この行事、本来は月の満ちた日に行うが、そうするとお彼岸にかかることもあるので、清瀬では九月十五日に決めてやっている。
午前中は仕事して、たいがい午後三時ごろから十五夜に供えるぼた餅つくりはじめた。
十五夜といえば普通は月見団子じゃろうが、このあたりではぼた餅が多く、饅頭つくる家もみられた。それを供えるのはだいたい8時近くになってから。
大きな竹箕を出してきて、前を南へ向けて縁側に置く。その上に薩摩や里芋のほか、早生りの柿や栗など初物の野菜や果物を置き、重箱には十五夜だからということでぼた餅を十五個供える。そうして箕の前に、御先祖様が使っていたような貧乏徳利を花瓶代わりにススキを十五夜にかけて十五本飾り置き、まあその家により五本とか三本もありますが、そこに蝋燭も置きました。昔は蝋燭が高価だったので代りに瀬戸物の燈明皿を使い、油に浸した灯芯に火打ち石で火を点し、一合ぐらいの徳利でお神酒も上げましたよ。
月見のときの夕飯は、ぼたもちとか饅頭。神様に上げるものを食べるわけですが、そうして夜になると、子どもらが三・四人づつ組んでカゴやザルを持ち、「十五夜様下げさしてくんない」「おさがりくんない」なんていってね、月見に上げた物をもらって歩いたですよ。小さい子なんか「十五夜くんなぁ」なんてね。
この十五夜のころには、ススキを市場に出したこともあります。昭和五・六年ごろかね、今の新宿駅のすぐそばに淀橋の東洋市場というのがあって、ススキを三本ぐらいに、お客の目を引くに女郎花を添え、小粒の山栗も入れたりして売ったですよ。値段は三銭か、よくて五銭ほど。結構売れたですよ。
そのころ、ススキは今の織本病院の前っ方の芝山に随分あって、山(雑木林)を切って三・四年経ったところによく出ていましたね。
秋の彼岸 音声版へ
秋の彼岸は、秋分を中日とする前後の各三日を通す七日間。春の彼岸に並ぶもので、行事内容もそれに同じ。
十三夜(旧暦九月十三日) 音声版へ
旧暦の八月十五日の月見と対をなすもので、豆名月とか栗名月という呼び名もあります。このころになると、ススキも随分と出てまいります。
行事の内容は十五夜の時と同じですが、十三夜ということで十三本のススキを飾り、里芋の子を皮のまま茹でたキヌカツギや饅頭を供えて月見をしました。この日の夕飯はうどんでしたが、わたしが若いころには親父が「いそがしくなるで、うんと食っとけ」といわれたものである。なんといっても十三夜のころは、秋物の農作物の収穫でいそがしい最中であった。
そういえば、お月さまの童歌がありました。
お月さまいくつ 十三 七つ
まだ年ゃ若いな あの子を産んで
この子を産んで 誰に抱かしょ
おまんに抱かしょ おまんどこ行った
油買いに茶買いに 油屋のせどで
すべって転んで 油一升こぼした
その油どうした 太郎どんの犬と
次郎どんの犬と みんななめてしまった
その犬どうした ぼっ殺ってしまった
その皮どうした 太鼓の皮にしちまった
その太鼓どうした つんもして(突き燃して)
しまった
その灰どうした 茄子の肥やしにしちまった
その茄子どうした 街道通るびゃく人(百人?)
