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古民家調査報告 1-1 (旧森田増治氏宅)
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 森田増治家主屋解体調査報告(1)


位置




調査時現況  
 
昭和初期の景観表示ボタン
調査構成
 場 所  東京都清瀬市野塩一丁目

 所有者  森田増治
 調査期間 1984年10月31日~12月28日
 指 導  稲葉和也 片桐正夫
 調査者  鈴木 清 大坂暁子 石井栄一 小谷百合子 朝倉一晃  小泉一郎 東山孝司 米畑勝行 
 執 筆  稲葉和也
 編 集  内田祐治
 

1. 野塩村の概略
・地形と歴史
 野塩村は市域の西端にあり、東村山市、所沢市に接している。西は柳瀬川の急崖で、それを下がって水田を擁し、用水をこの柳瀬川にもとめている。上・中・下清戸に比較して、真土黒土が多く、小字にも上真土、真土などの地名を残している。江戸時代は旗本向坂氏の知行村であったが、後、代官の支配となる。村持添の新田内に野火止の松平右京亮領飛地があり、現在も「お(う)きょうさま」の呼名を残している。また野塩新田は享保19年に検地を受けた。化政期の戸数は45軒である。

・円福寺、薬師堂と福泉寺
 森田家の現在の菩提寺は円福寺。
 屋敷前方に広がる畑地の東側を通る道をはさんだ場所(現在は空地である)が、かつての当家の墓所であった。当家7代佐左衛門までこの場所に墓があったが、8代弥左衛門からは円福寺へ移った。この墓所のすぐ東側(現在カシの木がある)にかつては福泉寺という寺があったといわれる。
 円福寺は一度火災にあっているので、古い記録がないが、江戸時代前期に陽岳春和を開山として草創された曹洞宗の寺院であり、新編武蔵風土記稿に「検地七反是も村、中央ニアリ大醫山と号ス。禅宗曹洞派ニテ同郡門前村浄牧院の末、本堂九間半ニ六間、南向、本尊釈迦ノ座像、長一尺許ナルヲ安ス。運慶ノ作と云。開山ヲ陽岳宗春と云。寛永十一年十月二十八日示寂ス開基詳ナラズ」とあり、寛永11年(1634)以前の草創とされている。
 円福寺に隣接する薬師堂の本尊は薬師如来であり、また堂内の十二神将について記録によると、鎌倉時代中期の正嘉三年(1259)に覚諄という僧が再興し、その造立は平安後期の仏師定朝の作ということになっていることから、これらが室町時代を下らないものであり、円福寺以前にあったとされる福泉寺と薬師堂が一体であったと思われる。(一部清瀬市史より引用)
 また、野塩には、八幡神社が円福寺の南、西武鉄道沿線の北側脇にある。円福寺の別当寺であり、江戸時代宝永年間(1704~1710)勧請と伝えられている。

 

2.森田家の歴史と生活
・家歴

 1代 甚右衛門  元和 7年(1621)  7月21日没   
 2代 甚左衛門 寛文元年(1661) 9月27日没   
 3代 五右衛門  正徳元年(1711)  7月27日没   
 4代 興右衛門  宝暦 4年(1754)  9月14日没   
 5代 与衛門  寛政10年(1798)  5月14日没   
 6代 五右衛門  文政11年(1828)  10月14日没   
 7代 佐左衛門  文久 4年(1864)  5月21日没  組頭 
 8代 弥左衛門  明治 9年(1876)  4月 5日没  名主  81歳没 
 9代 増五郎  明治13年(1938)  11月14日没     81歳没 
 10代 佐次郎  昭和24年(1948)  3月25日没     70歳没 


 現在の当主増治氏で11代目にあたる。屋号「上(かさ)の家」。7代佐左衛門までこの名で呼ばれていた。その後は「弥左衛門」「野塩の弥左衛門さん」と云われている。
 「上の家」という名は、柳瀬川の流れる方向からきており、かつては当地より西側には家はなく、そのために「上の家」と名前がついたのだろうと増治氏は言われる。


