悲憤―抹殺された時代
これを書いているのは二00四年四月二十三日であるが、ここで、どうしても挿入しなければならない問題が起きた。
この朝、寝床で新聞を読み終え、テーブルに座る。小学校六年生になった娘が、
「おとうさん、今学校で歴史を習ってるけど、縄文時代すぐ終わっちゃって、お米作る弥生時代になっちゃった」
まあ、それも致し方ないことと思っていると、娘が小学生新聞に掲載されている〈新しい社会科教科書 「縄文時代のくらし」の紹介〉という記事を見つけ出し、読み出している。
「縄文時代のことがのってる。
……四社の教科書で縄文時代のくらしがくわしく紹介されています」
わたしはテレビのニュース八割、残り二割のぼやっとした感覚でそれを聞いている。
「学校で学ぶ内容をさだめたいまの学習指導要領では、日本の歴史は六年生で農耕の始まり(弥生時代)から学ぶことになっています」
「えっ! 久美ちゃんその新聞貸して」
それにつづけて書かれていたのは、
縄文時代をとりあげた理由を各社は、子どもたちの関心が高く、実際の授業でも弥生時代を学ぶ入口として教えられることが多いため、と説明しています。 『朝日小学生新聞』より
「何と言うことだ!
知らなかった。文部科学省は子供の教科書から縄文時代以前の歴史を抹殺していたのか。
縄文時代のことは、教科書会社の好意として子供たちに残された歴史として取り扱われていたのか。しかも、弥生時代を学ぶ補助として……」
悔しさと悲しさが交錯してわが身を襲った。日本考古学協会は、このことに対して何のコメントも発していないのか。少なくも私には聞こえていない。
家族は、私がどれほどの思いをもちながら遺跡の調査に携わってきたかを知っている。
「私たちは縄文時代のこと、随分やったわよ。歴史はここからでいいなんて、誰が決められるの!」
子どもが教科書を出してきた。ページを開くと〈博物館に行ってみよう〉と題するところに縄文時代の遺物が写真で掲げられ、集落の想像図が折り込みで挿入されているが、まとまった解説は一行すらない。
人と自然との共生を一方で叫びながら、その時代の歴史は、わが国の歴史でありながら、子どもたちの学びの場から抹殺された。
権力者が登場し、それに彩られていく歴史は、事項と発生した年代が学びの中心とならざるをえない。その本質を学ぶには、小学六年生は、あまりに幼すぎる。
歴史は、学ぼうとするものの成熟度、言い換えれば興味を持続させ、大人になってから学ぶことが望ましい。様々な道理が、自分自身の経験の深みとともに再構築されて見えてくるからである。
受験内容=学力の世界では、歴史は年号と事項の偏重主義に陥らざるをえない。
だからこそ子どもたちがはじめて学ぶ歴史に、何年何月何日という単位で、しかも特定される人物により歴史事象を構成できない旧石器時代、縄文時代は大切なのである。
土器、石器、つる編みのカゴ、鹿角の釣り針、竪穴式住居、みなが同等の技術をもち、自然と共生していた時代の技術、知恵、意識。それらは子供たちに理解し難い世界ではない。否、歴史に目覚めようとする子どもらにとり、一つひとつの歴史資料が、どれほどの身近さで感じ取られることであろう。そして、その身近さのなかから、歴史を認識する意識の芽も生まれてこよう。
だが歴史の重要性は、わが国の社会意識のなかでは希薄になるばかり、個人がそのことに本心気付くのは、身近な父、母を失ってからのことであるのかもしれないと、私は常々思っている。
文部科学省が策定した学習指導要領。それは、二00二年から学習内容の三割がカットされ、必然的に詳細な年号と特定権力者の登場しない旧石器時代、縄文時代が教科書から抹殺されたのである。そのことはまた、子どもたちと博物館の関係を弱めることでもある。
一巻に書いた、〈縄文時代のことは教科書に数行しか登場しない〉という文面は、もはや〈文部科学省において一行も登場させなくてよいと判断された〉へ改めなければならない。
われわれは、子どもたちから益々遠ざけられたその時代のことを、いまここで必死に調査していたのである。
ピットにともなう石鏃の謎
彩色土器の発見された26号土坑の調査を終えた十九日、建設現場で用いる足場組みを満載したトラックが事務所横の駐車場へ入ってきた。
トラックから降りてきたのは、一人の日本人と灼熱の大陸で育ったらしい大男。三宅島の人もびっくりしているが、実はこの二人、1号住居跡の足場設営のためにきてくれたのである。