がひんもいて(ねじり取って)しまった
五節句といわれるのが旧暦で、一月七日の人日、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕、それにつづく九月九日の重陽。その重陽の節句は別に「菊の節句」ともいわれ、新暦では十月九日。その月の九日、十九日、二十九日という九の付く日が収穫を祝う「九日節句」。
この三日は、夜に御馳走をつくって食べますが、十九日は「中の九日」といって特別に新米で赤飯を炊き、家の神棚へ上げるほか、村の鎮守の神様へも供えにいきます。また、この頃の半ば過ぎから秋茄子が収穫できるようになるが、それを「九日茄子」といって、九日、九日に茄子が食べられることが農家にとっての喜びであった。
よく「秋茄子は嫁に喰わせるな」といいますが、それには昔からの農民の体験による考え方があってのこと。妊娠中の嫁には、ホウレンソウは血を荒らし、またカボチャもかゆみが出るから食べない方がいいとされ、この茄子についても体を冷やすほか、枝に下がり成るから妊婦の子宮も下がると連想されて敬遠したということ。
水田の見られる柳瀬川に沿う下宿・中里・野塩地域では、新暦の十月末の稲刈りを終えた家々で「刈上げ」の祝を行なっている。
このときは鎌の使い納めの日ともなるので、「鎌洗い」とて鎌を研ぎ、箕の上に並べて供え、酒をかけてお清めした。鎌は、何かと身をともにして一年間働き続けてきた道具であるから愛着がある。それを慰労するのがこの「鎌洗い」の儀式。昔からつづく、たわいない作法ではあるが、収穫の喜びとともに、来年の豊作を祈る気持ちがひとしお湧き上がってくるときでもあった。
この鎌洗いは、麦刈を終えた後などにも行った。
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野塩地域のある農家では、「荒神さま」の棚が台所の柱に、また「お釜さま」の棚がカマドの上にあり、古くはこれらを火の神と作神として別々に祀っていたらしい。しかし、西日本ではこれらが習合し、竈荒神として一つの神と考えられている。
荒神さまは、縁結びの神さまと考えられており、神無月といわれる旧暦の十月三十一日に出雲の神社へ出かけ、途中の十一月十五日に「なかがえり」といって留守中どんなやり方をしているか一旦様子を見に帰ってくる。そうして十一月三十日が「おちつき」といって出雲から荒神さまがお帰りになる日とされ、それぞれに供え物をしました。
荒神さまが出雲へ旅に出る日の供え物は、米粉で作った白団子。荒神さまに三十六人のお子とお留守居が一人いるということで、三十七個の団子を作り、それを重箱に入れてその日の晩に上げます。家によっては、妾の子が二人いるからと三十八個を一升枡で上げたり、また親の分として三十六個とは別に一つだけ特大の団子を一升枡で供える家もみられました。
この日の夕飯は、荒神様に供えた残りの団子とうどんでしてね。そのころになると寒くて強い風が吹き出しますが、それを「釜風」と呼び、「お釜風が吹いて来たから、ほれぇ団子食えらぁ」ってね。そのころは薩摩掘りが盛りで、空きっ畑で麦蒔きの準備に入るころ。
十一月は「大師曇り」といって曇りの日が多かったですよ。四日、十四日、二十四日と、夜に小豆粥のを食べましたが、それを「大師粥」といい、家によってはそのなかに「粥柱」といってひもかわうどんを入れたりします。
四日に大師粥やると、十日が「亥の子のぼた餅」。この行事は、農家では秋物の収穫を終えた刈上げを祝う行事で、新米入れたぼた餅をつくって食べました。
この行事の起源は古く、もとは中国で行われていた陰暦十月の亥の日の亥の刻、今なら夜の九時から十一時のころにあたりましょうか、その時刻に餅を食すると病にならぬという世俗の信仰から発していると云われ、それがわが国へ伝えられ、平安時代の寛平二年(八九〇)には民間でおこなわれていたこの行事が朝廷の歳事へも組み込まれています。
そこでは、亥の子の形につくられた餅が献上されていたといいますから、たくさん産まれる猪の子の生命力にあやかり、病を除き、長命を願う行事だったのでしょうな。
