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黒船7
 ─幕府の動き─
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役人の気風

 7月 日(弘化三年六月二日)。
 異国船が来てからというもの、午後に雷雨となることが多くなった。
 街道には、伊勢へお陰参りに出る衆、また大山阿夫利神社から江ノ島江島神社の弁財天を巡る参詣人、それに江戸や大坂へ向う商人等々、多くの旅人の姿があった。
 入道雲がもくもくと立ち現れると足は自然に速まり、黒雲が出はじめると更に急ぎ足となり、降りはじめるころには宿入りできてホッとする旅人たち。
 旅籠の夕刻は、黒船の見物人も加わり、ごった返している。
 そうした宿泊者の間では、黒船の噂もまた人の耳から耳へと…、いやいやそんな悠長なことではなかったろう、黒船見物をしてきた話好きな人の元へ泊り客が集まりだし、その即席の講釈師に耳を傾ける多くの聴衆により、翌日には情報が一気に東へ、西へ。数日の間には噂話として諸国を駆け巡ったに違いない。
 旅人の帰り着くところが陸奥の国ならば、陸奥へ。大坂ならば、大坂へ。そこからさらに周辺へと拡大。これが昔からの庶民のネットワークである。
 しかし、こうなるといつの世も、外圧に対しては神国日本にすがる想いが湧き上がることにもなる。
 黒船を前にして、その技術力の違いは子どもの眼にも明らか。なれど、武芸にすぐれた役人が異国人を叱り付けて恐れさせたと、普段は年貢を搾り取られている役人への感情が一転し、その場では小兵が大男をやっつける話を好むように、精神では負けぬ風の講談調の話が評判を呼んでいく。
 こうした気風をもつ国民だけに、役人の世界にも一つの様式がある。庶民や下役人の見方がいくら正確であっても、順次上のものが承認していかなければ正確なものとはならない。たとえ事実が変質されようとも……
 それは世間に対する面目を重んずる気風であるから、いちいち回りくどい表現をとることが強いられてくる。まあ庶民の場合は、「下役人が異国人を叱り付け、恐れさせた」という痛快な話に変質するのが落ちだが、役人の場合となるとそうもいかない。
 この日になり、やっと老中から浦賀奉行に指示が出されてくるが、その文面に面目を重んずる役人の気風がはっきりと現れている。
「浦賀奉行への通達内容
 このたび渡来の異国船、武器をとりあげるべきところ差し出し申さずことで、大船を湊内へ引き入れぬことを了承。食料・薪・水については別紙の通り申し出ているが、このたび渡来の船は漂流船とは違い、彼らより理由を設けて渡来してきたものであるから、食料・薪・水とも与える筋はないが、すでに彼らの望む品の尋ね書き等を差し出しているので、薪・水については望みに任せて渡し申すべし。
 食料・そのほかの品は、渡すことについては無用とすること。しかしながら帰るにあたっては必要なものとなろうから、伺書のうち掛紙のところは伺いの通り差し遣わすこと。
 右の通り浦賀奉行へ指図すること」
 なんとも回りくどい。すべて幕府にとって駄目だと思うことを、みずから理由付けして是認していることは、つぎのように文意の流れを要約してみれば誰にも明らかだ。
 一、(幕府の指示)武器を取り上げる─(変更理由)差し出さない    ─(結論)湾内に入れない
 二、(幕府の指示)薪・水を与えない─(変更理由)事前の尋ね書きがある─(結論)薪・水を与える
 三、(幕府の指示)食料・その他  ─(変更理由)帰るのに必要であろう─(結論)食料等を与える
 この分では一番の「湾内に入れない」というのも、事実はそうでも表現が違って、「大船ゆえに湾内へ入らない」という向こう側の理由を都合よく「武器を差し出さないこと」に結んだ可能性が大である。
