掘り出された聖文 7
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─






目次詳細

  第三章 野塩前原遺跡発掘調査の記録   

  ・記憶の共有        

  ・廃棄現象を追う

  ・住居構造を追う

  ・縄文的建築法の残存   以下の項目へ

  ・復元された遺跡の姿

  ・「廃棄」幻視

  ・地下の迷宮

  ・調査終結

記憶の共有


その翌日の朝

 いつもより早めに家を出て、博物館でタイムカードを押し、現場へ向かう。

 小金井街道を横切り、志木街道芝山交差点脇の道を右折。さらに進んで左折して西武池袋線の小さな踏切をわたる。

 この場所が大好きだ。なぜかと言うと、交差する鉄路の右手には入り込めないが、まっすぐ西へ延びる空間が広がり、空掘川へ下がり行く遙か先に奥多摩の山並みが見えるからだ。

「まだ雪はきていない」

 安心するが、自転車をこぎつづけながら右手に見る畑には、一面に霜が降りている。

「霜がないと思うからいけないのだ、あると思えば気が楽になる」

 などと気持ちをかえながら、はき出る白い息のなかで、炎天下の菊川町、強風の三宅島、極寒の乙部町、いずれも若いころの発掘や整理の一場面が断続しながらフラッシュバックしてくる。

 住宅地の小道を曲がると、そこが現場入口である。

 自転車を降り、仮設トイレ脇にそれを止めようとしてびっくり。

 昨夜の頼もしき男たちが、もう足場の試作に取りかかっている。

「おっはっよう」

「おはようございます」

 表現はわるいが、このときの思いは〈にくたらしい〉だ。ニンマリしながら、

「できた?」

「パイプでつないでみたんですが、これなら乗っても安全ですね。高さはこれ以上延ばせませんが」

「これだけあれば充分だ」

「土にめり込まないように、板を切って下へ入れますから」

「ありがとね、助かった。

 じゃぁ、さっそくやってみるか!

 3号住居跡上層の遺物は出切っているから、霜よけのマット上げたら、瀬川さんと田中(典子)さんで清掃と遺物の洗浄に入ってもらって。

 そのとき写真に映りやすいように、遺物のきわまで土を取り去り、輪郭をはっきり出してもらいたいんだ。田村君、二人にそう伝えてくれるかな。

 その作業が終わったら、三人で光波(測量器具)を使って40センのメッシュ張って、時間は三時まで。

 申し訳ないが、終わらないようだったら、昼を短くして作業つづけてくれるかな。たぶん三時ごろになると、あの家の陰が住居跡を包んでくれるから。

 写真を撮り終わるのに三十分はかかるだろうが、四時には陰が通り過ぎて、今度は夕陽で撮れなくなると思うんだ」

「はい、わかりました」

 そのころには、昨夜、秘密の森の小屋で密談が交わされていたことなど知るはずもない作業員らが、次々と何事がはじまったのかという目で挨拶しながら、事務所へ入っていく。

 この日の作業は、防寒マットの撤去からはじまり、東側から8号住居跡上層の掘り下げ、7号住居跡上層の遺物洗浄、4号住居跡上層の掘り下げである。

 しばらくして、作業の開始時間となった。

 みなで、防寒マットを取り外した後、私は各作業場所を回りながら、状況を確認していくことにした。

8号住居跡

 ここは遺物の出土状況がどうもおかしい。

 出土遺物の種類には別段変わったところは見られないのだが、土器が小破片のみで、まとまりをもつ遺物はいっさい出土していない。

 五年前にも発掘をともにした田中さんの横に入り、移植ゴテで掘り広げていく。

 しばらく作業をつづけていると、直立して出てくる土器がいくつか観察される。

 親指大の破片では往々にして認められる現象ではあるが、あるていどの大きさをもつ土器にも、それが見られるのである。

 南側のベルト断面で、確認面に形成されていた硬化面を観察するが、平面的にはしっかりと確認されていたものの、断面になると判別しづらくなっている。硬化面の主体をなしていたロームは、確認面だけで、その下の黒褐色土中には目立った混入は認められない。

「ロームをともなう硬化面は、確認面より上に形成されていたのか?」

 そんなことを思いながら、住居跡の全体を見渡せる位置からベルト断面を見つめていると、その断面に現れている土器片に、いくつか連続してなだれ込むような形跡が見てとれた。

「あれ?」

 近寄ると、点々とかおを出している土器片の流れが、弧を描いて落ち込み、それが間隔を置いて横並びしているように思える。

 この現象は、後に重大な展開を見せていくのであるが、ここではまだ直立して出土する土器を断面で確認したていどの意味にしか、とらえられてはいなかった。

7号住居跡

 ここでは、上層の遺物が掘り出されていたが、南側の東西でその下の中層の土器が部分的にかおを見せはじめていた。

 写真撮影のための洗浄により、泥の落とされた姿は目を見張るものであった。

 西側のそれは、埋没中に押しつぶされてはいるが、ほぼ完形のまま廃棄された鉢形土器。

 東側のものは、大形土器が横倒れ、土圧で押しつぶれた状態で出土しており、その上には子どものにぎり拳ほどの大きさの被熱礫が、多量に検出されている。

 この土器は、ベルトに入り込んでいるために口の部分は不明だが、その胴の張った形から見て、有孔鍔付土器と呼ばれる、木の実酒を作るためとも、太鼓とも言われる土器ではないかと推測された(第一章「激論」参照)

 五年前、野塩外山遺跡で話題になった土器が、今まさに掘り出されようとしているのである。しかも、その横からも原形を保つ土器が倒れ込んだ状態で見えている。

 簡易なボーリングの結果、この住居跡は床まで90cm以上の深さであることが確認されていた。雑木林で保護されていたとはいえ、これほど保存状態のよい住居跡は多摩地域でも滅多にお目にかかれはしない。

 上層を剥いだ段階での、この出土状態は、下位に大量の遺物が廃棄されていることを予感させるものである。

「現象の複雑さは増すであろうが、細かく観察すれば、きっと廃棄の意味を探るための何かを得ることができるはず」

 胸が高鳴った。

4号住居跡

 ここでも掘り下げは上層の最終段階へ入っている。

 住居跡の東縁から、離れて二個体の土器が出土しているが、南側の土器は甕形をした同一個体の破片群で、出土状態からは、当初より破片化して廃棄されていたものと推察される。

 また北側の土器は、先の7号でも出土していた鉢形土器と同型で、出土状態も類似し、原形を保って出土している。

 このほか特徴的だったのは、住居跡の中央部に大小の被熱礫の集積箇所が見られることである。その状態は自然に流入したものではなく、7号の有孔鍔付土器の上から検出された礫のように、明らかに持ち込んで一括廃棄したものと判断される。

 個々の事例観察を終え、それらより意識されはじめた問題点の数々。

 北側の排土の上に組み立てられた三段のやぐらの上に登り、観察してきた情景を、見下ろす実景のなかで追う。

 しばらくして、問題点が整理されてきた。

埋没土の中で展開する遺物群の廃棄現象。

  土器・石器・被熱礫の関係は、それぞれに分離された廃棄現象か、否か。

破片を主体とする住居跡と完形を含む住居跡。

  住居跡ごとに、性格を違える廃棄が割り振られているのか、否か。

同一住居跡における、破片化した土器と原形をとどめる土器。

  土器の廃棄には、性格の異なる現象が重層しているのか、否か。

集積する礫と散在する礫。

  礫の廃棄にも、性格の異なる現象が重層しているのか、否か。

大多数の礫に認められる被熱の痕跡。

  被熱の発生は埋没土内か、否か。

 このときの記憶は、以後の現場作業から整理段階を経て、いまでもはっきりと記憶されている。

 さて、こうして多くの事例が現れるとともに問題点もまた累積していたのであるが、それをどのように追求していけばよいのやら、悩む日々がつづいていた。

 そこで、このころ意識しはじめ、後に大きな影響をおよぼすことになった考え方を述べておくことにする。

 話は余談から入るが、実はこれを書いている日付は二00三年十二月十八日、〈追記。それもすべてを書き終わり、修正している今も、気が付けば一年後の十二月十八日、こんな偶然があってよいものであろうか〉この文面の情景は、まさに四年前の日付の誤差もない巡り合わせだったことに気付いたのである。

 不思議なことが起きたのだ。時は進んでいるのに、同じ月日で本書の執筆を介して現場の記憶が共有されていることになる。

 時の流れのなかでの変化を指す通時性と、ある期間のなかでの広がりを指す共時性。スイスの言語学者ソシュール(Ferdinand de Saussure)の用いた論理であるが、文化人類学における構造主義にも大きな影響を及ぼした考え方である。

 住居跡に遺物が累積しているのは、通常であればそこにかなりの年月の経過を想定しなければならないし、埋没土を層ごとに掘り起こしていくことで現れる面は、一時期の遺物廃棄の広がりと見なければならない。両者の関係は、まさに先の通時性と共時性の関係を見定めることのできる絶好の事例といえる。

 ところが、層ごとに現れる遺物群と簡単にいっても、実際には遺物廃棄は継続していることが考えられるので、層位による基準はあくまで目安でしかない。したがって出土状況をしっかりおさえ、遺物の種別の分布状況、接合状況、型式差など、さまざまな視点から、それらを比較検討しながら傾向として追っていかなければならない。その上で住居間の状況を対比し、廃棄のあり方を遺跡全体として考えていかなければ。

 調査現場で思いはじめたこのことが、これから行おうとする作業工程であるが、その真価のすべては、観察することと考えることで蓄えてきた断片的な記憶素材が、現時点でどれほど共有できるかにかかっているとも言える。

 

廃棄現象を追う

一九九九年十二月十八日、午後三時ごろ

 予定を過ぎてしまったが、やっと待望の撮影用の足場が完成する。

 空身で足場に上がり、その感触を確かめる。

「少しぐらつくから、足場板を二枚にしてくれないか。

 それと、実際に撮影へ入ったら、足場板の一回の設置箇所で 40cm メッシュを二列ごとに撮影していくから、それを覚えておいて。

 まず東から西へ、そして行き着いたら逆向きに折り返して西から東へ撮影してくる。

 だからその往復が終るごとに、足場板の位置を二マス分の要領で北へ移動させてください。

 そのときに気をつけてもらいたいのは、間隔は多少ずれてもかまわないが、足場板の方向だけはかならず水糸に平行を保つこと。

 あと、撮影中はファインダーから目が離せないから、外から見ていて危なかったらすぐ知らせて。

 じゃお願いします」

 デシタルカメラをたずさえ、足場板に乗る。

 野塩外山遺跡の調査以来、まだ映像記録を人に任せることができないでいる。

 二、三度右足に重心をかけ、横向きで踏み出し、感触を確かめる。片目をつぶるとバランスがとりにくいので、一方はファインダーを、そして、他方も見開いたまま眼下の実景をとらえる。

 大きく息を吸い、さぁ踏み出す時がきた。

 水糸のラインをファインダーの画角に合わせ一枚目を撮影。

 右足に左足をすり寄せ、さらに右足を40cmほどそろりと出す。このくり返しが二十一回。

 以後、各住居跡の掘り下げにしたがい、その回数は三十八、四十九と増していった。

 日中は現場作業、夜は事務所でのパソコンを使った写真の合成とトレース。日がかわり、そのまま日中の現場作業。数字には示さないが過酷な作業が断続的におとずれることになる。

