歴史読本       学芸員 内田祐治著作集TOPICS

                        

黒船4 ─通詞堀達之助─


第一回目の交渉 
 
 コロンブス号とヴァンセンヌ号の右舷には、房総半島が大きく映し出されている。
 近づく館山の湾を過ぎようとする午前 時ごろ、コロンブス号の歩哨が叫んだ。
 「The convoy of a boat comes from the front.」
 ビドルは、六艘の動きを一にする形態と、その船団の現れた方角から、まさにこれからの交渉窓口となる浦賀奉行所からの使者であることを悟る。いよいよそのときが来たのである。コロンブス号とヴァンセンヌ号は減速し、接近する小舟を迎える態勢をとりはじめる。
 停船したコロンブス号の左舷に、距離を置いて並列する小舟。その中央から一艘の小舟が近づいてくる。後ろに刀を差す五・六人ほどをしたがえ、舳先には二十二・三歳の若い侍が立ち上がり、こちらへ何事かを叫んでいる。
 その男、名を堀達之助といい、通詞という家柄に受け継がれた幕府の通訳の職にあった。当時、唐通詞は多いもののオランダ通詞は少なく、しかも手当て低く幕府内では唐通詞より下等に思われてもいた。彼はそのオランダ通詞。
 文政六年(1823)、長崎生まれのオランダ通詞中山作三郎(その父も通詞)の五男として誕生したが、後に堀家の養子に入ったために堀姓を用いる。
 彼には、今回の事件で要請を受けていらい、心中に不安が付きまとっていた。しかし、それを振り払えぬままに、時がここへ至っている。
 船上には、正装したビドルとその部下の姿がある。
 「I want to meet the commander director general of this warship.」
 堀達之助の発した言葉に反応し、コロンブス号の艦長トーマス・ワイマンは乗艦をうながした。
 降ろされた橋げたを上がる浦賀奉行所与力中島清司と、通詞堀達之助、以下数人。
 彼らは、前年の捕鯨船マンハッタン号来航のときにも幕府の交渉人として船長クーパーと対峙した経験をもち、その実績を買われての今回の起用でもあった。とはいえ鎖国状態にある当時の日本にとり、オランダ語の通詞はいるものの英語となるとその数は皆無に近かった。
 堀達之助といえども、本来はオランダ語の通詞。ただ彼は長崎でのオランダ通詞時代に、オランダ商館長として文化・文政期に来日していたアムステルダム生まれのヤン・コック・ブロンホフから受け継がれるオーラル・メソッド(口頭教授法)による英語を学んでいたのである。
 1808年、イギリス軍艦フェートン号が長崎港に侵入した事件があった。それはナポレオンの征圧によりオランダがフランスの支配下となったことで、対するイギリスがオランダ船拿捕を目的として長崎港へ捜査侵入した大事件。その引き際にイギリス側が日本へ食料の調達を強要したことで、幕府内でもにわかに英語の存在が問題視されるようになってきたのである。
 もともと西欧の言語は、古く宣教師たちの来日によりポルトガル語が知られていた。しかし、江戸幕府が鎖国と宗教統制に踏み切ったことでポルトガル語への意識は一気に衰退。その後この黒船来航までの間、オランダ語一色に塗り替えられていた。
 それは、秀吉の朝鮮出兵による朝鮮陶工の帰化を遠因としていた。中国明末の動乱で染付け磁器の買い付けが滞っていたオランダの東印度会社(VOC)が、朝鮮陶工の帰化する日本の北九州諸藩へ明の染付け磁器に劣らぬ製品を開発させ、輸入しようと計画。そのことを幕府が承認したことによる。
 さらに話を過去へさかのぼらせれば、その発端は1602年と1604年のオランダによるポルトガル船の襲撃にあった。
 彼らが奪い取った荷の中に、当時ポルトガルが中国から仕入れてきた、見たこともない、美しい紺碧の海色を描き出す東洋の真白き焼き物が大量に荷積みされていたのである。
 彼らはヨーロッパ各地から商人を呼び寄せ、それらを売りさばこうと計画。そのことでヨーロッパ津々浦々の貴族の目にとまることとなり、その商品が一代旋風を巻き起こしたのである。
 オランダは1602年にいちはやく東印度会社を設立、バタビア(ジャカルタ)を拠点に台湾で中国商人から磁器買い付けの道を築き、その延長として日本へも銀と銅の貿易をとりつけ、1609年に平戸(後に出島)に商館を設けたのである。
