プロローグ
埋もれた歴史
あるとき、著名な考古学者が、新聞記者から次のような質問をうけた。
「あなたは、なぜ考古学の道へ進まれたのですか?」
その考古学者は、つぎのように答えたそうである。
「人はだれもある年齢になれば父や母のこと、また祖父や祖母のことを知りたくなる時期がきます。わたしの場合は、そうした興味が、若いころに、そしてさらに古い時代へ向けられていたということでしょう」
最近は、考古学の世界も江戸時代以降へ目をむけるが、この当時はまだ奈良・平安時代以前の古い時代に学問の主力がおかれていたときである。にもかかわらずこの言葉からは、数千年の時をへだてた文化を研究しながらも、そこに肉親の歴史を探るような意識を抱いていたことが感じとれてくる。それはどうしてなのか?
だれも知るように、考古学は土の中に埋まる遺構や遺物から古い文化を研究する学問で、それには「発掘」という調査方法がとられる。もちろん、手つかずのままに地中に保存されてきたものを掘り出すのであるから、何が、どのような状態で埋まっているかは分からない。 こうしたことから、考古学者はつねに新たな歴史資料の発見に立ち会うことができることになるのだが、先の考古学者は、そのような場面での遺構や遺物との直接的な関係の積み重ねが、資料との時のへだたりを埋め、「わたしの場合は、そうした興味が、若いころに、そしてさらに古い時代へ向けられていたということでしょう」 という言葉にあらわされていたように思える。
発掘は一見宝探しのようでもある。だが、実際の発掘調査ということになると、そこには綿密な手順が必要となる。ただ遺物を掘り出して収集するだけでなく、それらがどのような状態で残されているか、ということが重要になるのである。
竪穴式住居跡の中から土器が発見されても、生活していた状態のままに残されているのか、あるいは住居が放棄されてから捨て込まれたのか。また、それらは一度に捨てられたのか、時間をおいて個々に継続して捨てられたのか等々、出土状態について詳細な観察がなされなければ、過去の人々の暮らしを想像することはできない。
そうしたことからすれば、研究者には、その一つひとつの事象を見きわめていくための豊富な現場経験のほかに、それを復元的に考えていくための生活者としての視点が欠かせないものとなってくる。
発掘をしていると、見学者からよく聞かれることがある。
「どうして、ここに遺跡のあることがわかるのですか?」
こうしたとき、研究する者としては当たり前になってしまったことを、改めて考えさせられるのである。やたらに土地を掘り返しても、遺跡を発見することはできないのであるが、それを説明するときに、ときどき思い出されることがある。
それは年末のテレビ特番。徳川の埋蔵金を探すものである。レポーターが、パワーショベルで掘り抜いた地下十数メートルの底で、土壁の高さに圧倒されながらマイクを握りしめているのだが、埋蔵金が隠されているのであれば、そこまで掘らずとも地上から掘られた坑道があるはず。それが埋まり込んでいたとしても土層の変化がなければならない。
このように、目的があっても、手当たり次第掘るのであれば調査とは呼べない。
学問としての発掘調査には、純粋に研究を目的とする学術発掘と、遺跡の消滅を前提にした開発にともなう行政発掘がある。
「水戸黄門は発掘調査をしたことがある」と言えば驚かれるであろうが、〔大日本史〕を編纂するため、常陸国の古墳を調査しているのである。そのとき黄門らはすべてを記録した後、遺物を元の状態へもどしてから入り口を封印したと伝えられているが、これは学術発掘の理想的なあり方といえる。
一方後者の行政発掘は、田中角栄の列島改造論を契機とした開発ラッシュのなかで激増してきたが、その当初はまだ考古学の社会的な認知度は低く、各地で開発側のブルドーザーの唸りに追いまくられる調査がつづき、トラブルも多発していた。
発掘調査が認知されだしたのは、新聞がまだ単色の時代、一面カラー刷りの衝撃的な記事でとりあげられた高松塚古墳の発見からである。
考古学の記事は、昭和三十年代ころの紙面にも、神奈川県の南掘貝塚、長野県の栃原岩陰に代表されるような、研究上の参考資料となりえるほどの充実した内容を誇るものがあった。
しかし、この高松塚古墳の発見からの新聞への掲載件数の多さには驚かされ、その裏側では、わたしが若いころ土器採集でめぐっていた神奈川県の多摩プラーザ、荏田、市ヶ尾あたりの、のどかな丘陵地の風景もニュータウンと化し、いまはむざんに削りとられてそのころの地形さえも残されていない。
こうした開発というおおきな代償のもとに、考古学は人々の関心をえて発掘調査の重要性も社会的に認められるようになってきたわけである。
もちろんそれは、地形を変えるほどの開発であるから、歴史上の発見も数知れず、いつしか考古学に関する情報はセンセーショナルな部分に脚光が集まり、逆に考古学自体の生の姿が人々に伝えられないことも多くなってしまった。
先の「どうして、ここに遺跡のあることがわかるのですか?」という、調査時によく受ける質問は、こうした状況のなかで、考古学における調査・研究の実態が、それに参加しなければなかなか伝え難いものになってしまったことを思い知らされる。
本書は、そういう意味において、考古学がどういう方法で調査展開させていくか、また担当者がどの時点で悩みだし、解決するための発想をどこからえて問題を解きはじめるかを、十年の歳月のなかでライブ版としてつづったものである。
この目的の彼方にあるものは、いまだ誰も入り込んだことのない縄文式土器の文様世界。そこに神話的な世界が構築されているとすれば、それはいかなる精神世界なのか、という壮大なテーマへ向かっていくことになる。
本論に入る前に、「どうして、ここに遺跡のあることがわかるのですか?」という質問に、以下の解説をもって答えておくことにする。
各市町村には、地表に散乱する遺物を採集し、その量と質から遺跡の範囲と時代を想定した「遺跡台帳」なるものが整備されていて、それにより遺跡の所在を知ることができる。
この台帳は地表に散乱する遺物観察から作り上げられているが、ではなぜ、これら各時代の遺物が現代の地表で観察できるのであろう。
遺物は、各時代の地表とともに地中に埋没する。そのため本来は人の目に触れることはないが、多くの場合、武蔵野台地でもそうであるように、江戸時代の享保の新田開発以来の開墾により、ほとんどの土地が開発しつくされているで現代の地表に現れてくるのである。
江戸時代の新田開発は、田圃ばかりでなく、荒れ地や雑木林の畑地化が主なものであったが、こうした平地での畑地や水田、山地での伐採や植林などにより、現在までに人の手が入れられていない場所はわずかしか残されていない。
そのため、いたるところで先史以来の地表土の破壊が進行し、それにより地中に眠る遺物の一部が、地上へ散乱する状況をがつくりだされているのである。
清瀬市域においても、すでに農作業により縄文時代までの大半の地表は破壊され、雑木林として存続してきた台地縁などの一部にそれが残されているにすぎない。
一般的に、地表土の下に現れる「赤土」と呼ばれる関東ローム層の上面は、富士火山帯の活動の休止した一万年前とされるが、地下深くまで生育するゴボウ畑では、その掘り起こしで数万年前の地層まで破壊されており、こうしたことから縄文時代の遺物でも、数千年来そのままの状態で保存されているのは、関東ローム層を深く掘り込んで造られた竪穴式住居跡などの中に限られていることになる。
しかも竪穴式住居跡といえども上部は破壊をまぬがれず、当初は一メートル前後掘り込まれていたものが、二十〜三十センチしか残されていない状態が武蔵野台地では一般的なのである。そして、この破壊された部分の遺物が、地表に散乱しているわけである。
遺跡の所在を明らかにするために行われる遺物の分布調査は、地上に露出する、これらの遺物採集からはじめられる。
「勝坂式の土器片が散乱しているから、この区域には縄文時代中期の集落跡が埋没している可能性がある」「ここは、須恵器や土師器が出土しているから奈良・平安時代の遺物包蔵地」というように、遺物の分布状態からは遺跡の位置と範囲が、また遺物の種類からは想定される時代や遺跡の性格が割り出され、遺跡台帳が作り上げられているのである。
そして、この台帳で指定された区域、あるいはその隣地で開発が生じたとき、はじめて埋蔵文化財保護法という法律にもとづく調査が開始されるのである。
まず最初に行われるのが、試し掘りをともなう確認調査と呼ばれる予備的調査で、その性格により遺跡の有無を確認するものと、遺跡の範囲を確認するものがある。
先の遺跡台帳は、あくまで遺跡の存在を予想したものに過ぎないことから、この確認調査では、実際にトレンチやグリッドと呼ぶ溝や正方形の升目を数ヶ所に設定し、それを掘ることで地下に遺構や遺物が存在しているか否かを確認するのである。
