙になつくから、情を結んで可愛がってくれていたのである。
 それから一年、ここは青山氏の邸のはずれにある藪中。
 若木に背をもたれ、うなだれたたままに、治平の魂はそこから闇の中へ抜け出た。抱かれる野猫にも、その硬直した手を振りほどくだけの力は残されてはいない。限りなく白さを増す意識。
 突然のけたたましい鳴き声で、ダリは正気にもどった。ジップが来ていたのだ。
 そのままではダリの意識が野猫の陰気とともに別次元へ飛ぶことを察知し、けたたましい鳴き声を挙げたのである。
 猫のある者には魂鎮めの機能を働かせるものがいる。ダリの、意識を他者へ同化させてきたこの状態こそが、それを現す。しかし、抜けどころを見失うと、夜中に竈で踊り狂う猫の伝承のように、自らの身を滅ぼしてしまうこともあるのだ。陰気は消えた。
 その日の昼、ダリとジップは南青山の骨董通り、いつものお気に入りの塀の上に居た。道行く人の何人かは、その陽だまりに伏せる吾を見上げ
 「ダリ、気持ちよさそうだね」
などと声を掛けていく。
 たまには「ニャー」と答えて見せるが、顔なじみの食事帰りのOLは
 「可愛い〜い!」
毎日同じに返してくる。
 猫の癒しは魂鎮め、それを知るものは少ない。                 2008年3月5日筆了




夜鳴石 
─天保の改革1─


天保の改革への庶民感情 
 
 その日ダリは、ジップをともない遠出していた。
 神田神保町裏手の古本屋街で、翌日の明け方、首領級の野良猫の集まる大きな集会が催されると云う。
 夕暮れの青山通り、その裏手を西へ進み、こんどは大通りを突っ切り、北へ向う。「猫の子一匹…」とは云うが、それは人間が勝手に思っているだけのこと。カナダ大使館であろうと、赤坂の御用地であろうと、普段使わぬものを含めれば猫道は何処にでもある。
 紀尾井町から麹町へ入る。
 朝夕通うサラリーマンは知らぬであろうが、麹町の語源となるのは、下総の国府と武蔵の国府をつなぐ古代の国府路。猫が何でそんなことを、と思うであろうが、野生の本能のなかにはビルや高速道路など人間の造ったものなどは、さして意中に無い。すべて原地形と同じように「在るべきもの」とだけ映し出されている。
 靖国神社の境内を横切る。
 ここには、国会議事堂や議員会館で感じられる生々しい妖気が滞るものの、吾にもジップにも死せる人々の陰気は感じられない。古く鳥羽伏見の戦いによらず、日露戦争、第二次大戦にあっても、その戦死者の御霊は、授かった生の意味を問うためにそれぞれの生地の母のもとへもどり着いているからだ。
 九段下から目的の神田神保町へ入る。
 集会までには時がある。店じまいする食堂も多いから、その辺りで腹ごしらえをする。
 夜更けの人通りの絶えた坂道の中ほどに、オークのがっしりとした扉がある。それが開き、仕事を終えたのであろう二人のホステスが挨拶の声を残して出てくる。
 それからは、酔い心地の二三人の男が坂道を下る姿を見かけただけで、辺りは静まり返っていた。
 救急車のサイレンが、ビル越しの遠くから聞こえてくる。
 しばらくして、カランカランというベル音とともにオークの扉が開き、いかにも高級感のあるコートを羽織った女性が出てきた。錠をかけているところを見ると、どうやらその人がこの酒場の女主人らしい。振り向きざまに眼が合った。
 しばらく棒立ちで見つめた後、腰を屈めながらこちらへ近づいて来る。こちらも少々時間をもてあましていたから、小さく「ニャ〜」と、語尾に敵意の無い穏やかさをつくりだして声掛けしてやる。
 女主人はきらめくシルバーのハンドバックを小脇に抱えなおし、コートの裾を引き上げて膝を折り、恐る恐るわたしの首下に手を差し入れてきた。そうされると習性で「グルル〜」と圧し声が出てしまう。さらに目の前の膝上へハンドバックを置きなおすと、両手での愛撫となった。
 「今日も駄目! お客さん少なくて困っちゃうわ。あんたはいいわね、悩み事なんか無いんでしょ、んん」
 のそのそと、ジップも現れるから
 「あら、あんたこの猫ちゃんの恋人」
 「なにを言う。俺様はダリ様と同じ雄猫だ!」
 ジップは怒ったようだが、すでに女主人の左手が首根へ回されているから、グルル〜。
 「♪男なんてさ… ♪お金なんてさ… 政治がだらしないからよねぇ。世の中暗くなっちゃって商売も上がったり。厚生労働省や防衛省の人、年金や防衛費の無駄遣いもって飲みに来てくれないかしらね。あらら、そんなこと考えちゃ駄目よね、ネコちゃん。みんなの税金だもんね。せめてわたしの分だけ飲みに来て返してくれたらね、ハハハハ。じゃぁね、ネコちゃんバイバイ。また来てねっ」
 車とて来ない夜更けの坂道のど真ん中、歌でも口ずさんでいるのであろうか、肩を揺らしながら坂上の街灯に照らされながらゆっくりと上っていく女主人。そのコートのひらめく黒いシルエットへ向け、ジップが「ニャーッ」と叫ぶ。
 「〈また来てね〉とはどういうことだい、サンマでもくれるのか!」
 「ジップ、雌ネコに間違われたからって、そう怒りなさんなよ。あれは女主人の口癖さ」
 