 ところが中国国内の明末・清初の動乱で、磁器製品の買い付けが滞ってきた。そこで東印度会社は、当時朝鮮からの帰化陶工をもって磁器の開発に乗り出していた北九州諸藩に働きかけ、製品開発上の助力を申し出、完成した暁には貿易品となすことを幕府側に承認させたのである。
 それは、〈文禄・慶長の役〉という朝鮮半島での国家権威に力点を置く実利のない戦において、充分な恩賞も与えられずに唯一陶工を帰化させることで藩の新たな産業を興し、莫大な戦費の痛手を癒そうと目論んだ諸藩に、限りない朗報を与えるものとなった。
 やがて李参平率いる帰化陶工らが佐賀藩内の有田泉山で磁器原料を発見し、中国に劣らぬ純白の磁器を開発するに及び、1650年ころからオランダによる日本製磁器の買い付けが本格化。そして、1757年までの107年間に123万3418個という膨大な製品が、オランダ東印度会社を介し海を渡った。
 こうして、鎖国中の日本にあって、オランダは西欧諸国では唯一貿易の特権を独占。それはまた、オランダ語さえあれば西欧には事足りるというような安易な語学観を幕府内へ植え付ける結果をまねいていた。
 そこへ起きたのが、先のイギリス軍艦フェートン号の事件なのである。
 地球の裏側のナポレオンの動向が、間接的ではあるが、ぬくぬくとした幕府老中たちの抱く観念をことごとく打ち崩したのである。
 新たなる国の言葉、英語。
 幕府は、オランダ商館長グロンホフに頼らざるを得なかった。グロンホフによる文化六年(1809)に行われたオーラル・メソッドによる英語の教授、その意味がそこにあった。したがって、本来オランダ語の通詞であり、英語においては充分な教育を受けていない堀達之助の責任は重かった。
 彼の悩みは、真のアメリカを知らぬこと。当時における真のアメリカを知る日本人、それはこの年の三年前、アメリカ西海岸、ボストンのニューヘッドフォードへ到着したジョン万次郎以外にはいなかったであろう。
 さて、乗艦後の浦賀奉行所与力中島清司と通詞堀達之助の姿は船中の貴賓室にあった。
 やや遅れて入室したビドルは、彼らの乗船とともに一艘の小舟が離れていったのをデッキから確認していた。
 「あの船は敵意なき事を本隊へ知らせるはず。そして英語を話す通詞もいた、事は順調に進んでいる」
 その思いにより、交渉に当たる司令長官ビドルには、少々の余裕が生まれている。
 ビドルは、その場の、硬直した雰囲気を払拭する意図もあって、入室からの着席までの軽やかさを演出する一連の動作のなかで、先んじて浦賀奉行所与力中島清司へ言葉をかける。
 「There is a wonderful mountain in your country.」
 傍らに控える通詞堀達之助が、それを訳し中島の耳元でささやく。
 中島の、背後に異変を感ずれば、すぐさま身をひるがえし抜刀できるほどの殺気を秘めた不可思議な落ち着き様。その口元がわずかに緩んだのを見て取り、通詞の訳する速度を推し量りながら、さらに言葉を添えるビドル。
 身分の明示につづき、駿河湾で見た夕映えの富士、その美しき山を自国アメリカの人々へ紹介したい。わたしたちは貴国と友好的な通商を築くためにやってきた。艦に備えた砲は、航海上の安全を確保するためのもので、けして貴国に向けるための装備ではない等々。
 云い終えた直後、中島の鋭い視線が外されたことで、ビドルは翻訳中の通詞に眼を向けた。
 通詞の堀は、勝手な行動とならぬよう、単語の意味をはかりかねたものを聴く事を中島に伝えたうえで、ビドルに質問してきた。
 アメリカ側には通詞はいなかった。すべての交渉は通詞堀達之助にかかっている。限りない緊張。そのただなかにいる堀の眼を、翻訳の精度を伺うようにビドルが注視してくる。
 その、ビドルの眼がとらえていた堀の人物像。
 聞き及ぶ侍像には掛け離れた体格と顔つき。とくにその眼は、一瞬一瞬に強く瞳を滞留させる眼。それは学問をよくし、読書で鍛えられたものに違いない。それと同時に、疑問にさいしては躊躇無く聴き返す行動を起こせる感性を備えていることも判読。