一週間ほど前の夜。作業を終えて事務所に残った者たちでのなかで、今後の調査が話題に上がっていた。
「しばらくしたら1号住居跡の本格的な調査をはじめなければならないが、前原遺跡のように撮影用の足場組めるかな?」
「耕作の溝がいくつも入ってますから、前のようにはいきませんよ。足場が確保できない」
「そう言えば、隣の工事現場の足場組みのように、住居跡を囲えればいいんだが」
過激な意見が出てきた。
「設置したり、移動するときに大変なんじゃない」
「組み立ての時間は、そんなにかからないですよ。十九日だったかな? 都心の建築現場で足場の解体があるから、資材置き場へもっていく途中に搬入すればわけないですよ」
こうしたとき、花井さんは実に頼りになる。また、いつものように携帯電話で確認を取っている。
こんなやりとりから、1号住居跡の周囲に足場を巡らし、二メートルほどの高さの足場板に腹這いになって四十センチ四方ごとに撮影していく方法が、この日実現しようとしていたのである。
「何処に設営しますか?」
「あのピンポールを刺してある範囲を、足場の内側へ入れたいんですよ」
近くの者が資材運びを手伝うが、灼熱の国の人にはびっくり、二、三本でも重たい鉄管を五本軽々と持ち運んでいる。
「ココハ、ナニシテルノ」
「発掘…、四千年前の人の住んだ跡を調べてるの」
「ヒャォ、スゴイネ。ナニカデタカ」
土器の出ているところを指さし
「アースウェア」
足場は短時間で組み上がったのだが、資材置き場まで運んでいく手間がはぶけたためか、灼熱の国の人は三宅島のおばちゃんの一輪車を、さっと取って土運びの手伝いをはじめている。
「あんたはどっから来たの?」
「アフリカネ、アフリカカラキタヨ」
「へぇ―、お父さん、お母さん心配してるだろうねぇ」
「オトウサン、オカアサン、ゲンキネ」
現場の中で、小さな国際交流がはじまっている。その光景をでき上がったばかりの足場組みの上から眺め、
「ありがとうございました。これだけがっしりしていれば、まったく問題はありません」
その後、四、五十分も手伝ってくれたであろうか、
「ツチホル、ガンバルネ」
という応援の言葉を残し、窮屈そうな車の窓から手を振りながら、帰っていった。灼熱の国の人は、こころ優しき人でもあった。
このころまでには、三宅島の方々も作業に慣れてきていた。
「瀬川さん、1号住居跡の攪乱溝の掘り出しに、高松さん、栗本さんと入って」
1号住居跡の本格的な掘り下げを前にして、耕作にともなう溝跡の掘り出しを指示し、その間に私は東側で検出されていた焼土と伏甕の確認作業を開始する。
しかし、焼土上の攪乱層中からは土器片や礫がまとまって出土し、また伏甕も土坑をともなってはおらず、どうも状況がよく把握できない。
1号住居跡の本格的調査へ入る時期がせまっているので、この部分を後にし、周囲に点在するピット群の調査を先行させることにする。
焼土から西南西へ一メートル二十センチほど離れた位置に、径六十センチの、住居跡で言えば主柱穴に匹敵する規模のピットが確認されていたが、その片側の掘り下げに取りかかる。
埋没土は、暗褐色をした縄文時代の土。二十センチほど掘り下げたところで土が固くなった。
作業姿勢を変え、土嚢袋を敷き、腹這で確認をつづけるが、固い部分は周囲だけで中央部は通常の埋没土の締まり具合。
暗くて、はっきりとは識別できないが、柱を立て、周囲に入れた土を強固に突き固めているらしい。
「この状態は二次調査の6号ピットと同じだ」
そう思いながら、硬化している土とそうでない土を交互に外へ出し、明るい光のもとで土質を観察しながら慎重に掘り下げていく。
「カリッ」
移植ゴテがかすかに石を撫でた感触。
「うっ! 間違いない。あれだ。あれに違いない」
はやる心を落ち着かせ、竹べらでその正体を見極める。胸の内で叫ぶ。
「やったぁ!」
二次調査6号ピットに継ぐ二例目は、茶褐色をしたチャート製の石鏃。
「田村君、二例目が出たぞ」
「何ですか?」
「ほら、ピットから石鏃が出た。それも裏込めをもつピットからだ。二次の6号ピットと同じだ」
「へぇ―、もう偶然なんかじゃないですね」
「二度あることは三度あると言うから、また出るぞハハハハハ」
ところが、それは冗談ではなかった。
話は五月半ばに飛ぶが、焼土を挟んだ反対側のピットからも石鏃が出土したのである。