・屋敷構え等

 柳瀬川の急崖上に屋敷を構える。屋敷南側に出入り口があり、道路に面してはヒイラギ、サンゴジュ等の生垣となり、また屋敷境にはケヤキ、カシ等の大木が生い繁っている。
 入口右手にプレハブの物置、その奥に旧物置(現在は一時住まいとして使用している)、左手に味噌蔵の土蔵、物置と車庫が建つ。
 さらに屋敷奥に入った場所に、主屋が南向きに建つ。主屋のやや南東に外便所、西南に表土蔵、背後の北西に裏土蔵、さらに北側に木小屋が位置する。
 さらに北側は杉林となり、斜面を覆っている。
 屋敷南側には畑地が広がり、農村景観がよく残されている。
 田圃はハケ下に広くあったが、現在は住宅地に変わっている。
 明治42年、柳瀬川の大水でハケ下にあった田圃が埋まってしまったという。かつて20町歩程はあった。昭和37~39年頃、野塩団地がつくられるまでは水田を行っていた。この様子は古写真に残されている。
 「谷田(やつだ)」といって深田。湧水が処々から出ており、湧口には、わいた水を集めて一時溜めておく「カマ」という場所があった。
 湧水は直接田に引くのでは冷たすぎるため、一時溜めて、水温を上げるために、水路を迂回させている場所もあった。
 この「カマ」とは目的がちがうと思われるが、東村山市や東久留米市(清瀬市では未確認)では、水が乏しいために溜井をつくっており、それを「まいまい井戸」「まいまいずの井戸」「七曲がり井戸」などと呼んでいたという。(東村山市史・東久留米市史より)
 かつては、西側に通る坂道の橋の辺りに水神があり、弁天様が祀られていた。湧水を溜めてある池で、中に島が2ヶあり、弁天様の碑があった。そこから水を汲み上げ、家にも引いていたという。
 主屋の北側に水ガメが置かれていたが、かつては水を引き使われていた。
 弁天様は現在しないが、屋敷北側の裏土蔵の脇に御幣が立てられており、その方向にかつては水神があったということを示している。
 田は粘土質。真土(荒木田)であったといわれる。
 井戸は深く15尺程度、水質は良い。
 現在北側斜面にある杉林は増治氏が植えたものであるが、その辺りには「テンジョウ塚」と呼ばれる、少し地面の盛りあがっている場所が7ヶ所くらいあったといわれる。この呼び名は山伏のテンジョウサブロウからきているのではないかと、増治氏は言われる。

・生活
 北側土蔵…〈セドグラ〉 「嘉永3年(1851)8月7日造作出来仕候」
 南側土蔵…明治20年頃に建てられたといわれる。 「定吉大工」
 ホイロ場…およそ4×2.5間 寄棟・藁屋根昭和28・9年に取り壊し。
 旧2階屋…〈隠居場〉2×2~2.5間。1階には松葉を入れておいた(クズ小屋)。2階蚕のヤトイ、棚をつくった。
 ソダ小屋
(木小屋)…4×2間。杉林の中にあった。木の枝などを束にして入れておく。
 シ モ ヤ…外便所のところにあり、肥桶(コイオケ)手グルマなども置いてあった。
 

   



 