 翌日までに、なんとしても出土状態の実測図を仕上げなければ、遺物の取り上げがとどこおり、二月末までには調査を終了できないことは目に見えていたのである。

 さらに、この場合の写真実測には限界があった。それはデジタルカメラの記憶容量が少ないため、低解像度で撮影しなければならず、被写体の細部に不鮮明な部分も多かったのである。

 このことを打開するため、遺物の取り上げにさいし、実測図の修正、ならびに不鮮明な文様部分の加筆作業を組み入れた。

 このことで日中の作業は円滑に動き出したが、その分の負担がこちらへかかってきた。だが、このことは悪い結果は生み出さなかった。

 パソコンによる夜間の作業は、秘密の森の闇に閉ざされた事務所のなかで、赤々と燃えるストーブの炎が醸し出す単調な音とともに、私へ一人の集中すべき空間を与えてくれたのである。作業は内職のごとくに機械的な操作。しかし、眠くはない。

 写真はすべて真上から撮影した平面的な情報であるが、何と言っても写真であるから全体を記録している。それが昼間観察していた立体的な記憶を、次々と引き出し、手は作業にとられているものの、脳は自由に活動できていたのである。

 廃棄現象を昼夜にわたり観察できる機会、それはストーブの炎に継承された炉神であろうか、何かが私へ与えてくれていたようにも思えてくる。

 そして、この情景は、北海道の乙部町栄浜遺跡の整理を想い出させている。

 年明けの予算切れから、たった一人で置き去りにされたような真冬の三ヶ月間。その旧式な簡易プレハブの中で、防寒着を着込み徹夜していた若い日。

 そのときも、このポット式の大型ストーブが赤々としたゆらぎの陰をつくり出していた。

 夜、日本海を吹き荒れる寒風がやむ。用を足すために外へ出る。プレハブから漏れる明かり。淡く照らし出された雪。はじめて知る広大な音のない世界。

 こうして、若いときから今まで、いつも考古学は、あらゆる手段を行使して私をゾクゾクさせてくれる。

 複雑さを増すため、導入部を設けたが、ここからは4号・7号、8号の三基の住居跡について、一気に埋没土中の廃棄現象を観察していくことにする。この節は長く、少々込み入った話になる。

4号住居跡

 この住居跡は、二度にわたる建て替えによる、三軒重なり合う住居跡であることが判明した。

 その変遷は、一番古い一期目の住居を掘り広げ、そこに二期目の住居を建て替えているため、一期目の痕跡が床面にわずかに残されているだけであった。

 三期目の住居跡は、規模を小さくし、南側へ掘り広げて建て替えているが、そのさい北側に土を埋め込んでいた。下図の右土層図上方の色の濃い部分がそれに該当する。

 ここで埋め込んだと判断したのは、北側の土層中に遺物が混ざり込んでいないこと、また土層堆積に人の手で埋められた折り重なる状態が観察されたことによる。

 そのことから、この住居が北側の空間に土を埋め込んで構築した、二期目に継続する住居であることがわかったのである。

 したがって、4号住居跡での土層中からの遺物出土は、三軒重なっているにもかかわらず、三期目の住居が放棄された後に入り込んだものに限られていた。

 この三期目の住居跡を埋めつくした土層は、大きく四段階に分けられ、その埋没過程を下位へ堆積する古い方から第一次〜第四次埋没土という呼び方でたどると、次のようになる。

  

 第一次埋没土……住居跡が放棄された直後に、壁の崩壊したロームが住居跡の縁へなだれ込み、つづいて暗褐色土がその上に堆積。いずれも住居跡の縁に堆積。

 これが、解体にともなうものか、放棄した時点から進行していた壁の崩壊であるかは即断できないが、いずれにせよ、一メートルはあったであろう壁ぎわに、前頁図土層の濃色部分のように急傾斜で堆積していることからみて、短期間の堆積であったことは確かである。

 遺物は土器の小片がわずかにまぎれ込むだけで、この段階では主体的な遺物廃棄は行われていない。

 第二次埋没土(下層)……こうして埋まりはじめた窪みに、ロームの粒子を多量に含む暗褐色土が三十センチ前後の厚さで堆積。

 少々気になるのは、この土がロームの粒子を多量にまじえていることである。純粋な当時の地表土ではなく、掘り返された土のような気配が感じとれるのである。

 この層の下に堆積している暗褐色土に、ローム粒の混入が見られないことからすれば、下の層や壁の崩壊土との混じり合いによるものでないことは明らかで、別な場所から土が運び込まれていることも否定はできない。

 ただ、この土層からは同一個体を破片廃棄した土器片群が検出されているので、遺物を含んだ埋没住居跡の掘り返し土ではなさそうである。

 遺物は、土器の小片が散在するなかに、埋没土の窪みの縁付近へ加曽利E・式の同一個体の破片を集めて廃棄した箇所が点在している。これら破片群は、いずれも口縁部を中心とした断片で、完全な個体に復元できるものではなかった(次頁図下層)

 石器は、打製石斧、磨石が出土しているが、南側に多い傾向は見られるものの、一括して廃棄された状況は認められない。

 このほか礫も出土しているが、これらは土器の小破片や石器と同じく、散在しているだけでまとまりをもつものは見られない。

 第三次埋没土(中層)……これも暗褐色土であるが、ローム粒子の混入はわずかで、厚さが十〜二十五センチと薄い。

 この層は、第二次埋没土(下層)の堆積でゆるやかになった窪みに、自然流入した土層と思われ、薄いわりには長い期間をかけて堆積しているらしい。

 具体的な堆積期間は推測できないが、それはこの層における廃棄の状況に、第二次埋没土(下層)からの継続が認められることに加え、その遺物出土量が第二次埋没土(下層)の二倍強に増加していることから推測される。

 この間の遺物廃棄を復元的な視点を織り交ぜながら観察していくと以下のようになる。

 第二次埋没土(下層)の廃棄現象、それは土器の小破片や破損した石器、被熱礫が物語るように、頻繁にちょこちょこと捨てる行為がくり返される(現象一)なかで、時折同一個体の破損した土器片を集めて捨てる行為が継続し(現象二)、第三次埋没土(中層)では、それが二倍強の時間をかけて堆積していることが推測される(次頁中層)

現象三

現象四

 さらに細かく第三次埋没土(中層)の出土状態を観察していくと、同一個体の破片が集合している部分では、南側の一箇所を除き重なりが認められないことから、この区域では前に捨てたまとまりある土器片群の位置が確認できる状態で、次のものを捨てていることが推測されくる。

 こうした、一個体の断片化した破片群を捨てる行為が窪みの周囲でくり返されるなかで、時折断片化した複数個体の廃棄も起きており(現象三上写真参照)、それに北西側の立てた状態で原形を保つ二個体の完形土器(前頁中層出土土器)のような特異な廃棄現象も加わっているのである(現象四上写真参照)

 こうした土器のあり方に対し、石器や被熱礫の出土状態は第二次埋没土(下層)と同様、頻繁にちょこちょこと捨てる、現象一とした状態がくり返されている。

 第四次埋没土(上層)……その上に堆積したのが黒褐色土である。

 この層は、第三次埋没土(中層)の堆積でより浅くなった窪みに水平堆積した土層で、遺物量からみて、ほぼ第三次堆積土と同じていどの期間をかけて堆積しているらしい。

 土器の廃棄は、前段階の現象が継続しているが、その主体をなす所は東側から東北側へ移され、現象二とした同一個体の断片化した破片を集めて廃棄した部分が東側に、また現象四とした原形を保つ状態で廃棄された鉢が北東側から出土している。

 なお、後者は破損部分も多いが、これは攪乱を受けやすい地表近くから出土しているためで、廃棄当初はほぼ完全な状態であったものと思われる。

 破損石器、被熱礫の廃棄も、依然として前段階の状況が継続している。

 ただ、この段階では住居跡がほぼ完全埋没しているためか、中央部への踏み込みをともなう被熱礫の一括廃棄も認められ、これら礫についても、現象二あるいは三の廃棄現象の加わることが知られる。

 

7号住居跡

 建て替えのなされていない住居跡で、壁の高さが最大九十七センチも残されており、4号住居跡とともに抜群の保存状態にある。

 土層観察により、埋没土に四段階の形成過程のあることが判明。以下、古い順に、

 第一次埋没土……住居跡が放棄された直後、天日乾燥による壁の崩壊が進行し、そのロームが住居跡の縁からなだれ込み、野ざらしの床をおおいはじめたのがこの段階で、図土層の濃色部分がそれにあたる。

 短期間の形成であるため、遺物は土器の小片がわずかにまぎれ込むだけである。

 第二次埋没土(下層)……次に堆積したのがロームの粒子を多量に含む暗褐色土で、当時の地表土である暗褐色土が、外部から本格的に流入しはじめたことによる埋没土である。

 壁ぎわに厚く堆積し、住居全体をおおうが、厚さを別にし、埋まり方が第一次堆積土と同じ状況にあることから、一連の堆積である可能性が強い。

 この段階では、壁が露出しているため、崩壊した顆粒状のロームが暗褐色土へ混じり合いながら堆積。  

 この第二次埋没土(下層)の遺物は、先の現象一とした土器小片を頻繁に捨てる行為が継続するなかで、現象二とした破損土器の廃棄が起きている。

 なお、ここで注意されるのが、写真左に挙げた5 の土器で、本住居跡から出土したものは接合する二つの小破片であったが、それと同一個体の主要な土器片群が8号住居跡から検出されている。

 後に説明するが、8号住居跡の状況は、埋没住居跡を掘り返した土が継続して運び込まれていることが判明しているので、その遺物をまじえる土が小分けされて本住居跡へも捨て込まれているらしいのである。

 接合片や同一個体片は検出されていないが、近くから破片群として出土している4についても、同じ状況のもとに廃棄されたものと思われる。

 石器は、破損した打製石斧の廃棄がくり返されているが、被熱礫の大半もそうした単発的な廃棄が主体で、それに北側の加曽利E・式土器西横に見られるような集めて捨てる状況が、時折加わっているようである。

 第三次埋没土(中層)……この段階の土層は第二次埋没土(下層)から継続する、自然流入による暗褐色土と外から運び込まれた土で構成されているが、下位がおおわれたことにより壁崩壊がとまり、それにともなうローム粒子の混入は減退している。

 土器廃棄は、この第三次埋没土(中層)においても、小片をくり返し捨てる現象一が起きていることに変わりはないが、特徴的なのは、現象二から四、なかでも現象四の廃棄行為が主体をなしていることで、これらを総計すると三十四個体もの復元可能な土器が廃棄されている。



 これらの土器のなかで、いずれも現象二として廃棄されている土器に、他住居跡の埋没土中から出土している土器片への接合、もしくは同一個体片の検出されているものがあり、それらは8号住居跡と関係をもつもの二例、また4号住居跡と関係をもつもの三例、都合五例確認されている。

 廃棄の期間については判読しがたいが、西側から北側にかけて出土している土器に重なりが認められ、それが下位の土器の埋まり込みで位置確認ができない状況のもとに廃棄されていることからみて、三十四個体は一度に捨てられたものではなく、ある期間のなかで、段階的に廃棄行為をくり返していたことは確かである。