その結果、遺構・遺物が明らかにされた場合は、本格的な発掘調査へ引き継がれていくことになる。
さて、本格的な発掘調査がはじまると、散歩途中や買い物帰りに足を止める方々も多くなるが、こうした好意的な見学者に一様にイメージされているのが、古い時代ほど段階的に地下深くから現れるという、化石に見られる層位的な状況である。
こうしたあり方は、群馬県や北海道南半のように、火山灰の堆積が頻繁な地域では見られ、三宅島北東部の西原遺跡では、縄文時代中期の住居跡が地表下六メートル二十センチにあり、海に面する崖の浸食で偶然発見された例などもある。
しかし、武蔵野台地では、草木の枯れてできた腐植土は想像以上に長期間かけて堆積してきており、各時代の層の厚さはいたって薄い。それ故に耕作の影響を受け、先史からの地表のほとんどが破壊されているのである。
その耕作土(攪乱土)を取り去ると、そこは現れるのは一万年以上前の富士火山帯から降り注いだ、「関東ローム」と呼ばれる黄褐色の火山灰層である。
破壊を免れた竪穴式住居跡などの遺構は、すべてこの火山灰層に掘り込まれていたために残りえた痕跡であり、そこでは奈良・平安時代の遺構も、室町時代や江戸時代の遺構も、同じ破壊をまぬがれたローム面に検出され、層位として確認されていくわけではないのである。
これら掘込みをもつ遺構中には、埋まり込む時点で微妙な違いをもつ各時代の腐植土(地表土)が入り込む。そのため黄褐色のローム面に黒い土の広がりとして遺構の存在が確認できるのである。
調査者は遺構の形態と出土する遺物の種類に加え、これら土質からも時代を割り出していく。
例えばそれが、直径四、五メートルの大きなものであれば住居跡の可能性が強く、楕円形であれば縄文時代中期や弥生時代の住居跡が、また方形であれば縄文時代前期や古墳〜平安時代あるいは中世以降の作業小屋が推測され、後者の一辺に焼土や粘土が確認されれば、竈をもつ住居跡として古墳〜平安時代の住居跡の可能性が濃厚になる。それには周囲から検出される遺物の型式年代も重要となるが、それが見られない場合にはこの微妙な土質の違が時期を定める大切な判断基準となってくる。
これら各時代の表土層は、富士火山帯の活動が休止した一万年前から繁茂し出した草木の腐食による土で、黒色味が強い。
しかし、当初は基盤の黄褐色のローム層との混合を起こすことで暗褐色をていし、それが時代を経るごとに腐植土が優勢となり、本来の黒色をした表土層へと変化してきている。
それにともない、土のしまり具合も異なり、自然堆積であれば、古い時代ほど土圧の影響を受けて堅くしまりがある。同じ遺跡の中でも、こうして時代により遺構に埋まり込む土質に異なりが見られ、調査者はそうした状態を絶えず観察しながら発掘を進めているのである。
近年注目されている遺跡に、縄文時代の三内丸山遺跡(青森県)や弥生時代の吉野ケ里遺跡(佐賀県)などあるが、清瀬市に所在する野塩外山遺跡の場合も、柳瀬川から空堀川流域にかける縄文時代中期の歴史を解き明かすものとして、歴史的に重要な遺跡であることにかわりはない。
この十年におよぶ研究のはじまりを告げる野塩外山遺跡の発掘調査は、記録的な猛暑となった一九九四年の夏におこなわれた。
作業に従事したすべての人々は、この発掘調査をとおして土に埋もれた四千五百年前の縄文世界に触れ、次々に発見される家の跡や土器に眼を輝かせては、各人の想いのなかで縄文人との対話をはじめようとしていた。
これからお話しするのは、その発掘調査の記録である。調査をひもときながら、縄文人の生活、そして出土した縄文式土器に描かれた文様の意味を、調査者の視点から掘り下げていくことにする。
第一章 野塩外山遺跡発掘調査の記録
発掘調査に至るまで
一九九四年春
野塩三丁目でおこなう宅地造成のため、事業者から教育委員会へ遺跡の所在確認があった。
その場所は、清瀬第四中学校の南側。室町時代の薬師如来が安置されている、曹洞宗円福寺薬師堂裏手の台地上に広がる畑地。遺跡台帳に記された
1遺跡内の開発である。
遺跡の現状を確認するため、現地へ向かう。
博物館を出て、現地へ向かうと、そこは一部に樹木の苗木が植えられているだけで、休耕したままの畑地がつづいている。
付近を歩き回ると、あちこち縄文時代中期の勝坂式や加曽利E式の土器片が落ちている。ひろい集めた土器片の中にはかなり大きな破片も見られる。
この場所は、空堀川が柳瀬川へ合流する東岸の台地上で、近くの野塩八幡神社下には、かつては湧水も見られ、縄文時代の集落を営むには好適地。
遺跡の現状確認の結果は、試し掘りによる調査を必要とするものであった。
それ以後、遺構の有無、およびその保存状況を確認するための、試掘調査の実施へ向けた書類上の手続き段階へ入っていった。
ところが、この宅地造成と地続きの場所で、第四中学校の校庭拡張が予定されている旨の連絡が入り、急きょ試掘対象区域を広げることになった。
四月十二日
三日間の予定で遺跡の確認調査が開始された。
主な作業は遺構を確認するために設定した、十ヶ所のトレンチ(試掘溝)の掘り下げであるが、遺構の保存状態が良好であることが予想されたために、作業はすべて手掘りで進められた。エンピと呼ばれる大形スコップによる、人力での耕作土の除去である。
作業が進むにつれ、調査区域の中央から台地縁にかけて設定したトレンチから、土器や石器の出土が目立ちはじめ、地下に遺構の埋もれている気配が濃厚となり、それを裏付けるように、攪乱の影響を受けていない関東ローム層の露出した面に、次々と住居跡らしき暗褐色土の広がりが現れてきた。
二日後の調査終了日には、三ヶ所から縄文時代中期の竪穴式住居跡が発見され、他の二ヶ所からも、それぞれ縄文時代の遺物の集中と、近代以降と思われる溝跡の存在していることが明らかとなった。
この調査結果は、同時に、本格的な発掘調査が必要であることを意味していた。
以後、市内の埋蔵文化財にかかわる問題を処理する「清瀬市内遺跡発掘調査会」において、調査体制をどうするか、その費用や期間はどれほどなのか、という本格的な発掘調査を前提とした協議がかさねられていった。
今回の発掘の問題は、遺産相続の税納付にともなう個人の土地開発と、市がおこなう校庭拡張という、異なる二つの原因をだきあわせた発掘調査であるため、両者の費用負担に厳密な資料が要求されるということである。
開発に営利が発生する場合、本調査にかかわる費用は、受益者負担が原則となる。つまり、個人が住む家のための開発であれば営利は発生せず、補助の制度はあるが、転売や賃貸を目的とした開発であればそこから営利が発生し、受益者として事業主に負担をお願いしなければならない。
もちろん、拠出した発掘費用にかんしては、後に税法上の優遇措置を受けられるのだが、費用負担が高額になるため開発者側との調整が大変なのである。
「発掘ですか、ロマンがあっていいですね」
確かに、三十年以上もやってきた好きな道である。しかし、おじいさんが亡くなり、おばあさんが悲しむいとまもなく相続が発生し、先祖伝来の土地を売らなければ税が払えない。それに加えて発掘への費用負担。
「首をつるようだよ!」
こうした場に調整にいくことも多い。そこにはロマンはない。
発掘は現場作業でもある。雨、雪、風、暑、寒、身じろぎもままならずに住居跡の床に腹這い、柱穴を掘ることもある。また、整理では内職仕事のように単純作業がつづき、土器ひとつの実測に数日を要することさえある。ロマンは、こうした肉体と精神の疲れを代償とするかのように、求めようとする心の中に生まれてくるもので、けっして転がっているものではない。
さて、調査会との協議で出された結論は、費用負担の算出を前提とし、双方の開発で消滅する区域を重点に、すべての遺構の存在を明らかにするための範囲確認調査を、今一度実施するというものであった。
したがって、その後の協議は、それぞれの負担費用が算出された段階で、迅速に本調査へ移行するための調整となり、本調査への体制も討議されていった。
開発側の個人には、期間の長期化が金融機関からの借入金の利子負担増につながる。調査する側には期間との戦いがはじまろうとしていた。
範囲確認調査が実施されたのは、先の試掘調査から二ヶ月後の六月十五日である。
調査には、広域が対象となることからパワーショベルを導入し、調査員の指示のもと、遺構を傷めぬように薄剥ぎしながら耕作土が除去されていく。後につづく作業員は、掘り残された土をジョレンと呼ばれる道具を手にして掻き取りながら、ローム面を削り出していく。
耕作土にまぎれていた遺物が、地区ごとに集められていくが、場所によっては縄文時代の土器や石器に密集が見られ、そうしたところでは遺構の存在を暗示する暗褐色土の広がりも、漠然とではあるが観察されている。