その間にも多くのピットを掘っていたのであるが、このピットはそれらとは異なり、下位に柱痕と裏込めによる周囲の突き固めが認められることで、先のものと規模、形態が同じだったのである。
片側を掘り終え、土層図を作成した後、もう一方の上部二十センチを掘り抜いたところから黒耀石製の石鏃が姿を現したのである。
二次調査出土品
「三例目だ! なぜ、突き固めのあるような構造のしっかりした柱穴に限って石鏃が出るんだ?」
最初に発見された、二次調査の6号ピットから想い返し、限定要因を抽出する。
一……規模は住居跡で言えば主柱規模のピットにともなう。
二……中位以下に、突き固めた裏込めが残存し、そのことにより柱痕が確認されるピットにともなう。
三……石鏃の出土位置が裏込め上面、もしくは上位。
四……石鏃は一個の出土にとどめられている。
さて、二次調査区の6号ピットについては、周囲にピットが群集しているので、住居跡の痕跡である可能性もあるが、攪乱が激しく確定はできない。
しかし、他の二例は、三次調査の最終段階で、床面まで削り取られた住居跡の痕跡であることが判明。
石鏃1を出土したピットが、南西側の主柱を補助し、梁を支える支柱。石鏃2のピットが北東側の垂木支えとして入れられた支柱であることが確定。
両者は、他の支柱に比べ、いずれも主柱に並ぶほどに強固に作られていることから、上屋構造の劣化をくい止めるための、最も重要な部分を担っていたことが想定される。
その構造的な類似が、二次調査区の6号ピットについても認められることは、住居跡の存在は確定できないまでも、某かの重要な位置づけをもつ柱穴であったことは間違いない。
こうした柱穴から、三例石鏃が検出されたことは、強固に設置しなければならない柱に石鏃を埋納する行為のあったことを予見させる。
本来、石鏃の出土位置は、穴の底でも上でも、何処でもよいはずであるが、限定要因の二に示したごとくに、穴の中ほど以下に施した突き固めの裏込め上位から出土している。
このことから石鏃を入れた段階は、柱を設置し、裏込めの土を入れて下方を版築(突き固め)した後であることを導き出すことができる。
つまり、ある種の行為をともなう状態として判読されてくるのであるが、それを突き詰めれば石鏃出土の意味に「埋納」という性格が浮かび上がってくることになる。
ここで想定される「埋納」とは、古銭を入れた甕を隠し埋めるものではない。何かを祈り、成就を願って供える手向けの奉斎銭のような意味合いである。
限定要因の四から、埋納の性格が前者ではないことは明らかである。もし石鏃自体を問題視していたのであれば、複数個出土するのが常態であろうし、強固な柱を立てる必要もない。
一個ずつの石鏃の出土と、強固な裏込め。この現象には、主なる目的と、他力をもってそれを成就させようとする関係が潜んでいるように思えてくる。
そこで問題となってくるのが、石鏃自体の状態である。三次調査の二例は基部に破損があり、二次調査の一例は完全形で出土している。
この疑問に対しては、二つのことが想定される。
一……完全、破損に関係なく石鏃であればいい。
二……完全と破損に、埋納としての性格的な違い=バリエーションの存在。
石質には、ここでの住居の支柱に埋納されるという同じ状態の二例に、チャートと黒耀石が認められることから、埋納する意識に区別はなかったようである。
問題なのは、破損が意識的に行われているかということである。
われわれであれは、欠けたもの、腐ったもの、いらなくなったものを神仏に供えるなど、神罰、仏罰を受けそうで恐ろしくてできはしない。
いらなくなったものは、針供養、左義長(どんど焼)など、納め返す行為が昔ながらの行事に見られるが、それはもの自体の供養のためで、ここでの何かをお願いするために供える性格とは異なる。
ところがよく考えていくと、親分衆が集まる席で兄弟の契りを解消するとき、また生死をかけた長い旅へ出るときなど、水杯を交わして杯を割ることが行われることもある。これらは、ある種の強い決意を秘めた契約が必要な場合、神の前で壊す行為がなされるものである。
こうした事例のなかには、雨を乞うために牛を殺して井戸に投げ入れる過激な行為も見られる。これは古代のものだが、こうして井戸神(竜神)を怒らせて雨を呼ぶわけである。
そのことを考えたとき、壊れた石鏃をことさら入れ置くことの意味が、いらなくなったものを単に使ったなどとは思えなくなってくる。