 そして、これらの土器を除き、日常的に継続して捨てられたと思われる現象一の遺物量だけを比較すると、第二次埋没土中の三倍ていどに達していることから、具体的な期間は算出できないものの、下層の三倍に相当する廃棄期間を想定することができるものと考えている。

 石器と被熱礫については、第二次埋没土(下層)と同じ状況がくり返されているが、北側の有孔鍔付土器の出土した上にのみ、被熱礫の大量廃棄が認められる。

 第四次埋没土(上層)……第三次埋没土(中層)までの堆積により、わずかな窪みとして残されていた部分に水平堆積した黒褐色土で、表土層からの流入土が主体をなすが、このほかに北側から東側へかける一帯へ外部から持ち込まれた土が投棄されているようである。

 遺物の廃棄現象は第二次埋没土(下層)と同じで、前段階に見られた土器の大量廃棄は終息している。

 さて、これまで観察してきた廃棄現象を復元的に述べると以下のようになる。なお、頻繁に登場する土器の型式名は新しい時期へ向け勝坂V式加曽利ET式加曽利EU式と移り変わっていることを念頭においていただきたい。

 なお、近年の厳密な科学測定によると、この型式幅はは縄文時代中期に属する、四千四百五十年から四千三百五十年前の百年間に相当する。

 ここからの記述は、各層ごとに作成した〈主要土器の廃棄模式図〉を補助として進行していくことにする。

 加曽利ET式期に使われていた7号住居跡が放棄された直後に、短い放置期間があり、その間に壁の崩壊が進み、床を薄くおおう。

 その後、外部からの表土層の流入が本格化するなかで、土器の小片と、使用破損した石器・被熱礫の廃棄が日常的にくり返され、時折破損した加曽利ET式土器も捨て込まれる。

 こうしたなかで、他所で埋没していた住居跡の掘り返しが行われたらしく、その遺物を混入した土が西どなりの8号住居跡を中心に運び捨てられるが、その一部がこの住居跡や東どなりの4号住居跡までも運び込まれていたらしい。

 その土にまぎれていたのが、一時期古い勝坂・式の 4 5 (8号住居跡から同一個体出土)と、それより新しい加曽利ET式の 28 (4号住居跡出土の細片と接合)

 相変わらず生活空間に落ちている土器を捨てたり、調理などで使われた被熱礫の廃棄は日常的につづいていたが、しばらくして、土器の個別廃棄が本格化しはじめる。

 ひびが入り、一部が割れて機能を失った破損土器の個別廃棄が頻繁に行われだしたのであるが、この場合「頻繁に」とはいっても、年に数個ほどのことと思われる。

 ところが、土器の廃棄はこれだけがすべての現象ではないらしい。 

  6および上から出土している 19 37 の三個体は、ひび割れや一部欠損はあるものの、廃棄当初は完全な姿のまま廃棄されていたようなのである。

 4号住居跡の現象四とした二個体の土器のように、完全なままに廃棄されたことが確かだとすれば、新しい土器が調達されたことで廃棄されたとも、所有者を失って廃棄されたとも、はたまた信仰的なものとも思えてくる。

 最後の考え方は唐突なようだが、それはある意味で当時の普遍的な意識であったようにも思える。と言うのは、いままで「捨てる」という表現を使ってきたが本来は適切な言葉ではない。

 それぞれの土器に、これだけ精緻な文様世界が描かれているのであるから、壊れて破片化した土器でも、今日のゴミ出しのビン・カンのように、むやみに捨てることはなかったであろう。

 現象一とした細片をちょこちょこ、それは生活空間に落ちているものであろうが、それを拾っては埋没した住居跡に持ち込んでいる行為こそが、廃棄の場所を定めていたことを表すことになり、破片化しても、そこにはある種の固執する意識のあったことを、われわれにのぞかせている。

 三十四個体にのぼる土器廃棄のさきがけは、勝坂V式の有孔鍔付土器 6と思われる。

 この土器は粘土に混入している石英粒に変質が認められないことから、焼成温度が五百七十度以下の焼きのわるい土器。器面にベニガラ(酸化第二鉄)と呼ばれる赤色顔料を用いた、他を圧する形状の美しさとは裏腹に、四千五百年の埋没期間のなかで劣化し、発掘時には取り上げることすら困難であった。

 水で洗っただけでも崩れてしまうこの土器が、当初はほぼ完全なすがたのまま廃棄されていたのであるから、下で出土した4や5のように埋没住居跡の掘り返しにともなうものでないことは一目瞭然である。しかも、型式は一時代前の勝坂・式である。

 このことから読みとれるのは、加曽利E・式の時期であるにもかかわらず、古式な前代に焼造された土器が使いつづけられていたことである。

 そうしたことを思いながら次頁図の中層下位から出土している土器群を見渡すと、口縁部を失ってはいるものの、割れのない状態で北どなりに見られる34 、それに加え、廃棄当初は底部にひびの入る完形状態であったと思われる南側の3 、また欠損した状態で廃棄されている西側の38 も勝坂V式の土器なのである。

 これらは、以後の加曽利E・式でしめられる土器廃棄の先駆けとして、この時期まで一時代前の古式な土器が使いつづけられていたことを傍証するものである。

 その後の破損にともなう土器廃棄は、新しい時期の加曽利ET式へと移り、住居跡の南側を主体に廃棄がくり返される。

 中層下位の2627 は、ほぼ完形の状態で出土しているが、破損直後に廃棄されたものと思われ、とくに26は、熱した礫を入れて煮沸したさい、その急激な温度変化に耐えられずに底部破損した土器であることがわかっている。

 これら、使用による破損とは意味合いの異なる廃棄現象も起きている。





 南西側から破片化して出土した18がそれで、下層で見られた状況と同じく、8号住居跡出土の二つの小破片と接合し、遺物をまじえる埋没住居跡の掘り返し土が運び込まれていることを推測させている。

 その付近から出土している101630、さらに若干の土を挟んで上から出土している中層上位の 7 17293132も破片化した土器群で、同一個体の破片が多量に飛散していることから、破損廃棄された土器との際立つ違いを見せている。これらは、すべて18と同じ状況のもとに廃棄されたものであるらしい。

 つまり、18を中心とする周囲に、8号住居跡を主体に運ばれた、埋没住居跡の掘り返し土の一部が投棄されていることになる。

 こうしたなかで使用破損による廃棄は、中層下位の 26 27 以降も依然としてくり返されている。

 ほぼ完全な形に近い状態で出土している中層上位の 19 21 25 37 がそれで、 25 は原形を保つ個体から西側へ一メートル離れたところに同一個体の細片が集め捨てられた状態にあり、埋没住居跡の掘り返し土にともなうものでないことは明らかである。

 この中層上位の段階で、以前とは別な埋没住居跡の掘り返し土の投入も活発化したようで、それが住居跡の北側から西側へ入れ込まれている。

 これらの土は本住居跡への運び込みを主体とし、その一部が4号住居跡へも分割されているらしく、そこからは 1 11 14 35 が出土しているが、いずれも破片化しており、このうち 1235 に4号住居跡出土の細片が接合している。

 こうして住居跡がほぼ埋没し、それ以後は日常的な破片廃棄だけが継続。もはや、使用破損による完形にちかい状態での土器廃棄は、別な廃絶住居跡へ移されたものと思われ、本住居跡への遺物の廃棄行為は終息している。

 以上が、7号住居跡の調査で解明された遺物廃棄の全過程である。

 ここまでの記述で、廃棄現象一つとっても、次々と現れる事例が、いかに複雑にからみ合っているか理解していただけたことと思うが、実は本節の記述はこれだけではすまない。

 廃棄現象の説明があまりに複雑なため、土器を中心とした説明を優先してきたのだが、そのことにより石器や礫の現象説明が不鮮明であったはずである。

 図は各層ごとの石器、黒耀石片、礫の出土状態を示した平面図である。図では石器と礫の判読が困難であるが、それはご了承願い、また上層に関しては木の根による攪乱部分が空白域として存在していることを念頭においていただきたい。

 石器は81 点出土し、内訳は打製石斧 74 点、磨製石斧 1点、凹石 2 点、磨石 1 点、敲石 1 点、石鏃(黒耀石)1 点、剥片石器(黒耀石) 1 点。

 これらのうち、いちおう使用できるような完全な状態で出土したものは、凹石と剥片石器の2点のみである。

 「いちおう」としたのは、実際には打製石斧の中にも完全な形で出土しているものはあるのだが、いずれも使用により刃部が後退し、鋭利な刃を作り出せない状態のものばかりなのである。そのことからすれば、先の2点も、使用後の廃棄の可能性が強い。

 つまり、ほとんどすべてが、使用後の消耗にともなう廃棄と考えられるわけである。

 ここで改めて前頁の図を見渡していく。

 各層ともに、ぱらぱらと出土しているだけで、まとまりをもつ箇所は少なく、それも数点にすぎない。

 そこから浮かび上がってくる廃棄の情景は、日々の生活のなかで破損した石器をそのつど単発で捨てている情景で、どうみても有孔鍔付土器周辺(中層、中央やや右上)以外は集めて大量廃棄しているとは思えない。

 こうしたなかで、磨製石斧と打製石斧の各1点ずつに、それぞれ8号住居跡と4号住居跡に破片接合するものがあり、土器に見られたように外部から持ち込まれた土に混ざり込んでいたもののあることを知ることができる(写真左側)

 次に黒曜石片を見ていくと、これらは一センチに満たない剥片であるが、全体で 26 点出土している。それらには群集は認められない。

 この埋没する住居跡では、石器の製作が行われた形跡も、それにともなう石材くずの廃棄も行われてはおらず、地表土や運び込まれた土に混入していたものが出土しているに過ぎない。

 礫は、被熱しているものが大半で、割れているものが多い。赤変の見られない礫であっても、それが本来熱で変質しがたい硬質の堆積岩にほぼ限られていることから、一様に熱せられたのちに廃棄されているものと判断される。

 また、礫の出土量は 121kg 。ほぼ同規模の、4号住居跡から出土している埋没土中の礫も122kg。また掘り返し土が運ばれている8号住居跡ではあるが、ここでも 116kgが出土している。

 一立方メートルあたりでは 8kgていどの礫が廃棄されている計算になるが、この状態が本遺跡の基準になるのではないかと考えている。もちろん、遺構の保存状態が等しい場合のことである。

 これらの出土状態を観察していくと、その大半は一、二個の単独廃棄だが、中に五、六個かためて捨てられている箇所も散見される。

 こうした状態も、どちらかというと日常的な廃棄と思われるが、中層に見られる有孔鍔付土器6の上に認められる礫の群集は、これらの状況とは一線を画している。

 これが、単に日常的に使用した礫を集めて廃棄したものか、非日常的なものに使われたものであるかは判断できないが、出土状態の観察から、次の二点については指摘できることがある。

 土器6の上から出土した礫群は、その樽形をした大形な土器が放置され、押しつぶれた後に廃棄されているので、両者に関係は認められないこと。

 礫は被熱赤変しているものが多いが、その出土状態における焼け面に統一性が認められず、また周囲からの炭化物や焼土の検出もなされていないことから、出土した場所で被熱したものではないこと。