 面目を重んずる役人の気風、それを庶民は川柳などで揶揄して日ごろの鬱憤を晴らすのであるが、このたびのことは日本対外国のことであるから内側がまとまり易い。そういうことで英雄的役人の登場となったわけだ。まあ、政治家や役人が戦争をおっぱじめようというときは、何処の国でも民族主義をもちだして「われらが国はすぐれたり」とばかりに、そうした庶民感情をあおり出すということ。
 さて、この黒船来航のてん末、幕府側がどのように幕を下ろそうとしたかというと、警固を強化する一方、英語に翻訳した「諭書」による異国人への帰船勧告をもって事を終結させようとしていた。
 警固の方は二日の晩、御用番老中阿部伊勢守(阿部正広)様の役宅において、三浦側の警備を担当する武州川越藩主松平大和守と房総側の武州忍藩主松平下総守を呼び寄せ、御暇を下されるので(江戸藩邸を離れることの許可)双方で相談して警備をはじめとして諸事油断なきように、という書面による申し渡しがあったが、これには老中の列座も無きありさまにて、両藩主ともに事の重大さにかんがみて驚いていたふしがある。
 このほか最寄りの万石以上の諸藩に、浦賀奉行所からの要請があれば領内の海岸等へ警固に出した人員を派遣するようにとの触れも出されたが、すべては戦国の世以来のできごととて、無策にして諸藩の対応に任せようとする幕府老中衆の狼狽振りを映し出すものにほかならなかった。
 7月 日(弘化三年六月四日)。
 それから二日後の四日、主松平大和守様と松平下総守様による警固体制が整い、翌五日の日付で浦賀奉行様から老中阿部伊勢守(阿部正広)様へ宛て警固完了の知らせが出された。
 遺漏なきよう両藩主は事前に準備はしていたのであろうが、命を受けたのは二日前の夜のこと、実質一日半ほどで配備を終えたことになるから、それだけでも兵の消耗は大変なものだったことであろう。ともかくも正式な警固完了まで黒船入港から一週間もかかっていた。
 ここ一両日中は、そうした騒然とした日であったから、あちこちで人心を惑わす風聞が飛んだ。
 上方からの入船が、航海途中の熊野の沖で黒船を見た。また、豆州・大島・相模の間で三艘の黒船を見た等々、千石船の見間違いか、一週間前の来航時の噂が一人歩きして昨日になったものやら、庶民にまん延する異国船への恐れの感情が、まことしやかなさまざまな噂を呼んでいた。
 7月 日(弘化三年六月五日)。
 警固の体制が前日に整ったことで、この日の早朝、通詞をつれた役人たちがコロンブス号へ乗り移り、老中の案から起こした諭書をビドルヘ提出する運びとなった。
 通詞堀達之助の心労は察するに余りある。英語に関してはオーラル・メソッド(口頭教授法)による教育しか受けていない彼は、昼夜を徹し、翻訳に明け暮れしていたことであろう。しかも、あの面目とやらが凝縮している困難な表現を英文に仕立てたのであるから…
 彼を見たビドルは驚愕。まさに眼の下は黒ずんで窪み、頬はこけ、その緊張の連続からであろうか、喉もかれているらしく声さえも出しにくい様子。一週間前に見た青年の生き生きとした姿は消え失せていた。
 ビドルが交渉に当たる浦賀奉行所与力中島清司から諭書を受け取る。しかしその文面に眼を通し、驚く。だがビドルは、その驚きを内に秘め、平静さを装ったままにある提案をもちかける。
 彼は見通していたのである、通詞の力量を。
 諭書の単語の多くは、オランダ語からもじったものであることを瞬時に判読したビドルは、中島にこう切り出す。
 「You have to make a receipt document.」
