掘り出された聖文 14
─縄文時代中期遺跡発掘調査の記録─





目次詳細
 
第六章 野塩前原東遺跡第三次発掘調査の記録

 

・赤と黒のトリック            

  ・最後の土坑

  ・破壊された住居跡の炉

  ・大形住居の痕跡

  ・別れのとき

  ・無意識への幻視

   

赤と黒のトリック

 謎を解き明かすのは推理である。しかし、この場には現象についての虚像は一片も含まれていない。あるとすれば、それは判断する者自身のなかで生み出される虚像である。

 この節は、そのことを深く胸に刻まなければならない。

 現象は、廃絶後の4a 号住居跡に築かれた34 号土坑と、その住居跡西方三メートル半ほどの位置から検出された33 号土坑に見られる。ここではまず、前者の34 号土坑の確認状況から見ていくことにする。

34号土坑

 この土坑は、いままでに発見されている土坑墓とは形態を違えていた。径一メートル十センチ、深さは四十八センチ、底が平らな、ずんどうに掘られた土坑である。

 掘り下げは、高松さんにお願いしていたのであるが、しばらくして他所で調査していた私のもとへ高松さんがやって来た。

「あの土坑は深そうですね。下へ行ったら細かな炭と石がたくさん出てきてんだが、どうしましょう」

 やや遅れて見に行くと、もうかなりの深さまで掘り下げているらしい。高松さんは、腹這いになり半身を土坑の中に入れて掘り下げているのだが、こちらも反対側から頭を入れる。

「少し掘ったんですけどね、この高さから炭混じりになって、かなり出てくるようになったんですがね、石もこんなに」

 竹串を探し出して下の土層に刺し入れてみると、まんべんなくコツコツと当たる。礫には、ほとんどに赤変が観察され、被熱で割れているものも多い。

「高松さん、ここでいったん石の実測図と写真を撮りますから、できるだけ石を出してきれいにしてください。

 それから、埋まり込んでいる土の状態を記録しますから、先に土層断面を垂直に削ってから作業にかかってください。じゃあお願いします」

 しばらく作業の邪魔にならない位置に座り込み、状況を考える。考えを巡らしているうちに、

「あっ、ちょっとごめんなさい」

 あることを確認していなかったことを思いだし、半身を入れる。

「やっぱりそうだ!」

 ここで確認したかったのは側壁の状態である。出土している礫の状態から、おおよそはここで被熱していないことは推測がついていたが、これだけの炭化物と被熱礫がありながら側壁のロームに焼土化が観察されない。

「炭化物も礫も他所から持ち込んでいるんだ」

 その後、図取りと写真撮影を終え、礫を取り上げ、さらに掘り下げへ入った。

 数時間して、再び高松さんが呼びに来た。

「底が見つかりました」

 いつも掘りすぎないようにと指示しているので、わずかに現れた床を見届け、すぐ知らせに来てくれたのである。

「有り難い、これはいい状態だ。高松さんご苦労さんでした、ここからは申し訳ないが私がやりますので」

 高松さんに説明したのは、次のことだ。

 今までの調査で土を掘る工具を、床に残された痕跡から追ってきた。ここでは予想どおり、炭化物が掘削痕の中に入り込み、上段の写真に見るように、ロームの黄褐色と炭化物の黒の対比として、くっきりとそれが確認できる。

 下層の礫の記録と取り上げを終え、床の掘り出しに入る。半身を乗りだしての重労働のお陰で、床面には調査者の踏み跡は一切なく、すこぶる状態は良い。

 連続した突き差しにより穴の重なる部分は多いが、時折、上段写真中の1のように、径一センチ四ミリほどの深く入り込んだ棒状工具の軸に相当する部分の痕跡がはっきりと確認できる。

 そのほか、浅く入り込んだ穴もある。これは2のように角張りが認められ、鹿角ではなく、木製の棒の先端を三方向から削り落としたもののように見とれる。

 後からいくつかの穴を竹櫛で注意深く掘り出したのであるが、そのことに間違いはなかった。

 さて、掘削痕に入り込んだ炭化物。それは、この土坑が掘られてすぐに炭化物と礫が入れられたことを物語っている。そのことはまた、土坑構築の目的が、大量の炭化物と被熱礫の同時的な入れ込みであったことを意味している。

 この状態を復元すると、下底から中位の炭化物が多量に含まれる層まで(前頁土層断面図黒・灰色部分)、周囲にローム質の土が堆積しているが、これは土坑構築時の掘り上げ土の落下と考えられる。

 その土が、炭化物の層を割り込んで土坑中央まで進入していないことから、炭化物と、それに混入する礫は一時期に埋め込まれた可能性が強い。

 炭化物の層は埋没土全体の三分の一を占めるが、炭化物の層のなかに形をとどめるものも含まれ、投棄当初は消し炭的なものがかなりの量混入していたことが推測される。

 こうした状況から判断されるのは、土圧による炭化物の圧縮で、もとは炭化物と礫のみで土坑全体が充足していたものと思われる。なお、床にいくつかのピットが検出されているが、ここにも炭化物が入り込んでおり、構造物の痕跡の可能性は低い。

 なお、加曽利E・式の破片が数片出土しているが、いずれも上層からの検出で、本土坑にともなうものではない。

 以上が状況説明であるが、礫の総量は二十一キログラム、炭化物は推定で炭俵七俵ほどはあったように思えるが、それがなぜ土坑を構築し、礫とともに入れ込まれているのであろうか?

 このとき想い描いていたのは貴人の埋葬事例である。

新座市に所在する臨済宗妙心寺派の金鳳山平林禅寺、その管主他界にさいしての埋葬法である。竪坑を掘り横に玄室設け、遺体を保存するために周囲へ大量の炭が詰め込まれているのである。

 墓域ということで、情景を描写してはみたものの、伏甕をともなう土坑等で、炭化物が確認されていない以上、この考え方は泡沫のごとくに消え去り、意味のわからぬままに数日が経過した。

 調査も終盤に入り、あれやこれやと気ぜわしく作業しているところへ田村君がやって来た。

「すいませんが、ちょっと見てくれませんか。遺構の輪郭がよくつかめないんです」

 彼がはいっていたのは、4b 住居跡西側の大形な33 号土坑。

 輪郭がとらえ難いため、四方に溝を入れて断面で見定めようとしたのであるが、それでも判読はできないらしい。

 底面の状態をつぶさに観察する。基盤のローム面は出ているのだが状態がおかしい。自然の状態では湿り気を含み艶やかであるはずなのに、乾燥し、硬化してボソボソとした質感。

 場を移し、土層面を観察すると、下半には暗褐色土に大量の硬化したロームブロックが混入している。その上の層は下ほどには多くはないが、これにもロームブロックが見られ炭化物が若干含まれている。