 ビドルの意識は、中島から通詞堀達之助へ向けられはじめた。彼の若き感性と好奇心に働きかけ、アメリカのありのままの姿を認識させれば、少なくも偏見なく幕府へ情報が伝えられるであろうことを直感させたのである。
 その後、浦賀奉行所与力中島清司から幾つかの質問が投じられたが、その多くは艦船の軍事装備にかかわることが主であった。
 ビドル側は、薪、水の補給を申し入れたが、それはあくまで通商の申し入れを具体化させるとともに、その期間の停泊を容易にするための示威行動に過ぎなかった。これに対して中島は、薪と水の補給を了承。浦賀港の南二里(約8q)ほど離れた湯野北浜沖(金田湾北側)を停泊地として指示。
 こうして、アメリカ側に何の異存も無いままに第一回目の交渉を終えたが、そこでビドルは、彼らをコロンブス号の船内の見学へ誘った。
 日本の銃火器は遅れている。
 装備を見学させても、日本がすぐに追いつくことは無いという安心感。その進んだ装備を見学したことが幕府内へ伝達されれば、敵意の無いことが理解され、しかもそのことが、堅く閉じた日本の扉を内側から開かせる潤滑油になると考えての行動であった。
 そこからは艦長が案内に立った。
 通詞堀達之助は兵器にはさほど詳しくはなかった。しかし艦長トーマス・ワイマンの言葉を直接に訳す彼にとり、それらがどれほどに進んだ技術のもとに造り出されているかは、容易に理解できた。
 左右の船べりに設けられた三段の砲列、その最上段の甲板を歩きながら眼にしているのは、203o砲、32ポンド砲、32ポンド・カロネード砲というもの。しかも船底には家畜さえも飼うという。
 このとき中島の横には、三郎助という息子がぴたりと寄り添っていた。
 三郎助は甲板の砲列が見え出したときから、父の傍らへ歩み出て、盛んに何やら言葉を交わしている。この場の彼には通詞は必要なかった。それは前年に浦賀へ入港した捕鯨船マンハッタン号の事件を契機に、浦賀奉行大久保因幡守の命を受け、浦賀湾と南となりの久里浜の境をなす鶴崎へ台場を築き大砲設置の任についていたのである。よって、三郎助は好機とばかりに、父と各砲の詳細を検分しはじめていたのである。 
 その中島親子が艦長にうながされ、203o砲の側面を見るため影へ入った。堀が通詞としてそこへ入り込もうとするのをビドルが引きとめ、横に並び浮かぶヴァンセンヌ号を指差して話しかける。
 そこには若き通詞に一瞬の自由が用意されていた。
 若き通詞は、うながされるままにヴァンセンヌ号に眼をやる。
 その艦には砲が一列しかなく、このコロンブス号と比べるといかにも小さく見える。しかしビドルの話によれば、地球一周を成し遂げ、さらには海原の果ての氷の世界をも調査旅行してきているとのこと。
 「単なる軍艦ではない、調査船としての任務も兼ね備えているのだ」
 この一瞬の出来事が、若い堀達之助のこころをとらえる。
 ビドルが見抜いた通り、彼の意識は小さな日本という島を離れ、海鳥のように大きく羽ばく。通詞としてこれまでに知りえていたオランダ、そのオランダがアメリカの前に霧に包み込まれていく想い……
 幕末から明治を生きた彼は、後に英学者として日本の英学界の先達となる。それには、このときと七年後に巡り来るペリー来航の通詞を通してのアメリカへの思いが、国情に曲折されながら、同じ言語圏の産業革命を成し遂げた英国へ向わせたように思える。だとすれば、彼もまたヴァンセンヌ号に魅了された一人であったに違いない。





黒船5  ─浦賀入港─NEWS

浦賀入港の理由

 コロンブス号から降艦した役人らは、すぐさま浦賀奉行大久保因幡守が陣を置く浜へ直行した。
 通詞は多忙を極めた。とくに艦長から聞き及んだ黒船の規模については、浦賀奉行のみならず老中への報告に、和算を用いた間尺への変換をも必要としていたのである。
 黒船の発見以来、すべての状況は逐一老中へ報告されていた。
 当初の運搬船による黒船発見の報は、浦賀奉行所へ集められ、そこから奉行大久保因幡守の名で老中に差し出されていたが、その日付を追うと、二十三日に発見されたにもかかわらず、浦賀奉行から老中への正式報告は四日後の二十七日付け。そして、この日の第一回目の交渉からは、老中の下へ各方面から大量の報告書が舞い込むこととなった。