 諭書に対して、その請書を直ちに出すことを申し伝え、ついては和訳せねばならぬからと、船内の別室へ通詞堀達之助を向わせるのである。そこでオランダ語の分るアメリカ側の船員を付け、それを伏せたまま堀にも悟られぬように諭書の英訳を作り直し、同時に請書の和訳も完成させようとの企てである。
 少々時間がかかっても、請書が手に入れば大任遂行の面目はことのほかに立つと中島は考え、その申し入れを快諾。
 別室に移った通詞。付き添いの下役人が付いてはいるが、いちいちの通訳は必要ないから、どんどん作業が進む。訳文がもし誤まっていたらという恐怖に怯えていたのを、その場で、それとなく指摘してくれるのであるから、堀の喜びようもひとしお。
 幸いしたのは、書類の体裁にあった。というのは、諭書は日本側のものであるから、その和文が正式な書類。訳文はあくまで添えられるものなので、意味のわからぬ老中や奉行がそれに押印などするはずもなかった。別紙ということで正式書類に添えられてはじめて意味を成すものであるから、その場で書き換え、差し替えを行っても不都合はなかったのである。
 他方のアメリカ側が出す請書についても同じこと、もともと簡易な受け取りの証明書であるから、そこに責任が発生するわけでもない。しかも英文が正式書類であるから、この場の通詞に和文を作成してもらっても何の差し支えもなかった。むしろその方がお互いによいというほどのこと。
 やがて作業を終え、通詞らがもどってきた。
 堀が実に旨いことを中島に言った。
 「先の諭書の訳文のことにつき申し上げたきことあり。アメリカにおきましてはその国の文字を書きまするに、それにあったペンという特殊な筆を用いているところであれば、わたしの書きました文は筆違いにて判読し辛い、とのことにて、御恐れながらペンを借り受け、書き直して参りましたゆえ…」
 ということで、ちゃっかりと修正したものを同じものと言って差し替えることを黙認させてしまったのである。和文なら大騒動となるが、添え物のように英文を考える中島であるから、ビドルを前に軽くうなずいただけで終わってしまう。
 その修正後の諭書英訳文に眼を通したビドルは、請書にサインして日本側へ差し出した。
 ビドルには、当初から病気のアレグサンダー・H・エヴェレットに代わっての航海で、アメリカが日本と通商を結べるとは考えていなかった。したがって、通商の意向を伝え、その日本側の判断を記した諭書を手にし、請書を出した今、それ以後とどまって幕府と交渉をつづけなければならぬ理由は何一つ残されてはいなかった。
 イギリスやフランスとは違う。蒸気船であれば二・三週間でこの国に来られる。後につづく者がきっと通商を結ぶことであろうという確信がビドルには芽生えている。
 「目的のない停泊が長引けば不要な恐れを抱かせ、開国の扉は重くなる。軽く、何度もたたかねば…」
 ビドルが突然切り出した言葉に、日本側に衝撃が走る。
 「We sail next morning.」
 「われわれは、明日出航します」
 通詞の声が震えている。不眠不休、異常な緊張感の持続、その疲労からくる凝固した精神が一気に解き放たれ、ビドルのにこやかな顔に交錯する。
 この報はすぐさま奉行大久保因幡守へ伝えられ、書面に仕立て老中へ送り出された。






黒船8 ─黒船の出航─


出航間際に起きた大事件

 7月 日(弘化三年六月六日)。
 黒船出航の報はすぐさま警固の役人たちにも届いた。しかし彼らは、その安堵感の一方で、あらぬ恐れも抱きはじめていた。
 異国船へは、老中の命が正式に下る前から水・薪が運ばれている。加えて異国人が要望した食料についても、その後今日までの間に白米二俵、麦二俵、籾二俵、鶏四百羽、卵、林檎二籠、瓜二籠が荷入れされている。そうしたことであるから、補給を充分と見た役人たちは、あの閻魔顔の異国人どもが帰り際に何を仕出かすか不安を感じはじめていたのである。そしてそれが、とんでもない事件を引き起こす。