 ここまで、7号住居跡が埋没していく過程でくり返された廃棄現象について観察してきたが、最後に一つ付け加えておかなければならないことがある。

 それは、中層から出土した土器26の底に認められた被熱破損の痕跡についてである

 被熱した礫は、一軒の住居跡の埋没土に残されたものだけで百キロをかるく超えるのであるから、その消費量は膨大である。

 それらがどのような目的に使用されたかについては、野塩外山遺跡の調査段階から問題となっていたが、それを説く鍵が、原形を保って出土した26 にあったのである。

 上写真を観察していただきたい。底部内面の中央が白色に変質していることに気づかれるであろう。

 周囲の黒い部分は炭化物が吸着しているところであるが、底部の中央に認められる部分は高熱を受け、素地がサーモンピンクに変成しており、そこに亀の甲羅状のひび割れが入っているのである。

 底部の外面には色調変化が見られないことから、直接的な被熱箇所が底部内面中央であったことは明らかで、そのきれいな円形の輪郭から判断して、火のついた木片や炭火を入れ込んだものとは思われず、また焼成段階の急激な冷却による冷め割れ現象によるものでもない。

 さまざまな状況を想定したなかで行き着いたのは、被熱礫による煮沸破損という想定である。

 火中から高熱を帯びた石を取り出し、水を入れた土器の中にそれを落とし込み、一瞬にして熱湯を作り出す調理方法がとられていたように考えられてきたのである。

 この土器の場合、その急激な温度変化による膨張に素地がついてゆけずに、製作時の底部の粘土接合面から亀裂を生じたものとみて間違いはない。

 こうした痕跡に気が付いてから、出土土器の底部を検証しなおしてみると、明確なものだけでも土器3 25をはじめ、この7号住居跡だけで五点確認でき、1号住居跡で二点、4号住居跡で四点、6号住居跡で一点となった。

 もちろん、土器を直接に火に掛けたと思われる、底部外面が変成しているものや、胴部上半以上に煤の吸着したものもみられるので、被熱礫による煮沸だけではなかったことは言うまでもない。

 しかし、日常的にくり返し直火で煮沸していたとするなら、竈にかけられたお釜の底のように煤の吸着は激しくなければならない。土器が素焼きという吸湿性に富んだものであることからすれば、数千年の時の隔たりはあろうが、かなりの土器にそれが認められなければならないはずである。

 だが、縄文時代早期の先底土器に普遍的に見られる外面の被熱変成と煤の吸着に比べ、こうした痕跡をもつ土器は、この時期にはいたって少ない。

 埋没土に一、二個ずつ日常的に廃棄されている礫。その多くは、こうした煮沸にかかわるものと判断されるにいたった。

 そこに投影されてくるのは、空堀川の河床から手ごろな礫を集めてくる縄文人の姿。火を起こし、その礫を焼き、灼熱の色に変わったものを取り出しては水を張った土器に入れる光景。

 食生活史を語る方々の中には、汁を食す習慣はこの時代になかったと考えておられる方もいるようだが、そのようなことはあるまい。

 アイヌ民族においても干し肉を煮戻し、腸詰めで保存している脂身を加えて食す方法があり、その起源はかなり古そうなのである。

 土器に入れられた礫。それは熱に弱い砂岩が多く含まれている。水中に投下されることによる急冷で、破損するものも多かったはず。そして、高温であればあるほど、土器の被熱破損も増していたことであろう。

 土器には、彼らの主徳する神々が描かれている。それは、錬金術の世界にも通ずる、水が音を発して煮えたぎり、霧を生みだし、消え去る力を秘めた神々であるのかもしれない。

 彼らが、その破損した土器に対して、通常ならざる主徳の罰を感じることがなかったとは言い切れない。

 それを感じとっていたとするなら、われわれが見てきた廃棄の場所への彼らの意識は、丁重に他界へ送り出すべき定められた場と化していたことになろう。

 

8号住居跡 

 7号住居跡の西どなりに構築されている住居跡で、二軒重なり合っている。

 その関係は、新規住居の建設に際し、埋没している初期の住居跡の中央以北を掘り返し、北側へ拡張するという非合理な重ね方をとっている。そのため、入口を古い住居跡の軟弱な埋没土上に設定しなければならない状況におちいっている。

 遺物は、この古い住居跡の西側から南側へかけて残された埋没土中と、新規に構築された住居跡の埋没土中から二様に検出されているが、前者に崩れ込みが生じており明確に区別はできない。

 本住居跡では、新しい段階の住居跡にともなう四段階の埋没土が確認されている。

 住居放棄後にローム系の土が薄く床面をおおっているが、これは上屋解体にともなうものか、あるいは放置期間中の壁崩壊によるものであろう。いずれにしても短期間の堆積と思われる。

 その後に堆積したのが暗褐色土であるが、それがどうも土層ではとらえきれない現象が起きているようなのである。

 いままで見てきた住居跡と異なるのは、遺物の出土する様相なのである。図のごとくに下層からいきなり遺物量が多い。しかも、土器は小破片ばかりで、接合するものや同一個体片が、はちゃめちゃに飛散し、それが上下へも向かい、他住居跡へも向かって接合関係を示しているのである。

 それらの破片中には、立った状態で埋もれているものも多く、出土状態は石器、礫を含め、乱れほうだいに乱れている。

 埋没土自体が四段階に区分けできているのは、いちおうの時間経過の存在していることを、わずかなりとも表していようが、同質の土をいくら段階的に積み上げても断面観察で分けられないように、この状態は、もはや目視による土質から云々できるものではない。

 そこで土器を対象とし、各住居跡での土層別の接合関係および同一個体片の所在位置を上に挙げた表のように抽出してみた。

 なお、以後同一個体片も含め、一律に接合関係をもつものとしてとり扱っていくが、攪乱等により土層別の遺物出土を把握しがたかった2号とA号住居跡は除いている。

 表中の黒丸は、接合関係をもつ土器片のなかで主体となる破片が存在している層位を表し、太線はそれと接合する土器片の出土層位を、また細線はその層位を飛び越えて接合している状態を表している。記述中の印は普遍事項、印は特殊事項とみられるものである。

 さて、楽譜のようになってしまったこの接合表から、全体的な特徴をとり出していくと、以下のようになる。

…▼接合関係をもつ土器の出現頻度が、8号住居跡に高まっている。

…▽他住居跡へ接合関係をもつ土器は、五十五例中二例を除き土層間接合が見られない。

  二例のうち、1号住居跡の事例は中層を主体として下層と接合。

また8号住居跡の事例は、下層を主体に他のすべての土層から接合片が出土。

…▽他住居跡へ接合関係をもつ事例を除くと、上中下の隣り合う土層同士で関係をもつものが多い。

  ただし、全層に接合関係をもつものが8号住居跡に多い。

 各住居跡に見られる土器接合の傾向は、二、三ので示した状況である。

 このことから理解されるのは、埋没土の形成過程に準じて、段階的に土層間接合が重ねられていく姿であり、そのあり方は7号住居跡に極まっている。

 そこでは、接合の関係が下層から中層へ、中層から上層へと規則正しく連鎖しており、明らかに各土層の堆積する時間経過が反映されている。

 そのことは二ので述べたように、他住居跡へ接合している事例を抜き出しても、そのほとんどが他層をまじえずに存在していることからもいえよう。

 1号と4号住居跡にかんしては、少数のものに中層を飛び越えたり、また全層におよぶものも見られるが、これらは、とくに1号で明らかにされたように、埋没後の部分的な掘り返しがかかわっているものと判断される。

 こうして見てくると、やはり8号住居跡の様相がきわだってくる。

 表に表されない8号住居跡遺物の出土状況を、今一度整理しておく。

下層から、いきなり大量の遺物が廃棄されている。

遺物廃棄は、現象一とした破片廃棄の状況にあるが、同一個体である土器片は、水平面のみならず上下方向へも不規則に飛散している。

土器は直立して出土するものも多い。

 こうした状況をふまえて表を見なおすと、下層に主体的な破片を置きながら中層、上層へと延びている事例の多さが目につき、それが遺物をまじえる土を壁ぎわから流し込んでいくことで形成されたように想像されてくる。

 この8号住居跡の場合、現象二〜四の土器廃棄が認められないことから、埋没土の形成要因が、掘り返しによる遺物の混入した土の運び込みを主体にしていたことは確かなようである。

 表を見ると、上層に主体となる土器片の出土が一例しか認められない。このことと、下層の遺物量の多さから見れば、通常の埋没住居跡を逆転させた状況に類似している。しかも、下図のごとく、土を運び入れたときに踏み固められたロームと黒褐色土の硬化面が確認面に形成されていることから類推するなら、最後まで頻繁に土の入れ込みのなされていたことは明らかである。

 次に問題にしなければならないのは、それが短期間に一回の連続的な行為として行われていたか、長期間にわたる断続的な行為としてくり返されていたか、である。

 確認面にのみ形成されていた硬化面の形状は、住居跡の中に進入しない壁ぎわからの土の入れ込みがつづいたのち、南側の一方から埋め土に踏み込み、中央の窪みを囲むように土を投棄した状況を想定させ、また硬化面にロームがかなりの割合でまぎれ込んでいることからは、他所での掘り返した土が住居跡等の床に接する最下層の土であった可能性が強まっている。

 これだけを考えると、特定の埋没住居跡の掘り返しにともなう一過性の投棄とも思えるのだが、どうもそうではないらしい。いくつかの段階が存在しているようなのである。

 ここからは、その問題を全住居跡に押し広げて見ていくことにする。

 上図上段は、住居間で接合している土器の状態を示したもので、A〜Fは異なる関係にあると思われるものに付した識別記号である。

 この図から判読されるのは、各住居跡の埋没土中に住居間接合する土器が普遍的に存在していること、なかでも8号住居跡に安定した状態で他住居と関係をもつ割合が高まっていることである。

 次頁図下段の図は、上段の関係を下に移し、各土層ごとの状況を表したものである。この図から求めようとしているものは、便宜的にA〜Fと類別したものが廃棄の異なりとして認識できるかということである。

 まずBとCについて見ていくことにする。両者はともに7号住居跡において関係をもつ。

 7号住居跡の埋没土は、時間経過とともに埋没していることは先に述べたが、ここではBとしたものは下層を主体に中層へかける位置に見られ、それに対してCとしたものは二例を除き、他の九例が中層から安定した状態で出土している。

 このCの統一的なあり方からは、多少の誤差はあろうが、主体的な部分においてBとCを異なる廃棄にもとづくものとして、Cの方が、より新しい段階の廃棄であることを示していよう。

 さらにCの4号住居跡における出土層位を追うと、十一例中二例が下層から出土しており、また7号住居跡においても下層から一例の出土が認められる。双方ともに別住居跡では中層へ接合しているので、偶発的な下層へのもぐり込みではないかと推察される。

 それらを除くと、4号住居跡のCは、ほぼ均等に中層と上層から出土している。つまり、7号の中層にあったものが、4号では中層から上層へかける埋没土の中に存在し、Cの廃棄時点で4号のほうが7号より埋まり方が早かったことになる。

 両住居跡では土器の土層間接合の状況から、埋没土に段階的な時間経過のあることはすでに述べた。そのことからすれば、この状況は4号のほうが7号より早い段階で住居が放棄されていたことの傍証となろう。