さて、そうした起源をもつというのがこの行事ですが、農民の間では、田の神迎えと神送りと同じに、亥の子の神様も作物の豊穣をもたらす神として二月の亥の子の日に降りて来られ、作物の収穫を終えた十月の亥の子の日に山へ帰られるとされていたようです。
前にも話しましたが、野塩地区には江戸時代の検地帳に「神送り」という小字がありますので、その昔には、そうした柳瀬川のほとりから、作物の豊穣を祝って亥の子の神様の御苦労をねぎらって祭り、川上の聖地へお帰りになる亥の子の神様を送りだしていたのでしょうな。
そうした行事が、いまへつづく作物の刈上げを祝ってぼた餅を食う日となってこんにちに至っているわけですが、この時節が到来すると、あちこちで「亥の子のぼた餅ゃ生でも食える」とか、「亥の子のぼた餅ゃ生でも三杯」なんて聞こえてきます。
このころは、ちょうど薩摩芋掘りで忙しく、また麦蒔きも終りに近づく時分で暗くなるまで働いて腹もすいていましたから、新米の入ったぼた餅が生煮えであっても、夕飯に食べられるのが楽しみで、楽しみで。
この亥子のぼた餅は、よく「親類へ持って行くもんだ」などといわれ、ほかに稲刈りや農作業に協力してもらった家へも配りました。そうしたお礼の気持ちを込めたぼた餅を持って畑道を通りますと「でっけぇぼた餅だなや、と大根がぐぐっと首を抜き出すで、驚いて逃げた」なぞという、そんな笑い噺のようなことわざもありました。
その時分には大根が地面から抜け出て来るんですが、そうするとこんどは大根の収穫とともに、その洗いもはじまる。あの大根洗いってぇのも、大変でしたねぇ。
そういえばその大根、この頃にはグングンと伸びてきますから、この十日を「大根の年とり」なぞといい、この日まで大根を置いてから収穫するという地方もあるそうですな。
こうした、ぼた餅を食べるのとはべつに、もっともこれからお話しするものは知っているお方が限られるので、清瀬のなかでも一部の区域か、あるいは古くは広く行われていたものが今は絶えてしまっているものやらわからぬが、ともかくも「メド塞ぎ」ということを知っておるお方がいらっしゃる。
「メド」とは漢字で書けば「目処」で穴のこと。それを塞ぐので「目処塞ぎ」。つまり、藁束を太巻きに固く縛った棒で地面をたたき、畑に害為すモグラやノネズミの穴を塞ぐということからきているらしい。
今でも川越辺りでは、十日夜の行事として行っているところがあるそうじゃが、もともとは冬を迎えて野枯れ、地力の衰えて眠りに入った地面を、神への使いの精霊とみなす子供らが藁苞で敲き揺るがし、目覚めさせ、地力を翌年の春に向けて復活させようとする、人間の精神世界を映し出す崇高な行事としての性格をもつらしい。
この二つの行事を抱き合わせて、西日本では「亥の子」、東日本では「十日夜」と云っておるらしいが、どうも古き時代に地面を叩き地霊を蘇生させる信仰行事があって、そこに富豪の象徴としての餅伝承(伏見稲荷に付帯する餅伝承等)をもつ帰化系の秦氏などにより導入された餅にかかわる外来の信仰行事が重なっているのではなかろうか。そして、その重なり合い融合する二様の強弱により、呼び名の違いと、地域的な趣の違いが歴史の中でつくりだされてきていたのでは、なぞと推量したくもなってくる。まあ、すでにこの行事、一方の「目処塞ぎ」は失われ、他方の「亥の子」はぼた餅を食うだけの行事となり、その意味を失ってしまっております。
今日の話は、これで、しまい。
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恵比寿講は年二回あり、一月二十日と、この十一月二十日。一月が「商人の恵比寿」と呼ばれるの対し、こちらの十一月の方は「百姓恵比寿」とか「農家の恵比寿講」とよばれており、行事の内容は一月の恵比寿講でお話ししたものとおなじ。