われわれの感じた〈壊れた〉は、〈壊した〉ものとして、後戻りを許さぬ決意で怒りたつ仁王のように、そのものの霊力を最大限に引き出した状態をつくり出すための行為として理解されてくる。
もちろん、そのもの自体には同格の霊力が認識されているのであろうから、〈壊す〉、〈壊さない〉は本来は次元の違う事になってくる。
しかし、発掘された事例においては、柱との関係において、その次元の異なる状況が設定されているようなのであり、そこでは〈壊す〉が上位格となり、それは〈死〉と同格になり、ある状態を〈とどめる〉作用を生み出す。したがって、そのことは霊力の最強の状態を持続させる行為として理解してもよいことになる。
ここまで解析が進んでくると、石鏃に本当に霊力が存在していたのか、あるとすればどのようなものかが問われてくる。
石鏃の力
ものに宿る力。
テレビ、冷蔵庫、照明等々。現代社会の象徴としての自動車がその名で表すとおり、われわれは、ものに宿る力など意識もせず、加速度的に自動化されてきた世界に暮らす。
そこでは動くものであっても、当然として、その力を感ずることはない。もちろん私もそうである。
その私が、書物の中の歴史世界では、ものに宿る力をいくつも見てきた。今から話すのはそうした世界のことである。
『古事記』(天照らす大神と大国主の命)
天若日子のもとへ、神々の使わされた雉が降り立つ。探女という女の言うがままに、天若日子は天の神から授かった弓矢で雉を射抜いてしまうが、その矢は跳ね上がり、高天原へ降り立つ。高木の神がその矢を拾い見ると、羽に血がついている。他の神々を呼び寄せ、その前で言う。「もし天若日子が命じた通りに粗暴な神を射たのであれば、当たるな。もし不届きな心あるなら、天若日子が当たり死んでしまえ」と言って、矢を投げ返した。すると、矢は寝ている天若日子の胸に当たり死んでしまった。
ここでは、矢は、善悪を見抜くもの、そして呪力をもって殺傷するものとして表されている。
こうしたあり方は、ジョン・バチラーの採録したアイヌ民族の毒にかんする伝説のなかにも見られ、そこでは鹿の足跡を発見した猟師が、矢に塗られた毒の神ケレプトゥルセに祈り、矢を放ち、前日に通った鹿を追わせて殺そうとすることが語られている。
矢の呪力は、遠く古代オリエントのアッカドの『アンズーの神話』にも登場し、射かけられた矢に、戻れと命じ、意のままに操ることが、またヨーロッパ中世の聖者伝を集成した『黄金伝説』「聖クリストポルス」においても、聖クリストポルスに向けられた異教徒たちの矢が静止し、そのうちの一矢が向きを変え、異教徒の王の目を射抜くことが記されている。
これらは矢の機能=殺傷→死という構図に、直接的に結びついた呪力であるが、これが矢にもたれていた意識のすべてではない。
答えのない世界において見てきたとおり、われわれにつづく、はるかなる意識世界では、相反する生と死が循環するものとしてとらえられている。
これらの物語が、矢のもつ死の呪力とすれば、その反転形の生の呪力もまた語られているのである。
『古事記』神武天皇の条に、皇后となったヒメタタライスケヨリ姫の出自についての記述がある。
三嶋のミゾクヒに、セヤダタラ姫という美しい娘がいた。大和三輪のオホモノヌシの神が見初めて、その娘が厠にいるとき、丹塗矢(赤く塗られた矢)に姿を変え川を流れ下ってきた。娘は驚き、その矢を持ち床へ置くと、すぐさま美しい男に変じた。娘は男と結婚して女児を生んだが、それがヒメタタライスケヨリ姫という。
こうした神の結婚と出産に、矢の登場するものは多く、『古事記』応神天皇に、春山の霞壯夫が、弓矢を藤の花に変化させて厠へ飾り、それを持ち出した神の娘イズシ孃子と結婚を成し遂げ、子をもうけることが、また『山城国風土記』逸文にも、川遊びするタマヨリ姫のもとへ丹塗矢が流れ来て、床に置くと身ごもり、子を生むことが語られている。
このことについて松前健氏は、矢に憑依する神霊と巫女との神婚もしくは霊交が、水辺のミソギを媒介として行われていたことの反映であろう、とされている―『日本の古代信仰』4「神人の交流」
これらの物語では、矢に神が憑依し、子を誕生させる呪力をもつものとして描かれている。
矢に潜む、生と死の呪力。われわれは、この二つの相反する関係のなかに、ある種の絶対性の構築されていることを理解しなければならない。
今まで紹介した物語のなかに、矢が、契約の上に成り立つ裁く機能をしていることを読みとった方もおられよう。