 江戸湾三浦半島側を防備する川越藩、また房総側防備する忍藩からの報告が刻々ともたらされたが、それらは黒船の位置情報を除くと、最初の発見から四日を経過しているにもかかわらず漠然としたものにとどまっていた。帆をもつ千石船ほどの大船ということのほかは、新たに二艘という数が加わった程度に過ぎない。
 浦賀役人が乗りこむまで、国籍もわからず、砲を備えていることの確認すらもなされてはいなかった。
 庶民の間では、三浦半島と房総を結び、館山湾北側の那古観音へ詣でる人々を船で送り迎えする那古船の船頭が二十七日に黒船を発見。街道伝いにうわさが流れ、翌夕には多摩の村々へ風聞が飛んでいる。そうしたことと比較すると、当時の幕府の情報網は民間とさして変わりなく、砲台場の設置で安心できることなど何一つなかったということ。
 コロンブス号に乗艦した浦賀奉行所与力中島清司と三郎助親子、その胸中には、これら黒船が前年に来航した捕鯨船マンハッタン号のようなものであろうという、そのわずかな心の緩みを見事に引き裂かれた思いがあった。
 十年ほど前、大塩平八郎が、数基の稚拙な大筒をもって大坂の四分の一を焼き払ったことが想い起こされる。この二艦に装備された百門を超える最新鋭の砲門が火を放ち、しかもそれに千挺を超える小銃・短銃が合わされば、江戸は……
 その思いは、船中の伝聞と、ビドルから託された通商願書を翻訳する通詞堀達之助とて同じであった。
 彼はまず、願書に先んじ、数値変換を終えたばかりのコロンブス号とヴァンセンヌ号の船体規模と軍事装備に関する書面を、与力中島清司へ手渡した。
 中島は書き上げられた武器の多さに改めて驚くとともに、その船体の大きさに唖然とした。千石船しか知らぬ愚かしさ。海上での目視による判断が、小さく、小さくそれらの船体規模を見誤らせていたのである。
 その錯覚を引き起こさせたもの、それはヴァンセンヌ号の存在にあった。
 大小の船が居並ぶことにより、一方の船を巨大に見せることもあれば、彼らのように、もとより限界を知らず知らずのうちに千石船に置く者にとっては、それが小さき方へと幻惑を起こさせていたのである。
 千石船の船長は20メートル前後、コロンブス号の正式な船長は垂直部分で58メートル。定かではないが、堀の翻訳による数値はヴァンセンヌ号において、垂直部分の計測値で〈訳39.8m─公式数値39m〉とほぼ一致しているものの、コロンブス号においては〈訳76.9m─公式数値58m〉と大幅に長くなっている。したがってそれがヒヤリングミスとも思えるのだが、それであればなおさらのこと、中島の驚きは激しいものとなっていたはず。
 この衝撃の中で、中島の眼が吃水高(水面下の船底高)の数値にとまった。
 「大船の深さが六間八分(約10.9m)!」
 (公式数値は8.10m。これは、船体自体に乗員、荷等を備えた運行時の数値を告げられていたものと思われる)
 そのころビドルは、日本側の指示のもとに江戸湾へ巻き込む潮流に乗り、ゆっくりと浦賀港二里手前の湯野北浜を目指していた。
 と、艦長トーマス・ワイマンから至急の連絡が入った。
 「Depth of water is too shallow.」
 久里浜湾から南へつづく金田湾にある湯野北浜、そこは広々しているが水深は浅い。トーマス・ワイマンは、周囲の穏やかに広がる湾景から判断し、入り込めば船底が海底に付くことを確信するとともに、その沖にとどまれば潮流にさらされ、危険であることを指摘した。
 通詞は引き揚げた。日本側への連絡が付けられない。こちらから伝達にボートを下ろせば、意思をひるがえしたと誤認される恐れがある。
 ビドルは思案した。
 まず浮かんだのは堀達之助という若い通詞の眼だった。少なくも彼には、正確な船体の深さが伝わっているはずだ。船の知識があれば、着船せぬ理由が容易に判読できるはず。
 ビドルは行動を起こした。その指示は、湯野北浜沖で一旦停船し、浦賀湾へ向うというもの。
 一方、陸から監視をつづける中島ら。
 このとき、すでに黒船の寄航目的と、湯野北浜沖を停泊地に指示した第一報が浦賀奉行大久保因幡守から老中へ送り出されていたのだが、ここにいたって通詞堀達之助に当初から付きまとっていた不安が現実のものとして現れてきていた。
 それは、ビドルから託された通商の願書が、文章という体裁をとっていたためだ。彼の語学力、それは英語に対してオーラル・メソッド(口頭教授法)という伝授法で、簡易な日常会話をこなせる程度。文字表記に関してはほとんど威力を発揮できなかった点にある。
