夜語り
─清瀬の年中行事─
学芸員 内田祐治
TOPICS
第二章 立春の行事NEW
節分 音声版へ
この行事は日付ではなく、これから春になるという立春の前日に定められていたから、昔の旧暦の時分には正月の前であったり後に来たりと変化しておった。
節分は邪気を払う行事だから、「晦日っ祓い」のような意味をもってやられてきたのであろうが、今でも寺社や家庭で盛大にやられておるから、なじみはあろう。しかしこの行事、いざ大もとをたどってみると、とんでもなく長い歴史を秘めておる。
古い古い時代の人々は、冬は野枯れて植物が絶えちまうから、死霊の世界がおしよせて来たと思っていたようで、それが過ぎ、立春からは死霊が引きはじめることでボツボツいろんな生き物が蘇生してくると。
その蘇生をつかさどるのが神霊。
じゃがな、草木を萌えさせる善き神霊ばかりなればよいが、同時にこうしたときから大風を吹かせたり病を運んだりする悪い神霊も動き出す。
そうした人に仇なす、悪神を追いやろうと思う気持ち自体は、なにも特別なことじゃねぇから大昔からこの国にあったものと思う。
こうしたことが根っこにあるから、古い時代に中国からさまざまな制度を入れたとき、「大儺」という疫病を祓って春を迎える儀式が入ってきただな。
はじめは、疫病なんかが流行ったときに執り行っていたようじゃが、それがしばらくして御利益があるということで宮中の大晦日に行う「追儺」という行事に収まったらしい。
だいたいこうした宮中や寺社の行事というものは、求めるものが大きいから盛大にやる。だから実際には見えねぇ神さまの姿を、行事司る特別な者たちが仮面などかぶって歌舞音曲をもって再現し、それを奉って神霊招いて願い事をかなえようとする。
まぁ今で云えば、劇を作って、それを演じることで実際にそうしたことが起こるようにと願うわけじゃが、その「追儺」というものは次のようなものだといわれておる。
黄金の四つ目の仮面。それかぶり矛と楯を持った神さま役の者が、これも悪鬼に扮した者を追い払う、という面白いものであったらしい。
それがそのうち変化し、呼び方も「鬼やらい」となり、今度は四つ目の鬼追い出す、いわば善なる神さま役の方が鬼にされちまって、宮中の殿上人たちが桃の弓に葦の矢持って追い立てられるようになっただと。
これはなんでも平安時代も終わりごろのことらしいな。
それとは別じゃが、平安時代にゃ中国の陰陽道から伝わってきた「方違え」という行事もあったそうじゃ。
これは立春の前日に、恵方へ宿所を移して厄払いするもの。じゃが大掛かりにやるのが大変だから、そのうち建物の中の部屋を移るだけのこととなり、そこで悪いもの追い出して部屋清めるようになり、さっきの「鬼やらい」の儀式と交わったらしい。
そいで、いつのころやら鬼に豆投げる今のような行事の姿になっただと。
昔から、何処の村にも、それなりに悪いもの祓う行事があったはず。
じゃが、ご利益があると知れば、何百年もの間には大陸の行事さえ、こうした宮中や寺社のまねして、だんだんと下々へ伝えられてきたということ。
あとから話すが、この行事では鰯の頭付けた柊を家の門口へ挿したり、豆で鬼払ったりと、いろいろなことをする。それだけにこの行事、土着の行事に宮中や寺社の行事が溶け合い、なかなかに複雑な様相をもっている。
ここでちょっとわたしなりの考えを聞いてもらいたいのだが。
それはな、今幼稚園なぞで、無鉄砲に鬼に豆ぶつけて追い出しておるが。それは、少し心持ちが違うのではと思うわけで…
─豆は武器ではない─
ということなのじゃが。想い出してもらいたきは、古事記の黄泉の国の段。
イザナギが、死した恋しいイザナミに逢いに死霊の国に行く。その帰りに、振り向いてはけないものを振り向くから、化け物の正体見せたイザナミに追われる。
そこで櫛だの桃だのさまざまなもの投げて逃げてくるわけじゃが、それは折った櫛が竹の子になったりと、武器として投げてるわけではなく、考えてみりゃ供え物として後へ残してくから、それ魔物が喜んで食ってる間に時間かせいで逃げてもどってこられるわけだ。
昔話の中じゃ鬼も財宝くれたりとか福を人にもたらしたりもするから、全く悪いわけではなかろう。
それに桃太郎でも一寸法師でも人間の姿借りた別な神さまに諭されて改心し、鬼神が善神へと生まれ変わる。
だいたい日本の神さまはみな、怒らせりゃ大風吹かせたり雷落としたりとおっかねぇが、お供えしてもてなせば、穏やかにして災いを除き、豊作をもたらしてくれる。
だから節分の鬼は、家に祭り上げる棚のある神さまじゃねぇから豆をまくことでお供えしてる、と考えるのがそもそもの道理のようで、それで姿はおっかねぇから供え物渡し、穏やかに福置いてってもらって悪いもの持ってお引取り願う、というのが古くからの気持ちにかなうように思うが、さてみなさんは、この節分にやってくる鬼神さまをどうお思いなさるかな。
まあ、わたしの心持ちとしては、神さまには強大な力があり、それぞれに悪い力と良い力を併せ持っていると考えるわけで。それ、もてなすことで、良い力だけを発揮してもらおうと願うのが、昔からつづく行事の意味ではなかろうかとな。まぁ、わたしの考えはそんな按配。
ここからは行事の内容へ移る。
農家にとっての心配事は、天候はもちろんだが、作物につく害虫や雑草。
大正時代に入り、石灰窒素が普及するまでは満足なものはないから
「そっちの畑からおらほの畑へ虫が来た」
などと、虫の来た方の畑の手入れに文句をつけ、隣家とけんか沙汰になることさえあった。
雑草は小まめに除草すればよいが、害虫は農薬のなかった時代には防ぐのが難しい。
江戸時代の農書の中には、田方の稲が育ちはじめたころ、竜吐水という細長い箱型の水鉄砲のようなもので、鯨油を根株へまいて害虫の発生を防ぐていどのもので、虫がわいてしまえば手のほどこしようはなかった。
そこで、節分にやる「やっかがし」と云う虫封じの呪いが、ことのほか大切に考えられていたわけだ。
ここからはその日のありさまを再現してみようと思う。
節分の日の夕方の台所はいそがしい。
なにぶん清瀬に電灯が点る大正八年(一九一九)以前には、夕方ともなれば家内にどんどん暗さが忍び寄ってくる。
年寄が台所の囲炉裏端へかがみ込み、灰掻き分けて種火を出し、火をおこす。
この日の囲炉裏は、豆まきに使う大豆を煎る者と、「やっかがし」といって鰯や目刺の頭を焼く者が一緒になって行事をやる。だもんで家族がみなそこへ集まって来てにぎやかだ。
大豆の煎り手は、うちあたりでは親父の役目。
囲炉裏上の梁から吊り下がる自在鉤に焙烙鍋を掛け、その中へ大豆入れ、二合ぐらい煎る。
大豆は、昔はどの農家でも作っていた。じゃが昭和に入ると作らない家も多くなり、そうした家では豆腐屋へ買いに行く。
この日も恵比須講の日と同じに、店ではお祝いだからということでミカンなぞ振舞うから、子どもは喜んで使いに出たものだ。
囲炉裏では、去年から取り置くわずかばかりのススキと豆がら(大豆の枝)を年寄が出してきて、火の中へくべはじめる。
そうすると、一気に炎と煙が立ち上り、独特の臭気が台所から土間の暗がりへ広がる。
これは、その臭気で邪霊災厄を除くという云い伝えによるもの。ねぎの枯れ葉や菊の枯れ枝なども使う。
元旦の雑煮作るときも豆柄や菊の茎を燃すが、それは語呂合わせのように
「豆」で「忠実」に暮らせるように
「菊」でよく「聞く」ように
と願ったわけじゃが、ここではその煙立つ臭気を利用して邪霊災厄除けとするわけだ。
そんなことで昔の人は農事に入る前に身近なものを使い、折々に神さまと触れ合う時を定め、長く辛い農事越えるために一生懸命働くための、いわば「心構え」を作ろうとしていただな。
それも行事は一人でやるもんじゃねぇから、家族や村の衆、みんな気持ち合わせて「心構え」作っていくわけ。
そんなことで、豆煎るといっても、まだまだいろいろと呪い事がある。
囲炉裏じゃ豆煎ってる親父が、家族を呼び集める。
「ほれ、いいぞ、一人づつ鍋さ手入れて豆かんまわせ(掻き回せ)」
そんなことしたら、皆様は指先火傷するとお思いだろうが、そこは加減してやる。
何故そんなことするかというとな、そりゃ今のお方は分からねぇだろうが、昔の農民は夏になんと「野菜っ手」と云って、指が腫れ上がっちまうことが多くなるからだ。
草むしったり、作物の枯れ葉をもいだり(摘む)と、いろいろ手を使ってやらにゃならんから、そのうちには指がカサカサんなってひび割れ、そこに野菜の汁が入るもんだから腫れちまう。だもんで、そうしたことにならぬようにと、鬼払う豆の霊力で指守ってもらおうというわけ。
そうした呪いはまだあるぞ。
煎りあがった豆は、あとの豆まきに使う分だけ枡に入れ、家により大神宮さまや恵比須さま、荒神さまへと供えておくが、いくらかは煎らない豆を残し、それ囲炉裏の灰の中にある熾火へ乗せて焼く。
親父も、囲炉裏の向かい側にいる年寄も、その豆の焦げ方見ようと真剣な顔つき。だから横にいる子どもも何が起こるやらと、眼おっぴろげてる(目を大きく見開いて凝視している)