こうしたところではジョレンを移植ゴテに持ちかえ、遺物の出土する状態を残しながら暗褐色土の広がりを精査していく。
ここでのあり方は、直径四メートル以上の楕円形。住居跡と認定してほぼ間違いはない。
調査最終日。八ヶ所から住居跡が検出され、さらに二ヶ所、不明な遺構の存在していることが判明した。
それらの調査所見は、遺跡の時代は四千五百年ほど前の縄文時代中期勝坂式期後葉から、それにつづく加曽利E式期前葉。遺跡の性格は集落跡。八基の住居跡が調査区域の中央から台地縁の方向へ分布し、それに近代以降の溝や農作業にともなう干し場の柱跡が存在。
これらの結果から、本調査の期間と費用が算出され、本調査に至る最後の協議が開催された。
列席者は、地権者、不動産会社、遺跡調査会ならびに市の教育委員会と建設部。試掘調査の結果にはじまり、本調査の期間、体制、費用分担。
前回までの協議で、大方の問題は解決している。残されているのは、埋蔵文化財保護法に基づく、開発者側に求められる受益者負担の原則。
いくばくかの後、
「しょうがんべぇなぁ。発掘しなけりゃ家たてられねぇちゅうだから……」
ぼくとつとした清瀬弁(方言)。つれあいのおじいさんを亡くし、このような場にいることだけでも、ご先祖様に恥じ入るような想いでいる小柄なおばあさん。
都心の、巨大企業による、組織的な開発にともなう発掘調査と異なる世界が、ここにある。
本調査の期間は実働四十五日。対象となる住居跡は八軒。最大プラス二軒。無理は承知の上で組んだ日程。消滅を前提とした記録保存のゴーサインがだされた以上、効率的な調査を心がけ、のりきらなければならない。
発掘開始
範囲確認調査から一ヶ月後、野塩外山遺跡発掘調査団が発足。
その体制は大学教授を団長とし、実際の調査は清瀬市郷土博物館学芸員であるわたしと、清瀬市教育委員会嘱託となった東野豊秋君が、それぞれ調査主任と調査員として十五名の作業員の指揮にあたるものであった。
調査期間は一ヶ月半。調査する側にとっても、宅地造成する側にとっても、互いに譲歩しあうなかでぎりぎりの選択がせまられていた。
本格的な発掘調査を間近にひかえ、急ピッチで準備が進められた。
大形トラックでコンテナ式の仮設事務所が搬入されたのにつづき、机や椅子が運び込まれ、電話も設置された。そして事務所脇には、簡易トイレが、また隣接する中学校から水道も引かれた。
こうして二、三日のうちに、測量機材や掘り道具にいたるまでさまざまな物品がそろえられたのである。
七月十八日朝
調査にたずさわる人々が、ぞくぞくと集まりはじめた。暑い、暑い、夏の発掘のはじまりである。
「では、現場での諸注意を申し上げます」
円陣を組んだ人波を見わたすと、大半は二十代の青年男女。そして彼らとは三回りも年の違いそうな男性が二人。
「炎天下の発掘です。気のゆるみが大きな事故につながります。各自ケガにはくれぐれも気をつけてください」
ここで諸注意がおわり、遺跡の概要と調査方法についての話がはじまる。それを要約すると、
遺跡の名称は「野塩外山遺跡」。遺跡名は、位置を限定させるため所在地の小字名をもちいることが一般的で、この「外山」も、検地帳に登場する江戸時代以来の呼び名である。
清瀬周辺では、雑木林が平地にもかかわらず「ヤマ」と言いならわされてきているが、この「外山」とは旧野塩村のはずれにつらなる雑木林というほどの意味で、開墾されて畑地化したのは、地租改正のあった明治時代はじめごろからのことである。
すでに述べたように、この遺跡は縄文時代中期の勝坂式期後葉から加曽利E式期前葉の集落跡だが、この土器につけられた勝坂式や加曽利E式という型式名は、時代とともに変遷する土器群に与えられた標識名で、最初に型式認定された遺跡の名前が使われる。つまり、これからわれわれが発掘しようとする遺跡で、新たな型式として認定される土器群が発見されれば、それは「外山式」という名称になるわけである。
この遺跡の時期、つまり縄文時代中期は、他の時期にくらべ遺跡数が著しく増加している。清瀬周辺でも、柳瀬川、空堀川、黒目川など、河川沿いの台地上に集落跡が分布するが、そうしたなかでも空堀川が柳瀬川に合流するこの付近一帯には、かつて清水の湧き出るところが九ヶ所もあり、集落をいとなむには絶好の場所であったといえる、等々。
こうして、一通りの話がおわり、調査主任の指示のもと、四、五名ずつ各地区にわかれての作業がはじめられた。
ある班は、耕作土の取り除かれたローム面を、調査区の端からジョレンで丁寧に掻き広げ、まだ確認されていない遺構を検出する作業にはいっていた。
しばらくして見にいくと、近代以降の農作業にともなう畝間の溝跡や麦などの干し場にともなう柱跡が検出されており、とくに溝跡は、幅三十センチほどのボソボソとした黒土が埋まり込み、東西方向へ幾筋も規則正しくならんでいる。これらはすべて、トレンチャーという農業機械で掘られたものである。
眼鏡をかけた、一見学者風の北沢君が質問してくる。
「なぜ、そんなことがわかるんですか?」
一部分掘り上げたところの溝の断面を観察すると、それは凵形をしていて、底がほぼ水平にならされている。 手掘りではこうはいかず、断面はU形になり底はでこぼこ。ゴボウの収穫では、横に溝を掘り、折れないように細長い鉄棒を添えて倒しながら収穫していくので、片側の壁面が荒れていて、ゴボウの植えられていた底には根の先端が入り込んだ穴が点々と残される。もちろん、手掘りと機械掘りでは年代も違う。
長い間発掘調査にたずさわっていると、思わぬ遺構に遭遇することがある。
懐古してみると、清瀬ではサツマイモの貯蔵やウドの栽培されていた防空壕のような室跡に遭遇し、若い時分には神奈川県の大船で、丘陵の尾根から円形の掘り込みの側壁へ人の入れるほどの退避壕を備え付けた第二次世界大戦中の高射砲の陣地が、また北海道の函館では大戦末期に完成を見ることなく埋め戻された、光学器械を製造するための地下式軍需工場跡などある。
こうした建物跡であればよいのだが、近ごろ試掘調査した清瀬の下宿地域では、試掘溝から数メートル離れた場所から、戦時中に投下された時限式二百五十キロ爆弾が出てきたという物騒な体験もある。
耕作土の下にはさまざまな時代の遺構や遺物が埋没している。縄文時代も戦時中のものも、関東ローム層の同一の面に刻み込まれているのである。調査者には、まさに、何が出てくるかわからない世界なのである。
調査区の中学校寄りで作業していた高崎君から声がかかった。彼には発掘経験があるらしい。
「片側に筋のある、四角な黒土の跡が出てきたんですけど、何でしょう?」
「掘ってごらん、底がU字型で筋がついているから」
近くを見わたすと、そのような黒土が点々と一列に残されている。これらは、爪を付けたパワーショベルのバケットを土に突き入れた跡。
高崎君が移植ゴテで掘り進む後から、思ったとおりに爪痕が溝をなして現れてくる。用地境に植えられていた樹木の抜き取り跡だ。
若い作業員の様子を遠目に追う。どうも変だ。道具の使い方がよくない。
ジョレンは、長い柄の先端にレ字形に付けられた刃を、地面にねかせるように沿わせなければ土をきれいに掻き取ることはできないし、移植ゴテも深めに握り、突き刺さずに縁で掻くように掘らなければ道具の効果をだせない。ちょっとしたことだが、作業効率に大きな違いを生じさせる。
若い作業員を集め、道具の使い方を説明する。ひととおりの説明を終え、空手で使い方をシミュレーションする若者へ視線を合わせ、ひとこと加える。
「箸の持ち方も……」
発掘現場での言葉の意外性に、視線が集まる。
「箸の持ち方も、ちゃんとしなけりゃだめだ。おもいっきり開けば百十度や百二十度はひらく。そこまでは必要なくとも、その握りが、理にかなっていなければ二、三十度しかひらけず、大きなものは挟めない。それだけ自由さを失い、疲れも早くなる。
大形スコップの排土作業でも、土をひとかたまりで飛ばせれば、風の強い日にばらけて自分にかかることはない」
実演しながら、説得のような話がつづく。
「右腕に力をいれすぎず、スコップの重心を握る左腕を肩を支点に振り子のように繰り出し、土が離れる寸前に、スコップの先端が自然に下向きの弧を描くようにする。
それには腰の反動が大切だが、力を分散しているから疲れもすくないわけ。移植ゴテも突いてばかりいると、手が痛くなっちゃうよ。
後は作業しながら慣れていってください。
ああ、岩淵君、わるいけど事務所の裏からネコもってきて」
覚えたての名前を呼ぶが、キョトンとしている。名前を間違えたかと思い、記憶をまさぐっていると。
「ネコですか? ネコって何ですか?」
人名を間違えたのではなかった。本人は生きている猫を思い描き、困惑していたのである。
「ごめん、ごめん。ネコっていうのは、土を運ぶ一輪車のことなんだ」
遺構の掘り下げ