じゃが、こちらの恵比寿講の日である十一月の二十日は、いまの清瀬小学校の前の明治三十一年(一八九八)に開校した昇進尋常小学校の創立記念日にあたり、清瀬村をあげての家族総出の弁当持った運動会の日でもあったから、なにやら朝から子供らの元気な声が飛び交って、お爺さんからおばあさんまでもにこにこして、晴れ晴れとした気持ちが村中に広がっておったわ、ハハハ…。
そうしたことで、朝は恵比寿講ということで、小豆御飯を食べますが、それを終えるとこんどは運動会へ持ってく弁当づくりがはじまります。その弁当は、かます寿司(おいなりさん)やのり巻き。
じゃが、この運動会の日は十一月の二十日なもんで寒かった。校庭も霜柱がたって、くちゃくちゃになってて、とっても運動会やるどころじゃぁなかったですよ、泥で。したが、運動会はじまればそんなこたぁみんなたいして気にならなくなるもの。
これからはしばらく、その大正から昭和のはじめころの運動会のことをお話ししておきます。
大正から昭和のはじめころの各部落の戸数は、中里が百二十戸ぐらい。下清戸がその次で百戸ぐらいかな、あとは上清戸と中清戸と下宿が八十戸ほどですか。そいから野塩が一番少なくて七十何戸かだと思いましたね。それみんな運動会に集まってくる。
当時は楽隊というものが各村にあって、これは明治の日露戦争の後にできたものと思いますが、真鍮のラッパ、横笛、大太鼓、小太鼓などの楽器を使っていましたね。これは貴重なものですから村内の個人の家の蔵に保管してもらっていましたが、運動会の日にはそれ出してきて、あずけてある家の前からヤスさんだとか、オクちゃんだとかなよ、マツオさんに、トクサクさんクマさんだとか、みんなそういう楽隊の連中が集まって来て揃いの黄色い襷かけ、ドンカ ドンカ ドンカ ドンカやりながら学校へ向かうわけ。
それでなよ、各部落には応援歌もあって、中里には青年団のもので、
心は高く夕立の
空より広き武蔵野の
まなかに育ち健男児
われらは中里青年団
なぞという歌詞でしたね。
ちなみに、こうした楽器には真鍮が使われていたので、戦時中には金属の供出で召し上げられてしまい、戦後になってから部落でお金を出し合って揃えなおしました。横笛は川越の久保町へ買いに行き、五・六本揃えました。
こうした楽隊に入ると、まず練習するのが広瀬中佐の歌。この歌となったお方は、大分県出身の海軍中佐で、日露戦争のとき旅順港口の閉鎖隊として福井丸を指揮して戦死なされ、軍神とまで云われておりました。この歌は、
一言一行いさぎよく
日本帝国軍人の
鑑を人に示したる
廣瀬中佐は死したるか
というもので、これさえできればあと他の曲は苦も無く演奏できたときいております。この楽隊、昭和に入ってからは戦地へ向かう村人の兵隊送りにも活躍しました。
さて、運動会ではかけっこや棒倒し・騎馬戦のほか、遊戯や旗振り体操もあり、戦後は仮装行列も加わりましたが、何と云っても競技の主役は部落対抗のリレー。各部落ごとに鉢巻きの色がありましてね、中里は黄色でしたが、野塩は緑、上清戸がピンクで、中清戸が紺、下清戸が赤、そして下宿が紫。あに中里はあんでも平均強かったですよ。
部落対抗ですから、小さい子から年寄りまで大声出して声援し、なかには観客席の前へ出て、口に手えあてて駈け出しながら息子に併走して応援してる奥さんなんかもいて、みなさん力がはいっていましたねぇ。
駆け足では一等から三等に入ると帳面貰え、あとはみな鉛筆一本づつぐらいもらえましたよ。
はじめのころは裸足でしたが。そのうちにはゴムの入った足袋が流行り出しました。女の方々は、あれがほんとによかったといってましたね。
そういえば大正時代には北多摩郡連合青年団運動会というのがありまして、十ヶ町村以上の青年団があつまってやりました。ちなみに北多摩郡は明治十一年(一八七八)に、当時所管していた神奈川県の施行令で発足。その範囲は、南は狛江村から北に清瀬村、東は武蔵野村から西に立川や砂川村までの範囲の町村がそこに含まれていました。
清瀬の運動会で足の速いお方、大方は青年団のひとですがね、そうした人は北多摩郡連合青年団運動会の百mとか二百mの駆けっこに村の代表として行くわけで、今の府中の野球場になっている辺りに草っ原の運動場がありまして、そこでやってました。年に一回十月ごろに。