 早朝のコロンブス号長官室。
 船長がビドルヘ何事か告げに来た。
 「It cannot leave port today.」
 この日は、日本では「土用干し」をはじめる日である。何処の家でも衣類を出して干すわけであるが、だからこの時期は、例年天気がよくて無風の日が多いということ。艦長トーマス・ワイマンは数日来の気象データから、今日一日無風がつづくと判断し、自力での湾外への船の引き出しが出来ぬことをビドルヘ告げに来たのである。
 ビドルはそれを了承。
 艦長の去った長官室に一人たたずむビドル。想い起こされたのは、来航時に駿河湾で見た、夕映えに影射す富士のすばらしさ……
 「代任の大役はもう少しで終わる」
 その想いが、日本側との最後の太き絆の構築を夢見させた。
 「礼節を重んずる侍の国日本。今日の出港を遅らせたのは神の計らいに違いない。この日を大切にし、自ら出向いて補給物資を運んでくれた礼を述べなければ……」
 ここ何日かのあわただしさから開放され、いつもより遅い時刻に朝食を済ませた彼は、ボートの手配を命じて仕度にかかった。
 一方の役人側は、この時刻、イライラがつのりはじめていた。
 なぜかといえば、約束の日の夜明けが過ぎたというのに、いっこうに動く気配をみせぬ黒船。やはり何かを企んでいる、という思いがつのる。
 そこへ、コロンブス号からボートが降ろされた訳であるから、一同ことさらに緊張。
 警固船の一艘がにわかにもち場を離れ、奉行所への報告へ走る。その間もビドルと兵士数人を乗せたボートは囲みの中の大船へ近づいてくる。
 ビドルは浦賀奉行への取次ぎを求めるため、警固船の中でも一際立派な、指揮船と思しき舟を目指して漕ぎ出していたのである。その白波の軌跡の先、そこには警固のみの任にあたる川越藩の御用船があった。
 一人の兵士が、寄せられた船べりを挟み話しかけてくるが、川越藩の役人に分かろうはずもない。御用船の船べりは押し合うほどに役人が折り重なり、何かあれば団子となって切り込む勢い。その最中、誰かが隠し置く大筒のムシロ掛けに誤まって手を触れ、丸き鋼鉄の砲身から被いがずり落ちた。あらわになる大筒、しかしボート側の兵士からは立ち並ぶ侍の陣羽織の重なりの中のできごととて、しっかりと見える状況にはなかった。
 むしろ驚いたのはそれを囲む役人たちの方で、見られた、という瞬間的な動揺が侍たちを異常な殺気へと駆り立てていく。だがもっと悪いことが起きた。
 周囲に漕ぎ付けた他の御用船の立てる波が、異国人らを乗せるボートを大きく揺らし、バランスを崩した兵士の一人が腰を落とし身構えるその姿が、脇を固める若侍の垣間見る眼に手を短銃に掛けたように映し出されたのである。瞬間、若侍の一人が抜刀。船べりの外へ白刃を振り抜き、正眼の構えをとった。
 「おおっ」
 周囲のどよめきの中、その切っ先、見事に兵士の双眼をとらえ、短銃を起こせば六尺を超えて跳びいずる気迫。脇の役人がとっさに手甲を押さえるのと同時に、対手の兵士がすぐさまその過ちに気付き、肩の高みで手の平をこちらへ向け戦意なき事を表わす。
 ボートの乗員は、みな武器を携帯してはいなかった。抜刀した役人は、ここ何日かの黒船の間近な警固で、船中の兵士が腰に銃を携帯していることを見知り、このときにも携えていると錯覚していたのである。しかし、手甲を押さえた役人は、ボートに乗船するビドルらを注意深く観察していたことで、何らかの談判に来たことを想定していたのである。
 その噂に左右されず、刻々と現れる事象を冷静に見極めてきた侍の眼が、双方を窮地から救った。しかし言葉の通じぬもどかしさ、双方にらみ合う中での幕引きとなった。