 ここは猿楽町。
 猿楽とは平安時代にはじまる滑稽な物まねや話芸で、能や狂言に発展した演芸。江戸時代の初めに猿楽師観世大夫の屋敷があったことから付けられた地名であるが、後には武家地となっていた。
 大塩平八郎の乱があった天保のころには、ここからそう遠くない日本橋に歌舞伎芝居の中村座(芳町辺り)や市村座(堀留町辺り)があり、たいそうにぎわってもいたが、天保の改革のはじまる十二年(1841)十月の火災焼失を契機に、幕府による風俗取締で御城から離れた浅草猿若町への強制移転が命ぜられ、そこが後の大衆娯楽の中心地となる。
 さて、いまだ「猿」の地名に遠い記憶が残るように、街角といえども、その土地土地には何らかの歴史的な記憶が滲み付く。だから、弱まった人間の感覚では分からずとも、猫たちは、ときとしてそれを嗅ぎ取ることがある。まさに今日のダリとジップがそれだ。
 「ジップ、何か聴こえないか。あの坂上の右…」
 二匹は、気配を消しながら、大小のビルの軒下にへばりつくように坂を上がる。
 取り壊されたビルの跡地。そこに打ち込まれたシートパイルの切れ目から顔をさしいれ、聞き耳を立てる。
 「♪……イイエ……ヒルネナイ」
 かすかに聞こえる。ダリが遠方で聞き取ったのは聴覚ではない。ここにおいてもかすかな音であるから、ダリは首領に流れる野生の血、その不可思議な能力で気配を感じ取っていたに違いない。
 わずかな風をともない、抑揚に乗せて神秘な声が聞こえてくる。
 「〈音づれ〉だ!」
 古代に生きた人間は野生の思考を失ってはいなかった。ことに語部と呼ばれる者たちは、風音、揺れる枝の葉音、川の交わる瀬音のうちに神の〈音づれ(訪れ)〉を聴き取る。この場のダリとジップが耳にしたもの。それはまさにそうした〈音づれ〉であった。
 パワーショベルの折りたたまれたバケットの先、あまりの大きさに根元を掘り出せぬまま、上のみあらわな肌をさらす岩。どこぞの古き家の庭石としてあったものであろうか。何度かワイヤーで吊り上げようとしたのであろう、掛けられた削痕が縊死(首吊り自殺)の態を思わせ、痛々しい。そこからダリとジップの所在を突き止めたように、わずかな風が、とぎれようともせずに吹き寄る。
 「♪対客の苗屋。隠元(インゲン豆)大角豆(ササゲ)物の苗屋。御役人に知恵が無いや。御大名には我慢が無いや。旗本に三味線が無い。御家人衆は暮らしようが無い。町人に商いが無い。女郎に客が無い。余り思いやりが無い。これも天命是非が無い。オイオイ苗屋朝寝の苗は、いいえ奥女中は昼寝無い」
 ダリは直感した。
 「ジップよく聴け、闇族の先代の首領に伝えられた話だが、あの青山霊園南で感じられた治平と野猫の陰気が射す天保の飢饉、その後に打ち出された天保の改革。その改革で贅沢が禁止されたから、庶民生活に不景気の嵐が荒れ狂い、当時の猫諸族も人の食べ残しが少なく、ネズミも獲り尽して食に窮す、と伝えられるありさま。
 あすこから聞こえてくる歌、あれはそのとき流行った世相を風刺する苗売りの歌に違いない。ジップ、お前もやがて暁族の首領となるであろうから、あの声、しっかりと記憶に刻み付けておくがいい」
 わずかな時をおき、なおもくり返される苗売りの歌。
「ダリ、言葉は記憶したのですが、意味が少々…」
「そうだな、昔の庶民は、この国につづいた、封建制と云う諸侯へ土地を分け与えて国を治める体制の中で、直接に、また間接に、幾重もの支配を受けていた。
 人々が不満を抱き、直接に行動を起こすとも、その幾重もの支配体制の何処からか対峙するものとは別な力が現れ、行動は抑圧された。