そうすっと、ジリジリジリと焦げてくる豆が現れてくる。
「あの豆は焦げないな」
なぞと思っていると、一気にジジッと燃えちまう豆もあり、それを見取り
「六月は雨がえれぇなあ(雨がたくさん降る)。七月は穏やかだで」
と、月ごとに占うわけだ。
こんなことしても科学的じゃねえから無駄だと思う方もおるか知れんが、人間さまの精神というものは「合理」なものより、「非合理」で当たり前ではない状態の方へ引き寄せられ、そこに強さが現れるもの。
天候という予期できないものは、一見非合理のように思えても、こうして占っておけば心にわずかばかりでも準備ができる。凶事でも、はずれりゃいいが、本当にそれがきたら心の準備がものをいうことになる。
ちょっと話しそれるが、占いの極意を授けて進ぜよう。
算木と筮竹使う中国の易学ではな、簡単に云うと「占う」ということを次のように考えておる。
吉事凶事は人智の及ばぬところから起きてくるもの。善いことであればいつ起ころうともかまわぬが、悪いことは突然に起こるから仰天して辛抱できぬもの。
そうしたことだから、大昔の中国のお人は、紀元前の時代からいろいろと考えて、人界を取り巻くさまざまな現象を集め、それを分類して整理してきたわけだ。
たとえば「旅行」を考えたとき、だいたい心配になるのは銭、天候、時間。
だが、凶事があるとすれば、それは普段考えも及ばぬところから降りかかってくるわけで、「占う」ということは、算木や筮竹を使って偶然に出た、さっきの整理した現象に対し、占った人が自身の気持ちをそれに沿わせながら、筋道考えて道理を正していくということ。
だから人から云われてこうしなくちゃなんねぇ。ああしなくちゃなんねぇと云われ、それ鵜呑みにすることじゃねぇ。そういうこと云われても、自分でようく考え、その人の理解できる方法で道理見つけ出さにゃしょんねぇこと(しょうがないこと)
一つ、そういうことをしっかり肝に修めておけば、本当に悪いことが起きても、仰天する度合いが違う。 つまりは、その凶事の起きている緊迫した状況の中にあっても、気持ちを切り替え、すばやくそれに応じた判断ができてくることになる。それは、この国の武士道にも通ずること。
今の時代じゃ極意にはなんねぇか知れんが、わたしはそう思ってる。まぁ、占いも行事も、神さま通して外側から自分のこと考えるということ。
さて、豆を煎るのと同時に、囲炉裏の反対側では年寄がやっかがしはじめてる。
豆がら(大豆の枝)の両端削り、その一方に鰯の頭挿して、それに柊を挿し添える。
柊は葉の先にとげがある。それで外敵から身を守るわけだが、生け垣に植えときゃ狸も狢も入っては来れぬ。だから虫封じの「やっかがし」にもそんな霊力を発揮すると信じてのこと。鰯の頭も、正確には分からんが、虫に宿る悪霊がそれ見りゃ、首切られちゃって焼かれちゃうぞ、と恐れるわけなんだろうな。
その鰯の頭挿したやつ、囲炉裏端で居住正した年寄が両の手で捧げ持つから。もうそろそろ「やっかがし」の呪いがはじまるらしい。
何か念じながら一礼したあと、その鰯の頭をススキや豆がら燃しつけた火にあぶり、米、麦、粟、里芋など作物の名前呼び上げてから、低く唸るような調子で
稲のズイ虫の口を焼く〜
粟や稗につくズイ虫の口を焼く〜
薩摩の切り虫の口を焼く〜
菜っ葉の…
と、一回一回焦がした鰯を口元へ持ってきて唾吐きつけながら唱えていき、最後にはおきまりで
よろずの虫の口を焼け、ジイリジリ
としめくくる。
蚕やってたときは尺取虫も云ってたが、そのほかに
子どもの悪虫もジイリジリ
とやるもんだから、それ聞くと小さな子なんか怖がっちゃって母さんとこ寄ってって、その後ろさ隠れ、顔だけちょこんと出して見ておったな。可愛いもんよ。
ところが今の子どもになると、それやりたさに年寄のまねして横でやり出す。したが子どももやるもんだ
「勉強の虫もジイリジリ」
だと、いつも勉強しろと叱られておるから、それ焼いてしまって怒られぬようにしようという魂胆。これにはたまげたもんだ。
勉強の虫焼いちまうから、親は苦虫つぶしたような顔して笑ってら、ハハハハハ。
まぁ昔から、子どもには子どもの世界があるっちゅうことで、それあんまり大人の世界押し付けちゃなんねぇてこと。なにせ行事の時には半人前だからこそ、子どもはだれでも神さまの使いの精霊と見なされるわけだからな。
そうして、今度は唾かけて言葉封じ込めた「やっかがし」を、家の戸口や戸袋(雨戸を入れるところ)の角々へ挿して回るわけだが、中里あたりじゃ豆まきやってから、家人が氷川神社や冨士講の冨士山へ出かけている間に、別な家の人が来て戸口へ挿して行くそうな。
さて、ここからは豆まきへ移る。
これは風呂へ入って身を清め、夕飯済ませてからとなる。
まず、神棚から豆の入った枡を下ろす。
その時分は、家の明かりといえば神さまに供えるお灯明と囲炉裏火ほどのこと。薄暗くって、その陰が部屋んなかで揺れるから、子ども心には本当に鬼がいるようで怖かったもの。それだから、でっけえ声出してやるわけだ。
本当は年男が豆まきやるが、子どものいる家じゃ、その役目子どもにまかせる。
うちなんかじゃ大神宮さまから豆まきはじめた。
「福は〜内、福は〜内、福は〜内」
と三度ずつ唱えながら、床の間、仏壇、恵比寿さまと回り、大黒柱にもやる。それから荒神さま。そこから雨戸開けてあるから外へ向って
「鬼は〜外」
とやるわけじゃが、家内のほかに裏の井戸や外便所、物置なども回る家があり、さまざまだ。
まいた豆は年の数だけ拾って食べるが、年寄になるとそうもいかない。七十も八十も歯の無い口でしゃぶって食うのも大変だから、それお茶の中入れて福茶にしてみんなで飲むわけ。これは豆の香りがよくて、味もとてもよかった。
この豆まきで残った豆は大神宮さまや仏壇の脇に置いて大切に取っておく。
この豆、昔の人は鬼を払うほどの霊力があると考えるものだから、雷や地震にもご利益があるということで、そうしたときに出して子どもらにも食べさせたわけだ。
雷はへそをとる
などといわれるが、それは雷が雹を降らせることもあり、気温が急に下がって薄着しているお腹冷えて患うことがあるから気をつけろという戒め。
そんでクワバラ、クワバラというのは、昔農家の井戸に落ちた雷を、農民が蓋して閉じ込めたとき、雷さまが
わしは桑の木が嫌いじゃから「桑原桑原」
と唱えればそこへは落ちぬ
ということで許してもらい、天へ帰られたとか云われるが、わたしの伝え聞いておるのは
雷を恐れずに、嫁が置いてきた桑葉を取り
に行った婆さまが、雷打たれて焼け死んだ
というもので、これは「恐れる神には恐れろ」という戒めだ。
おっかねぇと思ったときには無理しちゃなんねぇ。神さまそれ承知で人脅してるわけじゃから、それ逆らっちゃいけねぇってこと。
このあたりでも雷打たれてなくなられたお方があるが、雷鳴れば高い木の下へ避けて、火箸やこうもり傘など金物持っちゃいけねぇと云われる。
家ん中に火の玉転がったという話も年寄から聞いたが、そのほかにも蚊帳ん中入ってたんで、火の玉そのまわり回って中の者が助かったというようなこともあったそうで、雷鳴ったら
─蚊帳吊れ─
なぞとも云うが、そうしたとき年寄が節分の豆出してきて雷除けということで食べたわけじゃ。
まぁ雷さまはいろんな跡残す。
畑に落ちると地面くぼんで焦げとるし、真っ二つに裂けた木もあったが、そうした雷の残した傷跡を見つけて
雷さんは、角生やして太鼓持って爪が長
い。落っこちてあわてて這い上がったで、
そげな傷が付いただ
なぞと云う人もおった。
それから、雷が落ちて裂けた木を楊枝にすると、歯が治るなぞとも。
空が割れんばかりの炸裂音と稲光。
雷を起こすほどの鬼の強大な神力はおっかねぇから、いろいろなことが伝わっとる。
これで「節分」の話はおしまい。
動画へ
元日(一日) 音声版へ
元日の朝が巡ってきた。
一年の作物の収穫を終え、煤払いからはじめ、半月ほども年神さまを迎えるための準備をしてきたのだから、この日の心の改まり方はひとしおじゃ。
元日は、東京の町方では江戸時代から商家のお疲れ休みということで大晦日から夜を通し、明け方に初詣をすまして屠蘇と雑煮で祝って寝正月をきどる。じゃが、農家には農家のならわしがある。
まだ陽が上がらぬ五時ごろに起きる。
これは云わんでもいいことだが、だいたいはその家の主人が年男になるから、この三日間は六尺の下帯も、まぁふんどしっちゅうことだが、毎日新しいものをおろして替える。
神さまを迎えるわけじゃから、きれいな着物はなくとも肌身に付けるものだけは清浄なものをという思い。こうした見えぬところに気を使うわけで、あとは普段の物を着る。
そしてはじめは井戸へ行く。
そこで一番に口すすいで顔洗って手桶に水を汲む。
この水を「若水」というが、まず神さまへ供え、そのあと雑煮や福茶で飲む。
この日のお水は、いつもの水じゃねえぞ。
昔の人は、元日の朝一番に汲む水に邪気を払う力があると考えてきた。