3.森田増治家主屋解体調査
建築概要

構造形式  桁行…9.5間、梁間…5間、寄棟…茅葺き、折置組…叉首(さす)構造
 〈基礎〉  玉石の上に柱を立てた石場立。一部玉石の上に土台を廻らして、柱を立てる。玉石は25~50cmほどの大きさで、柱を受ける面は比較的扁平である。
 〈柱〉  礎石面に合わせて下端を削り(ヒカル)、桁、梁にホゾ差しとしている。
 ザシキまわりには薬125cm各、西縁まわりに116~118cm角のものが使われている。
 ナンド部分や、北側カッテまわり部分には整形のものでなく面皮がついている野ものに近い状態のものもみられる。
 大黒柱はやや長方形で、218×240cm、206×195cmの太さ、10mmの面取りをつけている。チョウナの刃跡はみられない。
 ザシキ境には、2本の小平の柱があり、135×165mm、136×166mmの太さで梁間方向に長く、面がとられている。両方ともケヤキ材で、チョウナの刃跡はみられない。
 大黒柱と対応する土間柱も、やはり162×188mmと梁間方向に長く、この柱にはチョウナの平刃跡がみられる。曲がり材を柱にしたもので面皮部分が残り、ザシキまわりに使われている柱の仕上げとは差異がみられる。
 北側の側柱は105mm各程のもので、新しい。
 〈床組  北側の側柱は105mm各程のもので、新しい。側柱まわり、大黒柱通り、北側ぬ通り、ザシキ境の十六通り、には地貫が入る。又十三通り、二十通りの柱筋には大引が入り、柱にホゾ差しとなるが、ザシキと奥ザシキのイロリ跡にかかる部分では、大引を切断して端部を束で受けている。
 地貫の太さは、縦×横が90×25mm、120×25mm、110×21mm程度の長方形の断面をもつ材であるが、ザシキの縁境ろ通り、奥ザシキの西縁境ろ~は通りに入る地貫は、丸太をタイコ落トシにしたものを、さらに半割りにした材(断面形D)あるいは、両端の断面形状の違うもの(□-D)が使われている。これは、後に述べることとするが、後補材と思われるものである。
 土台は、南縁がまわる部分を除く側柱筋、旧機場の柱まわり、風呂場北側、ドマと風呂場を仕切る板壁部分に入る。西側は、縁東の立つ通りに入る。 
旧番付  旧番付は柱のホゾ、柱根元から、図に示したものが発見された。
 礎石に番付のあるものもあったが、判読は困難であった。
 柱旧番付は南側柱より、1間おきに「い・ろ・は…」が打たれ大黒柱通りよりザシキ部分の柱筋に、「八・十・十二・十三」が打たれていた。