 驚いたのは浦賀奉行所の与力衆である。急ぎ漕ぎ付け、事のいきさつを聴取。しばらくして通詞を乗せた船が漕ぎ来るに及び、それをともない役人たちがコロンブス号ヘと乗り込む。もちろん彼ら役人も、異国人が武器を携帯せず、司令長官のビドル自身がボートで来た異例さにより、出港できぬ理由を述べに来たのではないかという推測をなしていた。したがって、事後処理の行動はすばやかった。
 ビドルは相当に驚いていた。
 しかし、事の行き違いの真相が説明されたことで、すべてを理解し、納得した。そして、風待ちで出港できないこと。また奉行に合わせぬ事は聞き及んでいても、奉行所の御用船まで出向き、交渉に当たった与力中島、また通詞堀に面会し、彼自身の言葉で慰労を述べ、補給物資の礼を奉行へ伝えて欲しき思いの行動であったことを告げた。
 双方ほっと胸を撫で下ろし、事なきを得る。
 若侍の抜刀が無ければ、これほどに大事には至らずに済んだのであろうが、このことがさらなる噂を呼んだ。
 異国人が川越藩の船に乗り移り、大筒の上に掛けたムシロを引き剥いだ。川越藩の役人が、大筒に手を掛けた異国人に無礼なりと抜刀した。またコロンブス号の三段の砲列の後ろに影が射しただけで、大砲を撃つ準備をしていた。果てはその大事件があったにもかかわらず、船を出さずにまだ何か企んでいる等々。
 それより前、六日の出港を約したのに船が動かぬことへ、役人の中には故障して動けず、という噂も飛び交ってはいたが、朝から手回しよく浦賀奉行が後備えの手配をしたものだから、諸藩が警固に走り出す最中のこの事件。噂に尾ひれが付かぬわけはない。
 もとを正せば、ビドルの差し出した請書の末に
 「(申し渡しの書付を確かに受領)ついては風順しだい早々に出帆つかまつるべく、この段御請申し上げそうろう」
と訳された一文が、ちゃんと添えられているではないか。戦国以来の一大事。だから誰もが浮き足立つ。
 7月 日(弘化三年六月七日)。
 昨日の事件後の会談で風待ちしていることを確認した浦賀奉行は、房総側富津の八幡の網元らに引船を要請。朝五つ時(午前8時)浦賀湾から二里(約8q)沖へ二艘の黒船を引き出し、さらに二時間後、三浦半島の先端まで伴走して外海へ送り出した。
 そのころ、ヒドルの姿はコロンブス号の長官室の中にあった。日本人が透明な障子と表現した窓から一人見つめる先には、霞立つ富士の姿は消え去り、大海原が広がっていた。それは寂寞の思いを映し出す海でもあった。





黒船9 ─それぞれの運命─


黒猫を待ち受けていた運命
 
 最後に黒船を見届けた船。それは川越藩松平大和守配下の御用船であった。
 その報告によると、外海へ出た二艘の黒船は南南西へ向い、昼ごろ大船は西へ、小船は南西へ舵をとり、翌朝には双方とも船影が見えなくなったという。
 これには幾つかの目視上の誤りがあったように思う。推測するに、遠く離れた段階で、先を進むコロンブス号を小さく、後付くヴァンセンヌ号の方を大きく見誤っているように見受けられる。それは、本国を目指すコロンブス号に対してヴァンセンヌ号がその後一年間中国にとどまっているからで、このときコロンブス号は小笠原諸島へ、またヴァンセンヌ号は日本列島に沿うルートで南下していたのであろう。
 アメリカ本国へもどったビドルの評価。
 それは冷淡なものであった。後の時代のペリーへ連なる歴史をもって位置づければ、多大な貢献をしたことは疑う余地はないし、またその姿勢こそが、開国へ向けた初動行為としてはもっとも適切であったことはいうまでも無い。
 しかし、異端の画家における評価と同じく、それは若きアメリカにとり
 「アメリカの兵力に対する尊厳を低めた」
 また当時の海軍長官の言においては