 田村君の悩むのも無理からぬことで、下層が基盤のロームへ漸次しているため、輪郭の検出が至極困難なのだ。

 一通りの観察を終え、遺構横で全体を見渡しながら田村君へ所見を話し出す。

「これは焼土が問題だ」

「えっ、焼土は無いですよ」

「そうなんだ、無いことが問題なんだ。

 壁体全体が、乾燥してボソボソと硬化しているが、この状態は間接被熱だ。ロームは、直接火のあたる部分は焼土化するが、ある厚味より深くなると熱だけが伝わり、蒸し焼きの状態が出来する。この状態はそれだ。

 だが解せないのは、なぜ焼土が無いんだ。これだけの規模の燃焼ということになると中心部では千度は超えていたはず。しかもそれだけではない、燃料も相当必要だったはずだが、土層断面で見ても、なぜ埋没土中に多量の炭化物が残されていないんだ」

「掻き出されてる?」

「それがもっとも現象の理にかなう。

 何か想い出さないか、ほら別の遺構を……

「あっ、34 号!」

「ここで何が行われたかはわからない。しかし、今までの野外炉の事例では野塩前原遺跡の10 11 号土坑のように、燃焼に礫が付きものだろう。それを考えれば34 号土坑との関係が問われてくる。

 礫が被熱を目的としていたら上にあったはず、ここでは礫と混じりけのない炭は上方にあったと考えられるが、それを34 号へ持っていけば逆転して下に入る。あの状態の形成に不足は無い。

 炭化物の黒は、こうして理解できるが、では赤は?

 二つの土坑の関係をとおしても、当然あるべき焼土が見あたらない。となれば燃焼の主目的かどうかは不明だが、赤色の土の取得も目的の一部と考えられてくる。

 古代には、送葬にさいして、まず赤という色を作り出すことからはじめられるほどにそれが重要視されているが、縄文時代であっても、1 号住居跡から出土した赤彩土器のように聖性をあらわすために器に塗られるもののほか、アイヌの土葬墓のように赤を敷き詰めて遺体を葬ることも行われていたかもしれない」

 多様に使われる赤を生成し、その呪力を高めるために黒を葬るがごとくに隠蔽したのか……

 言葉にしなかったこの言葉をもって、想像は頂点に達したが、その対局では、しっかりとこの遺構が焼土の掻き取りで輪郭を不明瞭にしたことを見通すことができた。

 

最後の土坑

 五月も後半に入り、作業はいよいよ小規模な遺構の一斉調査の段階へとはいっていた。

 1 号住居跡北西側を切って構築されていた27 号土坑は、径一・四メートルほどの小竪穴状の円形土坑であったが、住居跡の縁に構築されている状態が注意され、4a 号住居跡東縁に重なる土坑とともに、廃絶した住居跡と何らかの関係をもって存在していたことが推察された。

 ここでは埋没土中から被熱礫に混じり、土器のほか打製石斧・凹石といった石器類も出土していたが、1 号住居跡埋甕と同形態の土器片(下拓本の左端)の出土が留意された。

27号土坑出土遺物

 4a 号住居跡南東側に隣接した2 号集石、および南方から一基のみ単独で検出された3 号集石は、ともに径六十センチほどの掘込みに被熱礫が検出されたが、双方とも壁面に焼土化の痕跡は認められず、野塩前原遺跡の事例と同じに礫溜め的な性格が想定された。

 さらに調査区域南端から、これも単独で検出された35 号土坑。この遺構は二・五メートルていどの円形の土坑であるが、その大半が破壊され、残存部分が下部の十センチに満たない範囲であったために詳細を知るまでにはいたらなかった。なお、土器の細片は数点出土している。

 こうして、これらの遺構の調査は終了し、残すところは31 号土坑と、その東側の遺物が大量出土していた区域のみとなった。

 31 号にはいったのは田村、瀬川。

 遺構確認の段階で、暗褐色土の広がりが直径二・五メートルほどの円形をなし、かなりの土器片が検出されていた。

 埋没土上層と中層の二段階で、遺物出土状態の図面を作成し、掘り下げは最後の下層の出土遺物とともに床面の検出段階に差しかかっている。

 遺物はここまで平面的に出土していたのであるが、北側の床面に段差が生じており、ベルトの土層面を詳細に観察していくと北側に埋没と掘り返しをくり返す二基の小形な土坑の切り合っていることが判明した。

 さらに床面を掘り出していくと、南南西の隅に径五十センチのピットの存在していることも明らかとなった。

 遺構の横で田村君と話しながら状況を整理していくと、最初に掘られたのはaとした外周をなす小竪穴状の土坑。

 このaには南南西にピットが存在しているが、このことは調査区北端の25 号土坑の調査時に検討してきた、ピットをともなう土坑に、また新たな事例が加わったことになる。伏甕をともなうような長楕円の土坑はともかく、竪穴状をていする円形の土坑には、14 号・24 号・26 号、そしてこの31 号、すべてにこうしたピットがともなっていることになる。

 ピットは床面に検出されるため、調査手順の問題から土坑構築時に掘られているのか確証は得られていない。しかし、一例には確実に埋没後にピットの輪郭の存在している状態が観察されている。

 これには二つの考え方ができることをすでに述べているが、ここでもう一度確認しておく。

・土坑埋没後に掘削された。

・土坑構築時に掘削し、柱状のものを立てたまま埋めた、あるいは埋まった。

 通常であれば前者として、土坑との関係は希薄なものと見るであろうが、もはや四例すべての土坑の、しかも設定位置も南側に存在することになれば、この現象に限定要因が働いていると見なければならない。

 となると、とるべき考え方は後者である。そのことに付帯する問題は、土坑が自然埋没か、人為埋没かであるが、ここの場合は各土層にロームブロックが混入しており、今までに検出されている墓としての性格をもつ楕円形をていする土坑の埋没状態、つまり掘ってすぐに埋める状態に近い様相を見せている。

 このことが実証できたとするなら、墓標的なものをともなう特殊な墓坑形態(集合墓他)として見ることも可能になるが、ここにもう一つの現象理解の方向を残しておかなければならない。

 それはロームブロックが存在しているからといって、埋め戻しが継続しているかは、わからないということである。

 気候にもよるが、数週間から数ヶ月であれば、掘り上げた土はブロック状を維持しているものと思われ、この主柱が片屋根を作り出すための柱であったことも考えられてくる。

 それは、ある短期間の維持を終えた段階で、柱が立ったままの状態で放棄され、自然埋没ないし人為埋没していることであるが、これにも現象理解に不都合はない。

 すべての現象を集結すれば、極まる想像の果てに、殯の期間を住居内に安置されて過ごす遺体と、仮小屋でそれを過ごす遺体の違いも現れてくる。

 さて、このピットをともなうa土坑埋没後に、b土坑が構築され、さらにその埋没後にc土坑が重ねつくられている。

 このbとcの二つの土坑は、明らかに今まで見てきた伏甕をともなう土坑のような形態をしている。ただ異なるのはその範囲の埋没土から、加曽利E・式を主体とする遺物群が検出されているのである。