発見された住居跡には、個別に1号住居跡、2号住居跡と、番号がつけられていくが、性格の判然としない遺構には、多くの場合「土坑」という名称が使われる。これは「どこう」と読むが、坑の字には「壙」や、その略字を用いることがあり、いずれも「穴」という意味である。
考古学の用語には、そのような昔から言いならわされてきた言葉が多く、本来の機能を読みとり難いものも多い。
たとえば「石匙」。これはせきひと読み、そのままでは石のさじになるが、実際に想定される機能は肉を切り裂くつまみ付きのナイフ。このほかにも、6号住居跡から出土した遺物に「石皿」と言われるものがあるが、これも食べ物を盛る皿ではなく、木の実などをすりつぶすための道具として使われたものである。
このように考古学の用語には説明を要するものがたくさんあるので、ここからは用語の意味を書き添えながら話を進めていくことにする。
さて、調査区域では、試掘調査で検出されていた各住居跡の精査がつづけられていた。
暗褐色土のなかからは、埋没していた遺物が数千年の状態を保って出土してくる。それらを注意深く残し、住居跡の輪郭が明らかにされていく。
作業にあたる者は男女を問わず、野球の捕手のように大地にしゃがみ込み、掘り進んでいる。土器や石器を発見すると、脇に目印の竹串を立て、竹製のヘラや手持ちの小さなホウキを使い分けて掘り出していく。
調査区中央南端で検出されていた、1号住居跡では輪郭の検出作業がほぼ終了した。
住居跡を埋めつくしている暗褐色土の広がりは、直径四メートル五十センチほどの楕円形で、北側に張り出しが見られる。このような形態は通常柄鏡形住居跡と言って、祭祀に使われる、住居跡の一方に鏡の柄のような造り出しを設ける石敷きの住居跡が想定される。
柄鏡形住居跡は、四千数百年前の縄文時代中期加曽利E式期以降に見られるので、野塩外山遺跡に造られていても不思議ではない。試しにボーリング調査という方法で地下の状態を調べることにする。
考古学で言うボーリング調査とは、温泉を掘りあてるほど大がかりなものではない。鉄やステンレス製の棒の先に、土をためる溝をいれたT字形の棒で地面を突き刺し、押し込んでいくが、そのときの感触や溝に付着した土の性質で、地下の様子を判断する簡便な調査方法である。そのときの感触はこんな具合だ。
両手に握った横棒に体重を乗せる。垂直に延びた鉄棒が住居跡中央の暗褐色土へ静かに滑り込んでいく。手に伝わる感触には何の変化もない。
やがて六十センチは入ろうかというところでボーリング棒が制止。石に突き当たったコツコツとした感触ではない。食い込むように、ゆるやかに制止したのである。
この感触は堅い土層に入ったときのもので、棒の先端が暗褐色土を通過し、密度の高い関東ローム層へ到達したことを意味している。
渾身の力をいれてボーリング棒を抜き返す。案の定、先端の溝には鮮やかな黄褐色のロームが付着している。
場所を変え、数ヶ所でこの作業をくり返してみても、やはり六十センチほどの深さで止まる。つまり、この遺構は、確認面からの深さが六十センチ、底は平ら、石敷きは見られないようだ。
では、張り出し部の状態はどうであろう。その結果は暗褐色土の堆積が十センチにも満たない。この時点で、住居跡であることはほぼ確定したが、柄鏡形住居跡の可能性はなくなった。
武蔵野台地や多摩丘陵で発見される住居跡は、耕作などの影響で竪穴の上部が破壊され、床から二、三十センチの高さしか残されていないのが一般的であるが、そのことからすれば、この1号住居跡の保存状態はすこぶる良好といえる。
柄鏡型住居跡という予想は途切れたが、この滅多に見られない保存状態を考えたとき、早急に掘り下げにかかることが躊躇される。
そこで、周囲の住居跡の調査を先行させ、遺跡全体の様相を理解した上で本格的な調査に入ることにする。はじめて調査する土地では、調査担当者といえども観察眼を養う期間が必要なのだ。
したがって、1号住居跡での作業は、確認面で出土している遺物群と、住居跡の輪郭および上面での土層変化を縮尺二十分の一の平面図に記録する作業をもって、いったん凍結。残存部分が、床からわずか二十センチしか確認されていない2号住居跡の掘り下げを優先。
この2号住居跡は、調査区域中央の北側から検出されていたが、用地境に植えられていた樹木の抜きとりで一部が破壊されており、他の住居跡にくらべ保存状態が悪い。
暗褐色土の広がりは、長径四メートル五十センチの楕円形。すでに確認面から、土器の小破片や円礫がかなりの量出土している。
住居跡を掘り下げる場合、はじめにおこなうのは輪郭を明らかにする作業、その次にするのがベルトの設定である。ベルトとは、廃絶後の住居跡がどのような過程を経て埋没したかを調べるために掘り残す、土層観察用の畦のことで、通常は二、三十センチほどの幅で十字に設定する。
この畦の断面に観察される土層の性質や堆積状態から、人の手で埋め戻されたものか、また自然に埋まったものか、あるいは埋没後に掘り返されているかなど、さまざまな状況を観察していくのである。
2号住居跡では、輪郭の確認段階で、埋没している暗褐色土の上面に「?」形の帯状をした土質の異なる部分が観察されていた。掘り下げるにしたがい、この黒色味の強い土が埋まり込んだところに遺物の出土していないことが判明した。
一つの想定として、住居跡の埋没が進行したある時点で、土器を捨てにきた縄文人が土を踏み込みながら進入し、そのことでできた窪みを、後に黒色味の強い土が埋めたという可能性がでてきた。
住居跡に限らず、発掘するということは土器や石器を掘り出すだけではない。各作業過程のなかで、細心の注意を払いながら状況を観察し、個々のあり方を復元していく視点が欠かせない。
ここで認められた現象は、その後もいくつかの住居跡で確認されたが、先の1号住居跡北側の張り出しと見られた浅い窪みも、後の分析から住居跡が埋没する過程で何者かが入り込んだ踏み跡であることが判明した。
さて、掘り下げは、ベルトで仕切られた四区画に入る作業員により、パワーショベルや耕作で破壊された攪乱土の除去から開始された。
平均的に掘り下げる前に、こうした部分を先に掘り出すほうが、地下の状態を事前に知ることができ、また出土遺物についても攪乱の影響をうけたものを事前に分けておくことができるのである。
作業が進行するなか、西側の攪乱箇所では深さ二十センチたらずで床の断面が現れてしまい、さらに十数センチ下まで破壊がおよんでいる。
ここでは、床がパワーショベルで掘りぬかれ、住居西壁の一部も破壊されている。
東北側の攪乱はというと、これはかなり深くまで入り込んでいる。そのL字形をした形態から、直角に向きを変えて掘ったパワーショベルの掘削痕であることが分かり。その底からは、ざっくりとした爪痕が現れた。
しばらくして、その南側からは三十キロを超そうかという巨大な河原石が発見された(前頁 右上写真左側)。
「ちょっと来てください! こっ、これ何ですか?」
表面を観察しても、たたいたり、磨いたりした痕跡は顕著には認められない。
「こういう大きな石は、ストーン・サークルなどの祭祀に関係する場所では見られるんだが……」
この石は造園業で取り扱われるような石ではないし、古民家の柱を受ける基礎石としては大きすぎる。周囲の土層状態が悪いために判然としないが、住居跡にともなうものであることは間違いなかろう。しかし、この住居で生活が営まれていた時点から存在していたものか、住居が廃絶した後に流入したものか、判断することはできない。
出土状態に手がかりが残されていないということは、事件の捜査でいえば迷宮入りを意味する……
攪乱土の除去が終了し、いよいよ本格的な掘り下げに入る。西南側の区画からはぞくぞくと土器片が出土し、それに中小の河原石もまざり込んでいる。
てきぱきと作業をつづける、いかにも現場経験豊富な年輩作業員の猪口さんから声がかかる。
「黒耀石のチップが出ましたが、どういたしましょう?」
ここで出土したものは、石器を作る過程で飛び散った小さな剥片。よく見つけ出したと思うと同時に、掘り下げの作業精度が上々であることを確認した瞬間でもある。
黒耀石はご存じのとおり、矢の先に使われる石鏃のほか、ナイフや錐など、さまざまな道具の材料として使われた縄文人の必需品である。
では、なぜ必需品になりえたかというと、それが天然ガラスだからである。金属器が登場する以前の時代にあって、これほどの鋭利な刃を作り出せる素材はなかったであろう。
この石は火山地帯に産し、長野県の白樺湖北方に所在する和田峠、伊豆半島の天城山、伊豆七島の神津島などに見られるが、その科学的な分析からは年代や産地を特定できる。
多摩地域の遺跡から出土する黒耀石の研究では、縄文時代中期前葉までは和田峠周辺のものが多く、中葉以降になると神津島産のものが主体となることが報告されている。
多摩地域の各縄文集団が、内陸部から海浜部への接触を強めているのであろうか?