つまり元日には年の神さまがその家に依りはじめるから、地の底から湧く井戸の水が力をもち出すわけだが、地方によっちゃこのとき井戸の暗がり照らしてみたら神さま見たなんて話も聞く。まあ自分の姿、鏡のように水ん中写して驚いたというほどのことだろうがな。
しかし、こうしたことは茶道やってる人なら分かるじゃろうが、お茶点てるに「井華水」というのがあって、寒い時節の暁時(夜が明けようとするころ)に汲み置いた水を使うと
病をいやし、人を利す
といわれるほど。
農家でも、雑煮食べる前に若水で福茶飲むから、そうした気持ちは同じこと。
なんでも若水のはじまりは、万葉の時代、立春に天皇へ奉られたお水だということだが、そうすっと、さっきの井戸ん中で見た神さまが本当の話なら、ずいぶんと古くから考えられていたことなのかも知れんな。
わたしは神さまの姿を直に見たことはないが、井戸ん中見ると神さま居られそうな気配のするときもある。
なんといっても下清戸のある家で、おばあさん死にそうになったとき、昔からそうするもんだと云われてきているから外さ出て、井戸ん中へ向け
「おばぁさーん、おばぁさんよー、けぇって(帰って)来いよー」
と叫んだそうだ。
そしたら本当に生き返ったというから、井戸にはどんな力が隠されてるか知れん。
話が脇へそれたが、若水汲んだ桶は台所へ置き。新しい竹の柄杓、これは毎年このときに入れ替えるが、その新しい柄杓で桶から水を汲み、神さまへ若水を供える。それで仏壇はというと、年神さまの帰る四日まで戸を閉める。
そうして雑煮を作る。
これは年男の役目。ふだんは女がやるから、それを休ませるのに男がやると思ってる人もおろうが、そうじゃねえ。神さまへ供えるものを作るわけだから、このときは年男の役目となるわけだ。
なんでも年寄が云うには、女には不浄の日があるから、それで男じゃなきゃなんねぇと。
とはいっても、だいたいは女衆が大根、里芋を暮れの内にゆで上げて置いといてくれるから、それを使うわけ。
十三人の大所帯の家じゃ火にかける鍋も六升鍋の大きなもの。それを焚く火も、正月の三日間はいつもの藁や木っ端のような屑物の焚きつけでは清い火を作りだせぬと考えるから、語呂合のようだが縁起かつぎして
豆 殻…忠実になるよう(大豆や小豆、金時豆
など)
樫の枝…お金を貸し出すほどに貯えができるよ
う
菊 …よいことを聞くよう
などと、普段から枯れたものなどを束ねて取り置いたものを出してきて、それに火を燃しつける。
このあたりの昔の雑煮は、里芋、大根、牛蒡、それに焼かない餅を入れて煮込み、醤油で味を整えるが、人参なんかも入れる家はあった。
それを神さまへ供えたあと
「ほうら、みんな起きてこ」
と呼んで家人を集める。
そうすっと、目ぇ覚ました子どもらが、真っ先に雑煮の香りに引かれて寝巻き着たまま障子開けて台所へ入ってくる。
そんで仁王のようにそこへ突っ立ったままに、大きな目おっぴらいて鼻すすりながら、ひとしきり鍋の湯気見てから、かぁちゃんとこ駆けもどり、報告してやがる。そこでもう一度云ってやるだ
「はやく来よ」
そうしてばたばたと、みな台所へ集まるころには箱膳の上に数の子やらごまめやら、里芋、切りいか、細切りの昆布なぞが並ぶ。
雑煮の前に、福茶と屠蘇で新年を祝う。
そうしたとき、年に一度必ず出るのが爺さまの掛け言葉。
ほれ、その爺さま、屠蘇を置いて箸取ったから、そろそろ出るぞ。
「今年もいいことがあんべなぁ、ほら、よろ昆布(喜ぶ)じゃ」
みな、毎年のことだが、普段あんまりもの云わねぇで、畑仕事に精出しとる爺さまのことだから、顔ほころばせて云うその仕草が、なんとも愉快。
これには婆さまも口半開きにして笑っとる。みんな一つ気持ちで笑っとる。
こんな具合で、年神さま迎え、その下で家族一緒んなって楽しむが、こうしたことが大事だ。
みんなで神さま喜ばせれば、ちょいちょい神さま家へ依って、日照り救い、大風除けて、麦や里芋よく育ててくれる。
今のお方は神さま信じねぇがな、わたしが思うに神さまは人の心の写し神ということ。
だから遠い北の国に暮らした人のなかにゃ、次のような考え方がある。
猟師が弓引いて熊獲っても、神さまが熊の
衣装着て現れ、あいつはいい猟師だから矢
を受けてくれたと。
その熊は、猟師の家へ行ったらもてなさ
れ、お土産まで頂いて送り出してくれたと
感じとるわけで、神さまの国帰ってからほ
かの神さま呼び集め
「俺の目に狂いはなかった。いい猟師
だったぞ。じゃから、また行ってやろ
う」
と思っておると。
つまりは獲物の気持ちを推し量り、獲物に宿る神さまに喜んでもらえれば、熊がたくさん取れると信じとるわけじゃ。
神さま思う気持ちは、そうしたことと、なにも変わりはしない。
まあ、神さま通して考えれば、相手の気持ちがよく分かるし、やっちゃいけねぇこと、みんなで力合わせることがどんだけ大切なことかも見えてくるということ。
これからの田植えにしても麦の棒打ちにしても、一人じゃできねぇ。みんな一つ心にならなけりぁ。じゃから神さま依ってもらって、みんなでもてなすことが、人の結びを深める大事なことと考えるわけ。
このときには、お酒もはいるから、いろんな話がでてことのほか楽しい。
そのうちに、正月の食を彩る雑煮が運ばれてくる。
雑煮の餅は神さまの分は米の餅じゃが、家人のものは粟の餅。
米は畑方では貴重であったから、年神さまが帰られた後の四日に、年男だけが食べることを許されておった。
さて、時移り、初詣はというと、いろんな人がいるから
「一番に行くだ」
なんて除夜の鐘の音聞いて、すっ飛んでく若いお人もいなさるが、年寄は雑煮を食べてから。
詣でる先は、元日が氏神さまで、二日から何処へでも自由に行く。
このあたりで遠出するお方は、二日に川崎の大師さま、三日に川越の大師さまへ日帰りで詣でる者が多かった。
ついでの話じゃが、川崎の大師さまや成田の不動さまへ夫婦で行くもんじゃねぇというが、それは品川や船橋にはお女郎屋というのがあって、男衆がそこへ行っちまうからだと、江戸時代の終ころに生まれた年寄がよく云っていなさった。まぁ女の衆には余計な話じゃが。
元日の昼はうどん。
うどんの材料は、小麦粉と塩と水だけ。
その麦粉は、石臼で挽いて長さ一尺五寸(約四十五センチ)ほどの細長で取っ手付きの箱篩でふるったもの。
粉ひき唄へ
このあたりじゃ蕎麦は作付していなかった。
人寄せなどあるときには、いつもうどん。だから作るのは手馴れたもので、たいして時間はかからない。
「糅」。これは「かて」と読み、うどんの具のことを云うが、ご飯なら「かて飯」なぞと云い、混ぜご飯のことをさす。
こんな字書いてもわからんよな。わたしも知らなんだが、昔から当たりまえに「かて」と呼んどるもんで、気にもとめていなかったが、このたび皆様にお話しすると云うことで、どんなものかと辞書引いてみて驚いた。
一つひとつは分かるが、組み合うと難しい字ですなぁ。それで雑炊や混ぜ飯を意味するということだが、こうした古そうな言葉が神さまを中心とする行事と同じに、昔の農家の暮らしにはどこかに残されていたということ。
このうどんのかては、大根やほうれん草。
乾燥させた大根の葉、それを「干葉」と云うが、そのほか、だしをとった後の鰹節もそれにあてた。
薬味はネギや七味の唐辛子。油揚げなど入ると、また一段とおいしものとなる。
正月だから、ちくわのほか、卵を産まなくなったニワトリを解体してその肉を入れることもあった。
そうしたことだから、夜も正月だからということで、今度は待ちに待った白米のご飯とする。それもけんちん汁がつく。もちろん夜のものは、神さまにも供える。
こうして、農家最高のご馳走の夜がふけていく。
今日の話は、これでおしまい。
仕事はじめとお棚さがし(二日・四日)
音声版へ
二日の朝は雑煮。
それを済ませると、今日は仕事始めということで半日ちかく野良仕事へ出かけ、そのあとは「五間日」といって五日まで休みとなる。
季節がら、本格的な農事に入っているわけではないから、焼き餅を懐にたずさえ、それぞれに田畑のうない(耕す)などへ出かけたものである。
田は、このあたりでは柳瀬川に沿う野塩、中里、下宿地区にあった。だども川が汚れ、悪水が出たことで、昭和三十年代の終わりごろには消えた。
それ以前は、こうしたときにマンガで田を起こす年寄の姿がぽつぽつ見られた。
息子がまだ小さいころ
「正月なのに、なんで畑行くだ」
と云われたことがあるが、わたしなぞはその息子に
「お迎えした年神さまを元旦にもてなし、一夜明けてから田畑へお連れして見ていただき、そこで一生懸命耕してよくしているから、日照りや大雨、大風に遭わねぇように、どうぞたくさん作物が稔りますようにとお願いするだ」
と云い置いたことがある。
震災(関東大震災)を過ぎたころから、それは昭和五年(一九三〇)までの復興期の間じゃが、冬野菜の需要が見る見る高まった。ここいらでも、冬野菜を作るようになり、新宿は淀橋の市場へ出荷する者が増えた。
