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※下宿内山遺跡展の記念講演会の資料を公開してます。こちら |
下宿内山遺跡の概要 下宿内山遺跡は、清瀬市北部を東西に流れる柳瀬川に隣接する下宿3丁目に所在している清瀬水再生センター建設に伴い、昭和51(1976)~昭和57(1983)年の間に発掘調査が行われた遺跡です。この遺跡からは、縄文~近現代までの遺構・遺物が確認されていまが、この遺跡の調査成果として、縄文時代前期の住居、古代の在地有力者層の居館、そして近世・近現代の農村に伴う建物・井戸などの居住施設や、当時の人々が使用した茶碗・皿などの陶磁器の見つかったことがあげられます。 現在では、近世遺跡を調査するはあまり珍しいことではありませんが、発掘調査当時では珍しいことだったので、知る人ぞ知る遺跡として知られています。ここでは、代表的な発掘調査成果を紹介していましょう。下宿内山遺跡全景 2.縄文時代の遺構・遺物 清瀬で最も古い縄文土器の出現
下宿内山遺跡が隣接する柳瀬川は、古代において入間郡と多磨郡の群境となっていました。さらに、この時期の清瀬市周辺には、現在の秋津駅の西方約2.6㎞離れた場所に当時の官道の1つである東山道が通っていたと推定されており、市域における柳瀬川流域は、群境でありかつ東山道が隣接していた重要な地域であったと考えられています。そのため、下宿内山遺跡からは一般的な集落などと違う遺物が出土していたのではないかと考えられます。 この歴史的背景や遺構集中部の遺構配置あるいは、出土遺物の種類などから、この掘立建物群は、当時の有力者層の居館と考えられています。 4.下宿内山遺跡の江戸時代初期の旗本陣屋 中世末~江戸時代初頭頃は、下宿内山遺跡周辺は、清戸本村と呼ばれていました。そして、遺跡内には、昔から「陣屋」と呼ばれている場所が存在しており、その場所から江戸時代初期の大型堀立柱建物・井戸などが見つかっています。これらの建物は、文献や字名などから、天正19年~寛永11年(1634)頃まで、この地を統治していた太田清政と助重父子によって築造された陣屋に伴う可能性が考えられています。大型掘立柱建物が太田氏、その北側には家臣団の居住施設と想定される掘立柱建物群と井戸が見つかっています。
5.姿を現した江戸時代の農村 ~清戸下宿村の農村の痕跡①~ 陣屋が17世紀中頃に廃絶した後、再び、この地に数多くの人々が住み始めたのは、近年の発掘調査の再整理からは17世紀末であったことが分かりました。この地域は、農村であり、柳瀬川に近い地域では稲作、それ以外の所では畑作を行い、生活をしていました。発掘調査では、調査地点全域から掘立柱建物を主体とする14軒の屋敷・井戸・水田、そして用水など農村に関連する遺構や日常雑器を中心とする陶磁器や木製品など当時の人々の暮らしぶりを想像することができる数多くの遺物が見つかっています。 6.近現代の農村~清戸下宿村の農村の痕跡②~ |