この黒耀石は、古くは旧石器時代から使われている。関東ローム層は富士火山帯の噴火による火山灰の堆積層であることはご承知のとおりだが、その上面は火山活動の休止した一万年ほど前とされており、それから下は土器が生みだされる以前の旧石器時代である。
清瀬でもこの時代の遺跡が点々と発見されているが、それらは、獲物を追いながら移動をくり返していた集団が、一定期間滞在したキャンプ跡で、暖をとり、狩でえた獲物の肉を焼いた焚き火跡、またベースキャンプ的な遺跡からは、消耗していく狩猟具を補うために石器作りをした跡などが残されている。こうしたところからは、黒耀石や薄く剥がれる頁岩などの石片が群集して発見され、ときには作りかけのナイフがまざり込んでいることもある。
考古学者は、その石片を持ち帰り、丹念に接合を試みるわけだが、それには長い時間と根気が必要となる。根気は、言い換えれば持続する集中力、それは目的意識の高さに比例している。
こうした地道な作業を通して、原石を製品に仕上げていく工程が理解されてくる。ここで出土した小さなチップも、数が集まれば、それを想定していくことができるのである。
ところが、旧石器時代の石片の群集する事例はかなり報告されているが、縄文時代の発見例はすこぶる少ない。小金井市に所在する前原遺跡の住居跡から一万七千四百四十九点の黒耀石片が出土した例もあるが、このような作業は、本来地表でおこなわれていたらしく、残念なことに耕作で破壊されている場合が多いようなのだ。
この黒耀石片の発見を契機に、2号住居跡の各所から剥片の出土が相次ぎ、完掘までに四十点も検出されることになる。
それらのなかには、破片どうしが接合するものも見られ、その状態の観察からは母岩の打撃位置を変えずに、同一面上をずらしつつ連続させながら打撃を加えていることが判明した。この方法で取り出されたのは、いずれも規格性の強い薄型の剥片である。
どこか近くに、石器を製造した場所が存在しているのである。
もし、この住居跡の窪みを利用していたとすれば、大量の剥片が検出されるはず。しかし、ここでは量が少なく、出土の仕方にも規則性は認められない。点々と離れた位置から出土し、床からの高さにも統一性は見られない。
この出土状況からは次のことが推察される。
石器を製造した場所が住居跡周辺の当時の地表上にあると思われ、そこに飛散していた剥片の一部が、土にまぎれながら、つぎつぎと廃絶住居跡へ流れ込んだ、と。
先にも述べたとおり、縄文時代の石器製作の技術については、製造場所の発見例が少ないために不明な点も多いが、ここでは北海道での事例をいくつか紹介しておく。
道南部の、日本海に面する乙部町栄浜遺跡と、津軽海峡に面する知内町森越遺跡からは、両遺跡で三例の石器製造場所が発見されている。時代は縄文時代早期一例、中期二例である。
上、早期(栄浜遺跡) 下、中期(栄浜遺跡)
このうち早期のものは、縦長の剥片を取り出していくもので、厚味のある四角に調整された石をもちい、平らな上面の縁ぎわを、左右に移動させながら打撃を連続させて複数の剥片をとり、それが一通り終了すると、ひっくり返して下面でも同じ工程をくり返す。そうすると剥片を剥ぎとった側面の中央がコブ状に盛り上がり、短い剥片しかとり出すことができなくなるので、今度は横からの打撃を加えてこのコブをとり去り、最初のような平らな側面に整えてから、再度剥片を取り出すための打撃をくり返していく技法である。
北海道では、この時期に動物の解体に使うつまみの付いた縦長の大型ナイフが頻繁に使われているが、この技法は、それらの素材となる大形剥片をえるためのもの。
これに対し中期の二例は、いずれも円形の原石を大割りし、その割れ口の平坦な面の縁から打撃を加えはじめ、順次原石を回転させながら、手ごろな打撃位置を探しながら剥片をとっていく技法が使われている。
この方法では、早期のように一定した縦長の剥片を剥ぎとることはできない。母岩から剥ぎとられた多量の不定形をした剥片のなかから、規格に合うものを選び出し、製品に加工していたようである。
中期では、石鏃や錐など小型な製品が主体になるので、このような乱れ撃ちのような方法でもこと足りていたようである。しかし、形を定めたものだけが石器のすべてではない。製品化されることのない屑の破片も、じつは加工されないだけで、鋭い縁をもつことに変わりはない。
指でつまみ込めば、縄を切り、樹木の皮を剥いだりと、多目的に使いこなすことができる。中期には、むしろこうした加工されない剥片利用が増したのではないだろうか。そう考えればここでの事例の少なさも納得できるが、さて事実はいかに。
ここで付け加えておけば、これらの技法には石のもつ特性がたくみに利用されている。
厚いガラス板の上から鉄球を落とすと、衝撃波はガラス板の断面に、接触面を項点として裏側へ抜ける円錐形の形を作り出す。そのときの円錐形の側面の角度は、ガラス面に対して六十度の傾斜角になる特性がある。
つまり、この斜めに一定して割れる特性の片面を利用し、打撃の位置を微妙に移動していけば、次々と同じ規格の薄い剥片を取り出すことができる。
時計を見るともう四時半である。大声を出す。
「機材を片付けて、上がる準備をしてください」
暑い一日が、やっと終わりを迎えようとしていたが、フィールド・ノートに調査状況を書きとめておく大切な仕事が残されている。
調査区域の端に建てたやぐらの上にのぼると、夕暮れの心地よい風が景色に動きをあたえていた。
いったん博物舘に戻り、家にたどりついたときにはテレビの野球中継も半ばを過ぎていた。
わたしの家族は妻と二歳になる子供の三人家族。
「暑くて弁当のご飯がのどに通らないんだ。
古漬けをたくさん入れてくれないかな。
煮物があればその汁を飯にかけてくれ」
乱暴な注文をするが、妻は台所でだだっ子を相手にするように微笑んでいた。三十半ばを過ぎて一緒になったが、家族をもてたことがうれしかった。
想えば、高校三年から泊まりで発掘現場へ行くようになっていたが、ずっと後になってから、明治生まれの親父やお袋がよく心配しなかったものだと思いかえし、聞いたことがある。
「心配しないわけあるものかね。お父さんも心配してたんだよ。
だけどお前が大きなバッグに洗濯物いっぱい詰めて、ガラガラって玄関開けると、あぁ腹へったって帰ってくるから、わるさはしてないって、お父さんと話してたんだよ」
現場へ出るとこうした情景はいつも同じなのだが、今日の妻の仕草も、そうしたことを感じとってのようにも思えてくる。
板碑の発見
その翌日。寝起きの床のなかで。
「痛い。痛い。体の節々が痛い」
そうなのだ、筋肉痛である。
演劇のように、発掘調査には第一幕と第二幕がある。それを簡便に言えば、第一幕は体を使い動き回る現場作業。第二幕は頭を使い机に向かう整理作業。まさに「動」と「静」。
こうして、第一幕のはじまりには、かならず筋肉痛がやってくる。
しかし、この痛みは、自らの懸命の証でもある。現場作業の初段階は、まず担当者が体を張って働かなくてはならない。
現場の雰囲気が萎えるのはたやすく、一度作業がだれてしまうと修復するには時間がかかる。七日目あたりには仕事に慣れる代わりに不満も顔をもたげはじめ、作業の滞りとともに怒る事態も出来するが、そうなっては怒りもどれほどの効果があろうか。まして、今回のような酷暑の加わった短期の発掘では、致命傷になりかねない。
「しょうがんべぇなぁ。発掘しなけりゃ家たてられねぇちゅうだから……」小柄なおばあさんが記憶の中で問いかけてくる。
今日の作業進行を考えながら、やがて現場へ到着。
2号住居跡ではかなりの遺物が出土している。それらは住居跡の縁から中央に向かい、十数度の傾斜をもって検出されているが、この状態は、住居が放棄されてから一定期間が経過し、竪穴内を埋没土がすり鉢状に覆う段階で廃棄された遺物群であることを意味している。
いったん遺物の出土状態を図面に記録しなければ、掘り下げが困難な状況になってきている。
そこで、2号住居跡には図面係を残し、他の者は3号住居跡と4号住居跡の掘り下げに入ることにする。
今回の調査では、ビデオカメラによる映像の記録性を重視し、試掘段階から調査状況を撮影しつづけていたが、2号住居跡においてもスライドとモノクロの写真撮影が終了した時点で、ムービーによる多方向からの撮影を進めていた。
そんな折り、調査区南端の1号土坑の掘り下げにかかっていた平山君から矢のような声が飛んできた。
「先生、来てくださーい!」
しゃがみ込んでいた作業員が、何か出たかと各所で頭をもたげる。
ビデオ機材を置いて声のする方へ小走りに向かうと、遠目からでも、それが板碑であることがわかる。
「おお、板碑だ!」
1号土坑は長径二メートル七十センチの楕円形をした遺構であるが、ことのほか深い。埋まり込む土は、黒色味の強い、しまりのないボソボソとした土で、江戸時代以降の様相をていしているが、上層から板碑が出土したことで中世である可能性もでてきたわけである。
ボクシングジムに通うという、いかにも腕っ節の強そうな平山君に、皆を集めるように指示し、その間に板面に彫られている文字の判読にはいる。
軍手で土を払いのけ、手をかざした陰で文字を読みとると、その年号は、
「康永三年十一月日」
事務所へ駆け出し、歴史手帳の和暦で調べると、それは一三四四年。
再び駆け戻りながら、頭の中では中世の清瀬周辺の歴史事象が呼び起こされている。
「すいません、待たせました。板碑が見つかりました」
はずむ息を整え、
「ちょうどよい機会なので板碑について説明します。ここに彫られているのは阿弥陀如来をあらわすキリークと読む文字で、ギリシア語・ラテン語・ロシア語と同じ祖語から分かれたインドのサンスクリット語です。これを梵字と言いますが……」
板碑とは一種の塔婆
勢至と観音の菩薩をともなって現れた
阿弥陀如来の招来を告げる梵字
それらは、
新しい世を築くため
戦乱の犠牲となった人々が
相克の世を離脱し