そうしたことで、二日の仕事はじめも、田畑へ行くのではなしに、初荷の市場出しに変わることが多くなった。
それは、いままでのお気楽な仕事始めとは違い、大変な労働。
身も凍る午前一時ごろに起き出し、暮に収穫しておいた大根やら人参、牛蒡を大八車に山積みして、五時間ほどもかけて淀橋の市場まで運ぶようになった。
この日に川崎の大師さま行く人もあるから、昭和の初めころには、昔ながらに田畑へ行くお方もあり、朝早くから市場へ行くお方もあり、まあさまざまになってきたということだな。
どこの家でも、十五日ごろまでの食事は
朝…雑煮
昼…うどん
夜…白いご飯
という取り合わせであったが、その間の四日は年神さまの供え物を下げる日。このことを「お棚さがし」と云った。
わたしの家では、その朝、神さまへのお土産として三合の白米を炊き、それを重箱へお詰めして別に供えた。
実際に持って行かれるわけではないから、あとから三日間供えた他のものと一緒に下げるが、それは年男だけが食べる決まりとなっていた。
それゆえ他の家人が粟餅であるにもかかわらず、年男だけは雑煮も白い餅となるわけで、それ見て子どもらは
「はやくおとっつぁんみてぇになれば、米の餅が食えるのになぁ」
なぞと、うらやむ。
昔は、神さまのこと、先祖さまのこと、それに青年団や村祭りの寄り合いのことなぞと、それぞれに区分けされた世界があったから、子どもが大きくなるにしたがい、村の中で一つひとつ違った世界に入りながら、大人になることを実感できたということだな。
というわけで、わたしがこの棚おろしの白い餅を食べられるようになったときの想いも、また格別なものじゃった。
節会と正月の遊び 音声版へ
正月に親戚中が行ったり来たりして、各家へ順ぐりに集まり、新年を祝う宴を催すことを「節会」とか「大番」と云った。
「大番」というのは、もともとは宮殿への出入りを許された人がそこへ当直することだが、そうした上の方の言葉が庶民へ下り、主催者なり当番と云うような意味で村内に残されたようだ。
そこでおもしろいことがある。畑方の下清戸では「大番」、田方の中里あたりでは「節会」と、同じ清瀬の中で云いようが違っとる。
こりゃぁおかしなことだと思ったところが、柳瀬川に面した中里は中世以来の古い村落。
それに対して下清戸は戦国時代に後北条氏の家臣だったと云う中嶋筑後守というお方が開かれた土地で、徳川の世となり、この地へ土着した武士たちが村の興りと伝えられているから、もしかすると、下清戸なぞでは武家方の行事の云いようが遺されているの哉も知れぬ。
それが本当だとすると、よく、「大盤振舞」というが、どうもこれも大番の家の振舞いというような武家方の言葉として一般化したことになる。
話がまた素っ飛んだが、この節会は三日から七日ごろに集中している。
この節会を行う年始回りは、入れ違いにならぬよう、五日は誰の家、また七日は誰の家と定まっておった。
年始回りを、昔は「正月礼」などとも云ったが、その日にあたると、近くから遠くから親戚が集まって来る。
手土産は、店で買い求めた菓子詰めの「年始折り」、あるいは当時貴重だった砂糖、それらに半紙二帖と手拭というのが普通で、「お年始」と書いた紙を添えて贈った。
細かいことを云うと、半紙は「台敷き」といって二つ折りにして、その上に手拭を載せ、相手の名前を書いていくこともあった。
そうしたなかで、あまりなじみの無いお方も来られる。
新たに親戚となったお嫁さんの御両親なぞじゃが、そこでは半紙も一枚ずつ交互に抱き合わせて折り重ね、自分の名前を書いて挨拶に来られる。
こうしてたくさんの親戚が訪れる。
大番の家では、暮に作り置きした御馳走を出し、その御節会料理で新年を祝う。
いまは「お節料理」と書くが、それもこうした節会の日の料理から出ている。
この話を聞いてくださるお方に申し上げておきたいのだが、こうした言葉はどんどん変わり、「お節料理」と云えば、いまはただの正月料理だけの言葉となっているよう。なれど、こうしてわたしのような爺さんの話を聞いてみると、情景が浮かんでくるじゃろ。皆が集まるのが「節会」、そこで人を結びつけるのが神さまとともにいただく「おせち料理」それを大切にしていただきたいのじゃ。
あんまり言葉の意味が忘れられ、品物だけに狭くとらえられると、なにやらぎすぎすとした世の中になるようで年寄には辛くなるからな。貴方さま方も、いずれは年取るからな。もうちっと言葉の意味知って、正月ぐらいは年寄りと語ってくだされよ。
さて、当時の御節会料理といえば煮物が中心、人参、牛蒡、ちくわ、焼豆腐などじゃが、椎茸なんかは買わなけりゃならないから珍しかった。
酒も出るから、お昼過ぎごろから夜まで楽しみ、帰りにゃ八寸の折詰を持たせてもらい、夜道を提灯借りて帰ることもあたりまえのこと。どこの家でも、家の紋と名前を入れた弓張りの手丸提灯を四つや五つは持っていた。
じゃが、こうした親戚の集まりも、戦争中には物資が無くて行うこともなかった。
こんどは子どもや若衆の話。
何と云っても子どもは親戚の方が土産を持ってきてくれるので、朝から大変。
だいたいは午後から親戚が寄ってくるから、午前中のしばらくは家内の準備などを手伝ったり邪魔したりと、忙しく立ち回り、そのうちには切れた凧のように外遊びへ飛び出しちまう。
おおかたは土間から桶など持ち出し、こぞって川なぞへくり出す。
そこで絣のすそをからげ、川へ入って石をひっくり返す。
そうすっとカジカの卵が現れるから、それ桶へ集めて遊んどる。
子どもの遊びは一色ではないから、志木街道などは子どものたまり場のようなありさまで、凧あげとか竹馬、、羽子板、丸メンチ(メンコ)、独楽回しなど、それぞれが群れをつくって興じておる。
もちろん家の中でも、カルタしたり、お手玉やキシャゴ(巻貝のキサゴ)でおはじきしたりと、思い思いだ。
ここでいくつか、そうしたときの唄をご披露すると、まずは正月唄。
●お正月はよいこった、木っ端のような餅食っ
て、雪のようなまんま(ご飯)食って、油のよ
うな酒飲んで、笹っ葉のようなとと(魚)食べて、お正月はよいもんだ
〈次は羽根突き唄二つ〉
●お正月、元日に、玉ちゃんところに行ったれば、
お餅と大根煮てくれた
(それをくり返し、そのうちに羽根が落ちたら)
いっかん貸しました
●一人来な二人来な、三人来らば寄って来な、い
つ来てみても、なな子の帯を八の字に締めて、
ここのよでいっかんよ
羽根突き唄へ
子どもたちは、こうした正月唄を歌いながら遊び回っておるが。それでも午後になると家へもどってきて、お客さんの来るの待つわけ。そうすると、子どもらのためにと、心遣いして足袋や下駄なんか買ってきてくれるおばさんもいらっしゃるから、大喜び。
今のようにお年玉は、よっぽど新しい親類でもなければもらえなかったが、そうしたおひねりをもらうと、その中に二銭銅貨が入ってることが多く、場合によっては十銭も。それ見て仰天したこともある。
子どものことだから、所沢行って雑誌買おうなぞと、その日を想いやり、胸がはちきれんばかりに喜んだものだ。
まあ、子どもはそんなことだが、それより年上の若い衆になると、もっと現実的だ。嫁さん探しに出るわけ。
普段から、学校や畑仕事の合間見て、埼玉側の川向こうの機織りやって娘さんのいる農家を探しといて、そこへちゃっかり遊びに行くわけだ。
まぁ大正時代のころだから、のんびりしてて、いい家に行くと、その家の人が囲炉裏へ寄せてくれてお茶出してくれる。
そうしたことだから、そこで娘さんと冗談話なぞはじめるわけで、娘さんが慣れて来ると
「こっち来らっしゃい」
なんて云って、
「活動(映画)行くか」
という具合で…
それで断られても、正月になると、そういう娘さんが集まってどっか行くに、だいたいは通り道や時間が分かっとるから、わざと、こちらもかち合うような場所へ男衆さそって行くわけ。
そうすっと、柳瀬川の土手なんかで出くわす。
そこで立ち話がはじまり、こっちの男衆はあっちの女衆、あっちの男衆はこっちの女衆というようにね。
まぁ、若いうちのことだから、たわいもない話して、みんなで大笑いして楽しい時間を過ごしたもの。こうしたことがきっかけで、ずいぶんと埼玉側から清瀬へも嫁さんが来なさったね。
若いときは娘さんを見かけるだけで胸がどきどきしたもんだが、今となっては、そうした気持をいつ置いて来たものやら…
まぁばあさんとは今でも仲良くやっとるから、どっかにそのときの気持が残ってるのかしんねぇな、ハハハハハ。
今日の話はこれでおしまい。
七草・粟穂稗穂(七日)音声版へ
七日は七草。
この日の朝には七草粥を食べるが、もうこのときには年男の役目は終っておるから、女衆が作る。
このあたりじゃ「七草雑炊」とか「七色雑炊」、「おじや」なぞと云っておったが、それも昔は粟の粥。
農家のことだから、そのなかには人参、牛蒡、里芋、すずしろ(大根)、なずな、それに餅を入れるのが常。
この七草。そうとう古くに中国から伝わったものらしい。
何でも一月七日は「人日」といって人の日で、その日に若菜を食べて、体の内から邪気を払うということらしい。