 次にDを見ていくことにする。この事例では8号住居跡から出土しているものは一例を除き、いずれも出土層位を確定できるほどの破片ではなく、また2号住居跡においても攪乱の激しさから出土層位の把握に危険がともなう。

 そこで問われてくるのが2号住居跡の廃絶年代であるが、その時期は加曽利E・式に入ったころと思われ、すべての住居跡のなかで一番新しい様相をもっている。

 この状況をふまえて2号住居を見ていくと、住居間接合するものは、D以外では三つの住居跡に関係をもつFが一例存在するのみで、他はすべて8号と関係をもつDを主体としている。したがって、Dは独立した廃棄として理解することができる。

 この2号住居跡と同じ状況は、調査区西端から検出されたA号住居跡にも見られる。

 A号住居跡は二基重なる住居跡で、加曽利E・式期前葉の炉体土器をそのままに、同心円状に竪穴を拡張して建て替えた住居跡であることが判明している。

 2号は住居跡全体のなかで一番新しい段階のものであったが、このA号の場合は勝坂・式期の1号と8号の古い住居に次ぐ段階に位置づけられ、そこに2号で見られた接合関係のDと同じ状況のAが認められるのである。したがって、層位の把握はなされていないが、このAについても独立した廃棄とみてまず間違いはない。

 では、その時期はどのあたりに位置づけられるのであろうか。事例解析への矛先は1号住居跡の出土層位に向けられる。

 それを見ると、四例中の二例が1号の上層から出土しており、他は層位の確認ができないものである。例数が少なく確定はできないが、傾向としては、Aの廃棄は勝坂・式期の1号住居跡が放棄されてから、かなりの時が経過していた段階で、しかも、他の廃棄をまじえない時期が想定されてくる。  

 なお、Eとした8号と関係を持つ一例は、偶発的な要因による可能性もあり、住居間接合としては主体性をもちえてはいない。

 最後に残されたものはF。

 Fは、この1号と北西側に存在していた8号への関係を主体に、さらに東へ、7号から4号へ離れるにしたがい関係を弱めている。この状況から判断すれば、中心をなす1号に隣接する2号に入る一例に、疑問が生じてくる。

 この関係だけを見ていくと、1号(上層)―2号(不明)―8号(上層)―7号(上層)と四つの住居跡へ飛散し、出土層位不明の2号以外すべて上層からの出土である。

 これらを除くと、8号、7号は前頁中段の図で明らかなように、上層から出土しているものは7号の一例のみで、他はすべて中層以下から出土している。

 どう見ても、この四軒の住居跡に連なる線は除外しなければなるまい。想像されるのは、調査当初のパワーショベルによる1号から4号方向への表土層の掘削が関係しているのではないか、ということである。

 こうしたことが実際に起こり得ている可能性があるのであるから、ここでいったん全体の状況を再検証しておくことにする。

 対象となるのは上層から出土しているものであるが、まず4号から見ていくことにする。ここでは、パワーショベルは7号から4号方向へ東へ向かって動いているので、その方向に遺物が動いている可能性がある。しかし、上層から出土している五例のうち一例を除き、いずれも西側では中層以下から出土しており、表土層の除去にともなって移動したとは思えない。

 また1号の上層においても、Fとした四例(うち一例は層位不明)のうち先の一例を除き他住居では中層以下の層から出土しており、これも移動したとはいえない状況にある。加えてA号と関係を持つ四例(うち二例は層位不明)は、1号とA号間でパワーショベルによる移動をさせていないことから、当時の状況にもとづく接合関係であるといえる。

 これらのことから、表土掘削時の遺物の移動があったとしても、全事例中二例ていどと判断され、大局を左右するものでないことが検証されたことになる。

 少々長引いたが、ここで再びFの状況観察にもどる。

 1号住居跡のFから追っていくと、中層の二例は8号住居跡の中層に位置し、上層の一例もそれに準じている。8号の埋没土は壁ぎわから入れ込まれていることが考えられるので一概に断定はできないが、傾向として同住居跡に見られるBの廃棄よりも一段階新しい様相をもっているように思える。

 そのことに加え、上層の7号と4号に関係をもつ一例が、それぞれの住居跡の中層からBと等しい関係をもって出土していることから、ほぼこれと同じ段階の廃棄であったことが推測される。

 なお、1号住居跡中層の二例のうち、一例は住居跡埋没後の掘り返されている部分に近い位置で出土しており、本来上層に存在していた可能性も否定できない。

 論拠は希薄だが、Fの廃棄段階は、下層から住居間接合の事例が検出されていないことからも、1号住居跡が完全埋没に近い状態のなかでの廃棄と考える。

 以上を総合して復元されたのが、上図に示した各廃棄段階である。

 横軸は四千四百五十年前から百年ほどの縄文時代中期中葉の土器形式による時期区分で(新しい時期へ向け、勝坂V式加曽利ET式同EU式同EV式)、縦の太線は想定される各住居の存続期間、四角内のアルファベットは住居間接合をともなう各廃棄段階を示している。

 下段の土器は、各住居の時代基準となる炉体土器および埋甕である。

 

住居構造を追う

 この節も詳細な分析をともなうために長い。

 私の目的は、調査者のまとめ上げた結果を知っていただく事ではない。その過程をこの書を手にする方と共有しながら、自らもまた発掘報告書とは別な次元で、開発により失われた遺跡のことを深く考えてみたかったのである。

 図表や写真を駆使し、理解しやすいよう心がけているつもりであるが、もし、複雑で読みにくいようであれば、この節を飛ばし、遺跡全体の様相を復元解説した次節へ進んでいただきたい。

 では、遺物の廃棄現象と同じく、東端の4号住居跡から見ていくことにする。なお、1・2号住居跡については、すでに述べてきたところである。

 

4号住居跡

  280kgの土器、石器、礫を包み込んでいた埋没土を取り除いたあとから現れたもの、それは床の中央に直列する三様の炉跡であった。北より、土器を炉縁として埋め込む埋甕炉、中央に石で囲む石組炉、南に床を掘り下げただけの地床炉。

 このことからすれば、三軒の重なりをもつ住居跡とも、また昔の農家の竈のように人寄せに用いる大竈と日常使う中小の竈を一体化させたような、三連の竈とも思えてくる。

 縄文時代にも複式炉という形態はあるのだが、この炉の状態は、時期別に構築した住居跡にともなうものであろう。と言うのは、床面に残された周溝と言われる壁ぎわの土留め施設を作り出した溝跡、その痕跡が、同心円上に二つ確認され、さらに南側の壁が周溝の外側へ離れ出た位置に作られていたからである。

 三つの炉跡は、この三軒の重なりをもつ一つひとつの住居跡に作られていたものであることに間違いはない。

 そこで問題となるのが、おのおの炉がどの段階に設けられていたかであるが、それはいくら実測図をながめていても埒があかない。それを知るためには、住居構造の解明に入らなければならない。

 床面には数多くの大小深浅のピット()が検出されている。こうした場合、重箱の隅をつつくようなやり方をくり返していても複雑さを増すだけである。こうした研究上の問題点の整理は、日常の生活におけるそれとさほど変わるものではない。

 例を挙げれば、取り散らかした寡夫暮らしの部屋がある。その部屋を片づけるとしたら、布団やベッドという万年床を取り去ってしまえばかなりすっきりし、動きやすくなる、次にいらないものといるものを大別し、いらないものはゴミ収集マニュアルにそって分別廃棄、いるものは性格別に置く場所を決めて配置していけばすむ。

 しかし多くの場合、自治体により異なるゴミ収集マニュアルがよく理解できなかったり、また廃棄する種別の収集日がわからないために不安が先行し、ゴミ出しがめんどうになり、片づけることさえままならなくなる。

 前置きが長くなったが、日常の整理能力と、こうした研究活動における事象の整理能力とにさほどの違いはないと考えている私にとっては、いるものといらないもの、そしておのおの分別という、大別から細別へのマニュアルの構築が、問題を解決へ向かわせる重要な手法だと思っている。

 この住居跡の場合、優先すべき大別は上屋の主体となる構造材の割り出しである。それらには梁や主柱が該当するが、床に残る痕跡は主柱のみで、そこから中空に存在した梁を想定し、構造材の組み合う形状を復元していかなければ実像は見えてこない。

 主柱は上屋を支えるものであるから、ピットのなかでは大きなものが該当するはずである。これを基準として抽出していくと、40cmていどの径で、7295cm の深さをもつ大形のピットが 11本選び出されてくる。

 それらから、間隔をたよりに安定する形状を作り出す組み合わせを探し求めていくと、図の(1期・2期の図中の黒丸とそれをつなぐ線)の二つのもっとも整った基本形状が抽出される。

 残されたものは図左端(3)であるが、この大きさの基準に合うピットは、南西側と南東側の二つのピットしか見られない。ここでは今までの基準が部分的に通用しなくなっているのである。

 そこで二つのピット間の距離を優先すると、それに見合うピットが北東側と北西側に抽出される。深さは 57cm 62cm。やや浅いが、残りのピットに比べれば格段に深く大きい。

 周溝との関係が適正な前二者を除くと、この住居は周溝をもたずに南側へ一番張り出した住居であることが理解される。しかし、この四本柱の構造では南側が壁まで不自然に大きく開けていることになる。

 この部分をよく観察していくと、入り口部の梯子を押さえたと思われる三つ組みのピットが存在しており、その東側にピットが検出されている。

 深さは28cmと浅いが、この柱を組み入れることにより、竪穴に対する柱位置は安定し、先の南側の上屋構造についての疑問も解消される。

 こうして、三つの住居の基本構造は明らかにされたが、次に問題となるのはそれぞれの構築順序である。

 三つのうち、最後の周溝をもたない住居は、放棄後の埋没土が最も新しく、また遺物の混入も、その範囲に限定されていたことから、最終段階に構築された住居であることに疑いをはさむ余地はない。

 だが、他の住居については、規模を広げたとも、縮小したとも、二つの考え方が成立する。

 情況証拠は三つ。

両者の埋没土に切り合いが観察されない。

埋没土に遺物の混入が認められない。

床面の掘削痕に切り合いが認められない。

 このことから、当初の建て替えが埋没状態の住居跡を掘り返したものでないことが明らかとなり、同心円上の拡張による建て替え(2)→南側へ寄せた再度の建て替え(3)、と変遷していることが判明する。

 そして、謎めいた三基の炉は、それに対比させることにより北側から順次構築されたものであることが判読されることになる。

 細かな検証要因は他にもあるのだが、複雑さを増すために割愛し、ここからは4号住居跡に見られる建て替えられた三軒の変遷を復元的に解説していくことにする(上図参照)

 1期構造mていどの深さで、3.7×4.2の四隅の丸い竪穴を掘り、壁下には崩れを防止するための網代のようなものを立て掛ける溝を巡らせている。

 上屋の骨組みは、4本の主柱に梁をわたした構造で、その梁に斜めがけされた垂木により角の丸い四角錐の平たい屋根が造られていたようである。

 入口は南側。出入りの梯子が掛けられ、その両側に立てられた一対の細い柱で、梁掛けされて出された庇が受けられ、外へ延びていたようである。

 梯子を下りて薄暗い室内に入ってみると、九畳ほどの広さで、出入りや作業のためか、炉が、北側へ寄せられている分だけ南側が広くとられている。

 炉に近寄ると、そこには大形な土器の口の部分が炉縁として埋め込まれ、南側に大小三個の石が残されている。この石は、上が平らであれば何かの作業に使ったことも考えられるが、山形なのでそうは思えない。建て替え後の炉が石組みなので、あるいは大方の石がそれに転用されてしまったのであろうか。