わたしも二・三回応援に行きましたが、そのころ一番早かったのは府中の助役をやっていた人の兄弟でしたね。
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十一月二十三日が、稲の収穫を祝い翌年の豊穣を祈願する新嘗祭。この日は学校行事があり、君が代などを歌ったりしましたが、帰りに駄菓子がもらえたりしたので、生徒にとっては楽しみな日でもありました。
いま、当時の行事の歌を想い出してみますと…
紀元節の歌は
雲に聳(そび)ゆる
高千穂の
高根おろしに 草も木も
なびきふしけん 大御世(おほみよ)を
あふぐ今日こそ たのしけれ。
でしたかな。それで天長節の歌が
今日の吉(よ)き日は 大君(おほきみ)の
うまれたひし 吉(よ)き日なり
今日の吉き日は みひかりの。
さし出(で)たまひし 吉き日なり
ひかり遍(あまね)き 君が代を
いはへ諸人(もろびと) もろともに
めぐみ遍(あまね)き 君が代を
いはへ諸人(もろびと) もろともに。
明治節が
アジアの東 日(ひ)出づるところ
ひじりの君の あらはれまして
古きあめつち とざせるきりを
大御光(おほみひかり)に
くまなくはらひ
教(をしへ)あまねく
道(みち)明(あき)らけく
治めたまへる 御代(みよ)たふと。
そしてここでの新嘗祭が
民やすかれと 二月(きさらぎ)の
祈年祭(としごひまつり)
験(しるし)あり
千町(ちまち)の小田(おた)に
うち靡く
垂穂(たりほ)の稲の 美(うまし)稲
御饌(みけ)に作りて たてまつる
新嘗祭(にひなめまつり) 尊しや。
当時はそれぞれの行事の日に、歌がきめられていて、それを皆で合唱したものですよ。もっとも、これらは学校行事ということで、個人の家の行事ではありませんでした。
村内の年中行事の話からは、少し外れましたが、いま清瀬小学校じゃが、その前の村立の昇進小学校で行っていた学校行事はこれでしまい。
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子供が七つになった祝を「帯解祝」といいまして、子供が育ってきたことで、それまでの付け紐で着物の合わせを縛るのをやめ、はじめて本裁ちの着物に帯びを用いる節目の行事がこの帯解。
昔は、乳児や幼児期に病気や事故で命を落とす子供が多かったですから、男の子なら五つ、女の子なら七つともなれば、ひと通りは自分で危ないことも判断できるようになるのでひと安心。今のように、お医者様も近くにはいませんでしたから、子供がそこまで育ったことに両の親やお爺さん・お婆さんの想いもひとしお。その喜びをこうした行事としてあらわしていたわけですな。
この行事、十一月の吉日を選んで行われていましたが、だいたいは十五日ごろが多かったですね。
祝いの日には、村の鎮守様である神社へ御参りに行きます。中里では、氷川神社や中里富士の浅間神社ですが、祝いをするお子の両の親は付き添わぬのがならわし。
そうしたお子は晴着を着させられ、その上にたいがいは大きくなって婚礼の時に着るようにと親元から祝って贈られた、男の子なら羽二重の紋付、女の子なれば茄子紺や藤色なぞの色留袖をかけてもらい、身持ちの良い大人に肩車されて参拝したものです。
そうした御参りには、親せきや村内の組合の人も集まって来ますから、肩車された子供を先頭に、大勢の晴着姿の行列がつづき、華やかなものでありましたなぁ。
こうした時には御振るまいがあるので、神社の境内には大勢の子らが集まっておって、ミカンや餅のほか、赤飯なぞは箸でつまんで手のひらに乗せてもらって食べておったわ。
普通の家ではこうした仕法であったが、身上の良い家(裕福な家)、ともなると「引きずり餅」ということを行う家もござった。
これはな、竹を並べて編んで両端を曲げたソリのようなものをつくり、その上に大臼を据えて綱を縛り出し、その綱を大勢で引き、餅を搗きながら臼を引きずりあるくもの。その横には、米を蒸したセイロを幾つも乗せたリヤカーをともなっておる。