 まあ、いつも庶民は、そんな暖簾に腕押しのあんばいだから、文化・文政( 世紀初)と云われたころからは、支配者の世界は支配者のもの、庶民の世界は庶民の勝手というような気風も生まれてきていた。だから支配者が、庶民の暮らしが華美になったと政で抑えようとすれば、それを皮肉る歌もたくさん現れてきたということだ」
 「ああ、ポンチ絵のようなものですか。いつか骨董通りの店で、あるじが古い漫画みたいの開いて話してましたよ。なんでも、明治時代にポンチ絵と云う風刺漫画が流行ったとかで、そうしたものですか?」
 「おお、よいことに気がついたな、その通りだ。そうした風刺というのは、物事を直接表わさずに何かにたとえる比喩を用いる。
 人間の機能のすばらしいところ、それは相手の立場に意識を置いて物事を考えられるということだが、それを逆手にとると、悪いもの、またいやな事を何かにたとえて隠してしまうことができるわけで、笑い飛ばすところまで高まったものが風刺」
 さてもさてもということで、この苗売りの歌、いろいろと比喩が使われている。
 「対客の苗屋」は、「苗」に「無え」が掛けられていて、不景気でお客とて居ないというほどの意味。
 「隠元(豆)大角豆物の苗屋」は少々その時代のことを理解していないと意味が解せぬ。「隠元」はインゲン豆、「大角豆」はササゲのことだが、意味の裏に、 世紀半ば中国の明国から渡来してインゲン豆を招来した黄檗宗開祖隠元、その僧に奉物も無いほどに不景気という意味が隠し置かれている。もちろん「苗屋」は「〜無いや」ほどのこと。
 次の「御役人に知恵が無いや。御大名には我慢が無いや」。江戸時代に居るそちらが比喩という術を使っているのであるから、現代に居るわれわれも野球という術を通して作者の気持ちを察すれば分かりやすくなる。比喩しようとする意識の在りようは時を隔てるとも、得てしてそのようなもの。
 一球目と二球目は、相手のバッターの様子見に変化球でストライクゾーンを外したが、ここへ来て真っ向勝負のストレートがストライクゾーンへ二つも来たことになる。どうやらこの歌の作詞者は、投手とするなら、もはや比喩も使わずに直球勝負。相当の気の強さをしたためた手練らしい。
 「旗本に三味線が無い」。これは貧乏旗本を皮肉ったもの。「三味線が無い」とは、刀を使った武芸があっても生活の糧は得られない。庶民のように、せめて三味線を使った芸でも身に付けていれば暮らしの目途も立つであろうに。ストレートで外角へ外してきた。これでツウスリー。
 さらに次の「御家人衆は暮らしようが無い。町人に商いが無い。女郎に客が無い。余り思いやりが無い。これも天命是非が無い」。これはそのまま。投手は最後の一球を外し、ファーボールにするわけにはいかぬからすべてストライク狙いのストレート。打者は的が絞れているから、粘りに粘りファール、ファールの山。観客は大喜びだ。
 終わりがなくなるからこの辺でと、下ネタで落ちを付けるあたり、いかにも江戸の粋なお人の作った歌となる。ということで、「オイオイ苗屋朝寝の苗は、いいえ奥女中は昼寝無い」は、おいおい無い無いとおっしゃるあなた、一緒に朝寝してくれるような方は居ませんかねぇ。いいえ奥女中も昼寝が無いから添い寝する方はいませんよ、とくるわけで、粋な洒落でござんすねぇ〜。
 風は途絶え、闇が一層深まる。ダリとジップが岩に忍び寄る。
 その岩、正面は遠くの工事用のライトを受けて光沢を放つほどだが、背面は握りつぶした紙を広げたような幾筋もの皺がある。何やら大口を開けたおぞましい顔のようにも見え、また巫女が被り物をして舞っているようにも見える。
 突然、岩皺が開き、そこから風が起きたように思えたから、ダリとジップは岩下から飛びのき、気配をうかがう。