 「日本人は、その指令長官の成果によって、アメリカ人をひ弱なものとして楽しんだ」(Naval Historical Center Home Page)
と、皮肉を込めた言葉を残すほどであった。
 あの風待ちの一日が無かったら。
 ビドルは、そのときを振り返り、思ったことであろう。
 「あの出港を遅らせたのは、神の与えたもうた試練に違いない」
 しかし、彼の成果は確実に偉大なものであった。
 日本側へ英語の必要性を認識させたことは、7年後のペリー来航時に、英語が分るにもかかわらず、それを隠し、必要にオランダ語を介在させて曖昧な応対をするという交渉術をも使いこなすほどに、アメリカへの関心を高めたからだ。
 アメリカ側が懸念した
 「兵力に対する尊厳を低めた」
という評価は、風聞飛び交う日本ではあっても、一切無かったといっても過言ではない。
 鉄に包まれた千石船の 倍もの重さを持つ船、また水を吸い上げる巧みな技を目の当たりにしては、庶民の誰一人としてアメリカの技術力をあなどる者はいなかったはずなのだから。
 しかし、歴史の無常。ペリーの前に、ビドルの貢献は再評価もされぬまま、益々消え入る運命にあった。
 それは、コロンブス号、そしてヴァンセンヌ号の運命とて同じであった。
 コロンブス号は日本来航の翌年、1847年4月9日に退役。一時再役はしたものの、1861年10月12日アメリカ連合国軍(南軍)の進軍を阻止するため、爆破処理により座礁。のち引き揚げられ、ボストンの軍工廠で保管されたものの、1867年10月5日には売却のために解体。
 一方の世界の海を知るヴァンセンヌ号も、アメリカ連合国軍(南軍)の侵入を阻止するための盾となすため、1861年10月12日、海上での爆破処理によりその使命を終えている。
 話は1846年の黒船出港時へもどる。
 ヴァンセンヌ号の料理係下役の青年が、あの日以来探しつづけていた黒猫。それはいま、旅籠の隠居の手に抱かれ、浦賀湾を見渡せる松林にあった。
 「いよいよ異国人どもが去っていくか。この馬鹿騒ぎのおかげで諸国からの荷が滞り、高値がつづいたが、これで物の値も下がるじゃろ…」
 黒猫は隠居のぬくもりに、優しき料理係りの青年を想い出していた。
 隠居は、この猫に出会ってからというもの、片時も離そうとはしなかった。猫の方も居心地がことのほかよいのか、すっかりなついて、隠居が雪隠へ行こうものなら、その後をのそりのそりと付きまわるほど。
 黒船が去って二、三日したころ、御役を終えた役人が、隠居とは顔なじみだから明日は江戸へ立ちもどるということで、夜尋ねてきた。この隠居とは俳句仲間、だからしばしの楽しみもよかろうと上がり込み、俳句談義に華が咲く。
 外は闇。隠居部屋の障子は、夜の涼風を呼び入れるために開け放されている。
 その障子の影から、ニャーと可愛げな声を出して猫が様子をうかがいはじめたのであるから、その役人も見たくてしょうがないが、何せ後ろ向き。いきなり振り向いては逃げるかも知れぬと、その声からする幼さを想い描きつつ、隠居に小声で
 「ほほう、後ろに猫が来ましたかな。もしやご隠居、女性に縁なきこととて、猫を添い寝と洒落込みましたかなハハハハ」
 「いえいえ、牡の猫ですわい。ほれおいで」
 役人の脇へ来て差し足を止め、前足の片方を宙に置いたままにその顔を見上げるしぐさ。総毛漆黒の猫に驚きながらも、心奪われる役人。
 「なんと、四足では牛で見たことはござるが、猫とは恐れ入った」
 そこで役人あることを想い出した。俳句仲間の、ある大店の隠居から聴いた無類の猫好きな藩主の話。この猫、あるいは御大名の側用人ほどの格に伸し上がるかも知れぬと考えた。
 「それは面白や、面白や」