 ここに遺物群のあり方が問われてくる。

 遺物に平面的なまとまりの見られるのは、c土坑のみ。しかし、この部分はもっとも深く掘られており、整理段階での接合結果からしても、c土坑外の上位の出土遺物へ接合関係をもつ土器が多出している。

 この状態は、本来当初の円形土坑aの埋没土中に存在した遺物が、bc土坑と掘削をくり返し、埋め戻される状況下で形成されたとみて間違いはなかろう。

 ここに見られる復元形は、円形土坑には住居跡埋没土のような遺物群がともなうが、楕円形の土坑にはともなっていないという現象復元であるが、それをさらに他事例へ拡大していく。印は事例数の大小である。

 楕円形の土坑には、

・遺物をともなわない > 単独の伏甕をともなう >単独の打製石斧をともなう

 小竪穴状円形土坑

・遺物群をともなう > 遺物をともなわない

 こうして比較してみると、さすがに前者の方には個としての埋葬の状態が強く感じ取れる。それに対して後者には、希薄ではあるが住居内廃棄遺物の延長的な性格が投影され、墓という終結した状態からは隔たっているように思えてならない。

 この現象から真実を見通していくには、まだほど遠い世界だが、少なくもここでは、これまでの数多くの事例より察するところ、楕円形土坑を小竪穴状の円形土坑へ添わせる意図のあったことだけは言えるのではないだろうか。

 

破壊された住居跡の炉

 前節で見てきた31 号土坑から東へ七メートルの地点に、調査初期の遺構確認時に大量の遺物を出土していた区域があった。

 調査を開始すると、南北に走る近代以降に掘られた大溝に隣接しているため、東側へ若干傾斜しているうえに、東西方向に並列する耕作溝で、床面はすでに破壊消失、残存が確認されたのは炉の内部といくつかのピットのみであった。

 攪乱土を取り除くと、大形な土器片が垂直に入り込んでいる部分が見られ、北側には礫も確認された。さらに掘り広げていくと、それらに囲まれるように無文の小形土器が横倒れて出土。しかも下からは焼土が検出された。

 この焼土の存在から、炉であることはすぐに予想できたが、小形土器の存在が何とも奇妙に映った。

 これは攪乱によるものか、とも思ったが、その部分の土質はしっかりしていて、東どなりに巡る垂直に立つ土器片が、この小形土器より高い位置で原形を保っているので、攪乱の影響を受けていないことが知られた。

 調査範囲を広げると、攪乱の影響を受けている遺物群が検出され、そのなかに花崗岩製の石皿片が二点含まれていた。

 それらを取り巻く位置から、七本のピットが検出されるにおよび、この状態が住居跡の痕跡に間違いないことが確認された。

 ピットは住居にともなう柱と判断されたが、西側の07 は炉からの距離と規模からして主柱とみて間違いないであろう。

 これを梁位置の基点として類推していくと、05 が、07 と北側に存在していたはずの主柱にわたる中間点の梁下へ入れられた支柱という可能性が浮上してくる。

 04 ―06 をつなぐラインの方向と間隔が、この05 ―07 と一致していることから、おそらく主柱07 に掛けられた垂木の押さえが06 、また確認はされていないが、同じく北側の主柱に掛けられた垂木押さえが04 であったように思える。

 次に炉であるが、縁に垂直に入れ込まれた破片が、二個体の土器であることが整理段階で判明した。

 東側の大半の破片が上図4、東南側が5である。加曽利E・式初頭の土器であるが、このほかに北側から二つの礫も検出されていることから、炉形態は土器片炉に石組みを併用した形態をとっていたらしい。

 この構造の炉は、この調査時点からさかのぼること七年前に調査した、野塩外山遺跡2 号住居跡の炉と同じ形態で、清瀬では二例目の発見である。

 炉内に横たわる無文の土器の意味の解せぬままに、炉の調査は上部の遺物の実測を終え、取り上げの段階にはいった。

 小形土器を慎重に取り上げると、口縁部から胴部上半の部分に、三分の一と二〜四センチの欠損箇所のあることに気付き、そっと元に戻して状態を再吟味する。

 欠損箇所は出土位置で東側の下にあたる部分。

 再び取り上げ、今度はそれに隣接する炉縁の土器片の下部を掘り出しながら観察。

「攪乱の影響はない!とすると、当初から破損した土器を入れ込んだのか」

 近世や近代の農家跡を調査すると、厠の下に埋め込まれた、赤物と呼ばれる常滑製の大甕や、大桶がある。その中から灯明皿や茶碗・箸などが往々にして出土するが、性格がわからぬままに樽からそれらが出てきたので棺桶と勘違いしたことがある。

 この場合、不浄な場所を、その寿命が果てたことにより箸や茶碗を入れて廃絶させることにより、浄化して通常の状態へ戻すことが意図されている。

 あるいは炉の廃絶にともない、ここで重要になるのは焼土が残されていることであるが、この状態はある意味で炉が継承されずにこれをもって終焉していることを予想させ、小形で無文という土器の形質的な特異性と相まって、それに対する打ち欠いた土器の供奉という想像も生み出されてくる。

 さらに確定できぬ意味が深まりながら、作業は遺物の取り上げを完了し、炉底へ移った。

 不思議なことに炉自体の掘込みは径一・三メートル前後なのであるが、その北東側によった位置に四十センチの間隔をあけて長さ六十センチ、幅二十センチの溝が平行して設けられている。

 考えられるのは、炉縁に使う土器片の高さの調節と固定。それが事実とするなら、溝の見られない南と北の二辺には石組みが存在していたということになる。

 だが現象はそれだけにとどめられてはいない。焼土は、西側では溝を乗り越えて堆積しているのである。

 西側には炉縁としての土器片の埋設が確認されていないので、破壊による流出とも思えるが、炉自体の掘込みのなかに見られる炉縁組みの片寄りからすれば、焼土を西側の空間へ掻き出していることも想定されてくる。

 残念ながら保存状態が悪く、すべての考証は限りなく空想に近い。

 

大形住居の痕跡

 調査終了まで残すところ一週間となったその日、辻・盛口、中山・瀬川・田中らは、互いにチームをつくり各種遺構の実測に奔走し、田村は、他の三宅島の方々とともに調査区域北側の全体的な掘り下げに入っていた。