 見上げるダリ。その耳元にわずかな風が吹き渡ってくる。なにか聴こえる。だが先ほどの歌とは違う…
 「いにしえの聖代には鳳凰出たり。当御代にもそれぞれ新しき鳥出たり。名は五気鳥と云う。こころは…」
 ジップはさらに後ろへ飛び退いた様子だが、ダリはその岩皺を凝視したままにいる。
 背後に気配。その前後を塞がれた瞬間、ダリは誰にも見せたことのない大きな跳躍で横へ飛び退き、身構える。その姿、ジップには虚空を舞うごとくに思えた。
 背後から現れたもの、それは毛並みも乱れ、もはや死地にあるのでは、と思えるほどの古猫。
 「そう、驚きなさんなよ闇族の首領さん。こちらは、お前さんを生まれたときから知っていますよ」
 目尻から立ち上がる白毛。
 「すると貴方は!」
 「お気付きなされたようじゃな、おうともさ、一本隈のライたぁ、おれのことだ。ダリさんよ随分と立派になられたなぁ」
 猫の世界は寿命が短い。だからこそ、伝えということを普段の生活のなかで大切にしてきているのだが、顔に、歌舞伎で用いる隈取に似た毛並みをもつこのライは、なかでも博学な猫として誰知らぬ猫とて無い。まさに古き「ねこま」(〈倭名抄〉掲載の猫の古称)の風格をもつ。
 「わしはもう歳が行き過ぎた。昼間の陽だまりで若い猫にお伝えをしても、本心寝入ることが多くなり、それもままならなくなった。ここでお前さんたちに逢えたのも、先祖の導き哉も知れぬ。よく聴くがいい…」
 ライの語りはじめたのは、この岩の数奇ないわれである。
 岩は、江戸のはじめに猿楽師観世大夫の屋敷の庭にあったものらしい。そこがある武家の屋敷地となったのが天保も終わりごろ。
 その屋敷で祝い事があった夜半、勝手の土間から火炎が立ち上り、見る見る天井へ広がった。夜更けのこととて家内の者が気付いたときには逃げ場を失い、火炎を避けようとわずかばかりのこの岩陰に身を隠してはみたものの、焼かれて岩に化したと伝える。
 「そうしたことで、この岩には人の思いが焼き込められ、夜な夜な声がするようになったと。世に夜泣石と云われるものは多いが、これもその一つ。じゃが、祝いのなかでの一瞬の出来事と見えて、岩に祟る気持ちは宿りついては居らぬようじゃから、こうして昔の歌なぞ聴こえ来るだけのこと」
 ジップが話し出す。
 「さきほど、なぞ掛けのような声を掛けられたのですが…」
 ライは、しばらく考え込む様子。
 「はは〜ん、それには、鳳凰だの、五色の鳥など出てきはせぬか?」
 「有りました」
 「見ておれよ、わしがそれをいま解いてみせる。解けば、今宵岩に宿した魂は鎮まる。鎮めの術にはこうした方法もあるということを見て取り、こんどはそなたたちが誰ぞにお伝えするがよい」
 そう云い残し、古猫はその場に身を伏せ、眼を閉じた。
 長い静寂をおき、わずかな風がライのひげを揺らせ、岩からかすかな声が聴こえてきた。
 「いにしえの聖代には鳳凰出たり。当御代にもそれぞれ新しき鳥出たり。名は五気鳥と云う。こころは…」
 その声を待っていたように、古猫ライが言葉を返す。
 「一に曰く、上が三代黄鳥。二に曰く、水が黄門黄鳥。三に曰く水越が松越黄鳥。四に曰く、矢部が大岡黄鳥。五に曰く、成島が新井黄鳥」
 するとどうしたことであろう、それに答えるような声が聴こえてきた。
 「右の鳥は、にた山と云う山に巣くうて今は死したり。焼いて食らい、四理その味いかにと問わば、まずかった」
 その語りを最後に、光の加減であろうか、岩裏に回り込むダリとジップにはささくれた岩肌が幾分滑らかに変化したように思えた。
 それまで二匹の会話に入りはしなかったジップが