ということで、黒船帰りの手土産とばかりに、罪人を運ぶような唐丸籠、唐丸とは長鳴鶏のことで、本来それを飼育する円筒形の竹籠のことだが、ともかくその籠に入れられ、陣羽織など納めた武具の荷とともに江戸の下屋敷へと入った。
 黒猫は、そこから大店の隠居の元へと身の置き処を替えたが、ここまで来ると、牡猫ではあるが、まるで何処ぞの輿入れ間近きお姫様のような待遇で、首に錦の紐掛けの鈴など飾られ、出入りの竹籠屋に作らせたのであろうか、下に紫のお座布を敷く一段と豪華な唐丸籠に入れられ、上膳、据膳のもてなし。 商い仲間に俳句仲間、噂を聞き付けた町衆はおろか、一目見んと遠方からも知り人を頼りに尋ね来る人波。黒船の噂と抱き合わせのように広まったものだから、数日後にはこの噂、目指す御大名の耳へと伝わった。
 最初に拾われた旅籠のご隠居の元へも、口利きの役人が便りを出すから、その知らせが今日は来ぬなと一憂し、来れば事の成り行きに一喜。それを幾度かくり返すうちは
 「近ごろの騒ぎ、御大名にも聞こえければ、拝見のはこびにこれ成りそうろう」
という、折紙がもたらされた。
 さてさて黒猫は、紋付羽織袴姿の隠居に従えられて、さる御大名の立派な御門をくぐり抜け、式台から屋敷内の控えの間に通される。
 よほどのことと家臣が驚くほどに、御前様の早いお出まし。すぐに別間へ通される。帳台構の上段の間から、ちこう寄れとの指図にて、膝を折りつつにじり寄らんとする隠居。お前ではないと云いたげに、籠持つ用人へ眼をくれて、手招きしつつ近寄る御殿様。
 「ほほう、これはめずらしや。漆のごとき色艶」
 籠の内にて狛犬のごとくに前足起こして構える黒猫。その精悍さにぞっこん惚れ抜く御殿様。
 「二晩なりとも、ここへ置かせてはくれぬか」
 その問い掛けに 「ははぁ、御意のままに」
 ひれ伏す隠居。
 その報は、早飛脚で旅籠の隠居の元へ。
 「おぉおぉ、あの猫が御大名のお側へとな、ハハハハ」
 旅籠の飯盛り女も仰天。あの夜、腹をすかせて迷い込んできた黒猫が、まさか御大名に養われるとは……
 その後、黒猫は大店へはもどって来なかった。三日が四日になり、四日が五日となり、月が替わろうとももどっては来なかった。それを承知の隠居ら面々。
 それから二十一年が過ぎた1868年4月25日。
 それはまさに江戸城開城から二週間後のこと、黒猫の姿は南青山の古寺にあった。
 当時としては考えられぬほどの長寿を全うし、いまその命を閉じようとしていた。
 ここに至る黒猫が、いかなる運命をたどったかは誰一人知る人はいない。なれど、そのやせ衰えた姿をみれば、維新を迎える争乱の中で庇護者を失ったことは容易に察せられ、その時がまた、長寿に恵まれた黒猫の意識が燃え尽きるときでもあったのであろう。その数奇な運命を湛えた瞳が、いま一瞬の輝きを放ち、沈み込んだ……
 この日は、百二十余人の日本人労働者が新天地を求め、駐日ハワイ総領事を務めるアメリカ人ヴァン=リードの働きかけでハワイへ旅立っている。アメリカは、もはや遠い閻魔の国ではなかった。
 
 黒猫に投影していたダリの意識、それが白霧をともない穏やかに引いてゆく。
 その黒猫の陰気は、魂鎮めを必要とせぬほどに満ち足りたものであったらしい。長い眠りのような時の流れから解き放たれた野良猫ダリ。大きく背筋を伸ばしたなりに、何事も無かったように墓地を後にする。
 サラリーマンが落としていったのであろうか、道端に開き落ちた真新しい新聞があった。それが夜明けのビル風にさらされてはためく。ダリは、その一日足らずの歴史には見向きもせずに、いつもの骨董通りの陽だまりへ、帰り着こうとしている。            (黒船.完) 2008年4月4日筆了


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