 そうしたなかで私はというと、住居の構造復元をするための各種データーの収集と、未検出のピットはないか、徹底的な床面の精査を実施していた。


3
号住居跡構造復元

 忙しいが、しかし一人という結界を施した、もっとも集中できる空間に割り込んできたのは田村君である。

「掘り下げている区域で溝が出てきたんですが」

 早速駆けつけてみると、例の焼土や石鏃を出土したピットの南側に、断続する溝が弧を描いている。

「ん、周溝だ。周溝に違いない」

 遺構が浅いことが予想されていたため、かなり浅い位置で、遺構を傷めぬよう調査してきたのであるが、調査終了を目前にし、最終確認のために深く下げたことで遺構の痕跡を検出することができたのである。 

 幸いパワーショベルによる埋め戻し作業が南側からはじまった時期でもあった。オペレーターの花井さん再登場の瞬間である。

 いつものように、前方へ回り込んで腕で×印をつくり作業を静止させ運転席へ駆け寄る。

「花井さん、北側で住居跡が出たんだが、駐車場に残した部分の拡張をお願いしたいんだ」

「いつも最後に何か出てきますね」

 パワーショベルのオペレーターということで、最初と最後だけしか調査にかかわれない花井さんにとって、何か出てくる予感のする、心待ちの時なのであろう。

 数時間後。

 ジョレンで丁寧に掻き出されたローム面に溝が現れ、おおよそ六メートルの円を描いた。それにつづき、東南側の周溝内から、入口部を指し示す三つ組みのピットに相当するものが検出され、もはや住居跡であることは確定した。

 現れたものは、床を削り取られ、痕跡のみと化した住居の姿。保存状態は劣悪。しかし、残りえている炉、周溝、ピットの存在から、この大形住居の構造を解明できそうな気配。

 埋め戻しが南から進行していることもあり、一度もとの場所へ戻り作業を続行。

 二日後他住居の最終確認を完了させ、再びこの5 号とした住居跡へ入るが、そのころにはすべてのピットが検出され、実測の段階を迎えていた。

 まず、近くに組んだ撮影用の櫓へ上がり、5 号住居跡の全体像を目に焼き付ける。部分を調査しているとき、全体の景観を記憶にとどめ、検討できる状態をつくっておくことは大切なことである。

 こうして、確定された主柱配置は六本構成、上図である。野塩前原遺跡では、主柱は四本と五本構成がすべてであったが、そこでは住居規模が六メートルを超えるものは存在していない。

 このことからすれば、大型化にともなう構成と言えそうであるが、野塩外山遺跡や昭和五十四年調査の野塩前原遺跡で、五メートル代のものに六本構成の住居跡が、さほどめずらしくもなく出現しているところをみると、構造材との関係、特に梁に使用する材とのかかわりが基本になっているように思える。

 つまり野塩前原遺跡のあり方から想定すれば、二・五メートル以上の梁材の調達が困難になっている状態が浮かび上がってくるのである。

 この問いかけは、将来的に調査が進展していけば、彼らの抱える森林資源の状態を間接的に洞察していくことのできる可能性を含んでおり、野塩外山遺跡に調査時点に出来した集落移動の原因という、悲願の謎解きへ向かうことのできる方向性を秘めている。

 この六本構成の主柱に併存しているものは、主柱25 ―4 間の梁から掛け出された南東方向への入口部庇。この基本構造が弱体化し、図中灰色で示した支柱からは、上屋が若干右回転のねじれを生じながら沈み込む状況が推察される。

 そうしたなかで石鏃を出土した20 8 は、いずれも上屋の補強としての支柱に該当し、それぞれの関係を割り出すと、20 は主柱19 ―21 間の梁下へ入れられたもので、とくに19 の根腐れに起因する沈み込みを防ぐ目的で設置されており、8 は主柱10 を通る垂木の押さえとしての機能が想定される。

 この8 にかんしては、前段階となる支柱9 が配されていることから、主柱10 の沈下はかなり早い時期から進行し、それにかかる付加も相当なものであったと思われ、20 とともにこの強固な裏込めを必要とするほどの状態のなかにこそ、石鏃を埋納しなければならなかった神秘性が潜んでいたことになる。

 なお、東側の周溝上に並び立って痕跡をとどめる6 7 は、4b 号住居跡に重なる32 号土坑に類似し、土坑墓の残存とも思えることは前に述べた。

別れのとき

 五月二十九日 発掘作業完了。

   三十 日 埋め戻し完了。遺物および機材搬出。

   三十一日 開発者側の立ち会いのもと、現場引きわたし。

 この段階で、発掘調査は完了した。

 すでに全体の打ち上げ式は済み、三宅島の方々との別れも過ぎている。今ここに残っているのは野塩前原遺跡以来の田村、中山、花井、瀬川、田中、盛口と、新しく加わっていた辻。

 本当の終わりの日ということで、一席設けることにした。

 発掘をともにしてきた仲間たちということで、話題は最初から個々の調査中の体験談であるが、その口火を切ったのは典姉(田中)である。

「まったく、田村さんたら、最初の遺構確認大変だったんだから!」

「いやいや、あれは体力作りを含めて、発掘の厳しさを経験してもらうためだったんだよ」

 盛口さんと瀬川さんがたたみかける。

「田村さん、いつも秋津の駅前であんパン買って来て食べてるのよね」

 そのことから次第に、話題は縄文時代の食へと入り込んでいった。

「この前秋津で居酒屋に入ったら、刺身がうまかったな。なぜ、日本人は刺身が好きなんだ。縄文人も食べてたのか?」

「ナマコとかホヤとか、どうして食べるようになったのかしらね」

「今、縄文土器の文様の意味を知るために、回り道をして脳のことを調べてるんだが、そこにこんなことが書いてあった。

 美食家症候群という精神障害があって、右脳の前頭葉を痛めると食べ物に異常な興味を示すらしいんだ。

 魯山人もその一人かも知れないが、現在見られる食の広がりは、太古の時代から、こうした人たちによってリードされてきたとも言えるんじゃないかな」

「田村君なんて、前頭葉の一部が破壊されて、あんパンに異常な興味を示してるんじゃないの」

 その後もいろいろと話題は尽きなかったが、すべては別れの寂しさをほのかな記憶にとどめ、縄文時代の文様世界へ分け入る活力となっていった。

「いろいろ有り難うございました」、「また会う日を楽しみにしています」

「元気でな、みんな頑張って!」

二00一年五月三十一日

無意識への幻視

二00三年十一月

 野塩前原東遺跡第三次調査の終結から一年半が経過し、四箇所におよぶ遺跡調査報告書が完成した。

 長き長き道のり、それをたどりながら、ここに346 頁からなる『野塩前原遺跡群』ができあがったのである。

 それから二週間ほどした土曜日、今までの仲間が集まり、同窓会のような祝賀会を行った。

 年代幅は二十代から七十代、学生時代から考古学を専門にやってきたのは私のほか一人だけという、ちょっと風変わりな構図の、しかしこれほど自由な考えを放射し合い、人一倍の情熱をもって発掘調査に望んできた集団も珍しい。