 この住居での生活期間は特定できないが、ほぼ通常の耐用年数は経過していたのではないかと思われる。

 それがどこで判断されたかというと、補助として入れられた支柱のあり様から理解されてきたのである。東南側の主柱の弱体化にはじまり、東北側、その他へと、最終段階では主柱の根腐れに起因する、均等な上屋構造の沈み込みの起きていたことが類推できるのである。

 通常の補修は、小さな補修から大なる補修へと推移することが考えられ、そのことを念頭に置くと次のような状況が想定されてくる。

 まず、東南側の主柱に根腐れが生じた。それに連動して上屋の沈み込みが徐々に進行。この状況に対処するため、付近の三本の垂木へ径 4 5cmの支柱を垂直に入れ込んで防いだ。

 しかし、東北側の主柱でも同じ根腐れが起き、ここでは主柱に掛けた垂木と梁の双方に支柱をあてがった。

 だが状況は深刻さを増し、根腐れは主柱全体にわずかずつおよんでいった。ただこの状態から構造材のねじれという最悪の事態に向かわなかったのは、住居規模が小さく、隅丸方形という均整のとれた形状をしていたためであろう。つまり四方を囲む垂木の強度で、沈下は生じても、ねじれが防がれていたことになる。

 これらの支柱により、どれほどの期間もちこたえたかはわからないが、ある時点で東西の梁下へ、主柱に準ずる径20cmの柱が深さ 48cm 59cmで入れ込まれている。

 本来なら、主柱を入れ替えた方がよいはずであるが、この二本の長さが平均的主柱より20cm ほど短いことを考えれば、この柱を主柱に差し替えて埋めたとしても、基盤が脆弱であることに変わりなかったものと思われる。

 さらに考えを巡らせると、新材が容易に調達できたとしたら、長さや数は問題にならないはず。そこで浮上するのが転用材を用いていた可能性である。

 転用材であれば長さにも限りがあり、数にも限りがあったはずである。

 真相はわからない。ただ、この梁下へ入れられた支柱が頑強であるほど、根腐れの進行とともにシーソーのように東西の梁が動く状態は防げなかったことであろう。

 2期構造1期からの、継続した建て替えとして構築されたことは先に検証した。

 2期の住居は、石組みの炉を新設し、1期の床面をそのままの高さに、東西へ60cm、南北へ 170cm ほど押し広げ、十五畳ほどに竪穴を造りなおしている。このことはおそらく、旧住居壁面の劣化だけでなく、根腐れを起こしたピットの再利用を避けるためであったろう。

 主柱を四本から五本とし、規模を大きくしたことは、それだけ多くの材料が必要となることを意味しているが、そのことからすれば、建て替えには伐木に適し、またそれにかかる労働力を結集できる時期を待って実行したことが想起されてくる。

 それが事実とすれば、2期への建て替えの要因に旧住居の突発的な崩壊という考えは弱まり、逆に計画的な建て替えの可能性が強まってくることになる。

 このことを前提に、さらに類推を重ねれば、建て替えであるから部分的に旧住居の材料を転用していたことも充分に考えられてくる。そこで長さを基準とし、転用可能な材料を抽出してみることにする。

 東西の梁は、そのままの位置関係で転用可能。

 東西の梁下へ入れられていた支柱は、山形に北側へ  突出させた二本の梁に転用可能。

 南・北の梁は、それぞれ二本の主柱に転用可能。

 したがって構造材にかんしては、三本の主柱と一本の梁と棟木が最低限の新規調達材とみなすことができる。

 さらに進め、2期の上屋構造は、1期と異なり大型化した棟をもつ構造であるが、この場合は規模が大きくなっても、北側と南側では同寸のままに旧垂木材が利用可能である。なお入口部の庇はすべて転用可能。

 これを屋根面積として考えるなら旧住居に対して三分の一ていどの新規調達材があれば充分となる。

 雑ぱくに言えば、新材の調達範囲は、総量の三分の一弱ではなかったかと推察されるのである。

 (想い出していただきたい、第一章の「重なり合った住居跡の秘密」を。そこでは縄文時代の森林の活用にかんする重要な問題提起があった。

 問題の発端となった野塩外山遺跡から、この野塩前原遺跡の調査までに五年半が経過しており、さらに今日まで五年、都合十年余の歳月が流れ、ここにやっとこの問題を追求していくことのできる方法論が見えてきたことになる)

 さて2期住居の構造劣化、それは北と北東側に立てられていた二本の主柱の、西へ向かう倒れ込みであったらしい。それにより、柱に結束されていた梁組みも左まわりに。10゜から最大15゜のねじれを生じていたらしく、北と北西側の垂木へ押さえの支柱が立てられている。

 支柱は他に、棟の南端と南東側の垂木にもあてがわれているが、いずれも部分的なものである。

 このことからすると、構造材自体の劣化はさほど進行していないものと思われ、それにともなう致命的な崩壊寸前の状態には至っていなかったものと判断される。

 問題視されるのは、ではなぜ大規模な補強を必要としないこの状態から、3期への継続する建て替えがなされたのか?

 その問題を次期の構造から探って行くことにする。

 3期構造この期の竪穴は、南側へ掘り広げ、北側に土を入れ込んで造られており、規模が十三畳ほどに縮小している。炉は地床炉を新設。

 北壁直下の東西に二箇所、西壁直下の北側に一箇所みられる2030cmの間隔に配置された対をなす小ピットは、入れ込んだ土を押さえるための土留めの杭跡と思われ、その外側に横木を積み重ねて土を受けていたように判断される。

 主柱は五本であるが、その配置は2期とは逆に南側へ山形を造り出している。そのため、入口の向きを2期までの南南東と異なる南南西へ替えている。

 各柱間の距離から上屋を推測すれば、棟をもたず、垂木の頂部が一点に結束する構造であったと思われるが、この場合、南端に張り出した主柱に掛けられる垂木は、梁位置で傾斜を変えていなければならず、つなぎになっていたはずである。

 主柱を埋め込んだピットの深さは、南東の柱が72cm、南西は 84cm 。これらは前時期までのピットに準じている。しかし北側の二本は北東が 57cm 、北西が62cmとひとまわり浅く、山形に突出した南端の柱にいたっては28cmとさらに浅くなっている。

 2期から3期への建て替えは継続していることが検証されている。しかし、この建て替えの要因には疑問が続出する。

なぜ、規模が縮小したのか?

なぜ、旧住居跡の北側を埋めたのか?

なぜ、南側を掘り広げたのか?

なぜ、1期のように四本柱にしなかったのか?

なぜ、柱穴の深さが不揃いになるのか? 

 これらの疑問のすべては、一の「なぜ、規模が縮小したのか?」という問題に集約される。

 1期から2期への移行が、規模の大型化であるのに、3期には縮小化をたどる。しかも、一方を埋め、一方を拡張し、主柱の長さも不揃いにしている。

 連動する二と三の事象を追うと、意外なことが連想されてくる。

 旧住居の北側を埋めた土は暗褐色土。これに対し南側を掘り広げた土は八割以上ロームであったはずである。

つまり、南側への拡張は北側を埋めるための土の調達ではなかったことになる。

そうすると、この拡張は旧住居の入口にあたっていた南壁の崩壊破損が主原因として浮上してくる。

 次に四と五を追求していく。

 小型化するのなら、なぜ1期にもどって四本柱としなかったのであろうか?四本と五本構成のあり方をみていくとおもしろいことがわかってくる。

 それは、この4号住居跡の2期を上回る規模の3号住居跡に四本柱の構成が認められることが発端となる。このことから、四本柱は必ずしも規模に規定されていないことが想像されてくる。

 さらにその状況を構造的に追尾していくと、ここにも意外な事実を知ることができる。

 基本形を最も単純な、梁形が四角になる四本柱の構成におくと、五本柱では梁が一本多く必要となるが、それと引き換えに、二本が寸の短い材料で済むことになる。しかも、このつなぎ部分を直線にすれば梁組みの強度が弱まることから、山形に外側へ出すことに五本柱としての必然性生まれているのであるが、実はこのことが梁組に安定をあたえ、さらには広さを増すことにも連なってているのである。なお、この部分の屋根縁の平面形状は半円形。

 この事実から想定されてくるのは、調達材が豊富であれば規模にかかわらず最も単純な四本柱の構成をとり、

それに制約があれば一工夫した棟をもつ五本柱で最大の広さを確保する、という姿である。

 そうなると、五本柱でありながら、棟をもたない3期の構造に不自然さが拭いきれなくなってくる。五本柱が、本来棟をもつ構造と不可分の工法であるのに、それがここでは四本柱のように垂木の頂部を一点に結束しているのである。

 これらを総合すると、1期から2期のように、時期を待ち、豊富な材料を調達できる環境のなかで構築された住居ではなかったことが知られてくる。となると、2期住居の廃絶に突発的な要因が強まり、建て替えに緊急性を帯びていたことが想定されてくる。

 そのような状況下では、2期の転用材をフル活用しなければならなかったはずだが、規模が縮小化していることを考慮すれば、転用する構造材に破損が生じ、そのままの尺寸では使用できないものがでていた可能性が問われてくる。

 次にそれを、両期における、想定される梁の寸法比較から検証していくことにする。

 まず目に付くのは、竪穴の東西の幅にさほどの変更がなされていないことである。それを裏付けるように、2期の南辺の3,5mの梁は3期北辺と一致し、また2期北側の山形に配置された 2.0mの二本の梁も、一本は3期南側の山形部の梁寸法と一致している。もう一本は25cmほど短いが、山形部の突出をおさえることにより、結果的に山形部底辺の3.5m の幅は維持されている。

 この変則的な手法は、山形の長いほうの辺に入口部を構築しなければならなかった事情によるものと思われ、転用材の破損によるものではなかろう。

 次に、南北の縦に入る梁であるが、これは竪穴部の縮小に連動して梁の寸法も短くなっている。

 2期では西梁が2.9m 、東梁が3.0mほどであるが、3期ではそれらが 2.4m 2.6m と短くなっている。両期の最大差は2期東梁と3期西梁にあり、数値的には60cm 。同様に最小差は2期西梁と3期東梁の30cm。どうやら、この数値の範囲内で、2期の梁が破損したことが規模を縮小した建て替えの主因ではなかったのか。

 さらに主柱穴の様相をみていく。

 図中左列(1 5 )が2期の柱穴断面図、中央列(A E)が3期である。なお前者5番の柱穴については調査時に数値計測のみであったため割愛した。

 2期(左列)の柱穴について観察すると、1右壁と2左壁に傾斜および段が認められる。これは住居廃絶後の柱の抜き取りにともなう掘込みと判断され、柱を、掘込んだ側へ引き倒していることが想像される。

 また、4についても一般的な柱穴より幅広であるために、先端を尖らせた棒状の工具で、周囲を突いて土質を柔らかくしながら柱を抜き去ったように推測され、この状態では抜き取る以前から、柱がぐらついていたように思える。

