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下宿内山遺跡展の記念講演会の資料を公開してます。こちら
 

下宿内山遺跡の概要

 

1.下宿内山遺跡って?何処、どんな遺跡

下宿内山遺跡は、清瀬市北部を東西に流れる柳瀬川に隣接する下宿3丁目に所在している清瀬水再生センター建設に伴い、昭和511976)~昭和571983)年の間に発掘調査が行われた遺跡です。この遺跡からは、縄文~近現代までの遺構・遺物が確認されていまが、この遺跡の調査成果として、縄文時代前期の住居、古代の在地有力者層の居館、そして近世・近現代の農村に伴う建物・井戸などの居住施設や、当時の人々が使用した茶碗・皿などの陶磁器の見つかったことがあげられます。

 現在では、近世遺跡を調査するはあまり珍しいことではありませんが、発掘調査当時では珍しいことだったので、知る人ぞ知る遺跡として知られています。ここでは、代表的な発掘調査成果を紹介していましょう。

      下宿内山遺跡全景

2.縄文時代の遺構・遺物 清瀬で最も古い縄文土器の出現

 縄文時代の遺構としては、前期(約6,0005,000年前)の竪穴式住居・埋甕・集石が検出されています。また、出土遺物も遺構と同様に前期が中心となっていますが、近年の再整理によって旧河道などの覆土からは、草創期(約13,00010,000年前)~晩期(約3,0002,400年前)までの幅広い縄文土器が出土していたことが判明しました。このことは、少なからずこの遺跡周辺に草創期頃からの生活の痕跡があったことを示す新たな発見となりました。
前期竪穴式住居




  草創期縄文式土器        前期縄文式土器




3.古代の有力者層の居館  柳瀬川流域の館跡


 遺跡全体からは、
8世紀~10世紀にわたる古代の竪穴式住居70基と22棟の掘立柱建物が検出されていますが、調査区中央南側の約50m四方の範囲内に9世紀後半~10世紀にかけて4間×4間の大型掘立柱建物を中心に、周辺部に掘立柱建物や竪穴式住居、井戸が集中して作られている部分が発掘調査で確認されました。この遺構集中部分の掘立柱建物・竪穴式住居からは、墨書土器、灰釉陶器、緑釉陶器、銅製の馬鈴を含む金属製の馬具、そして石製・金属製の革帯具など、一般集落と様相の異なる遺物が出土しています。

下宿内山遺跡が隣接する柳瀬川は、古代において入間郡と多磨郡の群境となっていました。さらに、この時期の清瀬市周辺には、現在の秋津駅の西方約2.6㎞離れた場所に当時の官道の1つである東山道が通っていたと推定されており、市域における柳瀬川流域は、群境でありかつ東山道が隣接していた重要な地域であったと考えられています。そのため、下宿内山遺跡からは一般的な集落などと違う遺物が出土していたのではないかと考えられます。

この歴史的背景や遺構集中部の遺構配置あるいは、出土遺物の種類などから、この掘立建物群は、当時の有力者層の居館と考えられています。
 銙帯(丸鞆、巡方、鉈尾)

 灰釉陶器皿




4.下宿内山遺跡の江戸時代初期の旗本陣屋 

 中世末~江戸時代初頭頃は、下宿内山遺跡周辺は、清戸本村と呼ばれていました。そして、遺跡内には、昔から「陣屋」と呼ばれている場所が存在しており、その場所から江戸時代初期の大型堀立柱建物・井戸などが見つかっています。これらの建物は、文献や字名などから、天正19年~寛永11年(1634)頃まで、この地を統治していた太田清政と助重父子によって築造された陣屋に伴う可能性が考えられています。大型掘立柱建物が太田氏、その北側には家臣団の居住施設と想定される掘立柱建物群と井戸が見つかっています。
 この旗本陣屋は、現在の所発掘調査では7例程度が確認されている程度で、貴重な発掘成果となっています。



旗本陣屋遺構配置図



旗本陣屋大型掘立柱建物出土遺物


5.姿を現した江戸時代の農村 ~清戸下宿村の農村の痕跡①~

陣屋が17世紀中頃に廃絶した後、再び、この地に数多くの人々が住み始めたのは、近年の発掘調査の再整理からは17世紀末であったことが分かりました。この地域は、農村であり、柳瀬川に近い地域では稲作、それ以外の所では畑作を行い、生活をしていました。発掘調査では、調査地点全域から掘立柱建物を主体とする14軒の屋敷・井戸・水田、そして用水など農村に関連する遺構や日常雑器を中心とする陶磁器や木製品など当時の人々の暮らしぶりを想像することができる数多くの遺物が見つかっています。
 農家の屋敷である掘立柱建物

 多種多様な出土陶磁器



6.近現代の農村~清戸下宿村の農村の痕跡②~
 
 明治時代以降の下宿内山遺跡では、発掘調査が始まる直前の昭和
40年代までの様々な遺構・遺物が確認されています。屋敷地や用水や水田も江戸時代と同じ場所で継続して残っており、用水からは明治時代以降の陶磁器が大量に見つかり、明治~昭和に周辺に居住していた人々の生活を想像することができました。発掘調査では、屋敷が掘立柱建物から石土台建物へ、井戸もコンクリート井戸枠に変化した様子を発掘調査で知ることができました。そして出土遺物も、陶磁器を中心にガラス製品や煉瓦などが出土しており、遺構・遺物から徐々に農村が近代化していたことも伺うことができます。発掘調査の成果からこの遺跡は近世~近現代までの農村の様相を重層的に知ることができる遺跡であることが判明しました。
発掘された水田・用水


遺跡出土の近現代遺物