 その席で、一人一人に報告書を手渡すことができるのであるから、人生最良の日となった。そこで、みなにお願いごとをした。この原題である『縄文の世界』の途中までの原稿を提示し、実名で登場していただくことを求めたのだが、みな快諾。

 そしてこの仕事が、調査者としての私にとり、念願の帰結点となることを自覚した。荷は重いが、調査者の責任は時代を担う子どもたちへ連ならなければならない、そう考えていたのである。

 野塩前原東遺跡第三次調査には、いつものごとく我が子も母とともに一日参加している。野塩外山遺跡ではよちよち歩きであった子が、この時点では自らの手で移植ゴテを持ち、基盤のロームを見据えながら耕作溝の攪乱土の除去をするほどにまで成長していた。

 子をもって知る親の心は、知らぬ間に、考古学をとおして同世代の子らへも分かち合わなければならぬほどに、高まってきていたのである。もはや、『縄文の世界』へ背を向けることはできない。それが、この場に集まったみなの総意でもあった。

二00四年春

 ある夜不思議な夢を見た。寝起きの感覚は、どこかに多少の不安を抱きながら、何やら非常に充実した状態なのである。

 心理学者ユングの書に触れてから、夢を、覚醒直後のかすかな残映から後追いしつつ復元する術を身に付けはじめていたが、昨今ではそれがかなり深層まで探り出せるようになっていた。

 見ていたのは、確かに三次調査区域の原像である。ここでは、その夢と現実という、虚虚実実の世界をさまよってみることにする。

 夢のかすかな入口では、トゥレット症候群のような状態が引き起こされていたのかも知れない。

 想像するに、神経伝達物質であるドーパミンが適度に過剰化し、意識と無意識の結界が弱まっていたのであろう。

 記憶から引き出されたある種の意識は、共時的なレベルで核となる現象を見つけ出し、それをとりまきながら自由に再構築しはじめたらしいのである。もちろんそこには、私が成り立つ遙か以前からもちえている、すり込み的に記憶されてきた情報の素子もかかわっているらしい。

 夢のなかでの上半身の前駆運動。それが過ぎ去った後に浮かび上がってきたのは、暗き夜の、森の縁にそびえる木の上。

 まるで、『今昔物語』に登場する夜の鹿狩りのような状態で村の気配を感じている。

 来ているのである、その時代に。だがこの少しの恐怖は何を意味しているのであろう。胸の高鳴りを鎮めながら思い返すと、どうもこの世界には現実の私の身体はなく、相手からは見えないらしい。

 村に近づくと、実態のない私に犬がほえかかり、私の声はある種の異常な風音にでもなって聞こえているようで、この場所から観察することより手立てはない。

 いくつかの枝を折り、手ごろな枝へ差し渡し、簡易な座を作りあげる。

 民族学者は観察対象へ入り込むが、動物学者はその生態を知るために対象へは入り込まない、私はその後者の、それも夜行性動物の観察者の道をたどっているらしい。

 いよいよ観察の開始である。

 枝越しにじっと見つめていると、暗さになれてきたのか、ぼやっと二軒ほどの家が見えてくる。

「さて、この場所は村のどの方角なんだ?」

 左手は雲でおおわれているが、右手の星を組み合わせると、正面の斜め上に見える星が北極星らしい。

「南から北方向に村を見ているんだ。奥の家には棟があり、入口は南、庇の向きは南南東。右手前の家は棟がなく、入口は南西、庇は南西向き。1 号と4b 号だ、そうに違いない。

 この二つの住居以外は、みな弧を描くような配列を見せ、その内側へ向けるように入口を東に設定していたが、時期の違う家だったのか」

 入口からは、炉火に映し出された陰のゆらぎが、わずかにこぼれ出ている。人がいるらしい。だが他には何も見えないし、音も枝葉のすれ音にかき消され、聞こえてはこない。

「そういえば、は不思議な生き物だな」

 視線は家へ送られているのだが、頭は犬の存在を追う。

 犬で思いだされたのは、古代の民隼人。

 南九州一帯に居住していた彼らは、その初期に大和朝廷へ敵対したために異民族の扱いを受けていたが、後に朝廷における衛門や殯のさいの警護の任についている。

 闇の中の単調な風音のなかで、縄文の文様の意味を知るために蓄えてきた諸学の記憶が、生成文法論のような構図をもち、自由に意識に浮上しはじめた。

「そういえば応神天皇の時代には、国内の統一を終えて地方からの芸能の献上も活発におこなわれているが、そうしたなかに隼人舞もあったな」

 芸能の献上。それは、地方の歴史を語り継ぐ芸能を天皇に捧げ、祝福することで、それに秘められた呪力を天皇へ付帯させるという、聖なる意味が秘められている。 そのことで、天皇が在来神を従える現人神となりえているのである。

 隼人舞は、「記紀」の兄海幸彦と弟山幸彦の伝承を語り継ぐ舞。

 この舞は、釣針と弓矢を兄弟で交換するところからはじまり、釣針を無くした弟が兄を呪詛し、そのことにより溺れた兄が弟の昼夜の守護人となることを誓って物語に幕が下ろされる。

 数多く献上されたであろう舞のなかで、大和朝廷に、これほど在来神としてあった各地の国魂の制圧を正当づけられる素材はなかったであろう。

 想像すれば、縄文以来の弓矢をあやつる狩猟民族の居住する列島。その土地に対しては、支配を広げる制圧者は新しき者。これを弟的な感覚でとらえれば、先住者のいる古き歴史ある土地に兄的な風土感覚を焼き付けていたことも当然のように思えてくる。

 その弟が呪詛により兄を苦しめ、負かし、守護人に付き従わせる。古き歴史は土地と一体化しているために抹殺はできない。弟の正当性が土地神に受け入れられたという段階からの歴史が構築され、その正当性がさかのぼって、古き歴史に変形が生み出される。

 まさに現人神を頂く大和朝廷の歴史を語るのには、この隼人舞は最良の素材だったはずである。あるいはこの舞には、国内統一を成し遂げた応神期を遙かにさかのぼる前史を、隼人が神との関係で舞にとどめていたということなのであろうか。

 隼人が、殯のさいの守備にあたったことは先に思いだしたが、それに関連して、雄略天皇の陵のかたわらで泣きつづけ、七日後に死んでしまったという隼人の伝えのあることも想い出されてきた。われわれがまさに忠犬ハチ公にいだく、犬の従順さが、そこに感じ取れる。