 「黄鳥は… 〈黄鳥〉は、〈気取る〉という意味ですか?」
とライに尋ねる。
 「ふふふ、お若いのに知恵が回りますな。その通り、〈何々気取り〉を〈黄鳥〉に比喩しているわけじゃ。先に苗売りをお聞きなさったか。あれと同じに天保の改革を皮肉ったもの」
 ここからライの謎解きがはじまった。要約すれば以下のようになる。
 一の「上が三代」とは、「上」は天皇、つまり当時の天皇である仁孝天皇のことで、そのお方が古く宇多天皇が廃止した天皇の尊号を復活させたことで、前の三代格式の定められた時代の天皇である嵯峨、清和、醍醐天皇を気取っているという意味。
 二の「水が黄門」の「水」は水戸藩主徳川斉昭のことで、大塩平八郎の乱の二年後、幕府の乱れを憂いて将軍家慶に人材の登用、賄賂の禁止と倹約等をしたためた意見書を提出していることが、庶民には、いかにも水戸の黄門様気取りとして映し出されていたということ。
 三の「水越が松越」。これはそのまま姓のようにも思えるが、そうではない。「水越」が水野忠邦越前守の水と越を取って付けたもの。となれば「松越」は? そうそう、寛政の改革を断行した松平定信越中守ということになる。つまり、老中首座の水野忠邦が、寛政の改革の松平定信気取りで知恵もなきままに真似をして、天保の改革をはじめたと皮肉っているのである。
 四の「矢部が大岡」。「矢部」は矢部定謙こと。大坂町奉行であったときに大塩平八郎の意見を聞き入れ、疲弊する庶民を救済するため、米価対策などに尽力したお方。天保の改革のはじまった十二年、このお江戸の南町奉行となられたことで、名奉行大岡越前気取りという、まあこのお方の場合はよい方へとらえている。だからそれ以後、天保の改革の中心人物であった、先の水野忠邦と合わずに罷免されておる。
 さて、五の「成島が新井」。成島は成島司直。江戸生まれの儒学者で、改革の案を策定した功で準広敷用人諸大夫という官職を得たが、儒学者で諸大夫となった者は他に新井白石が居るだけ。それに掛け、成島が新井白石気取りで幕府に取り入り、庶民を苦しめるというほどのことになる。
 「ダリとジップよ、分ったかな。
 最後になぞ掛けが解けて聴こえた言葉じゃが
 《右の鳥は、にた山と云う山に巣くうて今は死したり。焼いて食らい、四理その味いかにと問わば、まずかった》
 これにも一つ比喩が入っておる。それが《にた山》だ。
 これは「似た山」だろうと誰もが思うじゃろうが、それでは面白味は半分。正解は当時の上州(群馬県)山田郡仁田山地方より産した紬が、姿ばかりが紬に似て粗悪品であったことが裏にある。当時の庶民は、そのことをみな知っていたから、この最後の掛詞でヤンヤヤンヤと喜んだわけで、この場においてもそのことが魂鎮めの機能を果たし、岩を元の穏やかな姿に返したということになる。
 ほらほらもう行きなされ、古本屋街の裏で、集会がはじまるころじゃ」
 夜明け前の闇が一段と深まったのを感じ、ライがダリとジップをうながした。
 「ライ、ありがとう」
 二匹のうしろ姿、その若々しい跳躍を追いながら、ライは思った。
 「この夜鳴石に表わされた庶民の想いの深さ。まだ若いあの二匹では分かるまい。いずれ、さまざまな時代へ意識の投影を試みるうちには、深まっていくことじゃろう」
 ライは死人の意識をたどり、幾度もこの天保の時代へ入り込んでいた。
 長くつづいた天保の飢饉、その疲弊する庶民を救わんと立ち上がった大塩平八郎の起こした乱。幕府は驚愕し、いや応なく改革を迫られた。天保十二年(1841)以来の御改革の影響、それは庶民生活をおびやかしはじめていた。
             2008年3月13日筆了