 後に幕府は、アメリカとの交渉にあって、直接対話できるにもかかわらず日本語─オランダ語─英語という手法を用い、翻訳過程にオランダ語を介在させることで意味をはぐらかす術を使い出す、しかしこの時点ではその余裕はなかった。
 浦賀奉行により老中への第一報に書き添えられた短文、それは
 「願いのおもむき、書面差出しそうらえども、亜米利加語、急に和解(邦訳)取調べ難き旨」
という、翻訳に時間を頂きたいとの一文である。
 彼は、幾ばくかの文字をアルファベットに変え、発音からその意味を判読しようと試みてはいたが、それも埒が明かなかった。文章の翻訳に悩んだ彼は、窮余の一策として、判読できる数少ない単語の意味をイマージュにより極限まで高め、それにビドルとの交渉時における記憶を重ね合わせることにより、文の体裁を繕っていった。
 出来上がった「横文字和解」、それにはアメリカが支那と通商の契約を結んだこと。それと同じに当地との通商も願うこと。その暁には御国の法を守ること、などが組み入れられた。
 それらは、彼の記憶から興された文であるから、「もし当地においても交易の道を…」「もし御免に御沙汰(許可がいただけるのなら)…」等々、必要なまでにへりくだる文体をとらざるを得なかった。しかも、その翻訳に一昼夜を要し、老中への通商願書和訳の正式文章の発送は翌日の日付を刻まねばならなかった。
 さて、そうした状況の中で救いだったのは、船体規模の情報を二十七日の早い段階で聞き出せていたことで、それが老中への報告を前提として、急ぎ和文に翻訳されていたことである。
 黒船の監視をつづける中島らは、黒船の動きに異常が起きたのを察知した。
 金田湾の北側で停止していたはずの黒船が、約束を反古にし、にわかに北上をはじめているのである。
 応急の監視所に詰める役人らが総立ちとなる。
 そのなかで、中島三郎助のみが落ち着きはらい、しかも合点したように、うなずさえ見せている。
 「騒ぐな!」
 みなの動揺を一喝した後、彼は自問自答するように話しはじめた。
 「あの船体の規模からして、湯野北浜へ入れぬのだ。湾の外には速き潮流が流れる、とどまることが出来ぬと判断しておるに違いない」
 堀達之助から渡された船体規模に関する書付に眼を通した折、船長の目視を見誤っていたことに気付いていた彼は、コロンブス号の吃水高では沖といえども、湾内に入れば船底が底付くことを懸念していたのである。それが現実のものとなったのだ。
 遠く離れた波間にあるビドルの思いは、このとき堀を介して中島へ通じたのである。
 「あの約束は偽りではない、砲列には人影は見えない。不測の事態が起きたのだ」
 中島は浦賀水道へ背を向け、奥に陣取る奉行に詳細を説明した。
 その後、陸の動きに異変なき事を確認したコロンブス号とヴァンセンヌ号は、浦賀湾へと艦を進め、その入り口に錨を沈めた。
 金田湾からは、北へ久里浜湾、浦賀湾とつづく。その久里浜湾は間口狭く奥に広がる地形。そうした所では湾の出口付近まで遠浅な砂底がつづくもの。コロンブス号の艦長トーマス・ワイマンが思ったように、その水深 mの等高線は湾の入り口に存在し、引き潮となれば身動きできなくなることは必定。したがって溺谷の発達した奥に狭まる浦賀湾こそが、もっとも安全な停泊場であることは、海を知るものであれば誰もが認めるところである。
 しかし、幕府側には体面があった。浦賀湾への入港を認めたわけではないから、南の久里浜へ移動させることで、それを繕おうとした。
 二日後の二十九日朝、幕府側は申し入れを行い、短距離だが、潮に逆らう航行に風が得られぬからと、房総側の百首村(富津市竹岡)からも船を呼び寄せ、 艘の引き舟を手配したにもかかわらず、黒船には全く動く気配が見られなかった。
 中島三郎助には分っていた。それにはアメリカ側にも道理があったから、幕府側も強く出ることはできなかった。
 「アメリカが幕府の云うことを一向に聞かぬ」
 そうした風聞が、街道を駆け抜けた。




黒船6 ─黒船騒ぎと黒猫の上陸─


母猫の死
 
 南青山の古びた墓地にいる野良猫ダリの意識は、はっきりと162年前の黒猫をとらえていた。
 