 以上の痕跡により、当初の間取りを復元すると、規模は桁行き7.5間、梁間4間、ドマ境には1間毎に3本の構造柱(大黒柱)が入る。
 部屋部分には、ヒロマと呼ばれる板敷きの部屋があり、その奥にデイとナンドが配されるヒロマ型となる。
 ヒロマには、4.5尺巾の押板、イロリ、二段戸棚、棚が設けられる。
 ヒロマ、デイ境には柱が立ち、板戸が建て込まれる。
 デイは、西側に3尺毎に柱が入り壁となり、間口部は南側のみとなる。
 デイとナンドの間仕切りは、入側柱より2間半、もしくは3間目であったと思われる。
 ナンドは、北側、西側、ともに3尺毎に柱が立ち、土壁で閉鎖されていた。ナンドがこのように閉鎖的な空間であることから、デイ境は、おそらく壁であったと思われる。ナンドへはヒロマからのみ、出入りできたと思われる。
 ドマは間口3間で入口に大戸が入り、入口両脇の壁は土壁となる。東側も柱、壁で仕切られるが、下屋へ通じる開口部があった。
 ドマ内、北寄りの壁際にはヘッツイ、大釜、ドマイロリが設けられ、張り出し部分はなかったと思われる。
 大黒柱通りのへ~ち間には縦115×横170mmの敷居材を転用したものが、框(かまち)として入り根太を受けている。この部分にはイロリが設けられており、根太も切断されるなど、手が入れられている。
 根太は、1.5尺おきに丸太の半割に近い状態の部材が入る。ホゾをつけていながらそのまま貫に乗せてあるものがある。末口は径50~90mm、元口は径90~135mm程のものである。杉材が用いられている。
 大黒柱脇の根太上面には、1090mmの長さで欠け込みが入り、旧イロリ跡と思われる。 
軸部  壁は竹小舞を下地として荒木田土を塗った土壁となる。入口脇の外壁には、内法高に、板を竪羽目にし巾70mmの押縁を施してある。両妻側の北寄り部分及び北側には、土壁の上に板を横に渡して重ね上げていく南京下見板張りとしている。
 小舞の太さや結わえる縄の太さ等も、場所によって異なっている。
 間口部にはオビ戸、格子戸、障子戸等、古いものが建て込まれている。北側の出入り口(背戸)や窓にはガラス戸が建て込まれているが、これらの新しい建具は増築や改造を施した部分に見られる。 
 南側出入口(トンボ口)には引き違いの障子板戸が建て込まれているが、内側に大戸が残されている。また、背戸口にもガラス戸と併用して大戸が入れられている。 
 フスマは奥ザシキとヘヤ(ナンド)境のみに入る。
 ザシキ、奥ザシキの南側開口部上部には引違い障子戸の入る欄間が設けられている。
各室
 ザシキ  …十畳の畳敷き(ヘリなし)。天井は棹縁天井。
 奥ザシキ  …十畳の広さでヘリのついた畳敷き。天井は棹縁天井。
 ナンド(ヘヤ)  …九.五畳の広さで畳敷き。天井、壁ともベニヤ板を貼ってある。
 カツテ  …十畳の広さで天井は棹縁天井。天井板はベニヤ板を使用。ヘリなし畳敷き。
 三畳間  …畳敷き。天井、壁ともにベニヤ板貼りつけ。
 ダイドコロ  …張り出し部分は一部板貼りを残し、畳三畳を敷いてある。
 旧機場  …八畳の広さで板敷き。天井は梁を現した根太天井。
 風呂場  …三畳の広さで土間コンクリート打ち。
   …巾80mmの縁板を長手方向に貼り、天井を貼っている。
 その他  …旧機場と風呂場上部は、厨子二階が設けられ、小屋裏へ通じる。
ドマ上部  …竹スノコが桁方向全面に貼られており、さらに居室部分の上部、つまり小屋裏全体に貼られている。
 
小屋組  叉首(さす)構造、折置組の形式をとる。
 入側柱に梁を渡し、その上に桁(地廻り)をまわす。梁間は4間。その入側柱から半間内側へ入った梁上に束を立て、3間の長さの陸梁を渡す。この陸梁の両端に母屋(もや)を渡し、叉首(合掌)を立てる、四方下屋造りとなる。
 この小屋組方法が当家の場合の基本的な組み方となっている。陸梁と叉首で組まれた三角形の構造の下に曲がり梁がきて屋根の荷重を柱に伝える。この場合、梁に比べ、陸梁は、ほぼ直線的な材でできている。
 大黒柱通りでは、入側柱から1間の長さのつなぎ梁を入れ、その中央にあたる入側柱から半間の位置に束を立て、陸梁を渡している。大黒柱でこの陸梁を支える形である。(復元考察で述べるが、当家の大黒柱は3本並んでいたため、陸梁は3本の大黒柱で受けていた)
 梁間方向におけるつなぎ梁の役割を担う材が、ドマ上部と西側奥ザシキ、ナンド上部に入れられている4本の隅梁である。入側柱から半間内側に入った、隅梁上部に束を立て陸梁を受けることで、母屋が4方向に渡り、叉首が立つ、四方下屋造りとなる。
 小屋裏には、貫、束等は何もなく、構造的には簡明な方法である。
 陸梁から下部の構造は、柱筋によってそれぞれ異なるが、陸梁、母屋、叉首で組まれている上部の小屋組は一定している。   
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 間取り   基礎石伏   土台伏   根太大引   床 伏   天井伏   梁 伏   梁二層目 
 


 

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 南側立面   東側立面   北側立面   西側立面   棟行断面   土間境断面 

 

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 土間断面   勝手壁面   座敷壁面   奥座敷壁面   納戸壁面   三畳間壁面 

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