今の人もこの日になると八百屋で七草買ったりしてるから、およそ千二百年もこの国に伝わってることになる。驚いたもんだ、もっとも室町より前の時代は汁物だったようじゃがな。
このあたりじゃ唄わぬが
「七草なずな、唐土のとりが、日本の国に…」
なぞという唄も、七日が人の日で一日が鶏の日というから、意味は分からぬが、ずいぶんと古い唄なの哉も知れぬな。お前さま方も、いっぺん調べてみてはどうかな。何か面白いことがわかるか知れん。
この日はお供えを下げ、年神さまの棚や正月飾りを片付ける日。
下ろした年神さまの棚は、子どもの書初めなど垂らして飾っているからそれをはずし、外へ出し、屋根に投げ上げておく家が多かった。
家によっては、土蔵の生け垣にはさんだり、乾(北西)の方角へ納め置いたりさまざまだが、こうしたことは ─神さまが御座したところだから─
という考えから興されておる。
これは煤払いのときに話したことと同じで、神さまのものは、けして粗末には扱えない。そこで昔の人は屋根や蔵へなりとも年神さまの正月棚を上げておけば、年神さま帰ったあとも、家をお守りくださると考えてのこと。
そうしておいて、こんどは粟穂稗穂作って、作神さま(作物の神さま)迎えることになる。
これは木を削り、粟の穂と稗の穂に見立てたものを作り、俵のようにこしらえたものを神棚へ、また七夕の笹飾りのようにしたものを堆肥場へ、この堆肥場のことをこのあたりでは「ツクテッパ」と呼ぶが、そこへ飾り立てたりする。
木を細工をするから、柔らかくて削りやすい「カツンボ」と呼ぶにわとこの木を使うが、これは古名を「山たづ」と称し、万葉集の九十番目の歌にも詠まれていて、そうした古代から神迎えの霊木とされておるが、それをだいたいは前日の六日に切り出しておき、当日の七日に庭先に座り込んで作りはじめる。
神棚に供えるものは、五寸(約十五センチ)ほどの長さに切りそろえ、皮をむいた白いやつを「粟の俵」、またむかない黒いやつを「稗の俵」に見立て、それを白二本に黒一本の三本に束ねて藁でしばり、それを一束として三束重ね積みして一組とする。
家により一束五本にする場合もあるが、粟の方が作付けが多いから白い方を多くするのは同じで、こうしたものを作って大神宮さまへ供え、その年の豊穣を作神さまへお願いするわけだ。
さて、もう一方のツクテッパには、長さ一尺(約三十センチ)と二尺のものを白黒長短取り揃え、竹笹の枝の先端を削り出して尖らせたところに、粟穂と稗穂に見立てた、そのにわとこの切り口を刺して垂れ下げる。
このほか、花に見立てたものも刺し飾るが、これは皮を削り剥ぐ要領で一方の端だけは削り落とさぬようにし、順ぐりにまわしながら芯まで削り継ぐもので、こうすると一つひとつの削りどころが外へ丸く開き、花びらのように開花する。
これは、きれいに出来上がると、なんとも豊作の予感がして心が浮き立つ。
こうして飾りつけた笹竹は、ツクテッパのボッチの上に刺し飾るわけ。
ああ、「ボッチ」が分からんか。それはな、脱穀したあとの麦がらや藁を庭に重ね積みした山のことで、それへ風呂や流しの残り水掛けて、ひっくり返して腐葉土を作ったもの。だから、たいがいは外便所の近くにツクテッパが作られ、そこにボッチがあるわけだ。
さあ、大事な話をする。
最近は脱サラとか定年したお方が農事やることもあるからよく聞いて欲しい。
化学肥料が普及したのは大正時代に入ってから。当時は石灰窒素とリン酸が主なものじゃった。
関東は酸性の土壌だが石灰窒素はそれを中和して作物へ付く病原菌や雑草を枯らす。またもう一つのリン酸は、根の発育をたすけて茎や葉の成長をよくしたが、大切なのは、それをツクテッパで作った堆肥へ混ぜることで、威力が増すことだ。
今は土を作ろうとせずに、化学肥料と除草剤ばかりに頼っているから、土がやせてきているように思うが、いかがなものかな。
関東の土は、雨でも降ればしっとりと、まことに穏やかなよい黒土。
そうした土のことを江戸時代の人は「真土」と云い最良の土質としているが、清瀬の野塩、これは秋津駅の北側にあたるが、そこの小字名にこうした名が残されてもいるから、そこには農家にとって最高の土があったことになる。
なれども、こうした豊かな黒土の多くは自然にできたものではない。そのことを知っていただきたい。
そうした土が自然に一センチ二センチと作られるにはそうとうな年月がいる。
武蔵野の畑土は、春先の強い風で飛ばされる。 この乾燥した畑土を巻き上げる風のことを、このあたりじゃ「黒っ風」なぞと云うが、その風がつづくと土がやせる。
そうしたことでご先祖さまの代から、ヤマ(雑木林)へ入ってクズハキ(落葉拾い)し、収穫後の藁や麦がらも大切にして、作物の床となる土を作ってきたわけだ。
畑土が、このように人の手を介し、代々作られて来たものだと知れば、夜道歩きながらジュース飲んだ後のビンやカンを畑へ投げ入れることなぞできねぇはずだ。
土地売るったって、歴史をさかのぼり、こうした黒い土にこめられた先人の手間と想いをしれば、一握りの土でも、おろそかに考えちゃなんねぇ。
そうした土作りのことを今の時代が忘れているようにも思えるが、日本の経済が土地を中心に動いているのをみると、やっぱり今の人も、どこかにご先祖さまからの土を大切に思う心が働いているということ。 動画へ
蔵開きと繭玉(十一日・十四日)
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十一日は蔵開きということで、蔵を持つ家では福神さまにお供え物をする。
福神さまと云っても、昔は蔵内に俵があったので、それを積み上げ、上へお明かりやお供え物を上げたのじゃが、そのときに四升の餅をつき、一すわりの大きなお供え餅を作って供えた。今は、暮れの餅つきに作り置く家が多い。
蔵開きのお供え物は、その日のうちに下げた。
次に繭玉の行事じゃが、十四日から十六日が小正月で、その初日の十四日が繭玉。
この行事は、飾り物をしたコナラの木を倒れないよう臼の穴へ挿し、座敷へおいて豊作を願うもの。
前日にヤマ(雑木林)へ入り、一間(約百八十センチ)ぐらいの手ごろなコナラの木を切ってくる。
飾り付けは翌日の十四日で、それは豊作をお願いするものだから、米の粉で繭やら里芋、薩摩芋などの形を似せた団子を作り、他にミカンやキンカンなど果物を添えて飾り立てる。
この団子は白いのと黒いのがあって、白いものは神さまへ供えるものだが、黒いのはシイナ米といって、殻ばかりで中の実がしなびた玄米を粉に挽いて使うから黒い団子になる。たいがいは四升づつ二つの丸蒸籠へ入れて蒸しあげた。
飾りつける段になると、子どもたちは大喜び。
団子作るときから手伝っておるから、蒸しあがったやつを見て
「こりゃ、おらほのだ。ありゃ、おめぇのだ」
と云いながら、思い思いの枝さがして、それを刺し飾る。
まあ、農家の座敷というものは、今の洋風の部屋のようにさまざまな置物はなく、また色味も多くあるわけではないから、座敷に繭玉飾りを置くと、団子の白にミカンやキンカンのだいだい色が映え、きれいなものじゃった。
だもんで、それが出来上がると子どもらは回りをぐるぐると駆け回りはじめるから
「ほら、あぶねぇぞ、転んで頭さ臼へぶつけるな」
なぞと、年寄からたしなめられたものである。
ミカンと云えば、昔は貴重なものじゃった。
昭和のはじめころになると、冬野菜を新宿の市場へ出しに行から現金を手にすることができた。そうしたことで、帰りにはミカンを買うことも出来るようになったが、それまでは滅多に口にすることなぞできなかった。
そうしたことで、子どもたちはおとうちゃんが荷車引いて夜遅く帰ってくるのが待ち遠しく、おかあちゃんから
「早く寝れ」
と云われても、寝巻き着て、布団の中くるまって外の気配うかがっておったわ、ハハハハハ。
小さい子は、そのうちには寝ちまうが、尋常(尋常小学校)も上の学年や高等科ともなれば、目光らせて寝たふりきめ込んどる。
そのうち、戸を開ける音が「ゴトッ」として、土間あたりで、頬被してきた手拭ほどいてほこり払う音がファシッ、フェシッと聞こえてくると、もう間違いは無い。
子どもはすかさず寝床から這い出し、台所の上がり口から暗がりの土間に立つおとうちゃんへ
「ミカン買ってきた!」
荷出しの重労働を知らない、ミカン食べたさの子ども心。それを知っているから親も怒れぬ。
「起きてただか…」
と土産のミカンを起きているものが揃って味わう。それも当時は皮のまま食べるほどに貴重なものだった。
今のように物が豊富ではなかった時代のこと、そのときに食べたミカンの味は生涯忘れられ得ぬものとなった。
さて、この「繭玉」の日は別に「おしらさま」の日ともいう。
「おしらさま」とは変な呼び方だと思わぬか。じゃな、ここから先はなぞなぞじゃ。しばらくその意味を考えてみてくだされ…
分からぬお方は、漢字にして考えてくれろ。
だんだん分かってきなさったか…漢字で書けば
お白さま
白い物はなんだ?