夜鳴石 ─天保の改革2─

天保の改革への庶民感情

 古猫は、陽の射しはじめた堀脇の土手上に居た。
 夜を越した若草の香りに包まれるライ。眠るように記憶の奥へ旅立っていた。
 ライの意識には、天保の改革期のある寺の情景が映し出されていた。本堂の内、阿弥陀仏の前に住職と村役人らが集っている。
 「まったく御改革には困ったものだ。関東御取締御出役衆様により、御開帳に飾り物はしてはならねぇ、見世物も出してはなんねぇと云われるから、阿弥陀様も楽しくはなかろうに、なぁ住職さんよ」
 「行き過ぎた贅沢、それはいけないことだが、幕府様公認の神田明神の天下祭りさえ山車づくしを禁止なされる在りよう。町奉行の遠山景元(通称金四郎)さまもこれには行き過ぎと上申書をお書きなされたと聴く。仏果へ至るにも、陰陽無くばうわべだけのこと。苦しき日があるから楽しき日が来るし、楽しき日があるから苦しき日を耐えられる。そうした庶民の心が見えぬから、お上を揶揄する戯れ歌などが流行る。ほとほと困ったことじゃのう」

 ライの意識はさらに飛んだ。

 天保十三年(1842)四月十八日、ある村の名主屋敷
 「大変じゃ大変じゃ、今朝、関東御取締御出役檜山近平殿より御廻村先の府中宿から日野宿廻りで来た書状、それに御改革の御用ありとて村役人ら一同引き連れて明日朝五ッ時(八時頃)までに八王子宿へ来るようにとあったが、四ツ(十時頃)んなってまた廻状が舞い込んできて、こんどは今日の夕刻ということになっただ。誰か居らんか。すでに定使いには前の書状を隣村へ持たせおるし、大変だ、大変だ、誰か居らんか」
 名主は下男を呼び寄せて追触を先の村々へ差出し、遅れてはならじと日野宿から八王子へ向うが、その途中関東御取締御出役檜山近平殿の一行と出くわし、その後ろ手へと回り込み、少しばかり離れて付きしたがう。
 名主は、他村の同行している者と何やら小声を交わしながら歩いている。
 「まずまず今日は朝からすったもんだで大変じゃった。最初の知らせは出しちまうし、はじめは明日と云うことだから野良や隣村へ出かけちまう者もおるし。まったく家中手分けしての大忙し。御改革たぁ、上はなさらず、下をしぼるものなのかえ…」
 結局、ある村は遅れに遅れ、八王子横山宿の東屋という指宿(宿屋だが旅客に次の宿を教えるところ)へ顔を見せたのが八ツ時(午前二時)過ぎ。そこで御出役の居られる御旅宿の八日市宿武蔵屋へ呼び出される。
 関東御取締御出役檜山近平の話はこうだ。相互監視、連帯責任等を書いた五人組の法令を厳重に守るように。御奉行所から五箇条の御沙汰が出ているからそれを写し取り、受印を押すこと。おって村人一人ひとりが認めた印を押捺した連印帳をつくり府中宿へ届けるように、と云うものであったが、何と檜山殿が至急の用事で明日の未明には内藤新宿へ出立せねばならぬから、陽が上がりきる頃までには一同書き写しを終え、引き取るようにとのお指図。
 結局一睡もできず、畑道を疲れ果てて家へ向う名主一行。古猫の意識はその想いを見通している。