 1846年7月19日(弘化三年閏五月二十七日)夜、ヴァンセンヌ号船底の家畜小屋。
 外の喧騒とは遮断された、この部屋の片隅に黒猫は居た。そこには飼料を入れた麻袋が積まれ、その上が黒猫親子のお気に入りの場所だった。
 いつものように黒猫が船内をうろつく間にも、母猫はゆったりと麻袋の上に身をゆだね、手なめなどして顔をぬぐったりしていた。ところが、湯野北浜での一時停船から発進へ向う際の潮目への乗り入れの衝撃で、その麻袋が荷崩れを起こし、母猫が巻き込まれてしまっていたのである。
 難を逃れた黒猫は悲痛の叫びを上げた。
 しかし、その異常な泣き声は、浦賀への寄港地変更にともなう騒々しさの中で、誰一人気付くものはいなかった。同居する鹿、牛、豚、あのガチョウさえもが他人事のように見向きもしない。
 船は浦賀湾に到着し、それから数時間が経過していた。外には闇が降りはじめていた。
 母猫に付き添う黒猫。母猫の息は悲痛さを込めた荒いものから、おだやかなものへと変化していく。口が渇き、喉までが渇くのであろうか、時折溜めた息を吐き出す重苦しい喉声を発する。
 深く深く沈みこむ呼吸が、一つのゆったりとした息遣いを残して消えた。黒猫はそれに呼応するかのように内に秘める野生の声を発した。鹿、牛、豚、ガチョウが動きを止め、その声のもとに視線を集める。
 しばらくして料理係の下働きの青年がやってきた。食材を取りに来たのであろうが、崩れた麻袋の傍らに居る黒猫の姿を視界に入れ、すぐさま異変を感じ取った。
 「very pitiful.」
 重なる麻袋の隙間に見出した尾を発見し、駆け寄る。
 その青年にこれほどの力があったのであろうか、幾つかの袋を鷲づかみにして後ろへ投げ飛ばし、静かに母猫の肩と尻に両側から手を差し入れ、抱き上げる。その差し入れた手の感触。イマージュとはかけ離れた硬直観。青年は、この母猫の死した姿を通し、ヴァンセンヌ号乗船の契機となった自らの母の姿を闇に映し出していた。
 夜更け。
 青年に抱かれた黒猫の姿が甲板にあった。
 彼がもっとも大切にしていた英国製のタオルが、月明かりを受けた波間に漂う。かつて病床の母が愛用していたタオル。それはまた、英国の技術を映し出す高価なもの。つつましき生活にあって、亡き父が母へ贈った唯一の高価なプレゼントでもあった。ヴァンセンヌ号の乗員となって以来、腰にタオルを下げる姿が彼のトレードマークともなっていた。
 波間に一旦は沈んだタオル、それがいま浮かび上がり、波間を離れていく。
 「The towel which wipes a tear has been lost.」
 抱きかかえられた黒猫に、彼のつぶやきが聴こえてくる。涙を拭くタオルはもうないという思い。彼は母猫を失った黒猫に意識を投影し、過去から引きずるわが身の悲しみを打ち払った。
 波間に遠ざかるタオルの先に、闇に揺れる明かりの群れが映し出される。それは、浦賀奉行からの指示で集められた数百もの漁師舟が放つ光。コロンブス号とヴァンセンヌ号の動きを封じる目的もあるから、水面に見たこともなき、荘厳な揺れる光の輪囲いが出現している。
 一つひとつの蛍火のような光、この国に生まれてはいないが、彼はそれを精霊流しの魂の乗る舟のような感覚をもって受け取っている。
 やがて彼は、その傷心の思いのなかから、この場の自分を取り巻く空間に眼を走らせる。けしてこの時を忘れぬために。
 仰ぎ見る夜空、そこにも白く、赤く、青く輝く蛍火がある。彼はそれを魂火と解しはじめている。プロテスタントでもない、カトリックでもない、仏教でもない。自らの内から湧き起こる宗教観。彼を生み出した、母、父、そこから祖父母へと限りなくつづく生命の∞形連鎖のなかに、彼は何がしかの平安を得た。
 翌日の夜明け前。
 そのころは幕府側の警固がまだ手薄であったから、異国船入港の知らせを聞き、居ても立っても居られぬ物見高い者どもが小舟を漕ぎ出し、黒船見物にやってくる始末。
 役人たちはあわてて制止し、厳重に注意するが、離れたヴァンセンヌ号の方へは幾艘かの小舟が寄ってしまっている。
 一方、ヴァンセンヌ号甲板には母を失った黒猫がいた。黒猫は死の意味が理解できずに母猫が去った波間に思いを馳せ、陸へ泳ぎ渡ったと信じていた。その甲板の真下へ積荷も下ろさぬままに幾人かの人を乗せた五十石積の五大力船が来たものだから、その積み上げた荷の上に飛び移る黒猫。