 5は不明だが、残る3は、これらと明らかな違いをみせ、側壁は、柱の設置された状態のままに手の加えられた形跡は認められない。

 このように、四例中三例に柱の抜き取られた形跡が認められるとすれば、それは転用材として3期に移設された可能性が著しく高まる。

 それを検証するため2期と対比しつつ3期の柱穴を観察していくことにする。なお、煩雑になるため、これより3期の柱穴をアルファベットで区別していくこととするが、Aは柱穴が重なっており、右の部分はここでは無関係である。予備的説明は以上。

 1に近似するものはAと思われる。図右列は掘込み面を一致させ重ね合わせたものであるが、1とAは深さが全く一致しているのである。

 2はBと近似しているとみたが、その理由は、両者を重ね合わせてみると2の白抜きで示した暗褐色土の深さにB全体が一致していることによる。

 2は柱穴のなかで最も深いが、実際に柱の入れられていた底は、図左側の灰色であらわした引き倒しにともなうローム質土の傾斜角からみて、この暗褐色土の最下底あたりと思われるからである。

 3を飛ばし4へ行くと、これも白抜きで示した暗褐色土の位置にDがすっぽりと重なるのである。こうなると偶然とは思えなくなってくる。

 ここで3に戻るとこれはCかEということになってくる。本来3は抜き取られてはいないと判断したはずであるが、よくよく3の土層を観察すると、他には見られない状態が見えてくる。ローム質土が上位の側壁にのみ認められ、その下が柱穴の中央へL字形に進入しているのである。抜き取りのない、柱が入った状態を想定して考えれば、これは使用期間中からの木質の腐れにともなうローム質土の進入としか思えないのである。

 このことが事実とするなら、腐れた部分から上位は簡単に抜き取ることができるであろうし、仮に上屋が倒壊したとするなら、主因となりえる弱体化した柱として断定することができる。

 この可能性を追尾していくとCが急浮上してくる。重ね合わせれば、腐れたところから切断された柱の埋設深度にぴったりと一致しているのである。

 以上四例の対比関係が明らかにされたことで、残りの5は自動的にEへの移設が想定されてくる(図上段)。ただしEの深さが浅いため、3に同じく2期においても根腐れを起こしていた可能性が指摘できる。

 事象の把握はこれで行き着いたわけではない。この段階はまだ第二段の状況証拠が出そろったに過ぎず、ここから研究活動における最も想像的な世界へ分け入ることになる。

 最大の問題は2期住居の廃絶原因。ここからの考証はその一点に絞られる。今までの事例分析を総合すると、それらはすべて2期住居の突発的な状況下における廃絶を指向している。

 それが何であったかを知るための鍵は、唯一柱穴に残された痕跡を手掛かりにするほかない。したがって、2期の柱穴をねばり強く分析していかなければならない。

 前段までの状況を1から順に整理し、2期の放棄時点での柱状態を復元していく。

 柱穴1抜き取り         ……健全

 柱穴2抜き取り         ……健全

 柱穴3下部切断、上部抜き取り  ……弱体化

 柱穴4抜き取り     ……健全だがぐらつき

 柱穴5下部切断、上部抜き取り? ……弱体化?

 こうしてみてくると、住居の北東側の構造が強固なのに対し、南から西側にかけての構造が弱体化していたように思えてくる。もともと根腐れを起こしていた3と5を除外すると、柱自体に健全さを残しながらも、ぐらつきを生じている4のあり方が問題視されてくる。

 そこで別な視点から背景固めをしていくことにする。

究明するための手法は、消去法による問題点の絞り込み。

 住居放棄が突発的な状況とすれば、心的な理由と自然的な理由に大別できると思うが、この場合3期への移行が規模の縮小という構造材の破損をともなう可能性が強いことから、前者は離脱。

 そこで、残された自然的理由を細分してみると火事、地震、風害、水害。このうち火事は炭化材および床面の焼土化が見られないことから離脱。水害も台地上であることから離脱。残されるたものは地震と風害である。地震とすれば倒壊をきたし、梁の破損も生じる。しかし、どうも腑に落ちないのは、4のぐらつきである。3と5の柱が弱体化していることを考えると、ぐらつきを起こすまでもなく上屋の倒壊を起こすはずではないのか。

 こう考えを巡らせると、風害という線がよほど強く感じられてくる。仮に風害とするなら方向が問題となる。この場合、梁の破損が予想されるから、部分的なものであるにせよ、上屋の倒壊をともなっていたはずである。

 抜き取りの状態から、北東側の二本の柱が健全に直立していることを前提とすれば、これらの柱に対しては垂木とともに草葺きの重量が直接に加わる住居内への倒れ込みは想定できない。

 二本の柱が残りうるには、反対方向である北東側への倒れ込みで、しかも梁と垂木は結束されていたであろうから、ともに倒れ込む。考えられるのは柱と梁の結束がはずれたか、あるいは梁が柱に乗せられただけの状態であったか。

 この柱と梁の結合関係は形であるから縄や蔓によるしばり付けがあったとしてもくさび状の工夫がなければ、屋根が風であおられる状態が生じれば、たやすくはずれることになる。

 風害とすれば方向は南西側からの強風。このことから想起されるのは清瀬の古老が言う「富士南っ風」、つまり台風である。

 この状況を想定すれば、南側へ張り出した入口部西側の一角は強風をまともに受ける場と化していたことになる。あおられる入口の庇、倒壊すれば南壁が損傷し、壁土が崩れ落ちる。そして、このことにこそ、3期構造の南側への拡張が必要となった原因がひそんでいたように思えてくるのである。

 事象の連鎖が指し示してくれたもの、それは強風の中で耐えつづける人々の姿。今一度、姥山貝塚の家族構成を想い出していただきたい。

 そこに見えてくるものは、子らを抱きしめ、自然の驚異から守ろうとする、たくましき姿。

7号住居跡

 埋没土中から、数多くの完形土器を出土した7号住居跡の遺物総量、それは 225kgの土器、石器、礫。

 それらの調査を終えて現れたのは、中央やや北寄りに土器を埋め込む炉を設けた、周溝をもつ十一畳半ほどの住居跡であった。

 まず、炉から見ていくことにする。

 炉内には焼土や灰は残されていない。こうした状況は野塩外山遺跡や本遺跡の他の住居跡でも同じで、どうやら焼土は赤色の顔料として、また灰は繊維を煮て柔らかくするのに使用できるためか、双方とも利用範囲のひろさから持ち去られているようである。

 炉縁には胴下半を欠く土器が埋められていたが、この土器は7号炉体土器の写真に見られるように、驚くほど精緻につくられている。それは、撚糸を巻いた棒の回転文様を一切傷つけることなく、その上に粘土紐が貼られ、しかも胴部に引かれている条線文も、縦に半割りした篠竹の内側で引き出された平行線を、一つおきに寸分違わず重ねながら直条線や波形条線を描き出している。

 4号住居跡のところで述べたが、四本柱の住居が必ずしも小型な住居にともなうものでなく、建築材の豊富な調達に裏打ちされているとすれば、炉に用いられたこの土器自体にも、ある種の集中できる環境下で制作された力強さを感じとることができる。

 もちろん、住居によっては、廃絶にともない持ち去られた土器もあるだろうが、このようなことを考えてくると、石組や地床炉は、住居建設要因に緊急性があり、安定した環境が作り出せないための処置であったことも想定されてくる。

 野塩外山遺跡1b5b号住居跡、本遺跡1号住居跡の事例は、石組みの炉に土器を併用しているが、炉縁の機能としては二重にする必要は認められない。

 そのことについては、すでに野塩外山遺跡の2号住居跡の炉で問題提起されていたが、こうした事例に対し、ここで新たな視点が生み出されたことになる。つまり、石組を先行し、土器の製作を待ち、後からそれを設置した可能性が加わることとなった。

 六年前、「野積みにされた問題をどう解けばいいというのだ!」という叫びたいような気持ちがあった。その後の調査においてもこのように問題は複雑化し、途方もない質量に肥大化してきている。しかし、そうしたなかで事例が規則性をもち、解決への扉へ向かわせてくれるものもある。次に述べる南側に残された被熱痕がそれである。

 前頁写真左に示したが、炉に二様の被熱痕が観察される。一方は土器の縁に残された被熱変質した箇所。もう一方は、その直下の床に形成された焼土。この状況は土器に掛けられていた粗朶木が徐々に燃え上がり、やがて外側へ燃え落ちて、ロームの床を焼土化させたもの。思い出されるのは野塩外山遺跡の10号住居跡で、それと同じ状況である。

 それらの被熱状況からは、火をぼうぼうと炊きあげる情景は想像できない。一、二本の粗朶木を掛け、チロチロと燃えている火で、寝静まった夜、あるいは昼間の無人の部屋で静かに燃える火。それが時として外側へ燃え落ち、床縁でくすぶっている情景である。しかも、粗朶木はいつも南側から差し入れられている。

 さて、ここからは構造にはいる。

 主柱は四本。想定される屋根は、垂木が頂部で一点に集まる円錐形。入口部は南辺の西に寄せて造り出され、壁の直下には梯子を固定するための杭跡がみられる。

 この種の杭は、三つ組みとして上を山形に結束して強度をもつようにする場合が多いが、ここでは太い杭をていど垂直に打ち込んでいたらしく、一本で機能させていたようである。杭跡の穴は四本確認されているが、南西側から左回りにすげ替えられており、消耗の激しかったことを物語っている。

 床には主柱と同規模、ないしそれを上回る深さの柱穴が五本と、東側に深さ50cmほどのひろい穴、他に深さ50cmを超える小さな穴が点在している。

 概観すると柱穴断面図のように、今まで見てきた他の住居跡の支柱穴にくらべ、傾斜をもつものが少なく、しかも深い。

 結論を先取りすると、この住居の場合も構造の劣化が、主柱の根腐れからくる上屋の沈み込みをもたらしていたようである。ただし、四本柱で造り出された隅丸四角錐形の屋根構造が安定しているため、構造材全体のねじれは生じていないようで、それが傾斜をもつ支柱の少なさ、言い換えれば、直立する支柱の多さと、それぞれに深みをもつ柱穴断面となって表れていることが想定される。

 つまり、基本構造に対する補修のあり方からは、最終的な住居放棄にいたる原因が老朽化にあったことが予測されてくる。

 その間の状況を復元的に述べれば、以下のようになる。

 土に埋め込まれていた掘立柱の耐用年数が過ぎ、四本の柱の埋設部分に腐れが進行し、上屋の沈み込みがはじまる。

 この段階での補修は対症療法的なもので、7 11にみられる梁や垂木に対しての押さえ、また 5 6の屋根の中心を支えるものとして現れている。

 こうしたなかで、東側の屋根の沈下が勢いを増したらしく、この部分の梁下へ主柱に準ずる太さの支えを17へ入れている。

 この部分の柱穴の形状は不定形であるが、それは屋根の東側への若干傾斜をもちながらの沈み込みにより、支柱が梁からはずれる状態がくり返され、そのつど位置替えがなされていたように推察される。

 1516 は後に説明する架構組の穴と思われるが、そのそれぞれの北側部分には古い段階の浅い穴が存在しており、これらは南梁の直下に位置していることから、17と同種の梁支えである可能性が強い。