阿弥陀如来に導かれつつ向かった浄土へ
やがて自らも向かおうとした
記念碑だったのでしょうか
という、博物館で製作したVTRのシナリオの一節が想い起こされた。
板碑は、釈迦の死後、二千年のときをおいて飢餓死滅の世がくるという、末法の思想を背景として生み出され、阿弥陀如来の威光にすがり極楽浄土へ行こうとする中世の民衆により普及したもの。
板碑に使われる石は、荒川上流域に産する、緑泥片岩と呼ばれる緑色味を帯びた板状に剥離する岩である。
千二百年代に入り、しばらくして原石の産出する荒川上流域に現れ、その後半には多摩川北岸へも点々と広がりを見せる。
そして千三百年代になると、各地域に所在していた拠点的な場所から、細胞分裂のように周辺地域へ拡散しはじめ、その後半期には小形化し、「道金禅門」というような個人の戒名を刻むものが急速に普及する。
そうしたなかから、千四百年代には、月待や念仏などの「講」を組織する人々が造立する大形な結衆板碑も見られるようになり、やがて千五百年代に至って終息する。その間、各所で膨大な数の板碑が造立され、その数は関東平野で十数万基とも言われ、世界的に見ても、年号の刻まれた造立物が一定地域にこれほど残されてきていることは、極めて珍しい現象とされている。
板碑の消失については諸説あるが、有力なものを挙げると、第一に石工の動向による、とする説があり、戦国時代末期に起きた城郭形態の変化に関係するものとしてとらえられている。
戦国時代までの城郭が、合流する河川に挟まれた急峻な丘陵を利用し、自然地形を巧みにとり入れたものであるのに対し、それが戦国時代末期に平城と呼ばれる平地に石垣を組み上げる形態へ変化することで、領主による石工の徴発が相次ぎ、板碑の生産が途絶えた、という説である。
第二には、板碑をとり巻く信仰形態の変化により衰退していく、とする説。
第三に、家康の入国にさいし、従前の信仰が排斥された、とする説などがある。
市域の下宿内山遺跡から多量に出土した板碑や、周辺地域の状況を考えあわせると、最後の説は時期的に板碑の減少が先行するので影響力の弱いものと考えるが、それらが複合しているように思える。
つまり、結衆板碑の出現から、民衆のなかに月待講や地蔵講・庚申講などの「講」を中心とする新たな信仰がひろまりつつあったことは事実で、戦国末期のたびかさなる戦乱による石工の徴発や、土豪層のひっ迫する経済事情により小形化し、衰退していったことも確かなことなのである。
戦国時代が終わり、江戸時代に入ると、その初期の墓石に板碑の形を模したものが出現するが、これなどは戦国時代末期の空白を挟み、板碑にまつわる信仰がつづいていたことをあらわすものとして理解でき、こうした墓石は、今でも下宿地域や柳瀬川を挟んだ坂の下地域の墓地に残されている。
さて、1号土坑から発見された板碑は西暦一三四四年に造立されたもの。ときは鎌倉幕府を滅ばした新田義貞の挙兵から十年が経過し、まさに朝廷が京都と吉野にわかれて争いあう南北朝の動乱期である。
この争いは全国に波及していくが、今のところ当時の清瀬の状況については、下宿内山遺跡で確認されている板碑や舶来磁器などの諸遺物、ならびに掘建柱建物跡以外に知る手がかりはない。
ただ、清瀬市郷土博物舘の近くには「お塚様」なる塚があり、新田義貞の愛馬を埋めたところと伝えられ、また下宿地域の円通寺に安置されている観音は新田義貞の弟の義助が鎌倉から移したもの、という伝承もあり、清瀬にも南朝方の新田義貞について戦った者たちのいたことを暗に物語っている。
この板碑の造立されたのは、新田義貞が越前で敗死した以後のものだが、当時の世情は、互いに北朝方であった足利尊氏と弟の直義の対立する一三四九年の観応の擾乱へと進み、北朝方が一旦南朝方と和睦する時代を迎えていた。
しかし、それもつかの間、直義を毒殺した尊氏が北朝方復帰の形勢をみせ、これに危機感を抱いた南朝方が足利方の勢力をつぶすために新田義貞の遺子をたてて争った武蔵野の合戦へと突入していく。
そしてこのときにも、新田方として清瀬周辺にいた村山党が加わっていることから、1号土坑から発見された板碑の造立者も、代々新田方に属していた家柄の者であることは、充分考えられることである。
いささか長くなった説明が終わろうとしていたとき、いつも柄物のシャツを着ている綾井君が、耕作土から出土したという石片をたずさえてきた。
「これも板碑の石と同じですか?」
「そうそう。これも緑泥片岩です。ただし、これは石皿と呼ばれる縄文時代のもので、木の実をすりつぶすための台に使われた石のかけらです」
「じゃあ、板碑をつくるために採っていた荒川上流の石を、縄文時代人も知ってたんですね」
その通り。長瀞の船下りをする両岸の岩は、すべてこの緑泥片岩。そこに露出している板状に剥げる岩を縄文人とて知らないはずはない。
野塩外山遺跡に暮らしていた縄文人が、直接採りに行くことをしたかどうかはわからぬものの、黒耀石と同じように、なにがしかの方法で遠く離れたこの場所まで運ばれてきたことは確かなこと。
その後の掘り下げにより、1号土坑と板碑の関係が明らかになった。
内部に充足していた土はローム層と表土層の交互堆積。二メートルを超える深さの最下層まで、ボソボソとしており、人の手で埋め戻されたものであることに疑いはない。そして、遺物は上層から出土したこの板碑以外まったく検出されない。
この状況からは、板碑は、別な場所から運ばれて捨て込まれたものと判断され、遺構との関係は絶たれた。
板碑が本来台地の縁に造立される場合の多いことからみて、調査区域西端の円福寺へ下がる台地の端あたりに倒れ込んでいたものが、埋め戻しの土砂とともに運ばれたのではないかと堆察された。
また、遺構自体の性格については、探さと形状から落とし穴であることが判明。
多摩地域では近代のはじめにも落とし穴の使われていたことが知られているが、この1号土坑も、付近の雑木林が開墾されていく明治の地租改正ごろに、動物の被害から畑地の作物を守るために設けられた落とし穴と考えられた。
この遺構は、先の平山君という若い作業員が、酷暑のなかで、数日にわたり一人で深い穴にもぐり込みながら掘り上げてくれた。
この日の朝心配した、現場の雰囲気が萎えてしまうような気配は、まったく感じられなかった。
掘り出された炉
板碑の発見から数日後、再び2号住居跡の掘り下げが開始された。
作業は、図面化の済んだ、上層から出土した遺物群の取り上げからはじめられている。
出土状態を記入した平面図には、個々の遺物に番号が付けられているが、それと照合できるよう、土器や石器の実物にも住居跡番号、遺物番号、日付等が書き入れられたラベルを添えてビニール袋に収めていく。
何千年も前の土器や石器を、土を払いながら直に手にすることができるのであるから、作業員の指先からも、わくわくした気持ちが伝わってくる。
「縄文土器と言えば、縄目がみんなついてると思ったら、いろんな文様があるなぁ」
そうなのである。
教科書に書いてある記述は数行しかない。教科書ではそれがすべてではあっても、現実の世界は多様で、その複雑極まりないなかに、興味、関心、好奇心を結ぶ糸が出されている。
そこでは縄文式土器に対して弥生式土器を、薄いもの、色調が明るいものとして記述されている。しかし、縄文式土器にも薄いものや酸化炎焼成による明るい色調の土器も数多くみられる。そして、縄目をもたない土器も、漆を塗ったり、ベニガラといわれる酸化第二鉄の赤い顔料を使って彩色された土器もある。
残念なことに、教科書には、それらを極限にまで集約させる記述しか、載せる行数はないのである。
上、2号住居跡 下、石の道具
「これは石斧ですか」
みると短冊形をした石斧。
「こうしたものを石斧と一括して呼んでいるんだが、斧のほか、木の又などを利用したレ字形の先端につけてチョウナのように仕立て、木を削ったり、土掘り具としても使われていたようなんだ」
「こちらのは石が磨かれていますよ」
「そうそう、今のは打ち欠いて作られているから打製石斧。こちらのは磨いているから磨製石斧と呼ばれている。
磨製石斧の方は棒の先に横穴を開けて直角に差し込み、主に伐採用の斧として使われている。
木の棒に穴を開けるといっても鉄の道具があるわけじゃないから、黒耀石のナイフや錐を使い穴を広げるが、そこに火種を置いて木質をこがしながら、炭化した部分を削りとる方法もとられていたようだ」
いくつか出土している打製石斧を観察すると、みな片面に河原石の表面が残されているが、このことから打製石斧の作り方がわかる。
河原石を大割りし、その断面の端から打撃を加えると、石の表面で薄く剥がれた石片がとれる。それを素材に、縁を裏表から交互に打ち欠くことで形を整えているのである。
打製石斧には軟質な砂岩が多く使われるが、磨製石斧にはきめの細かな石が使われており、打ち欠きで形を作り出した後に、刃先を中心に磨きを加えて仕上げている。
こうして説明をくわえながらの遺物群の取り上げが終了し、本格的な掘り下げが再開されることとなった。
遺物を納めた箱を事務所へ運び、一同、誰言うと無く天を仰ぎ、大きなため息をついてからしゃがみ込む。
放課後の中学校から聞こえてくる、ブラスバンド部の力のこもった練習音が、セミの羽音に重なり熱さを増す。
しばらくして、南西側に密集していた遺物群の下から、少しだけ顔を見せていた土器の口が、掘り進む竹べらの動きを円形にまわしたらしい。こうしたときは誰でもゾクゾクする瞬間だ。
「おお、でかいぞ!」
唐突に、牧野君から威勢のよい声が出た。近寄って見ると、それは「でかい」といっても、鉢形としては小振りな土器である。
この住居跡は保存状態がわるく、原形を保つ土器の出土は見られないのではないかと思っていたが、こうしたものが発見されたところをみると、床面近くにまだ原形を保つ土器が眠っているかもしれない、などと考えているうちに、にたり顔をした白髪の猪口作業員が、立ち上がってこちらを見ているのに気づく。