そいでな、途中途中でその臼乗せたソリ止め、三人から多い時は六人も臼の周りたかって餅を搗きあげ、その餅を取り上げちゃすぐ脇に居るお方が手で切り分けて餡や黄粉付けて見物人に振舞う。
こうした方々は親せきや組合のお人が中心で、餅の搗き手はその家の屋号の入った揃いの印半纏はおり、杵も二十本ぐらいは用意されていたかね。それ持ってかわるがわる酒飲んで休んじゃ搗くだから、大騒ぎ。村内に疫病などを振りまく悪い神様入り込んでおっても餅つく勢いで蹴散らしておっぱらっちまうぞというようなお祭り騒ぎ。
それだけじゅねえ、家では客人に酒肴のもてなしをし、祝いの終いにはうどんだして、引き出物に鯛の折詰や鰹節の引き出物の出る家もった。
そうしたことだから引きずり餅やる家では、子供ができると
そのときから五年も七年も帯解の祝いに向けてもち米余分にまいてたくわえておった。なにせ引きずり餅するような家では、祝ってくれた方々へのあと返しも大変で、その丸餅準備するに三日も前から餅ついて蔵に並べておったという話もきく。それもたいそうな祝いの品をいただいた御仁のあとがえしには、米俵とか祝い酒を入れた角樽を贈ることもあり、また親元へは木桶の飯台に重ねた餅一荷を手車に積んで配ったなどとも。
まあ、昔は子供の成長を、帯解という行事通してたくさんの人が祝ってくれたということ。
話はかわるがな、ちょっくら面白いこと想い出したんで話しておきます。
中清戸のお方から聴いたのじゃが、小さい時分にこうした引きずり餅で餅つき歌覚えて、全龍寺さんの前の地蔵様のとこで子守しながらよく近所の子らでそれ歌っていたと。そのときにゃ、手でにぎれるほどの石探してきて、そこにあった水盤の縁で、にぎった石を杵に見立て、ヨモギの様な葉っぱなぞを覚えた餅つき歌うたいながら、コツコツたたいて遊んだと。だで、その水盤の縁には、いくつも窪みができておって、写真家の熊谷元一(くまがいもといち)さんがお調べになったところでは、下清戸の八雲神社の石段や長命寺さん、野塩の地蔵さまのところにあるといわれていましたから、昔は清瀬のあちこちにそうして遊んだ子供がいたということ。その石のくぼみは四センチほども掘られているものがあたりまえにみられますから、どんだけ歌をうたって敲いていたことやら。
話はこれでしまい。もう夜も更けてきましたので、わたしはまた、夢んなかであすんできますで、これにて今日はお別れ。
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「川びたり」とは、また奇妙な行事の名とお思いであろう。これは旧暦の十二月の一日で、いま行事の意味を失いつつあるが、もとは川に入って沐浴し、身を清めて水難を除けようとする水神祭から起こっておるらしい。そうしたことで、川水に身をひたすことから「川びたり」なぞというようになったらしい。
しかし、このあたりでは、馬を川で洗ってやったりするので、漠然と馬や牛など生きもののお祭りの日と思っていられるお方もいらっしゃる。
行事としては、前日かこの日の朝に粟餅を搗いて雑煮として朝食べたり、また山へ、そうそうその山とはこのあたりじゃ雑木林のことじゃが、そこへ堆肥とする落ち葉を集めに行く「くず掃き」やるに茶菓子にその餅持ってって食べたりするほどのこと。またこの日は「川びたり」ということで午後は農作業休んで半日骨休めした日でもありました。まあ、この「川びたり」の日は一年の最後の月となる十二月に入った最初の日。ですから、そこから先にはさまざまに新年を迎えるための準備に忙しく働らかにゃぁならんかったですから、半日の休みは嬉しかったですな。それと同時に、気持ちも引き締まってまいります。
師走八日(十二月八日)
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これは、旧暦二月の「八日節句」でも話した「事八日」の行事と対をなすもので、こちらは旧暦の十二月八日にやっていたから「師走八日」と呼ばれておった。