 この五大力船とは、小回りが利くことで川も運行できる五十石から五百石積の関東で発達した船。三浦側の防備を担当する川越藩の藩主松平大和守様の御出馬がまじかにせまり、五大力船五十艘、三百石積五十艘が警固のための御用船として徴発されるらしいという廻船問屋に流れたうわさを受けて、そうなっては商売が大変だとばかりに、ならば荷運びの途中で見てくると、ちゃっかり見物人も乗せてきたという次第。
 実際に命が下ったのは六日後の六月四日のことだが、この警固の手薄な時期に来た船に、黒猫は母猫を追う暁の逃避行を決行したのである。
 船型を総称する「五大力」とは、五大力菩薩に由来する。当時、手紙の封じ目に「五大力」と書くことが行われているが、その言葉、一種の呪言として認識されていて、遠方へ送るものを守護すると信じられてもいた。果たして黒猫がそれを感じ取ったか否かは分らぬが、ともかくも荷の間に隠れひそみ、船頭が御用船の役人に叱られつつ誘導された浦賀の港で、無事上陸を成し遂げる。
 7月 日(弘化三年閏五月二十九日)。
 黒船の浦賀入港から二日目の早朝、房総側湊村(富津市)の浜から、一石(180リットル)も入る大桶を二つ積む、角兵衛という名主を乗せた船が沖へ出た。
 「松平下総守様の富津陣屋から水を黒船へ運ぶようにと云われてはみたものの、異人は鉄砲を持つというではないか。撃つことは無かろうな」
 浦賀湾に停泊する二艘の異国船が大きく見え出すにしたがい、緊張が高まる。何せ通詞も居らず、役人も乗船してはいないのである。こちらは一振りの刀とて携帯してはいない。
 御用向きのことであるから、角兵衛は紋付羽織袴のいでたち。その角兵衛へ船頭が指示を仰ぐ。
 「あすこからへぇりゃいいんですかえ」
 コロンブス号とヴァンセンヌ号の船尻の方向に、取り巻く警固舟の切れ目がつくられていることを看取り、そこから入って陸側へ回りこむ。
 やがて役人を乗せた御用船が近寄り、水先案内に立つ。角兵衛の船はコロンブス号の船端へ横付けるよう命ぜられる。
 御用船に乗りこむ通詞が、デッキから顔を出すアメリカの船員へ何やら異国の言葉で話しかけると、頭に布をまく大柄な男が真上に現れ、大声で叫びだしたので、角兵と船頭は度肝を抜かれた。
 角兵には富津陣屋の役人から、船を詳細に観察してくるようにとの命が下っていたが、地獄の閻魔のような形相の大男が叫んできたのであるから、肝を潰し、そんな命令のあったことなど縮み上がった意識の果てに消えてしまった。
 「大桶の蓋を開けい」
 通詞から声が掛かるが、男が何かしてくるのではないかと、身が震え、恐る恐るの蓋開けの態。
 そんなことをしているものだから、一方の閻魔男は、大桶から武器を持つ侍が現れるのではないかと、なお一層の閻魔顔。
 小さな容器を降ろして水を入れさせると、それを引き揚げ、こんどは鏡のようなものを出して水を映し見ている。どうやら検分して、よく映れば貰うし、よく映らねば貰わずの様子。
 もとより毒など入れようはずもないが、その直後、今度は皮で出来ているのであろうか、柔らかなぐだぐだした筒状の物が降ろされ、どうもそれを水桶の中へ入れろと手振りしているように見える。
 そうすると、船内から「ドドドドド…」という音がしたかと思うと、筒に水がものすごい勢いで吸い込まれていく。角平と船頭は、またまた度肝を抜かれ、あやうく腰をぬかすところ。
 これには御用船の役人たちも驚いたようで、みな眼を丸くしている。
 角平らは、水桶を運び継いで大変な思いをして樽に水を満たした。それがいま、蛇腹のような筒に吸い上げられ、瞬く間に空いてしまうのである。それは蒸気ポンプというものであったらしい。
 あっけにとられる名主に、例の閻魔顔の男がひょっこり顔を出し、にたり顔をつくり
 「Thank you for Mr. samurai.」
と、声を掛けてくる。そうしておいて伸ばした腕を小さく二・三回振って何か包みを落としてきた。
 意味がわからぬから、その袋を開いてみると、丸い方に火箸様のもので穴を開けたフクベ(瓢箪)菓子のようなものが出てきた。後に誰が食べたかは知らぬが、ことさらうまいと云うほどの味わいは無かったそうである。