何かあったのかなと、視線を下へ向けて驚いた。小さな筒形の土器が、横倒しの状態で完全な形のままに掘り出されていた。
「出ましたよっ! 内田先生!」
驚きをこもらせた、成熟した大人の楽しげな表し方だ。
「猪口さん、これはすごいねぇ」
この土器が出土したのは、遺物の出土が比較的少ない東側で、床面を追いながら、壁の立ち上がりを確認してもらっていた矢先の発見である。
床面の数センチ上から出土しているので、住居が廃絶して間もない時期に廃棄されたことは明らか。土器の型式名は勝坂式。この時期の土器にしては珍しく、粘土紐の張り付けによる、立体的な装飾の認められないグループに属する土器である。
ヘラで引かれた、M形の線引文を基調とする幾何学的な文様がくっきりと描き出され、胴の下端につけられた縄目文様とあいまって、小形ながら周囲を圧倒する存在感を放っている。
猪口さんが、近くにいた若者に向かい、自慢げに、
「どうだ、すごいだろう」
そこですかさず、わたしが検事のような口調で、
「発見したのはあなたです。しかし、この土器は埋蔵文化財であり、法規上は所有者の確認できない遺失物となります。
したがって、本件に関しては、遺失物として所轄の警察署に書類を提出した後、日本国民共有の財産として国庫に帰属され、以後の管理は、それを委託される市区町村において、つまりわたしの職場である清瀬市郷土博物館において管理保管され、国民それぞれに公開されるはずです」
「でも、わたしが孫を連れて博物館へ行ったときには、いつでも見せてくださいよ。発見者なんですから!」
猪口さんの語尾が強まる。
「はいはい、わかりました。ハハハハハ……」
2号住居跡の調査は終盤をむかえていた。床面がほぼ現れ、残されているのは畦状に残したベルト断面での埋没土層の確認、炉跡・柱穴の調査である。
ベルトの断面には、埋まり込んだ土層の堆積状況が克明に残されているが、その観察から、三段階の性格の異なる堆積土で住居跡の埋没していることが判明。
それを復元すると、次のようになる。
住居が廃絶した直後に、関東ローム層を掘り込む壁上部が崩落し、周囲に堆積……第一段階
その後も、日射などで乾燥した壁のブロック状の崩落はつづくが、次第に外から黒褐色をした当時の表土層が激しさを増しながら流入し、壁崩壊土と混合することで暗褐色土として住居跡の床面全体を覆いつくす。この堆積で住居跡の姿は消えうせ、鍋底形をした窪みが出現……第二段階
第二段階までに壁が覆われたことで、以後は完全埋没まで混じり合いのない黒色味の強い表土層が流入……第三段階
以上が復元された埋没過程だが、第二段階までは短期間に埋没したものと思われ、遺物の廃棄は、暗褐色土が鍋底形に堆積してから活発化している。
先の原形を保って発見された鉢形土器や線引文の土器は、その最初のころに廃棄されたもので、出土位置が離れていることからすれば、同じときに別々に捨てたとも、またわずかな期間を置いて捨てたとも考えられる。
こうした遺物の出土状態は、土器を廃棄するという現象が使用中の欠損で個々に起きているのか、そして新しい土器が焼かれたために古い土器の処分が一括して起きているのかなど、縄文人の行動を探るうえで重要な問題を投げかけているのである。
上部から群集して発見された土器片類は、鉢形土器が流入土で埋まり込んでからのものなので、その廃棄以降のものであることは確かである。
しかし、これらの破片はほとんど別個体のもので、群集しているといっても、人の手によるものか、また表土層に当初から混ざり込んでいたものが外から自然流入したものなのか、判別することは困難であった。
もし破片を集めて捨てたというなら、縄文人が家のまわりを掃除し、地面に落ちている石や土器片を拾い集め、片付けるようなことをしていたのであろうか?
こうして、さまざまな事象にほんろうされながら一日の作業を終えた。ところが、この2号住居跡で発見される炉から、縄文人の意外な行動が明かにされようとしていたのである。
翌日
ベルト断面に残した土層堆積状況の図面化が完了し、その撤去作業がつづけられている。
樹木の陰もない現場内には、発電機の音とセミの音が交錯し、作業員の紺色のTシャツには、汗のしみた輪郭に真白い塩が噴き出ている。
「暑い」
心のなかで誰もがつぶやいているはずである。
背後の少し離れた場所には、年配の猪口作業員がいる。移植ゴテに付けられた吊り下げ金具のチャラチャラする音が途絶え、どうやら竹ベラに持ち換えている様子。
気配とは恐ろしいもの、案の定、炉縁として埋め込まれている土器の検出にとりかかっていたのである。それも、誰にも告げずに。
「炉がでましたか?」
かたわらから、いたずらっぽい声をかける。
動じるどころか真剣だ。作業を見守ると、甕形土器│考古学では深鉢形と言うが、見た目の一般的な呼称を用いていくことにする│の弧を描く口の輪郭が、途切れては現れ、また途切れては現れしている。
炉に埋設される土器には、使用できなくなった土器の下半部を打ち欠いたものが再利用され、口径三十センチ以上の大形土器が使われるのが通例である。
ところが、掘り進むにしたがい現れてきたのは、口径十八センチたらずの小形な甕形土器で、それもかたやラッパ形、かたやヒョウタン形という異なる二個体の口縁部破片が炉の縁に交互に巡らされ、東側の隅には河原石がひとつ併置されている。
後の整理作業の段階でそれらを接合したところ、二つの土器はいずれも口縁部が欠損しており、ラッパ形のものは二つの大きな破片に、またヒョウタン形のものは半周ほどめぐる一つの大きな破片に組み立てることができた。
しかし、それが出土状態では個々に二、三片ずつの大形破片と細片に分けられ、しかも交互に配置されているのである。
炉縁として土器の破片を利用した炉は、埼玉県岩槻市の上野遺跡などからも発見されているが、どう見ても、手持ちの土器のなかから用済みのものを選び出し、それを打ち欠いて再利用したとは思えない。
炉縁に使う土器を身近に調達できずに、土器の捨て場から手ごろな破片を拾い集めてきて打ち欠いたとしか考えられないのである。
こうしたことが事実とすれば、炉縁に埋め込まれた土器の型式年代をもって住居の建築年代を判断していく通常の方法は、この住居跡には適用できないことになる。
住居跡の埋土から大形土器が原形を保ったまま出土することがあるが、縄文人でも数世代前の人が廃棄した土器を掘り出して再利用することがないとはいえない。
江戸時代でも「掘出唐津」や「掘出手茶入」と言って、唐津焼や瀬戸焼の捨てられている焼き損じを、後世窯場から掘り出し、好き者な茶人が、
「この口のひび、沈み込んだ腰うえの取り付き、風流このうえない」
「古びた土釉の景色。山紫水明の如くして心なごむわ」
などと言ったかどうかは知らないが、歴史上では、このように古いものを掘り出して再利用することもある。
ここで問題なのは、なぜ大形土器の破片を使わなかったか、ということである。炉縁としては使い勝手のわるそうな、いたって小形な、それも口に大きな突起の付けられたくびれのある土器を、どうして選ぶのか?
後の調査で、3号住居跡からも一方に大きな突起をもつ土器が出土している。
だがこれらとは別に、6号住居跡からは大形な浅い鉢形の土器が炉から出土している。どうせなら、このように当時一般的に作られていた浅い鉢形の土器を用いた方が炉縁の形態としては便利だと思うのだが、そうした事例は逆に珍しいことなのである。
縄文時代に、これだけ土器が生産されているにもかかわらず、ただの一度も炉縁に専用の土器が生まれなかったということも不思議なことだが、さらにもっと不可思議なことがある。炉の形態には浅く掘り窪めただけの「地床炉」、土器を埋め込んだ「埋甕炉」、石を組んだ「石組炉」、それに石組みに併用してその内側に土器を埋め込んだ炉などがある。
だが、機能としては地床炉でことたりたはずで、いくら考えても石組みに埋甕を合わせることに道理を見いだすことはできない。
ある研究者は、炉縁に埋め込まれた土器は、その上に土器を置くためと解釈しているが、普通サイズの土器はそれに掛けられるほど大きくはない。
結論は出ないが、どうも土器を用いることには、機能では割り切れない何かが介在しているように思えてならない。
炉縁に使われる口縁部は、形全体のなかでも最も装飾的な部分であるし、邪魔な突起を打ち欠くこともせずに残しているのは、土器に描かれた文様に対する、なにがしかの意識が炉に共有されていたことを暗示しているのではなかろうか。
土器の文様表現の根底に、生命とそれに関係する火のイメージがあるとすれば、壊れて容器としては使えなくなったとしても、その文様を炉縁として使用することに意味はあったはず。
木が火に変わり、水が熱湯に変わり、その中で冷たく堅い芋が熱く柔らかい芋へと変わる。現代人にとっては、この当然として何の変哲もない現象にこそ、縄文人はある種の強烈な意識を向けていたのではないだろうか。
それが炉であることを考えると、あるいは火に関係するものとして、中世ヨーロッパの錬金術にも似た世界観も想定されてくる。
こうした変化するものに、なにがしかの介在を必要とするイメージがあるとするなら、われわれには意味不明な、土器に造形された幾何学文が意味をなさぬはずはない。
実は、従来の考古学者が踏み込むことのできなかったこの問題こそが、本書の最大のテーマなのである。それは、
土器に描かれた文様は何を現しているのか
という一行にも満たない言葉に集約されていく。
激論
・問題が 問題として意識されたとき、すでにその答えは存在している。
・深い思想とは、あやしいと思う意見ですら同じテーブルの上で討論されなければ育まれることはない。
などという、学生時代に読んだ思想家や研究者のうろ覚えの一説が頭をよぎる。すでに一日の作業は終了している。
次々に現れる事象を、どう解釈してよいのやら脳細胞はパニック状態にある。
あたりには薄暗闇の世界がひろがる。
今日は主だった者で、ささやかな団結式をすることになっている。