 御茶ノ水を出た電車の音、それに少し反応しながらも、ライの意識はさらに飛んだ。

 同年三月十一日、浅草観音堂前の切見世(下等売女の店)辺り
 「何すんだよ、離しておくれよ。金子盗んだり、誰か怪我させたわけじゃないだろ。お離しよ、お離しったら!」
 まだ宵の口のことであるから、通行人も多く、辺りは騒然としている。御改革の一環として大規模な切見世への手入れが決行されている。
 「前からここに居て同じ商売しているのに、何で囚われるのさ」
 役人の一人が皮肉交じりに云い放つ。
 「お前たちはな、春を売って人を惑わし、華美を助長するということで御改革に反する罪で囚われたのだ!」
 「あたいたち、これからどうなんのさ」
 「一晩牢屋に入れられ、その後は帳元(いまでいうなら住民登録している自治体)へ五十日の御預け。お前たちの抱人(雇用主)は五十日の手鎖じゃ」
 「まったく何が御改革だい。二三日前、あんたたちの仲間のお役人だって来てたんだからねっ」
 「うるさい、とっとと歩け!」
 この一斉摘発で、百十八人の女が召し捕られたという。その多くは御改革に先立つ天保四年から七年(1833〜36)までつづいた未曾有の飢饉により、人買いを介して江戸入りした女たち。郷里の父を想い、また母を想い、離れ離れの兄妹を想い、死産させねばならなかった子を想い、それらすべての想いを己が生きる証として春を売りつづけてきた女たち。

 古猫ライの意識は、その夜の両国柳原辺りにあった
 この神田川下流の堤には、享保年間に植えられたという柳が並び、それが川風に揺れ、なんとも人を招くような隠微な風情をかもし出している。
 この、ふだんは夜鷹の出没する堤。それが切見世の手入れを受け、今日は一人たりとも姿を見せない。浅草橋近くのいつもの場所に、夜鳴蕎麦屋がぽつんと店を出していた。どこぞの建前の祝儀帰りであろうか、赤ら顔の大工が二人蕎麦をすすっている。
 「おお、聞いたか。どうも今夜は静かだと思ったら、浅草に岡っ引きが集まり女衆を召し捕っただとよ。ヒック。どうりで夜鷹衆も姿をみせねぇわけだ。ヒック」
 夜鳴蕎麦屋の主が口をはさむ。
 「なんでも吉原や深川さえも、ことごとく店を閉じているそうで、人通りも絶え、まるでお通夜の晩のようなありさまらしいですなぁ」
 「なんだってんだよぉ。御改革たぁ、みんな忌籠りの日にしちまうことかよ!ヒック。一日働いてよ、一生懸命働いた夜がよ、楽しめねぇんじゃ、こちとら仕事に身が入らねぇわい。大名屋敷だって大工が建てるんでぇ、それじゃ手抜きで潰れっちまうぞ、思い知れっ!」
 「お客さんお客さん、誰が聞いてるとも限らねぇ、声が大きいよ」

 電車が到着し、ホームからけたたましい発車のベルが聞こえてくる。都会は力強く動きはじめている。堀上でうずくまる古猫は、わずかに尾を揺らしただけで意識をさらに別な世界へ飛ばした。

 同年六月半ば、八王子のある糸問屋
 「御改革のお触れで、質素倹約とともに商売諸物の値段を下げろと云うが、困ったことだ。一つ事のように、相場を下げれば物が安くなり物価が安定すると思っておられる。一割ほども値下げするよう吟味しているのだからたまらぬ。これでは商売が成り立たぬ」
 「番頭さん、算盤はじきながら何をぶつぶつ云いなさる」
 「はあ、これでは糸繰りに渡す給金も出ません」
 「まったく困ったことだな。水野忠邦様が物の値段を自由に競わせれば物価は安値で安定すると、十二月の月中に商いを共にする御同業の株仲間を御解散なされてからというもの、諸国からの物資が滞り、逆に物の値段は上がる一方。
 そこでこのたびは、江戸町での賑給(窮民に食や衣を与えること)の御趣意をふまえ、商人に物の値を下げろと強要する。繭が不作とてお構いなしだ。まったくその場しのぎのこととて、振り回されて大迷惑するのはいつも庶民じゃ」
 「なんでも江戸では、市中の店賃も、大工やらの職人の給金も引き下げを命じられたようですよ」
 「クワバラ、クワバラ……」