 さてこの日、警固の船とは別に、多くの小舟がコロンブス号とヴァンセンヌ号の周囲を巡っていた。それは上総佐貫藩をはじめ、川越藩などが、独自に異国船の情報を収集するために藩内の漁師へ命じて探らせていたもの。
 上総佐貫藩阿部駿河守の御用を預かるなかには、名主の文蔵、網元の与五右衛門などがいたという。
 幕府や諸藩は海防の重要性を認識していた。だがそれは、陸への砲台の設置を中心とするもので、戦といえば戦国時代の合戦を想起する幕臣たちにあっては、海のこととなると民間の漁師に頼らざるを得ぬほどの遅れた状況にあった。
 そうしたことであるから、ヴァンセンヌ号の周囲には急場の役船が幾艘も巡っていたのであるが、その人足に物見高い連中が紛れ込んで黒船をまじかに見ようとするやら、また黒船を警固する囲み船の外では、近くの漁師が遊覧船に早代わりして見物人を乗せて漕ぎ出す始末。なかには子連れの女も居たとか。このころからは取り締まりも厳しさを増し、人足に成りすますことも御用のない船の運航も禁止された。
 しかし街道沿いの宿屋というと、日に日に見物客が押し寄せ
 「この節、江戸そのほか諸国の見物、当湊へ追々入り込み、東西の宿屋一寸の明きもこれなく、しかしながら厳重のことゆえ中々見物とてはあいなり難し」
という状況。
 宿内ではさまざまな風聞が行き交うが、なかでも真実味があったのは、黒船の着いた二十七日に一番先に大きい方の船に役人とともに乗り込んだという男の話。
 それは、何とかの惣蔵という御奉行下役に従っていた船大工の伝えである。
 「何でもその惣蔵とおっしゃる御仁はな、身の丈五尺八寸(約175p)、武術にすぐれ、百目筒二挺を左右で撃ち放し的に命中させるとよ。
 その方がな、野袴平服に四尺五寸(約136cm)の刀を横たえ、床几(野外用腰掛)に腰掛けて異国人へ応対した。
 すると異国人、日本の王に逢いたきと申し出た。それを聴いた惣蔵、無礼千万と大いに叱りつけ、わが国に助力を頼みに来たにもかかわらず、いきなり王に逢いたきとは何たること、浦賀奉行に逢う事さえもなり難し。われらは奉行の下役であるからこうしてまかり出でたが、武器を残らず当方へ渡し、願いの筋を申し出なさい。そのうえで取次ぎいたすと告げたそうじゃ。
 すると異国人が震えて恐れるなかから、通詞を付け添う頭領のような者が立ち現れ、頭取りの者病気にて出で申さず、願いの筋は米が足りぬからお助けください。まあ、何と気弱なことよ。
 それでもってな、その大工が目計りするにゃ船の長さは百八十間(約32.5m)、帆柱六本、幅は、はなはだ狭くようよう七間(約12.6m)ばかり、脚入(吃水)深く二丈(約6m)。それで船の周りを鉄で包み、大筒八十挺、小筒が八百挺もあったそうだ。しかも船底にガチョウ、鹿、牛、豚の類を飼いつけ、八百人も乗りこんでいたとよ。驚くじゃねえか。
 そのうちの百人はな、手負いの者で、手のない者や足首から下が打ち落とされた者、面体に傷のある者。そうした中に女も居たそうで、体の色は白く、格別に背は高くない。頭は布で包んでいるから髪の形は分らなかったらしい。」
 まあ、真実もあるし脚色もあるし、こうした噂が街道の宿々でささやかれ。幾日もしないうちには多摩の村々へも口伝えされていった。
 一方、無事上陸を果たした黒猫はというと、警戒心はあるものの、腹の虫には勝てず、旅籠から漂ってくる焼き魚の香りに誘われて、のそりのそりと裏木戸の辺りに現れた。そこを旅籠の飯盛り女に見つけられ。
 「あら、かわった毛色の猫だわね」
 下げ膳の途中とあって、膝まづいて四段重ねの箱膳を廊下へ置いたなり、客の食べ残した魚骨をポイと猫へ投げ置いた。
 「ニャァ」
と鳴いたものだから
 「まぁ可愛い」
 その夜、こんどは旅籠の縁下に居るところをその屋のご隠居に見い出され
 「あれまあ、変わった猫だな」
 毛並みは黒く不吉さも漂うが、何処かに幼さを残し、しかもこのあたりの猫と違い人なれしていて性質がよさそう。手を出せは寄って来るし、撫でれば無警戒に安心している様子。それをご隠居が抱いてしまったからもう放せない。隠居部屋へ連れて行ってしまった。



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