行事の内容は二月と同じで、長い竹竿の先に目籠を掛けて玄関の前におっ立て、葱の皮やガラギッチョ(さいかちの実)を燃してその臭気で鬼を追い払う行事。
この鬼は、せきや熱などを引き起こす風邪の病をもたらす悪鬼と考えられておったから、御釜風と呼ばれた冷たい北風が吹き出すことで、それ乗って師走八日にやって来て、暖かい風が吹き出す二月八日に村の中あばれながら遠くへ帰ってくとおもわれておった。だで、この十二月と年明けた二月の八日に、同じ行事やって鬼を追い払ったわけじゃ。
冬至・星祭
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冬至は、一年のうちでお日様が顔を出している時間がもっとも短い日。だでこれは旧暦や新暦とは関係なしに定められた日にやってくる。
まあ、古くからの人の感覚にしてみれば、輝きの衰えてきたお日様によって大地が枯れ果て、悪いものが動き回る闇がこの世を支配し、極に達したのがこの日。だで、どこの国でもこの冬至のころに、お日様の復活を祈る祭りしておる。
この日は、病気などせぬよう、香りの強い柚子を切って入れた柚子風呂へつかり、「冬至唐茄子」とてカボチャを食べる。このカボチャ食えば中風にならず、長生きするなぞともいわれておった。
なんでも柚子風呂は、天保(1830~44)のころに江戸の風呂屋から広まったともいわれておりますが、そうすると、天保八年に中里の衆が伊勢から西国三十三所の観音参りに出立する時分には、そうした柚子風呂が流行り出していたということになりましょうな。
そういえば、下清戸ではこの冬至に柚子を糠みそに漬けといて、正月に出し、三が日に砂糖でもかけて食べたというお方もいらっしゃったとか。なぜかといいますとな「融通」が利くようにだと、ハハハハハ。木になる柚子が、物事を臨機応変に行う「融通」に通ずるからだと。豆食えば、まめに働けるというのと同じ仕法でな、ハハハ。
この冬至の夜、お寺や中里冨士講では星祭が行われます。これは、いうなれば、人は天の動きと密接に関係し、生まれながらにしてその人その人ごとに定められた星の影響を受けているというもので、古く仏教をとおして奈良時代にわが国に入ってきたらしいですな。
それで、この日に「星供養」をして天下国家や個人にふりかかる災い除こうという仏教の儀式が行われます。そうしたわけで、これは個人の家の行事ではありませんが、ここで昔の中里の冨士講の「星祭り」を話しておきます。
この夜、講中の方々が先達さんの家へ集まってまいりますが、その床の間には冨士講の軸が掛けられておりまして、前に御幣が立てられ、その前には供物のミカンが積み重ねられ、両脇に蝋燭が点されています。さらに供物の前に、お線香を富士山形に盛り上げた焙烙が据えられておりました。
こうした祭壇がしつらえられていて、御線香をたきながらの読経につづいて、焼香を終えれば、みなにうどんの御振る舞いがありました。
昔は、寺社での星祭りは盛大で、このあたりの方々も、東村山の野口のお不動様やら、よそのお寺さんへ参りに行く人も多かったですよ。なんたって、暦見たら御自分の運勢の星周りが悪いなんて、気にするお方も多かったですからね。
これにて、昔の行事の話はおしまい。
こうして改めて考えてみますと、長くつづいてきていた年中行事は、農作業といいますか、一年のくらしに節目の日々を作り出し、つらい農作業を乗り越えられるよう、いつも事にあたるための新たな気概を養ってくれたのだと… そんなことをいまさらながら気付され、両の親や、お爺さんお婆さんと一家総出で畑仕事に精出したころが懐かしくよみがえってきましたわ、ハハハハハ。
このたびは、「夜語り」ということで、みなさまに昔の清瀬村での行事の話をさせていただきましたが、これからの時代のことは、どうぞみなさまが順繰りにつないで、つぎの世代のお子へ伝えていってくだされや。そのなかに、時代を超えてもかわらぬ衆情が見通せれば、それこそが社会にとって一番大切な考え方。戦争を起さぬための礎となりましょう。
完
2018年11月1日
清瀬市郷土博物館学芸員
内田祐治