ご飯─団子…
と上げていけば…それ分かったろ。
お蚕さま
のことじゃ。養蚕の神さまのことよ。
このあたりじゃな、明治に入ったころより養蚕が広まった。
それにゃ徳川の世が終り、明治の新しい政府が外国と対等に付き合えるよう国の力を強めるためにと、お茶や絹糸の生産を奨励。それをよその国へ売り、外貨を蓄えることが必要だっただな。
何と云っても明治に入るとちょんまげおろして、それまじゃ(それまでは)仏教の考え方で忌むべき(つつしむべき)ものとされていた肉を食べるようになる。
それでも、はじめのうちはそうした考え方から抜け出せずに、四つ足の動物でなければ、ということで、シナ(中国)から鶏の輸入が増え、莫大なお金が国外へ出ただな。
明治の政府はびっくりして、何とかそれを減らし、外貨を獲得しようとした。
じゃから家禽のなかでも、あぁ「家禽」とは家で飼う鶏やアヒルなぞの鳥類のことじゃが、鶏は雑草を食ってくれるし卵も産む。産まなくなったらつぶして食べられもするから、農家にとって有益このうえないものと、飼うことを奨励。
こうして文明開化の世にあって、少しでもほかの国へ金の出て行くのを抑え、その一方でお茶と養蚕を普及させて外国へ売り、外から金を集めようとしたわけじゃな。
そんなこんなで、このあたりでも農家に鶏がつきもののようになり、養蚕も広まった。
しかし、養蚕をやるとなれば、新たに桑畑を切り開いたり蚕の桑くれ(蚕の桑葉与え)手伝ってもらったりと、それぞれに村内での協力が必要。
そうしたことで、養蚕の組合でおしらさまの掛軸を飾り、「おしら講」という寄り合いを春蚕を終えた五月末ごろに催すところもあったという。まあ、明治の中ごろの話じゃが。
さぁて、ここで云う「おしらさま」は昭和の初めころのものとして話しているから、ミカンなぞも繭玉飾りに下げているが、そのころにはもう養蚕はやっていなかった。
それ今になっても繭玉といったり繭形の団子飾り付けているから、それは養蚕やってたころに、よっぽど農家は潤ったということじゃな。
それで十四日の晩が女衆の日待。
「日待」とは寝ずに一夜明かして日の出を待って拝むこと。そうしたことが形ばかり遺されたのじゃろうな。
それだからこの「おしらさま」の晩を「女の年越し」と呼ぶところもあり、翌日の十五日、それは小正月の中日に当たるが、「薮入り」となって嫁が実家へもどれるから、この十五日を「女正月」なぞとも云っている。
小正月の期間に、それぞれ「女年越し」「女正月」など「女」を冠した呼び名のあるのは、なぜだと思う。
それは大正月にやってくる神さまが女の神さまと考えられているからだ。だもんでその間は年男を中心に行事が進められ、「赤不浄」などと云われる不浄日をもつ女衆はそれから遠ざけられ、いわば忌み籠る日々がつづいてきたことになる。
その女の年神さまが帰られ、その御座の棚をおろすのが七日、そこで昔の人は女衆を遠ざけねばならぬ状態が解けたと考えたわけだな。
したが、こんどは繭玉を飾る十四日の晩には、年神さまに代わり作神さまがみえなさる。そこで大正月に遠ざけられていた女衆の出番となるわけで、そうしたことから考えりゃ、作神さまは、男の神さまということだろうな。
昔は、やれ日照りだ、大風だと、なにかにつけて神さまのこと考えながら暮らしが移ろうから、女衆もそのへんのことをわきまえて、めぐってくる「女年越し」やら「女正月」をありがたく思って喜んだものだ。
なかでも、この十四日の晩の「おしらさま」は女衆が集まるから、そりゃにぎやかなもの。
作神さまも一緒に楽しむのであろうから、女衆が喜べば喜ぶほど、作物の成りが悪いわきゃねぇということにもなる。
その晩には、女衆が円座を囲んでやる「ホッピキ」という遊びがある。
大正時代に流行ったものじゃが、麻紐を人数分用意し、そのうちの一本に、江戸時代の「寛永通宝」やら「天保通宝」という穴あき銭を持ち出してきて、四角い穴に結わえる。これを「みみしろ銭」と呼ぶ。
そして円座の衆が一銭ずつ賭けて、引き当てるもので、「みみしろ銭」を当てた人が掛け金を全部もらえるという他愛無い遊びだ。
じゃが賭け事だから、やったことのある人も、他人から聞かれりゃ、そんなこと聞いたことはあるが、やったことはない、というのが女衆の掟のようなもの。
まぁ、神さまを迎えての「作なり」の占いという意味が薄れれば、単なる博打と思われてしまうことにはなる。
さて、「繭玉」は、繭玉以外に作物も団子で作って飾り、商家では千両箱や小判も飾るから、ほんらいの養蚕守護の「おしらさま」から「幸」をもたらす全般へ意味が広がってきている。
「おしらさま」は、本来は独立した養蚕の神さま祀る行事。お蚕さまの無事なる成育を前もって祝う「予祝」の意味合いが中心じゃった。
このあたりには、明治を迎えた、文明開化の世相のなかで起きた養蚕の普及とともに、この行事もまた秩父あたりから伝わってきたもののように思う。
じゃが、当地はもともと田や畑作の地帯。
なれば、お蚕さまだけではなく、稲も、芋も、ということで意味が広まり、作物全般の豊作を願う「予祝」の行事となる。
それがこんどは、養蚕やらなくなった大正の終りころから女衆の行事という意味合いを強め、女衆のお疲れ休みというような形で残ってきたということじゃろうな。
まぁ、行事もさまざまに変化するということ。
おしらさまの「ホッピキ」には子どもは入れぬが、十五日を一日置いた明くる十六日、その朝は子どもの出番。
繭玉飾り片付ける日じゃから、子どもはまだかまだかとそわそわ。親が
「もうよかんべ」
なぞという声を合図に、座敷の繭玉飾りにたかり、ミカンやら里芋形の団子やら、思い思いのものを取る。
家に小さい子がおれば、お姉ちゃんなんかが抱きかかえ、まあいくらも高くはならねぇが、それでも気持ちだけは目一杯高い方のやつを取らせてあげようとしている。
また尋常(尋常小学校)も下の方の子なぞおれば、お兄ちゃんと喧嘩して奪い合いとなることもあり、泣きながらミカンにかぶりついたりもしている。
まあまあ、子どもには子どもの世界があって、威勢のいいこと、威勢のいいこと。
もいだ団子は雑煮にして食べ、残り物はおやつにと囲炉裏の灰の中にくべ、焼いて食べた。
近頃は、灰をはたいて食べるなぞということも無くなったが、囲炉裏を囲み、何とも家族が穏やかな気分じゃった。
繭玉の話は、これにておしまい。
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薮入り・生木責(十五日)
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十五日は「盆」と同じに「薮入り」ということで、商家では奉公人が、また農家では嫁が親元へ里帰りする日。
新しい嫁には、お供えを持たせるが、二親が健在なら二すわり、片親なら一すわりのお供え。昭和に入るころからは「和白」や「ざらめ」の砂糖を合わせて持たせることも多くなった。
嫁は、一晩あるいは二晩親元で泊って帰ってくるが、そうしたことは子どもが七つの「帯解きの祝い」を迎えるまでつづくのが普通。
それで十六日は地獄の釜が空き、その地獄にいる子どもたちさえも遊ぶといわれ、仕事も休み。
次に生木責。
これは少々変わった行事で、木をいじめて果物の豊作を願うというもの。
繭玉の十四日の朝にやる地域が多いようだが、このあたりでは十五日の朝に行っている。
その日の朝には「ドジョウ粥」と云って、ひもかわ(うどん)を入れた小豆粥を作る。細長いひもかわがドジョウのようにみえることからそう呼ぶが、これは雨が降るとドジョウが勢いづくからで、日照りにならねぇようにという呪いの気持ちが込められておる。
これには、古くは豊作を見極める粥占という占いがともなっていたらしい。
ここらあたりでは、わたしの幼いころに失われていたが、もとはそうした占いが行われていたように思う。
その占い、どんなものかというと、ある地域では専用の粥かき棒を何本か作り、その先を割って繭玉飾りに使う団子を挟み込み、そいつを束ねて両手で握り
「山に生ぁれ、里に生ぁれ」
と唱えながら、三回ゆっくりとかき混ぜる。
これはひょっとすると、死んだ人を神の国に生まれさせるため、棺おけ右回りで何度、左回りで何度とかやって、人の世界と死んだ人の生まれ変わる世界の結界を越えることが関係しているのかも知れぬ。
まぁ、何の意味もなくかき混ぜるわけではなかろうから、成り時に生まれるものを異界へ箸差し入れて
「山に生ぁれ、里に生ぁれ」
と声を掛けながら探し当てることなの哉も。まぁそうしてかん回す(かき回す)
今度はそれをゆっくりと引き上げると、いくらか団子に米粒付いてくるから、六粒付けば六割、五粒なら五割の出来、という神占が下ったとみるわけじゃ。
この粥は当地でも
「熱くとも、吹いて食べちゃなんねぇ。梅の花吹き落とすからな」
と年寄から云われたもの。
「ふぅ、ふぅ」
と粥を冷ますに吹きかける息が、実になる花やら生った果物を吹き落とす強風を連想させるからで、粥占いで米粒の付きが悪く、おまけに食事時に子どもが 「ふぅ、ふぅ」などしたら、昔のお人はそれだけで肝をつぶすことになる。
じゃが、もしそんなことが起きても、気を落とすことはねぇ。
昔のお人はよくしたもので、気持ちを切り替えてさまざまに悪いことを祓い清める方法を考え出している。
この粥にはもう一つ云い伝えがある。
残し置いたものを十八日の朝にあたため返して食べると、蜂やムカデに刺されないと云われておる。
何でそんなことが伝わるか分からぬが、遠くの地域では
・家の周りや入り口にまくと蛇が入らぬ
・悪者や病気が入らぬ
とも云い伝えられておるから、もとは粥占する神事に用いた物ということで、それ自体に神霊なる力が備わったと考えていたものやら。
それで、神さまへ失礼がないよう、日を改めて食べることで家人が病気にならぬよう、また家周りにまくことで悪いものが入らぬようにと、それぞれに粥に宿った神力を使わせていただいていた、ということじゃなかろうか…
ちっとべぇ(少し)話は変わるがな。
下清戸に戦国時代に、八王子城築いてここらを治めていた北条氏照という人がおってな、その家臣だったという中嶋筑後守信尚、この方は下清戸・中清戸・上清戸の三清戸をはじめて開かれと日枝神社の石灯籠に刻まれておるが、その人の名を記す兵法書が昔下清戸に住んでいたという家に伝えられておる。
どんなものかと見せてもらったら、
・出陣に勝栗などを食べること
・出陣に女子が見送ってはいけないこと
・出陣に兜がずれ落ちたら凶事、吉へ転ずる呪
文云々
・旗指物が右へ倒れたら凶事、吉へ転ずる呪文
云々
・落馬したら凶事、吉へ転ずる呪文云々