発掘に追われ、この日までずれ込んでいたのだが、仮設の事務所では手狭なので、テーブルや椅子を外へ出し、野外で行うことにする。
「ご苦労さまでした。今後も事故なく、無事調査が終了しますように」
「乾杯!」
いっときして、先の言葉を地で行くような、あやしい意見が相次いで出はじめる。
「縄文時代に酒はあったのかなぁ?」
「木の実酒はあったようだよ」
「そういえば、口に小さな穴を点々と開けた樽形の土器があって、太鼓説もあるけど木の実を入れて酒をつくってたなんていう説もある」
この土器は有孔鍔付土器と呼ばれる特殊な土器で、清瀬近辺でも埼玉県の所沢市の白旗塚遺跡や和田遺跡、高峰遺跡、日向遺跡、また東京都の保谷市(現、西東京市)の下野谷遺跡などから出土している。
もし、その土器が本当に木の実酒をつくる容器であるとするなら、野塩外山遺跡の縄文人も当然、木の実酒を作って飲んでいたということになる。
「実は、古事記の仲哀天皇〈酒樂の歌曲〉のなかに、気になる記述がある。
このお酒を醸造した人は、その太鼓を臼に使って、歌いながら作った故か、舞いながら作った故か
このお酒の、不思議に楽しいことでございます
太鼓を臼に使うのであるから、両側革張りの和太鼓のイメージではない。とすると、酒を発酵させる甕の可能性がでてくるわけだが、それに革が張られていれば太鼓ということにもなる。
こうしたおもしろい話がのっているんだが、これは非常に古い時代からのイメージの残存とも思える。
だから、醸造説と太鼓説はどちらも正しくて、木の実酒をつくるときに甕を臼のように使って中の木の実を突きつぶす。その後、口を革でふさぎ、太鼓として使うことで振動を与え、発酵を促進させたなんていうこともあったかもしれない。
うちの親父は明治四十年生まれだけど、昔の酒は今飲んでる酒みたいに透明じゃなくて、黄金色をしていたそうだ。もちろん、縄文時代は果実酒だろうから、もっといろんな色があって奇麗だったろうが。
親父がそれを〈美禄〉だなんて言うもんだから、広辞苑で調べてみたら、酒の異称だと言うんだ。それもおそれいることに、中国の漢書のなかに、「酒は天の美禄」という言葉があって、天からの授かり物だと言う。
さっきの古事記の話も、人の知恵のおよばないところを鼓を打ったり、踊ったりして、外から働きかけていたんだろうな。と、いうことで……
そういえば、神話の世界ではおおかた火は神々の世界から盗み出したり、授けられたりしてるんだよな。だとすれば土器は火で焼くんだから、縄文人だって土器を作り出すために文様を描くことで神的なものに働きかけていたのかもしれないな」
二杯目のコップの酒が空くころ、
「住居跡の炉はあんなに小さいけど、本当に煮炊きしてたのかぁ?」
「前の現場で聞いた話だと、家のなかより野外に炉を作ってバーベキューやってるほうが多かったらしいよ」
「じゃあ、家の中の炉は雨の日に使ってたのか?」
端に座っている北沢君が、先ほどから何かこそこそやっている。
時折、箸を折る音とパックに突き刺すような音が聞こえてくる。
「何やってんのよ」
浅見さんが言う。
この男。独身。土汚れを勲章とでも思っているのか、動じる素振りも見せず、そのままの恰好で電車に乗って帰る。
少し前の試掘のさい、手助けで清瀬にきたのがはじめてで、知らぬこととは言いながら、私に懇切丁寧にローム層の説明をしてくれた。一人で仕事をしてきた私にとって、久しぶりに考古学の話ができる同輩に巡り会え、こころ踊っていたことを思い出す。
今回の本調査も、直接担当する発掘としては十数年ぶり。本心、怖かったのである。たまに助っ人でくる彼が、その気持ちの支えであったことは間違いない。
「バキバキ。ブスッ」
北沢君は、家の骨組みを作っていたのである。
「今日、2号住居跡の床で確認した六本柱の家をつくろうと思ったんだけど、何か変なんだよな」
一同、あ然としてテーブルの端を見る。
ひっくり返した総菜パックに、折られた箸が立ち並び、パックについていたと思われるセロハンテープで梁がとめられている。
何を悩んでいたかというと、本人は円錐形に作ろうとしているのだが、斜めに組む垂木が梁に掛からないから、これなら家の中に主柱がいらないというのだ。
さあ大変だ!
出土遺物の脇に立てる竹串を事務所へ取りに行く者、ダンボールを探す者、蜂の巣をつついたような騒ぎだ。
いっときして、フィールド・ノート(野外調査用ノート)に記録された柱穴配置がマジックでダンボールに写しとられ、柱穴の中心に竹串が立てられ、その上に梁を想定した竹串が乗せられていく。そして、住居跡の輪郭の外側から、壁までの距離を等しくして六本の主柱上端に斜めの垂木を掛けて行くと……
「そら、垂木の頂点が一点に集まらないだろう」
今度は垂木を全部引き抜き、頂点を定めて置いてみると、垂木の下端と地面の接触する位置が住居跡の輪郭から異常に離れたり、近寄ったり……
「あれあれ、これじゃ住居の輪郭を楕円じゃなくて、円にしなくちゃだめだ」
横にいた者が、
「主柱が同じ高さじゃなくて、そこへ乗せる垂木の位置が高かったり低かったりと、場所によって違ってるんじゃないの?」
「これは絶対に違う。円錐形じゃなくて、右左の三本づつの主柱から掛け出された垂木が、それぞれに上端で結ばれ、その二つの頂点の間に棟木が掛けられてんだよ」
一同が頭の中でそれを整理するまでのあいだ、短い沈黙がつづく。
「そうだよ、だって東側の三本の柱の間隔が、ほかに比べて異常に短いもの、これじゃ円錐形にならないよ。やっぱり先生の言うように棟木が乗るんだよ」
現場管理に派遣されてきたこの男。名前は石川君。朝早くバイクできて、現場がはじまるころにトイレ掃除に着手する。帰りは軍手を洗濯して誰よりも遅く帰る。
その理論好きな彼が、幕を引いたかに見えたが、ここでさらなる疑問が飛び出した。
「先生はなぜ現場で主柱が六本といったんですか、まだたくさん穴が出てたじゃないですか」
作業ズボンのポケットからフィールド・ノートを取り出しながら、マッサージの資格をもつ青島君が質問してきた。発掘現場にはさまざまな職の経験者がいるのである。
「そうなんだ。それがどうも建て替えがあるらしい。これを見てほしい」
わたしもフィールド・ノートを出す。略図をいれたメモ書きであるが、人それぞれに個性がある。
「小さい柱穴もあるが、東側には主柱規模の太い柱穴がまだ三本ある。全部で九本。
だが、この三本は、さっきの東側の柱に対になるように配置されている。
実際には柱穴を掘って、埋まり込んでいる土の状態を観察しないとはっきりはしないが、東側だけ柱を立てなおしているようなんだ」
このとき、話のなかで切り捨ててしまった小さな柱穴の存在が、後に大きな問題へ発展していくとは、誰一人思ってもいなかった。
翌日
朝のミーティングが終了すると、誰から言うとはなしに昨夜のメンバーが2号住居跡に集まる。
指さして何ごとか確認している者。片足に重心をかけ、腕組みして考えている者。歩き回る者。それぞれに一、二分をついやした後、持ち場へ向かう。
床面には十数本の穴が確認されていたが、このうちのいく本かは、埋まり込む土の状態から、浅い窪みていどのものであることが見てとれた。
主柱は確かに東側の三本だけ一対ずつ存在している。どうやら、この様相からは西側の上屋を残したまま東側だけをつくり替えていたとしか思えない。こうして現地へ立って見ても、昨夜の討議のようにこの住居の上屋が円錐形ではなく、棟木をもつ構造であることが強く印象づけられる。
柱穴の調査は、土の埋まり込みの状態を観察するため、平面で二分割した片側を掘り下げていく作業からはじめられ、その次には断面にあらわれた土層の図化をおこない、残った片側の掘り下げへと進行していくのである。
すべての穴が明らかにされると、二ヶ所に主柱とは性格の異なる、小さめな穴の存在していることが判明した。一つは、東南側の主柱のすぐ横、またもう一つは炉の南側へ若干の距離をおく。
両者はともに深く、差し入れた木を自立できるようにした支柱跡と思われるが、いったい何のために設けられていたのであろうか?
問題を考証していく糸口は東南側の主柱にあった。
この柱穴の状態観察から導き出されたのは、根腐れを起こして沈み込んだ形跡。このことを原因として上屋が傾いていたことが推測され、そのことは同時に、横の支柱が、主柱に対しての沈み込みをくい止めるための添え柱であったことを物語っていた。
一つの事例から派生した連鎖。その行き着く先に投影されてきたものは、西側の上屋をそのままに、出入り口をふくめた東側部分を改修した姿であった。
一方、炉の南側の支柱は、炉上の施設を作り出すものとして、北側の主柱上に横木をわたすために設けられていたのではないかと推測された。
この二つの性格の異なる柱穴。その存在により、構造復元の視点をもちながら柱穴の機能を推考する、徹底した調査を行わなければならないという気がまえができあがっていった。
発掘調査とは不思議なもので、疑問をもたなければ、そこに穴があった、ここに土器があった、というだけで終わらせてしまうことになる。疑問を感じ、解決するための目的意識を明確にしていないと、さまざまな事象を見過ごすことになるのである。
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執筆・編集 清瀬市郷土博物館 学芸員 内田祐治 制作 2005年3月 |
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歴史読本 【幕末編】 多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や 「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代 を生きた衆情を描き出した読本。 |
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