矢は、その強力な威力を背景に、善悪を見抜き、浄化する機能も与えられているのである。そのことを漢字の語源大系のなかから指摘しているのが白川静氏である。
『高麗史』第五十七巻地理志
矢を射て地を卜せり
白川氏は「至」の字形が、地を示す一と、矢の倒形から構成されていることから、矢を放って地をえらぶという意味を導きだし、そのことから、
屋……尸(しかばね)┼ 矢を放って地をえらぶ=殯のためにしばらく屍体をおくところを矢を放って占地し、清める。
室……宀(べん-深いやね) ┼ 矢を放って地をえらぶ=神聖な建物を作るときに、矢を放って占地し、清める。
等々と、「至」を付加する字形の語源を解き明かす。そして、そこには「窒」も含まれている。
この「窒」は、塞いで通行を禁止するをいうとし、墓壙の羨道を窒皇ということがあり、矢を呪具として塞ぐこと、としている。
矢には生と死の呪力の他に、矢占とともに清め、また矢を添えることで強めた状態を保持する呪力も兼ね備えているのである。
石鏃を出土した三例のピット。そのうち、性格の不明な一例を除く二例には、住居の上屋劣化にともなう中心的な補助柱跡から検出されている。そして、そこには強固な裏込めが残されていた。
この現象の指向する方向は、劣化をくい止めんがため、呪力をもって強固な状態を維持させんとする、古代的な意識に集約されていくことになる。
寄り添う埋甕
三月も後半に入り、作業は慌ただしさを増してきた。
1号住居跡では確認面の遺物の出土状態を記録するため、足場組の上で腹這いになりながら三十六カットの分割写真を撮影し、それを休日返上で合成→図化。
その後、遺物取り上げ→上層の掘り下げへと入っている。
三宅島の方々の多くは、耕作溝の掘り出し作業に従事しているが、それも3号住居跡あたりまで進み、遺物量が格段に増えてきたことで慎重な作業を強いられている。
その作業を指導しながら、田村君は、床面が数センチしか残されていない2号住居跡の調査に着手。
私はというと、瀬川さんの作業する1号住居跡の掘り下げに目を光らせながら、中山君と典姉とともに、石鏃を出土したピットの東側区域へ調査の手を延ばしていた。
「確認面に土器がかなり出ているから、平面図を作成して」
中山君らに指示し、28号土坑の確認に入る。
ここには大小二個体の土器が埋まり込んでいるが、東から北側へかけて不定形の掘込みが存在している。
まず、その片面の掘り下げにとりかかるが、部分的に草木の攪乱を受けていて、深さも十数センチと浅いようである。
若干の段差があり、二つの土坑の残存のようにも思えるが、明確な切り合いや埋没土の変化は観察できない。これまで確認されている土坑とは同列に置きがたい状況。
土層の観察では、この土坑と埋甕間の関係は不明瞭であったが、埋め甕同士はわずかな部分で、大形な埋甕aを埋設したピットが小形な埋甕bのそれを切っていることが確認された。
つまり、大形土器を埋設した後、小形土器を寄り添うように設置していたのである。
いよいよ、大形土器内部片面の掘り下げに取りかかる。
掘り進むにしたがい、礫や土器が現れ、作業をつづけることが難しくなってきた。ここで、しばし調査方法について熟考。
「このまま掘っても土層面を壊すことになる。さて、どうするか……」
この場合二個体の土器の重なりと、土器の中に入り込んでいる遺物の出土状態の確認が優先されるべきである。露天掘りのような平面からの調査では、事象を見落とす恐れがある。
「やるか!」
もう一度土器の中をのぞき込み、ひび割れの位置を確認。
「それしか方法はないな。間違いない」
方法は決まった。この状態で土層図と平面図を作成した後、南側を大きく掘り下げ、ひび割れている土器を剥ぎ取って断面から観察しようというのである。
平面図を終えた後、大形スコップを持ち出し、、三十分以上かけてカメラをセットできるほどの塹壕のような穴を掘り出す。
荒仕事で弾む息を落ち着かせ、スコップを移植ゴテに
持ちかえて土層断面の削りだしに取りかかる。
あるていど垂直な面をつくり、竹べらで器面を覆っていた土塊を最後に取り除く。慎重にやるはずが、重みで正面の土が一気に剥げ落ちる。
「わっ!」
現れたのは連鎖する人体のような魔訶不思議な文様で、他を寄せ付けぬ存在感がある。型式は加曽利E・式。
座り込み、じっくり観察。
「この造形表現は何処かで見たことがある。博物館?そうではない。美術館?