などなど書かれていて、剣術の極意かと思っておったら、気持ちを強くもつにはどうしたらよいかということが切々と書き連ねられておった。
当時のこととて、生死をかけて戦場へ行くわけじゃから、もっとも大切なのが気持ちの持ちようであったということじゃが、こうしたことを考えると、さまざまに伝わる行事も、わたしには武士の「兵法」に通ずる百姓の「農法」の極意を修めるためのもの、というように思えてくるのじゃよ。
武士が戦場で敵と相対して真義を求め領民を救おうとする。なれば百姓もまた、耕地で日照り、暴風など悪気と対峙して作物を育ててきたのじゃから、強い心を持つため、神仏をよりどころとしてさまざまな、云うなれば「行事」という兵法書を作り上げてきたということになろう。
じゃから、この日の粥は、息吹きかけて食べてはならぬし、十八日に食して蜂やムカデに刺されぬようにとも願う。さっきの兵法書の「凶事」を「吉事」に転ずる呪文のように。
さて、これから話す「生木責」の行事には、そうした呪文が見られる。
それは地域が違おうとも、日本中こうした行事が残されていて、そこではみな一色に染め上げられたままに伝えられてきている。
裏を返せば、それだけ重要な言葉だということだから。よく話を聞いてくだされ。
まず、最初にことわり置くことがある。
わたしの話を『夜語り』として記録してもらうに、専門の本みたら「成木責め」という漢字を使っていた。じゃが『広辞苑』には「生木責」とあって、「成り」より「生り」の語義の方が行事の意味にかなうので、こっちにしてもらった。漢字の間違いと思う人もおるか知れんので一言添えておく。
これは十五日の朝に二人で行かにゃ用が足らん。
このあたりでは柿の木でやるとこが多く、そこへ鉈持って行く。すると一人が
「生ぁるか生んねぇか、生らなけりゃぶった切るぞ」
と木さ脅し、幹を鉈で少し傷つける。そうすると、もう一人が木霊の気持ちして
「生り申す」
と言葉を返すわけだ。
わたしは、果物をよく育てるには、あまり精力を持ちすぎてツユが上がると、かえって実のなりが悪くなるから、そうするものだと思い、気にもとめていなかった。じゃが、改めて古くからの伝えということを強く意識して考えてみると、どうもこれには不思議なことがいっぱい出てくる。
行事の多くは神さまと人との関係だから、神さまを人が怒らせてはかえって害が及ぶ。もっとも万葉のころには、日照りに、井戸ん中殺した牛投げ入れ、水神さま怒らせて雨降らせるなどということもあったらしいが、そういうことは特別なこと。
普通じゃ、人が木に宿る神さま承知で傷つけることなぞ、とんでもない事だ。それをやるんだから、よっぽどなにか昔の人の考えがあってのことだと思うわけじゃ。
このあたりじゃ、だいぶ簡単になってるように思うから、さまざまな地域を調べてみた。
「切る」というのはどこも同じだが、道具は鉈、木刀、粥掻き棒などあり、子どもが、たたいたり傷つけたりする役目を担うところが多い。
どうもこれが古いやり方のようで、子どもと考えれば、さっきの「人が木に宿る神さま承知で傷つける」というおかしなことに道理が見えてくる。
子どもたちが縄で藁しばった棒を持ち、地べたたたき歩く十月十日の十日夜もそうじゃが、大人になる前の半人前の子どもが行事の主役になるものは、神さまの使いとして現れるものと考えるのが道理。
家々回り、菓子などもらい歩けるから子どもは喜ぶが、こうしたことはハロウィンとかいったかな、外国にもあって、日本だけのもんじゃないらしい。
収穫終って、夜が長くなって野枯れちまうから、死霊の世界が幅をきかせてくるわけだ。だもんで、冬至を境に
どうぞ陽を長くしてくだせぇ、悪いもの来ねぇ
ようにして春にはまたいろんなもの芽出させて
くだせぇ
と、地べたたたいて神さま起こしてお願いするわけじゃが、これは半人前の子どもだから精霊として神さまのお使いになれるというように考えてのこと。
人の気持ちとは面白いもので、よその国でも表し方違っても同じこと考えとる。
長々しゃべったが、その子どもが木に向って
「生ぁるか生んねぇか、生らなけりゃぶった切るぞ」
というわけだから、そりゃぁ、粟穂・稗穂で迎えた作神さまが、人間の願い聞き届けてくれて、子どもたちを精霊に仕立ててくれて、まだ冬のなかで目覚めてもいねぇ木霊さまたたいてお起こしする。
大元締めの作神さまの使いの子どもたちだから、そりゃ強いやな
「生らなけりゃぶった切るぞ」
とやるわけだ。
粥占が凶と出ても、ドジョウ粥ふうふう吹いちまったって、作神さまの使いの云うこと聞かなけりゃ切られちゃうわけだから、それは聞かざぁなるまい、ハハハハハ。
所沢の山口じゃ、そんとき子どもが十二個の繭玉団子つけた小枝持って、生木責一つ終るごとに団子一つづつ食べるという。
その団子は十二個じゃから、おそらくはそれぞれの月の神さまに、日照りがねぇように、大風吹かせねぇようにと、子ども(使いの精霊)にそれ食わせて、木霊へお供えしたことにしたものかも知れねぇな。
このほかにも繭玉団子煮たゆで湯根元へかけるところもあるし、鉈で傷つけたところに小豆粥塗るところもあるし、さまざまだ。
そうしたことで、ここの最後に少し話しておかにゃあならんことがある。
大正月から小正月にかけては、行事が入り組んでおろう。そのことで、はじめて聞くお方は混乱してきたであろうが、こう考えてみてはどうかな。
大正月は新しい年を迎える年神さまに関係する行事の期間。それにつづく小正月は作神さまに関係し、その年の豊穣を願い、「予祝」と云ってあらかじめ祝い上げておく行事の期間。
こうして考えると、大正月を過ぎてから小正月へかけて行われる「粟穂・稗穂」や「繭玉」なぞの行事の姿が、その年の作物の出来を占ったり、祈願するものとして、心に収まりよくなっては来ぬかな。
それで、「薮入り」は地獄の釜など出てくるから仏教のものとして神さまの行事と別にすれば、おおかたは
大正月で、年の新神さまをお迎えし
↓
粟穂・稗穂で、新神さまに入れ代り作神さま を呼び寄せ
↓
生木責で作神さまに豊作を約束してもらい
↓
繭玉でそのお願いがかなえられたものとして
お祝いする
という、一連の行事の流れが見えてくるじゃろう。
行事に使う材料や道具、またそのときの食べ物も地域によってさまざま。
それに仏教の行事や、また明治に入りそれまでの士農工商という枠組みが無くなるから、武家方や商家の行事が村方でも行えるようになる。
それらが長い年月の中で溶け合い、行事は複雑化し、いろいろな顔を持ちはじめて元の意味が分からなくなるものも多い。
まぁ、お札でも、神社のもの、お寺のもの、それも真言宗、浄土宗、曹洞宗などなど。
よその国の人から見れば無節操な信仰心のようじゃが、神さまは形が無く、あらゆるものに宿るというから、この国の人はご利益があれば竜神さまでも、牛頭天王さまでも、阿弥陀さま、お釈迦さまでもみな信心してきたわけ。
ここらは農事を重んじてきた土地柄だから、そうしたことを思って行事を紐解いていけば、昔の人の大切にしてきた気持ちが、そこに映し出されてくる。
行事は無くなろうとも、そうした気持ちだけは、今の親御さん方が子どもへと伝えてもらいてぇと思い、昔のことを、ここで語らせてもらっているわけじゃ。
今日の説教は、これでしまい。
「説教」と云えば、いまのお人は親父が怒りつけることとお思いじゃろうがな、本義は人を教え導くこと。勘違いなされるな。わしは叱ってなぞおらんわ、ハハハハハ…
恵比須講(二十日)
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恵比須さま、といえばみなさんも知ってのとおり、鯛を釣り上げている姿でなじみある七福神のなかの神さま。
この行事は、今まで話してきたものと少し性格を違えるから、少々前置きがいる。
「講」と云えば、「念仏講」や「地蔵講」のように信心のために村人が大勢集まるもの。
その中には「榛名講」、「御岳講」、「伊勢講」なぞのように、お金を集め、「代参」とって代表を立て、大元なる諸国の寺社へ豊作やら家内安全を祈願するために詣でる集まりを云う。
ところが恵比須講はそうしたことをせず、戸々の家内で恵比須さまを祀り、福が来るようにと祝い上げるので、先ほども申したように「講」としては少々性格が違っているように思える。
そこでいろいろと調べてみたので、そのことをお話しする。まずはこの神さま自体のことからはじめる。
「蝦夷」という言葉を聞いたことがあるかな。
これは知ってのとおり、都から離れた辺境の地に暮らす人々を云うが、古い時代には、その「エミシ」が「エビス」へ転化したものらしい。
もともとは
海の向こうの異郷から来る、福をもたらす
者
ということで、漁師などの海人の間で信仰されていたようなのじゃ。
この恵比須は、神代の時代にイザナギとイザナミの間に生まれた蛭子命ともいわれ、生まれてから三年たっても立てないので水に流されたとされる。
この神さま、摂津国(兵庫県)の西宮神社の祭神とされ、鎌倉時代には、遠方より福を招く神さまとして漁民や荷船の船主により信仰されていたものが商人、町衆へと広まったらしいな。
そんで時期はずんと下るが、戦国時代あたりに操り人形の夷舞もおこり、それがのちに人形浄瑠璃へも発展したというから、想像するにその信仰が福を求める人の心をつかみ、それに家々回る門付けや舞台の見世物のおめでたさも加わり、みんな喜んで信心するようになっただな。
東国へは、寛文七年(一六六七)ころから西宮神社の社人がエビスさまの姿摺ったお札配るようになって、商家を中心に広まったそうな。
このあたりで、どこの農家でもやるようになったのは、おそらく明治に入ってからじゃねぇかと思う。
それはだな、このあたりじゃ小正月にやるドンド焼きの風習がないから、お札燃やさずに張り札や菰巻きにして屋根裏へ残しておるが、野塩のある家のもんでは、江戸時代の終わりから現代までの二九三七枚のお札のうち、さまざまの寺社のお札があるなかで西宮太神宮のエビスさま摺ったお札は一枚きりで、そのことからみると西宮から社人が来ても、一度や二度のことで伝わったもののようには思えぬ。
江戸時代には、大風なんぞで寺の屋根壊れたとか、お堂の改修だとかで、勧化して寄付金集めるが、そうしたことは奉行所へ届け、前もって半年とか三年、寺社の者が回るから心あるものは寄付するようにと廻状が来るので、それが「御用留」という名主方の書類に残るわけじゃが、西宮大神宮の勧化は多摩地域では見られぬようじゃ。
では、どうして広まったかと考えてみたが、どうも村方で行った伊勢参りにそのきっかけがあるように思えてきた。