 犬のような従順さ……

 この舞をもつ隼人の呪力は、彼らの発する犬を模した吠声にあったといわれ、朝廷でのさまざまな儀式に魔を寄せ付けぬ儀礼としてとり入れられている。

 こうして考えてくると、私が吠えつかれた犬に対しても、この集落の人々は、現代人のようになかば友としての関係ではなく、魔に対抗しうる呪力をもつ聖獣として接していたように思えてくる。

 以前に、日本海側に分布する火焔土器を複製したときに気が付いたが、あの土器の口縁部の意匠は、尾を跳ね上げ、足を大地に踏みしめ、火焔のなかで毛を奮い立たせる犬の聖性を描出した姿ではないだろうか、という疑問もこのとき胸のうちで再燃してきた。

 風音が止んだ。

「ん、何か聞こえる。4b 号住居だ」

 ━ ━ ━

 ━ ━ ━

……連なる音が三つ、それがくり返されている。

 しばらく聞き入ると、その構成がおぼろげながらにわかってきた。フィールドノートに書いてみる。もちろん暗くてよくわからないのだが、そのイメージを強く焼き付けると、

 A B

 

 C D

 

 E F

  

 ……

 傍線の部分はどうも動物や何かの声や羽音などの擬似音らしく、一回づつの文節に付加しているところをみると、発した言葉を神聖視する動物の音で浄化しているように思える。

「これはひょっとすると、隼人の吠声と同じに、言葉自体に呪力を働かせて聖化しているのか?」

 現場調査のとき漢字の字形的な成り立ちを調べていてよかったと思うとともに、雷神という字形が呼び起こされた。

 申=象形文字、神=形声文字。

 神の古い形は申。意志を伝え会うことのできる、もの申す言葉に、すべて神の宿りを感得しているとすれば、この構成はまさに原初的な文法としてとらえることができるのではないだろうか。とすれば、それは言霊の宿る文法にほかならないはず。

 母音らしきものを追っていく。

 2 2 1

 1 2 1

そのくり返しで、1は擬音。

 母音の数はともかく、調子がいいので勝手に言葉をはめ込んでみる。

 闇  来る ホー

 ホー 来る ホー

 神  寄る ホー

 ホー 寄る ホー  

「ん!

 apka topa ho   (雌鹿の群れだ ホー

 ho topa ho     ホー 群れだ ホー)

 あれだ、北方民族の歌と同じだ!

 調査者に意味のない言葉として取り扱われている言葉は、民族の永い歴史のなかで、記憶を無くしてしまった精霊たちの擬似的な音素ではないのか。

 野塩前原遺跡の想像世界で、一切姿を見せなかった彼らに、やっとたどり着いたぞ」 

 風が吹き出した。

 高まる気持ちとは裏腹に、風音で彼らの声がかき消された。

「考えるぞ、彼らはそこにいるんだ」

 ゆらぐ炉火のもとで、何が行われているかはわからない。しかしその気配からは、うち沈んだ尋常でない状況だけは察しがつく。

 記憶の抽出はその一点からはじまる。記憶の彼方からはじき出されてきたイマジネーションは、

「観音菩薩のいます補陀洛山

 何なのだろう、自分でも何を求めようとしているのかわからぬまま、しかし考える。

「補陀洛山は、南海の彼方にあるという観音菩薩の住む地だが……

 あっ、まれびとだ!」

 何を考えさせようとしているのか、おおよその見当がついた。それのままに、時代をさかのぼる。

 補陀洛信仰は平安時代から中世まで隆盛した浄土思想を背景にしている。

 海の彼方には観音の浄土があると信じられ、人々は補陀洛山へ往生を願っているが、それは「記紀」に記載された伝説上の田道間守に代表される楽土思想へと古きに連なる。

 この田道間守は、和菓子の開祖として奈良県明日香村の橘寺に祀られているが、垂仁天皇の命により常世国にいたり不老不死の非時香菓()をえて帰国したが、垂仁天皇がすでに亡くなられていたため、橘を山陵に献じ、悲しみにくれくれるままに生涯を終えたという。

 浦島伝説も、この楽土思想のなかで生み出されたものだが、波頭舞う、遠き海の彼方に、当時の人々は富と長寿をもたらす幻の楽土を想い描いていたのである。

 それより古く、田道間守が渡ったという常世国に対しての人々の想いのうちには、そこから現れるまれびとの存在が意識されていた。

 常世国は海を渡る島ばかりではない、それぞれの暮らす風土により、川のつづれ折れる遙か彼方の山中にも存在した。

 海には回遊する魚が見られるように、土地にも咲き誇る草々や富をもたらす五穀が実る。いずれも季節移り変わる列島の風情だが、そこに古代人は穀霊等、さまざまな精霊を見いだしている。

 季節の到来とともに、常世国から往来する神。それがまれびとと言われるものだが。これは遠い時代に封印されたものではない。

 清瀬市野塩地区の江戸時代の検地帳に記された「待田」「かみおくり」。

 それらには、当地の、柳瀬川沿いに開かれた田、そこに現れる実りを求めんがため、人々が神を待ち、そして翌年の実りを約して送り出していた残映が読みとれる。

 ひな祭りの原形も、神と人の仲立ちとしての清き女児が、小高き丘上で草を摘み、実りをもたらす神の招来をうながす儀式にほかならない。

 さらには『常陸国風土記』に記された新嘗(天皇が新穀を神にすすめ共食する祭りの日。現、勤労感謝の日)の夜の記述も、実りを終えた神を家々へ迎える行事が、古代の東国にあったことを物語っている。

 常世、それはそうした神が渡り来る、祝福をもたらす土地という観念を生み出した世界であった。

 ところがそれより古く、この観念は一転する。

 祝福をもたらす常世国は、常夜国へと姿を変えているのである。「妣の国」「根の堅洲国」。

 それは、かつて見てきたホピ族の創造神話のごとくに地底の片隅に存在する国。死後の霊が棲むという観念がつくりだされていた。それはまさに「闇かき昏すおそろしい神の国」である。

 風音の狭間から、ときに高く、ときに低く聞こえくる彼らの唱和。

 彼らは、暗き恐ろしき根の堅洲国へ旅立とうとする者を引きとめ、復活をうながしているのであろうか?