 ところがこうした補強をしても、主柱全体の強度が急速に低下したらしく、もはや単純な構造の支えでは防ぎようがなくなっていたらしい。

 そこで補強は大規模化し、12―13(断面図左)14―15(断面図右)に[形の梁下を支える架構組をほどこし、前者で北梁と西梁を、また後者で北梁と南梁を一度に支えたらしい。なお1615へ、そして13は断面図右側の浅い穴へすげ替えられている。

 これが最終段階であるが、ここにもう一つ17北側に傾斜をもつ小さなピットが存在している。

 前頁最終構造に灰色の線で示したように、この穴に入れられていた棒は、14― 15の架構組が中央に渡された垂木と交わる位置に向けてくり出されており、架構の北東側への倒れ込みを防ぐ目的で設置されていたことは明らかである。

 以上が上屋構造弱体化の全過程であるが、床に残されていた痕跡は、7号住居がいくつもの補強をくり返しながら朽ちてゆく過程を、見事に物語っていたことになる。あるいはこの自然に朽ち果ててゆく住居の姿にこそ、寿命をまっとうしたものとして、すぐれたよき処である「真秀()」の場のような意識を投影させ、そこに土器・石器など、あらゆる消耗した道具類を廃棄する意味を見いだしていたことも想像されてくる。「まほらば」は「まほろば」に同じ。マは接頭語、ホは抜きんでたものの意、ラは漠然と場所を示す意の接尾語。

8号住居跡

 7号西どなりに構築されている8号は、埋没していた勝坂期の住居跡を加曽利E・式期に掘り返した、構築時期に断絶する重なりのみられる住居跡である。

 まず、古い段階とした1期の住居構造から見ていくことにする。

1期構造主柱は五本で、北東側に山形を造り出す十四畳ほどの住居跡である。

 この基本構造に対し、構造材の劣化は、北端の山形頂部に位置する主柱の根腐れからはじまったようで、その初期の状態は主柱とそれに渡された二本の梁をともなう沈み込みと思われ、これに対処するために主柱左右の梁下へ支えの柱が入れられている。

 この状態で一度は安定した状態がつくり出されたようだが、ほどなく北側の屋根を受ける垂木群の重さから、それに結束されていた梁ごと、内側へ倒れ込む状態が起きたらしい。

 そのため、この北端の主柱に起因する沈み込みと傾斜を防ぐため、主柱の内側に7号住居で見られたものと同様の架構を組み、それを防いだようである。

 しかし、掘立柱の耐用年数が近づくにつれ、北東と北西側二本の主柱の弱体化が、さらなる沈み込みを誘発。

 そのことで、新旧は検証できなかったが、西梁と東梁をつなぐ梁下へ、並行する二箇所の架構組が造られている。なお南側の一本は、のちに東側の柱の弱体化により南どなりへ移設されてゆく。

 このほか住居中央付近の床に、奥行き110cm、傾斜角51゜の穴が存在している。この方向と傾斜角をたどると、先端は東梁の中央付近に達していることが理解されるが、そのことから東側の屋根に倒れ込みの生じていたことが類推される。

 この穴は、 28cmの開口部の幅に対し、最深部のそれは15cm 。先端を細めた棒を入れていたとも思えるが、深いこと、また斜面にローム質の土が堆積していたことから、強大な力を受けた潜り込みと、その角度変化にともなう頻繁な付け替えのあったことが理解されてくる。

 設置段階は解明できないが、機能していた期間はかなり長かったように思える。

 いずれにせよ、この期の住居も、構造的には耐用年数を上回ることで放棄されている。

2期構造重なりをもつ新しい加曽利E・式期の住居跡

を2期とした。

 1期からの継続は認められず、断絶し、埋没していた1期の住居跡を新たに掘り返して構築した十一畳ほどの住居跡である。

 なぜ埋没している住居を掘り返すのか?という問題は依然として謎である。

 この住居の場合、構造材の調達に制限が加わっていたためか、旧住居の規模より小型化しており、同心円状に押し広げられた安定した竪穴部を造り出すことができていない。

 そのことは、予想できる範囲なのだが、しかしなぜ4号住居跡3期のように、入口にあたる壁面を南側へ掘り広げなかったのであろうか? 

 この状態では、出入りの場をわざわざ旧住居跡のぜい弱な埋没土に設けていることになる。

 状況としては野塩外山遺跡の5b号住居跡と同じであるが、この問題にかんしては解決する糸口さえもいまだ見つけ出せないでいる。

 2期の基本構造も5本柱の住居であるが、ここでは、まず竪穴部の設定から観察していくことにする。

 2期の壁面で、旧住居との共有が想定されるのは北東側の一部の壁だけで、床は15cmていど掘り下げられ、北壁は掘り広げにより、また西壁と南壁は1.11.5m幅の埋め立てで竪穴部が構築されている。

 西から南へかける周溝内には、ほぼ等間隔に杭列の穴が検出されているが、これらは壁面に土留めの柵をまわしていた痕跡と思われ、それらは上図に灰色の点で示した、外側にめぐらされた同種の杭列と組み合い、強固な土留めの造られていたことが類推される。

 こうした、複雑な補強のほどこされた竪穴部をおおう上屋は、南側へ山形に突出する柱配置をもつ5本柱の構造で、それに渡された梁に垂木が斜め掛けされ、棟をもつ屋根形であったと思われる。

 入口は、柱の山形に配置された右手梁下に設定されており、この部分の壁下に梯子状の施設を固定する三つ組みの杭跡が検出されている。

 炉は、屋根の北側の棟端にあたる部分の直下に位置し、九個の川原石をほぼ長方形にめぐらし、その南辺の内側へ欠損する土器の口縁部が埋設されていた。なお、焼土や灰は確認されていない。

 この基本構造に対し、ここでも上屋の弱体化が生じている。

 それは、北西側への上屋全体の傾斜として現れていたようで、梁や垂木の押さえとして十三本の支柱穴が確認されている。つまり、当初は上屋の部分的な沈み込みであったものが、やがて北西側への傾きを誘発し、最終段階では上屋全体が。5ていど傾く状況が起きていたのではないかと推察される。

 そして、この段階を少しさかのぼる時期に東北側の柱の根腐れが進行し、南へ延びる梁下へ、添え柱的な性格をもった支柱が入れ込まれている。

 しかし、住居放棄時点の状況を想定するなら、この段階は大規模な補修の初期にあたり、この状態で放棄されていることからすれば、他所への住居の建て替えは緊急性を帯びたものではない。したがって、ここでは通常の生活状態のなかで時期を待ち、他所への建て替えを行って移動したことが想定できよう。

A号住居跡

 調査区域の西端から発見された住居跡で、二基重なり合っている。

 両者の関係は、同心円状に掘り広げられ、床面の高さ、ならびに炉に変更がみられないこと、加えて床に残された竪穴部構築時の掘削痕に、異種の重複が認められないことなどから、継続した建て替えと判断。

1期構造古い段階の1期は、周溝をもち、南東側へ主柱を山形に配置した五本柱の住居であるが、室内の広さが七畳ほどと小さく、その屋根は4号住居跡3期に見られるような棟をもたない構造をしていたものと思われる。

 入口部は、この山形部の東側梁下に設定されており、その壁下の左右に、梯子状の枠木下端を埋め込んだものと思われる、60゜を前後する角度で外へ出る二つの穴が存在している。

 炉は、中央北寄りに設けられており、加曽利E・式土器の上半部が炉縁として埋設されている。

 この基本構造に対し、上屋の弱体化は、北端に位置する主柱の北側への倒れ込みとしてはじまったらしい。

 この動きに梁組みが連動し、上屋全体が北へ引かれる状態が起きたが、この現象には西端の主柱が頑強であったためか、それを支点とする右回転のねじれが加わっていたようである。

 この段階での支柱は、北西梁の中央と入口側の梁北側へ入れられた二本の梁支えのほか、他は。 79゜、50゜、78゜の角度をもち、倒れ込む反対側の垂木支えとして入れ込まれている。

 こうした倒れ込みが極まり、角度でいえば。5ほどに達したとき、北端の主柱のすげ替えが実行されている。

 先の8号住居跡2期でもそうであるように、彼らにとって。5ていどの傾斜までが、見た目による対症療法的な小規模補修の範疇であったのかもしれない。

 こうして、新しくつくられた柱は、以前より20cmほど深い55cmに変更されている。

 しばらくはこの状態で安定していたようだが、この新調された主柱と西端の主柱を除く他は、すでに老朽化が進んでいたらしく、今度は反対に上屋の南側への傾斜がはじまり、北東側の垂木へ。67゜の角度で支えが出されている。

2期構造建て替えられた新しい住居は、床をそのままに、竪穴部を周囲へ50cmほど同心円状に掘り、十一畳ほどに広げられている。

 柱の基本配置は、以前とほぼ同じ南東側へ山形を造り出すものだが、入口部は掘り広げても傷みが生じていたためか山形の左梁下へ変更されている。なお、この部分の壁直下には梯子状の押さえと思われる三つ組みの杭跡が残されている。

 建て替えにより大型化したとはいっても、全体の主柱配置から想定される梁の長さは北西側と北東側の二辺が短い。ここに長さの制限された梁材を使わなければならない事情があったらしく、尺寸が変則的になっている。

 そのため、2期においても棟をもつ構造は造れず、屋根は垂木頂部が一点に結束する形態をとっていたようである。

 このことは、旧住居の構造材の大幅な転用を想起させるが、その場合の梁の転用は、北西梁南西梁、南西梁北西梁、東梁東梁ないし南梁という関係が提示でき、北東側の梁と、東梁ないし南梁のどちらか一方の二本に、新調された材を用いた可能性が指摘できる。

 主柱については、位置換えのなされていない、71cmの深さをもつ西端と 57cmの北東端以外は、これも新調されている可能性が強い。

 この二本以外の主柱穴の深さは、それぞれ 、50cm 48cm37cm で、通常の 70cmを超える規格からすれば著しく短く、細い。したがって、大方新調されたとはいっても、急場しのぎのような状況での調達だったように思える。

 以上の事例分析から想定されるのは、次のことである。

 建て替えられた住居は、構造的に変則的な状態を含みながらも、ある期間安定した状態で維持されていたらしい。

 しかし、掘立柱の耐用年数が過ぎるにつれ、北東側と北西側の主柱が弱体化し、この状態も他の多くの事例と同じく根腐れであったようだが、そのことにより二本の柱が新しく移される。

 この移設された位置から判断して、すでに上屋は 10゜ほど右回転でねじれながら倒れ込む状態であったらしい。それをそのままの状態で受け直そうとした処置が、この二本の柱の位置替えであったはずである。

 だが、この補修も場当たり的なもの、やがて上屋の倒壊へ向かう内側への倒れ込みを誘発しはじめたころ、垂木への若干の支えをほどこしたまま、新しい住居への移転が行われたのであろう。
 


戻る
 
トップへ

つづきへ

   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
 歴史読本
【幕末編】
多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や
「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代
を生きた衆情を描き出した読本。
 
 夜語り
─清瀬の年中行事─
 
 学芸員室から
─研究過程の発想の軌跡を紹介─
 
 
 施設案内  インターネット
博物館
 




 
copyright©2018 Museum Kiyose all rights reserved.