伊勢参りは、代参立てて行くが、大掛かりなものでは伊勢から先へ四国の金比羅山まで足をのばし、天橋立から木曽を通り善光寺を回り、榛名神社詣でて雹除けのお札いただいて帰ってくる。
中里衆は天保八年(一八三七)の十二月に出立して翌年のエビスさまの月の二月四日に西宮太神宮のとこと通ってるし、上清戸の衆は弘化二年(一八四五)の正月に出て、これも二月のうちの二十四日に、ここでは旅日記にしっかりと参拝したことが書かれとる。
このほか下宿の名主友衛門さんの家には、安政五年(一八五八)の伊勢土産の包みの中にエビスさまのお札があったという。
そうしたことを考え合わせると、伊勢参りの途中でエビスさま祀る神社お参りして、その御利益のほどを直に聞いたり、またそれとは別に名主は江戸へもたびたび入るから、そこで町屋の恵比須講見たりして村方へも広まったんじゃねぇかと。
それも江戸時代の終りころの名主は、水車持って製粉業で在郷商人となる者も多く現れておるから、こうしたところから恵比須講がぽつぽつと村方へも伝えられるようになったのじゃなかろうかと。
こう考えれば、講なのに人寄せをしないのにも道理が立ってくる。
それで明治になると、年貢が税金になって全部銭で払う世の中となる。そうしたことで、農家は養蚕のほか、お茶や機織も加えて、商うようになったわけじゃから、商人に広まっておった恵比須講にもなじみが出てきたんじゃろうなぁ。
恵比須講の行事の日は、旧暦の一月二十日と十月二十日の二つ。
一月を「商人の恵比須講」と呼ぶのに対し、十月は「農家の恵比須講」。
どっちも農家でやるからおかしな話だが、このあたりじゃもともと商いの方から、幕末のころより製粉業にかかわっていた名主さん方通し、養蚕や機織りで金の出入りが激しくなってきた明治ごろの農家に入ってきたと思えば理屈に合う。
おもしれぇことに、一月がエビスさまが出稼ぎへ出るときで、十月が出稼ぎから帰られるときと考えてるところが多いが、そのことが糸口となる。
これは、十月が神無月で普通の神さま出雲へ行くから、つごうよく入れ代りにエビスさま帰ってくると考えているわけで、だから作神さまじゃねぇってことだな。
つまり農家にとっては、作神さまは作物の稔りのものだが、秋にはそれ売っちまって、今度は銭が入ってくるわけで、その福持って来なさるのがエビスさま。 それ野良仕事がはじまる春先になると作神さま帰ってくるから、そのころエビスさまを、また十月に銭たくさん持って帰ってきてくだせぇと送り出すことになる。どうもこう考えるようになって村方へも収まったように思うが、いかがなものかな。
「商人」、「農家」などと呼ぶから分かりにくくなるが、明治に入った農家に、作物や織り上げた絣を売るという銭勘定が生まれてきたことを考えりゃ、十月は作物出来るから「農家の恵比須講」。農閑期には絣織りなぞやって売る品物作るから、一月は「商人の恵比須」ということで、そのころからの農家稼ぎの二面性を表しているように読み取れてくる。
まぁ、明治のころには農家もすっかり商人のような一面も表してきたということだな。
そういえばな、下宿の終末処理場のところで発掘やってたが、面白い話聞いたな。
江戸時代の終わりごろには、名主や組頭の家は柱の下に石の礎石置いた家になってたそうじゃが、普通の農家はまだ地べたへ穴掘って柱立てた掘立で、それが明治に入ると普通の農家でも石置きに建て替わっていただと。そんで、明治の終わりころには井戸もポンプ式のものが現れると。
エビスさまのおかげで農家も機織だ、養蚕だとお金が回るようになり潤ってきたということだな。だから今でも恵比須講は何処の家でもやってるな。
なかなか、行事の説明に入れねぇが、もう一つ大切なこと想い出した。
わたしの若い時分には、農家に障害のある子が生まれると、その家に「福が来る」と年寄が云ってたもんじゃ。
ちょっと知恵の遅れた人が、お大尽の家の下男にさせてもらったりしていて、そうしたお方を見て、年寄が
「あれみてみろ、何の心配事も持っとらん。極楽トンボとはあぁいうことを云うだ。一生懸命働けば、いずれあぁした処へみんないけるだよ」
と云っていたのを想い出す。
いくら辛いことがあっても、そうしたところに違う世界のあることを感じ取るから、耐えることができたということじゃな。
今と違い、そうした人のことも、我が身に起こることとして心に留めていたわけだが、この語りをやらせてもらったおかげで、その心根がずいぶんとわかるようになってきた。
エビスさまは福を招く神さま。その神さまは最初に云ったとおりイザナギとイザナミという強大な神力をもつ神さまの間に生まれた第一子じゃが、三歳になっても立つことができぬような脚に障害をもって生まれた子。
その子が水に流され、海のかなたから福をもたらすものとして、中世以来エビスさまとなるわけじゃが、そうした障害を持つことを「不具」というから、それを「福」に転じさせて考えるところから信仰が一気に広まったらしい。
これは、前回の「生木責」で話した兵法書の凶事を吉に転ずる考え方に通ずるものじゃが、こうしたことは、「まめ」に働くようにと「豆」を食べたり、「昆布」で「喜ぶ」と云ったり、言葉の類似するものを吉に見立てて考えを良い方へ導いていくことで、これがわたしは昔からのすばらしい考え方だと思つとる。
障害のある子を見て、その「不具」を「福」と心を治める。エビスさまの信仰を通して、正確な意味は時の流れで薄らいでも、大切な気持ちは伝えられて来ていたということだな。
あまり、ぎすぎすした世の中になると、言葉の意味が狭まり、大切なこと伝わんなくなるから、行事を絶やしちまうと今の自分だけの価値観だけで生きていかにゃならんようになる。それは辛いと思うがな。
大切なことだから、だいぶ前置きが長くなったが、ここからは具体的な行事の話へ入る。
朝、普段祀っている棚からエビスさまと大黒さまを下ろし、掛け軸のある家はそれも出して座敷の床の間にエビスさまの座をしつらえる。
供え物は、左右一対にした小豆飯とけんちんと尾頭付の魚。それに枡に入れた穴銭(江戸時代の寛永通宝など)
小豆飯はもち米で赤飯にするのではなく、昔は普通のご飯に小豆を入れたもので、それを大きな茶碗へ山のように盛り上げ、お高盛とする。
けんちんは、家内の者が食べるのはけんちん汁じゃが、神さまへ供えるものは特別に作り、人参、牛蒡、大根を拍子木に、今の人なら短冊といった方が分かりやすいかな、まぁ四角い棒のように切って、それを二本つ井桁に積み上げる。ただ切って盛る家も多くなったが、やっぱり七つの帯解きとかおめでたいときには拍子木に切るもの。
そんで上にのせるのは、水に醤油入れて煮た豆腐をこれも拍子木に切って三切れ。家によっては豆腐の代わりに油揚げ一枚のせるお方もあったが、こうした時に年寄が
「恵比須講のもんは、何でもふんだんに盛り上げるもんだ」
と云っていたのを想い出すな。
次に魚。
おめでたいから鯛を供えたいが、そりゃ昔のことだからよっぽどお大尽の家でなけりゃ上げられなかった。
「益々繁盛」
なんて、その言葉にあやかって鱒を上げるうちもあったが、これは塩がしてあるからしょっぱかった。
ほかに十月の農家の恵比須講も含め、行商から鰯や鯖、それに秋刀魚なぞもあり、その家によっちゃぁ尾頭付ならどんなものでも上げた、ということ。
じゃがな、秋刀魚なんかはそれほどよいものがあるわけじゃなし、眼が落ちていたり、はらわたが出てたりと、このあたりじゃそんなものしか手に入らなんだ。
こうしたもののほか、御酒やミカンなぞも供えたりしたが、何と云っても銭に関係する商人の恵比須講じゃから、またもや
「益々繁盛」
ということで、今度は米などはかる木の枡出してきて、それにこのあたりじゃメメシロと呼んでおったがな、寛永通宝だの文久永宝だの、古銭の穴に紐通した銭緡を中へ入れてお上げした。
ああそういえば、この寛永通宝や文久永宝は江戸時代のお金と思っておろうが、正式に通用禁止になったのが昭和二十八年七月の小額通貨整理法からだと知っておったか。それまじゃ銀行持っていっても預けられたということだろうな。法律とはおもしれぇもんじゃハハハハハ
こうした行事のときには江戸時代の古い銭出して供えることが多いが、その価値は十文で一銭だから、銭緡の寛永通宝百枚あっても十銭足らずで、今となってはその十倍なけりゃ一円にもならねぇ。
物事すべて、こうした銭勘定で考えてしまうと、時代変われば行事のエビスさまもご利益が薄くもなる。
しかしな、考え方変えれば、明治に入ってより硬貨はみなプレス式の機械作り。なれどその前の江戸時代まじゃ鋳造して一枚一枚丁寧に人の手介して作っておった。
そう思って人件費に置き換えりゃ、そっちの方が手間かかって高いように思えるし、それよりなにより銭を大切にしてきた人の気持ちは昔ほどつよいから、こうして古い銭飾れば、ご先祖さまの御苦労も偲ばれるというものじゃよ。
何処の家でも仏壇の引き出し開ければ、わけのわんらねぇ古い銭が、何やら大切に紙や手拭にくるまって出てくるが、そうしたものは、親父が伊勢参り行くときだとか、わたしの場合は軍隊へ入るときだとか、おじいさんや親父がわずかばかりだが持たしてくれたような銭だ。
こうなると、銭の価値おっ越して宝物。
恵比須講に上げる銭も、どんなご先祖さまの想いがあるやら。じゃから銭の価値は、物買うだけのもんじゃねえ。
まぁ子どもらは古い銭だと喜んで見たがりもするが、それは恵比須講の行事が終ってからのこと。いずれ大きくなりゃぁそうした気持ちも分かろうて。
そんなことで、枡に入れた銭のほか、銭が入るようにと財布の口開けて上向けて置く家もあるそうだ。
それでこの日には腹いっぱい食べとかねぇと、年がら年中腹が減ると云われ、また金を使うと、これも一年中金が出て行くから使うなと云われとる。それを年寄は、恵比須講ならぬ
「出比須講」
になっちまうと子どもらを諭していただな。
ただし神さまのものは別。
その日はマッチとか、ろうそくやお豆腐を買うのには銭を使った。そうしたものを買いに行かされるのは子ども。
この日の子どもは、いつもと違い勇んで出で行く。なぜかというと、店では恵比須講のお祝いだからということで、子どもらにミカンや菓子、飴玉なぞを振舞うからで
「俺は何いくつ貰うた」
「俺はいくつだ」
なぞと子ども同士で見せ合い、けんかになることさえあった。
この日は仕事は休み。女の子がいれば綺麗な着物を着させる。
それで、昼は朝の小豆飯に替えて、うどんにする家が多く、それもエビスさまへは大きなうどん玉を二つずつ供えたものじゃ。
これで恵比寿講の話は、おしまい。
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