 山越えの風は雲を運び、雪を呼び寄せた。

「寒くはないし、降りそそぐ雪も冷たくはない。どうしてなのだ。この私こそ根の堅洲国から来ているのか」

 風は止んだが、雪が音を消しはじめた。

 考えを推し進めながら、彼らと常夜国の恐ろしさを共有しはじめていただけに、夜の雪の美しさに気持ちがいくぶんか和らいできた。

 こうして行き着いた世界だが、今度はそこへさまざまな記憶が呼び起こされ、結合しはじめた。まず出てきた言葉は、

 中世の武蔵野を調べていたときの、十数年前の記憶から蘇ってきたらしい。

 市=市場いち庭いつく庭

 市の起源は、村に訪れる神を娘がもてなすことにあった。

 中世では、市の開催にあたり山伏や修験者により祭文というものが読み上げられている。取引が不正なくおこなわれること、市の繁盛を願がってのものであるが、それと同時に市が天竺(インド)や唐(中国)に端を発し、大和国三輪(奈良県)をはじめ各地の神社の門前で行われてきた、という歴史も説かれる。

 市における商取引には、契約が生ずる。つまり善悪を見抜くことのできる神の介在が重視されていたのだが、先の実りの後に神を家に招くのも、ある意味で翌年の実りを約す神との契約がそこに潜み、先の祭文のごとくに祝詞といわれる神を祝福する言動がともなう。

 こうした場では、歴史を語ることも重視されている。 それを職としたのが語部

 古くは各地の村々にいた物知りな古老たちにより、それが語り継がれてきていた。つまり、物知りとは「精霊」と話をできる者なのである。

 『出雲国風土記』意宇群安来郷には、この語りを行う者が登場している。

 ここでの語りは深刻を極め、柳田邦男が言うように異常な事態であるからこそ、永く語り継がれ、こうして記録にもとどめられたとみえる。

 物語は、サメに殺された愛する娘の死を悲しむ語臣猪麻呂のこと。ここではしばらく、想い出せるままにそれを追ってみることにする。

 娘の遺体を浜に埋葬した猪麻呂。彼は悲しみ、怒り、天に叫び地に踊り、歩いてはうめき座り込んでは嘆き、昼夜を問わず悩み苦しみ、その場を立ち去ろうとはしなかった。数日が過ぎ、憤る心を奮い起こし、矢を研ぎ鉾を尖らせ、しかるべき所に座り、神に訴えかけた。「天つ神千五百万、地祇千五百万、ならびにこの国に鎮座します三百九十九の神社、また海神たち、大神の穏やかな魂は静まり、荒々しい魂はことごとく、猪麻呂の願う所に依りたまえ。まことに神霊がいらっしゃるなら、私にそのサメを殺させてください。それにより神霊の神たるを知りましょう」

 その後にサメを見つけ出し、討ち果たし、その肉片を串刺しにして道に立てる。

 この最後の描写は、神への捧げものとして受け取られ、狩猟にともなう古くからの習わしとみられるが、この語りを追ってくると、4b 号住居のなかで行われている見えぬ動きが、臨場感をもって私には想像されてくる。それは、

天に叫ぶ A B

地に踊る C D 

歩いて  E F

座り込み G H

ではないのか。

 確かに昼夜を問わず、少なくも私が訪れてから六時間はつづいている。見えぬあの奥の情景。それはある者の仮死の状態を、悩み苦しみ、復活を祈願しているのか!

 雪が舞う、光が漏れる放射状の幅に、厚味をもって激しさを増す雪が刺し落ちる。屋根や地には白さが増してきている……

 白。腐乱した遺骸から見え出す骨骸の白さを連想させるほどに、陰鬱な気持ちに誘われる。つい先年亡くなった父のを思い出す。

 ドライアイスを首下へ入れるさい、手伝った私の手と耳にのこった硬直した頸椎の、鈍い折れ音と感触。この生々しい父との最後の記憶は、その優しさとともに忘れることはできない。

 その父から連なる母、祖母。私の内にある死は、多くのかけがえのない代償を残し、累積していく。しかし、外にある死も、日々、ニュースや新聞から入ってくる自然死、病死、事故死、テロ、戦争。

 私がここで今更ながらに驚かされたのは、個人のいだく内なる死の観念と外なる死の観念が、氾濫する後者の情報のなかで次第にかけ離れ、再び合一化したときには死それ自体への感覚が、趣というほどのことにしか思えないほどに鈍化してしまう恐怖。

 しかし、眼の前に展開する死のあり方は、確実性をもって違う。死の一つひとつが、いかに重いものであるかを、彼らの社会全体で受け止めているに違いない。内なるものと外なる死の観念が、その根源的な深淵性をもって合一している状態。

 今、私の視線の彼方にあるであろう死は、すべての精霊と神との関係において、彼らに等質にもたらされている。そこでは、悲しみは個人のものではないはず。

 白のなかへ極まる意識のなかで、その反作用であろうか、恋歌が浮かび上がってきた。それは『万葉集』旧国歌大観番号七六三、紀女郎が大伴宿禰家持に贈った歌からである。

玉の緒を沫緒に搓りて結べらば ありて後にも逢はずあらめやも

 雪降る闇の中に、時は緩やかにある。見える範囲にまだ何も動きがないのだから、それを考えてみることにした。

 以前『万葉集』のなかから古代的なイメージを探ろうと、久松潜一氏の『万葉秀歌』(講談社学術文庫)にのる秀歌を読みながら、その抽出を行っていた。だいたいは、早朝の寝床のなかでそれを楽しんでいたのだが、この歌に入ったとき、なぜか離れられなくなってしまった。

 歌意は、氏によると

 玉の緒をきつく結ばないで、ゆるくよって結んでおくように、二人の関係も、きちっとしないでゆるやかにしておけば、ときがたって逢われないことがありましょうか、また逢われる機会もあるでしょう。

 玉の緒は、玉飾りを通した糸。糸は二本以上の互いの繊維を撚り合わせてできるが、その両端を結ぶことはウロボロス的な円環を生み出すことである。

 結ぶことは「結」として、人々の強い絆をあらわし、古来から大切にされてきた観念である。

 それは古代には直弧文といわれる特殊図形として古墳の石障にあらわされてもいるが、アイヌ民族においてもこの結ぶ・結ばれるという観念が重視されており、組紐文様として祭具等に幅広く用いられている。

 この歌を想い出させたのは、そうした結び合う人々の関係が、眼前の雪に包み込まれた家に存在していることを知らしめようとしているように思えてきた。

 縄文の意識を求めていた当時の私は、その世界の視点から、久松潜一氏のいだかれていた疑問に、同じように直面していた。

 それは「沫緒」の解釈である。

 氏は江戸中期の国学者賀茂真淵が解した、沫=淡とする、ゆるやかな糸の関係とする解釈を疑問視し、旧国歌大観番号五一六の、

吾が持てる三つあひに搓れる糸もちて つけてましもの今ぞ悔しき

から、三つあひ=三本撚りの、切れない強い糸と解する方が意味が通るとされているが、国文学の素養がない私も、直感的にそう思った。

 当初の解釈では、糸という呪力をもつ素材を歌人が想起しながら、意味が短絡的な描写に滞ってしまうと感じたからである。

 意識、いやこの場合は無意識だ、すかさず自問自答の世界で言い換えて、無意識に急浮上したのは、

「エカエカ」

 それはアイヌの男が作るイナウ(幣のように神に祈るときに供えるもの)の代わりに、経験を積んだ婦人が作ると言われる白と黒を双子撚りした糸。玉の緒として使われ、腕にも巻かれる魔除けの呪具である。