いや違う。
あっ! 東京ディズニーランドのホーンテッドマンションだ。あの幽霊屋敷の中で影絵のように壁に映し出されていた西洋幽霊の意匠だ」
これは冗談交じりに挿入した話ではない。人体から抜け出て浮遊する魂の表現として、原初的な意識に通ずる描写法を採っていることが予想されたのである。
しかも、隣の小形土器の文様は、それの簡略形。
この衝撃的な土器の出現に、作業員一同を集め、小さな見学会を催すことになった。
「この寄り添うように埋められた大小二つの土器は、墓としてつくられているようです……」
説明の後、自らが発した「寄り添う」という表現の意味を追いながら、ひび割れに沿い、静かに土器の半面を取りはずす。打製石斧、礫、土器片の出土状態が真横から観察できる。
さて、この状態を説明するには整理段階へ時を進めなければならない。
甕の中から出土した土器片には、三種のものが混在していた。それらは、埋め込まれた本体の土器と隣の小形土器、それに櫛引きの条線を持つ土器片である。
最後に挙げた土器は、光沢をもつほどにヘラで磨き込まれており、大きさに比して薄作り、異質なのはそればかりではなく、底径も非常に広い。
その底は加曽利E・式に属するものと思われるが、この時期の型式は底が小規模化していく段階にあり、これだけ広い平底は異質なのである。
ここで、状況を整理しておく。
まず、底の広い土器を除く土器片は、耕作の影響で小形な埋甕(前頁図中b号1)が東へ圧され、大形な埋甕(前頁図中a号1)の上部を破壊して進入したものと判断されることから、考証素材からは除外する。
残された現象を列記すると、
・大形埋甕a
一……正位で埋設。
二……内面に、小動物がかじりついたような削痕が認められる。
三……埋甕内より刃部を欠損する打製石斧と礫、接合関係をもつ平底の底部破片が出土。
四……上部埋没土が凹状に堆積。
・小形埋甕b
A……大形埋甕に接するように設置。
B……正位で埋設。
C……内面に、小動物がかじりついたような削痕がわずかに認められる。
D……礫が出土。
二つの埋甕に接する不定形の土坑から考えていくことにする。
この土坑は、当初の深さが二十センチていどであったと推定されるが、今までに検出されている墓としての土坑に比べ、深さが浅く、形状の安定性にも乏しい。
論拠は薄弱だが、調査者の判断としては、この二様に残されている不定形の落ち込みが、それぞれの埋甕の設置にともなう踏み込み跡ではないかと考えている。
その場合、踏み込み跡は二つの解釈を生みだし、一つはピット掘削のさいに残されたもの。他は埋甕設置にともなう何らかの儀礼場的な設定ということが想定されてくる。
次に問題となるのが土器の設置方法である。
土坑をともなうものには、伏せるという限定要因の働いていることは述べてきたところであるが、こうした土器の容量だけを埋め込む単独の埋甕の場合には、一次調査2号ピットとこの二つの事例から、逆位と正位の存在していることが明らかとなった。
この違いがどのような意味をなすかは理解できないが、正位にかんしては単に土器を埋めたという状態では
なさそうなのである。
ここで、大形埋甕aに挙げた現象の三と四が注意されてくる。
現象三を追っていくと、甕内部で、左右に分かれた底部片が接合していること、さらに下位から出土した石器と大形礫が、ともに二十八度の同一の傾斜をもっていることが気になってくる。
それを解き明かすのが現象四である。
甕内部の凹状の土層堆積。これは密度の低い埋甕内への、上部からの土層陥没であることを指し示している。とすれば、現象三はそのことによって引き起こされた状態として類推されてくる。
現象素材は、これですべて使い果たしたわけではない。接合関係をもつ異質な平底の土器片。その異質さに蓋としての機能の秘められていたのではないか、とする考え方も急浮上してくる。
加えて現象二。埋甕本体の内部に激しく残された削痕。それが動物の進入によるものとすれば、その段階で蓋が破損し、落下した可能性が強いが、それについての考証はつぎのごとくである。