 プパゥー、電車の警笛。ライの意識は記憶の旅を終え、いまは若草の香りが重苦しく思える。
 何もなかったように身を起し、前足を大きく踏み出したなりに大きく背筋を伸ばしたのち、古猫ライはその場を離れた。
 ゆっくりとした足取りで明大通りの坂を下るライ。その途中に、チョークで品書きした黒板をイーゼルに乗せて出す小さな喫茶店がある。
 珈琲の香りにトーストの香りが溶け込む、そのイーゼルの下がライのお気に入りの場所。マタタビの香りは強い陶酔に陥れるが、このモーニングの香りは老猫の心さえも引き立たせてくれる。人々の行き交うこの場所で、ライは毎朝時を重ねてきた。
 ライの瞳が、ある男の姿をとらえる。人を待つのであろうか、道路の向こう側に車を止め、車内で新聞に眼を通している。まだ若いが、明るいグレーの背広、着こなしもよい。何処かの商社に勤めているのであろうか新聞は経済紙らしい。
 ライの絞り込んだ瞳孔がその男の意識を映しはじめた。
 「偽装マンションか…。そういえば、一昔前は日照権なども厳しかったはず。構造改革による規制緩和の弊害か。
 だいたい、政治家はバブルがはじけたり不況になると「改革だ! 改革だ!」といって規制緩和に走る。官庁の入札も自由競争させれば安値で安定すると考え、質を問わずに形だけですすめるから、民間のマンションどころか公共施設であっても偽装が発覚したりするのだ。
 政治家や官僚は、好景気になれば社会的な不満が薄らぐからさまざまな規制をつくり出し、実質として何も無い所に許認可と云う特権を張り巡らせて陰で利益をむさぼる。そして不況となれば、こんどは自由競争させれば安値で景気が安定して不況を脱出できると、改革という言葉を連呼して規制緩和へ走り、新興企業に陰の利益を求めていく。
 まあ、昨今の自衛隊の物品受注の流れが、大企業から分かれた新興企業へ移されていたということも、そうしたことだろう。
 元を正せば実質として何も無い所に許認可と云う特権を作ったり、崩したりする政治家と官僚の一人芝居と云うところだな。 
 そこいくと独立を装う銀行さんが身軽で一番いいということになる。バブル期の地上げ屋に資金提供しても企業への貸付、バブル後には損出を大合唱すれば一番先に無条件で政府が面倒を見てくれるし、中小企業への貸し金を渋っても、強制回収しても個別案件として押し通せば社会的責任を問われることはないしな。
 まぁ、この国の経済は戦前まで大切にしてきた商人の商法を捨ててしまったのだから、モラルもへったくれもないということか……」
 その男の車が動き出すころ、古猫ライの姿もそこから消えていた。
 猫は動くものに反応する。家猫が、ネコジャラシのような遊具に戯れる。人はそれを単なる習性のように理解するが、しかしそれだけではない。その不可思議な動きを追い求める探究心の深さは、年とともに人の意識へと向けられていく。故に猫諸族は山から野に出、いつしか人間社会に溶け込むようになった。
 それは犬も同様なのではあるが、隠された野性を強く保持したのが猫である。猫はその長き歴史のなかで、過去という世界を現実世界の中で受けとめる高度な意識機能を高め、あるものは、人の意識の痕跡に共鳴同化作用をほどこすことで過去へ入り込むことが出来るようにも進化した。  
 このことは人が解剖学的に知りえる世界ではない。猫のみの、そしてそれを作用させることの出来る個体自身の意識世界でのみ、確認できるものなのである。
 一方、ダリとジップは集会を終え、夜鳴石の場所まで舞いもどっていた。
 すでに工事は再開されている。朝早く搬入されたのであろう、昨夜置かれていたものより大きなパワーショベルが大型トラックから降ろされ、入れ換えられている。もうしばらくすれば、夜鳴石は何処かへ運ばれていくのであろう。そこには、すでに古猫ライの姿は無かった。
 パワーショベルのエンジン音。そのなかで昨夜の興奮がよみがえってくるダリ。
 「ニャーオゥ」
 ダリの遠吠えはパワーショベルの発する音量を超え、現場の作業員たちを振り向かせるほど。それを最後に、二匹の姿もこの場から消えた。
 猫の集会がこの地で催されるようになった理由。
 それは、お茶の水小学校の地に、かつて錦華小学校が存在し、明治十一年に「吾輩は猫である」の作者、夏目漱石がここへ通っていたからである。
 市ヶ谷小学校から転入してきた、漱石こと金之助。その寂しさを癒したのが、この地の古き猫たちであった。少年は、深き寂しさをもって猫社会へ入り込み、猫族の精神世界を知る数少ない人間に列した。故に漱石に助けられた猫多く、以来古書の香りの漂うこの地が、猫諸族の首領集会の地と定められたのである。
 ダリとジップはいま、その歴史臭を積み上げる街を、野生の思考をしたため、西へ駆け抜けていく。
              2008年3月13日筆了