 『アイヌ民族誌』(第一法規)の記述を想い出す。

  夜に悪夢におそわれて、災厄の予感がある時は、信頼の厚い古老に頼んで、エカエカを使って悪魔払いをする(旭川アイヌ)。悪夢を見た当人は端座して静かに眼を閉じる。老婆はまずエカエカの一端に火をつけ、吹き消して煙を立たせ、おはらいをする者の前後左右を振り回し、同時に口にペヌップ(いけまの根茎)を噛んで吹きかけ、頭、肩が下身に向かって、フッサ、フッサと連呼しながら軽く撫ぜ下ろす。エカエカの火はその間に消えるから、その両端を結んで輪にし、呪われる者の首にかける。これで悪魔払いは終わる。首のエカエカは自然に切れ落ちるまでそのままにしておく。

 楢の古木の枝越しに見据える4b 号住居。その、内なる西手には、横たわる仮死の首に、エカエカのような呪力をもつ緒がかけられているのであろうか。

 この想像の世界では、共時性が優先され、呼び出される記憶事項の時代が、一瞬のうちに変わることをくり返している。

 次に知恵の泉から湧きあがってきたものは、平安時代中期の『枕草子』。どうやらまた沫緒の解釈に戻るらしい。

 ほとんど、自制がきかなくなってきている。この状態は少々異常だ。神経伝達物質ドーパミンが過剰になってきているらしく、このまま行けば幻覚症状へ突入していくかも知れない。

薄氷あわに結べる紐なれば かざす日影にゆるぶばかりぞ

 たてつづけに『万葉集』五一五

ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと 為むすべ知らに音のみしぞ泣く

 後者は、相手と結び交わした紐が解け、契りの絶えることを予見し、嘆いているところをみると、紐の解かれることは約束が破談になること。

 最初の歌の、沫を淡として大きな泡の連鎖するような緒では、初手から直接愛し合う関係を破談にされているようなもの。それを言われた相手も納得はしなかろう。とすれば、前者の歌こそが最も平易な解釈を生む。

 薄氷にとじこめられたあわ。その小さな粒が連鎖して結んだ紐のように見える氷紋であるから、そこに織りなす日と影で紐に見立てた氷紋がゆるやかに溶け出していく、という情景であろう。

 再び最初の歌に戻ると、

 (贈られた首飾りであろうか)玉の緒を、氷の中の泡の白糸のように結べれば、二人の関係もかたい契りのままに包み置かれ、ときをへても逢われないことがありましょうか、また逢われる機会もあるでしょう。

 意味は、胸のうちの想いのほどに膨らみ、恋の揺れ動く様が、季節の移ろいに映し出されてくる。

 これが、縄文という古層から追ってきた解釈である。

門外漢の私だが、この一首にかんしては賀茂真淵と話がしたい気持ちの起きたことを思い出した。

 『万葉集』に集積されている、この自由な男女の恋愛歌が一時に現れたわけではない。

 先に見てきた「市」立つところは、また歌垣の場でもあった。

 男女が歌をかけ合い、互いに競い合い、女子が負ければ相手の意志に添わなければならないのだが、この歌垣では詩に定型化が起きていたことが考えられている。

 万葉の多彩な歌は、そのなかから、型に固執しない才覚にすぐれた者が現れ、即興詩人として文芸の意識を先導してきたなかで生みだされてきたものとされている。

 では、歌は男女の戯れ歌が起源か、というと祖形は男女ではなく、神と精霊とのかけあいにある。

 常世でみてきた、海波を越えた島、あるいは川上の遙か山の彼方から祝福をもたらす異郷の神。それは、土地にいます精霊に入り込む存在でもあった。精霊を担う巫女は、このかけあいの場で、負けなければならぬ宿命を帯びている。男女の間でも、どこかで負け、一方が従わなければ子は生まれないのであるから。

 そうしてみると沫緒の歌は、まさに自由な自立した女性の歌ということになる。

 では、その古層をなす、先の神と精霊とのかけあいのあり方を探っていくことにする。

 万葉集では、「言霊の幸はふ国」という表現が多い中で、その反対の言い方をしているものがある。遣唐使を送るために読んだ柿本人麻呂の歌(『万葉集』三二五三)にある「言挙げせぬ国」という表し方。

 このことは、祈りを捧げ何かを願う、神はそれを聞き届け実現してくれるが、その一方で神意による恐ろしきことも、また起こりうるという表裏一体となった観念のあったことを物語っている。

 アイヌが普段からイナウを神に捧げ、神をうやまっている姿は、そうした認識に類するものと考えられ、神の祝福を怠れば、たちまちに神意は豹変し、凶事をもたらす恐ろしきものと化す。安易な気持ちで言挙げすることなど、危険極まりないことなのである。

 ここで、意識が強く働きかけてきたのは、多様な文様を描きつづけている縄文の土器の存在である。

 土器の文様を、こうした言葉と同次元においたとするなら、それは神への捧げものとしての性格を想定し、そうした認識がいかなるものか理解しなければならない。

 そう考えてくると、土器の文様には、捧げる意味と同時に、某かの起源を語る表記も含まれているのかも知れない。地下から湧き出る水、天から降りそそぐ水、火、風、雷、木、人………

「あっ! 鎖連歌だ。

 勝坂後半期の型式は、同一の文様がみられないほどに複雑さを秘めている。あの状況は次々に掛け合いながら何かを創出している状態なのでは!

 突如睡魔が襲う。

「ん、4b の入口が開け放たれた。彼らが出てくる……

 雪は止み、桃の実の赤さを秘めながら白みはじめた空。この世界にとどまるとはできなかった。

 ついに、肉体的な疲れと、それに反する極度の緊張という異常な状態のなかで、ドーパミンが過剰限界を突き進み、睡魔のなかで上半身がトゥレット症候群的な前駆運動をはじめた。

 私はいつものように闇の残るうちに目覚めた。なにやら、充実した気分。こうしたときは、きっと思い悩む現実を中和するために、夢の力が働いていたに違いない。



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 このつづきは土器文様の解読へと進みますが、図を用いた詳細な説明が必要となるため、pdfによる配信となります。
   掘り出された聖文』W巻
   文様解読1〜3へ
 

   執筆・編集
       清瀬市郷土博物館
        学芸員 内田祐治

 制作    2005年3月
 
 歴史読本
【幕末編】
多摩の江戸時代の名主が書き残した「日記」や
「御用留」を再構成し、小説の手法をもって時代
を生きた衆情を描き出した読本。
 
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