埋甕は、胴部下半以下はひび割れてはいるが完形の状態で出土。破損箇所はそれから上。ところが耕作による影響で圧されて割れ込んだ破片以外、内部からは埋甕の破片は出土していない。
したがって耕作の影響を受けた段階では、内部に土が充足していたことは明らかで、上部の破壊による多くの破片は内部に入ることなく外へ飛散したものと判断される。
このことは本体の埋甕が、それは耕作の影響を受けるまでであろうが、内部に土が充足するまで完全な状態を保っていたことを傍証している。
さて、小動物の進入した時期は、屍の腐敗の状態が残る時期に想定されることから、その段階では前記した理由により本体を打ち破ったものとは思われなくなる。
考えられるのは、埋設直後、それは本体内部に空間のあるときであるが、そうした期間に蓋としていた底径の広い土器がうち破られ、土層とともに破片の一部が落下→小動物が進入、という状況である。
そのことはまた、打製石斧・礫が、蓋の上に置かれていたことを物語っている。
以上の状況復元から、埋甕aの正位での埋設には、蓋をともなっていたことが指摘でき、埋甕bについても、蓋、もしくは中から出土した大形な礫で口の塞がれていたことが想定されてくる。
最後に残された問題。それは両者の関係である。
内面に残された削痕から類推されるのは、土中にもぐり込むことのできる小動物。狼のような大きな牙をもつ動物ではない。
そのことからすれば、土器の中に安置されていたものの状態は、洗骨とは思えない。腐敗する状態を帯びるものであるが、それが人間とばかりは考えられない。
縄文時代には犬を単独で埋葬したもの、あるいは人とともに犬を一緒に葬ったものも確認されている。
この場合、多くの人々は、今日のペット的な意識でそれをとらえ、人間と犬の深い情愛をそこに求める。しかし、太古の意識はそれらとはかけ離れた世界をもつ。
嗅覚、聴覚に優れた機能を備える犬は、闇の中で変事を告げ、人には聞こえぬ遠雷の音をも聞きつける。
その高い予知の能力と、熊とも戦いうる強靱な闘争本能から、魔なるものの到来を知らせ、それを撃破するものとして神聖視され、古代においては煙雲として焼き送ることで天神を祀り、また地に埋めることで地神を祀るものとして取り扱われ、中国の殷墓においても邪気の進入を塞ぐために棺下に犬が埋められている。
人と犬の埋葬も、そうしたことから考えれば、突発的な死をとげたものに強められた異常性=邪霊に対し、犬牲をもってそれを封じる状態ではないかと思われてくる。
だが、このような土地の聖化を目的としたものであれば、単独でよいはず、と思う裏側で、よほどこの寄り添わせるかのような大小二基のあり方が、それらとは違って見えてくる。
見えない被葬者。しかし、打製石斧をともなう事例は、二次調査の9号土坑でも確認されている。犬が関係していたとすれば、打製石斧をともなう必然性は希薄となり、人との関係が問われなければならない。
人とすれば、そして洗骨でないとすれば、土器の容量を問題視しなければならない。
事故等による、断片化した肉体の埋葬も考えられるが、大小の違いはあるものの、時間差のある二例が正位という同じ状態であることからすれば、その可能性は低まる。
私の視線には、幼児と死産的なものの存在が当然として意識づけられ、そこに、寄り添わすことの意味が見い出されようとしているのであるが、すでに検証の域は脱している。
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執筆・編集 清瀬市郷土博物館 学芸員 内田祐治 制作 2005年3月 |
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歴史読本 【幕末編】 多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や 「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代 を生きた衆情を描き出した読本。 |
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