構造形式 |
桁行…9.5間、梁間…5間、寄棟…茅葺き、折置組…叉首(さす)構造 |
〈基礎〉 |
玉石の上に柱を立てた石場立。一部玉石の上に土台を廻らして、柱を立てる。玉石は25~50cmほどの大きさで、柱を受ける面は比較的扁平である。 |
〈柱〉 |
礎石面に合わせて下端を削り(ヒカル)、桁、梁にホゾ差しとしている。
ザシキまわりには薬125cm各、西縁まわりに116~118cm角のものが使われている。
ナンド部分や、北側カッテまわり部分には整形のものでなく面皮がついている野ものに近い状態のものもみられる。
大黒柱はやや長方形で、218×240cm、206×195cmの太さ、10mmの面取りをつけている。チョウナの刃跡はみられない。
ザシキ境には、2本の小平の柱があり、135×165mm、136×166mmの太さで梁間方向に長く、面がとられている。両方ともケヤキ材で、チョウナの刃跡はみられない。
大黒柱と対応する土間柱も、やはり162×188mmと梁間方向に長く、この柱にはチョウナの平刃跡がみられる。曲がり材を柱にしたもので面皮部分が残り、ザシキまわりに使われている柱の仕上げとは差異がみられる。
北側の側柱は105mm各程のもので、新しい。 |
〈床組〉 |
北側の側柱は105mm各程のもので、新しい。側柱まわり、大黒柱通り、北側ぬ通り、ザシキ境の十六通り、には地貫が入る。又十三通り、二十通りの柱筋には大引が入り、柱にホゾ差しとなるが、ザシキと奥ザシキのイロリ跡にかかる部分では、大引を切断して端部を束で受けている。
地貫の太さは、縦×横が90×25mm、120×25mm、110×21mm程度の長方形の断面をもつ材であるが、ザシキの縁境ろ通り、奥ザシキの西縁境ろ~は通りに入る地貫は、丸太をタイコ落トシにしたものを、さらに半割りにした材(断面形D)あるいは、両端の断面形状の違うもの(□-D)が使われている。これは、後に述べることとするが、後補材と思われるものである。
土台は、南縁がまわる部分を除く側柱筋、旧機場の柱まわり、風呂場北側、ドマと風呂場を仕切る板壁部分に入る。西側は、縁東の立つ通りに入る。 |
〈旧番付〉 |
旧番付は柱のホゾ、柱根元から、図に示したものが発見された。
礎石に番付のあるものもあったが、判読は困難であった。
柱旧番付は南側柱より、1間おきに「い・ろ・は…」が打たれ大黒柱通りよりザシキ部分の柱筋に、「八・十・十二・十三」が打たれていた。
以上の痕跡により、当初の間取りを復元すると、規模は桁行き7.5間、梁間4間、ドマ境には1間毎に3本の構造柱(大黒柱)が入る。
部屋部分には、ヒロマと呼ばれる板敷きの部屋があり、その奥にデイとナンドが配されるヒロマ型となる。
ヒロマには、4.5尺巾の押板、イロリ、二段戸棚、棚が設けられる。
ヒロマ、デイ境には柱が立ち、板戸が建て込まれる。
デイは、西側に3尺毎に柱が入り壁となり、間口部は南側のみとなる。
デイとナンドの間仕切りは、入側柱より2間半、もしくは3間目であったと思われる。
ナンドは、北側、西側、ともに3尺毎に柱が立ち、土壁で閉鎖されていた。ナンドがこのように閉鎖的な空間であることから、デイ境は、おそらく壁であったと思われる。ナンドへはヒロマからのみ、出入りできたと思われる。
ドマは間口3間で入口に大戸が入り、入口両脇の壁は土壁となる。東側も柱、壁で仕切られるが、下屋へ通じる開口部があった。
ドマ内、北寄りの壁際にはヘッツイ、大釜、ドマイロリが設けられ、張り出し部分はなかったと思われる。
大黒柱通りのへ~ち間には縦115×横170mmの敷居材を転用したものが、框(かまち)として入り根太を受けている。この部分にはイロリが設けられており、根太も切断されるなど、手が入れられている。
根太は、1.5尺おきに丸太の半割に近い状態の部材が入る。ホゾをつけていながらそのまま貫に乗せてあるものがある。末口は径50~90mm、元口は径90~135mm程のものである。杉材が用いられている。
大黒柱脇の根太上面には、1090mmの長さで欠け込みが入り、旧イロリ跡と思われる。 |
〈軸部〉 |
壁は竹小舞を下地として荒木田土を塗った土壁となる。入口脇の外壁には、内法高に、板を竪羽目にし巾70mmの押縁を施してある。両妻側の北寄り部分及び北側には、土壁の上に板を横に渡して重ね上げていく南京下見板張りとしている。
小舞の太さや結わえる縄の太さ等も、場所によって異なっている。
間口部にはオビ戸、格子戸、障子戸等、古いものが建て込まれている。北側の出入り口(背戸)や窓にはガラス戸が建て込まれているが、これらの新しい建具は増築や改造を施した部分に見られる。
南側出入口(トンボ口)には引き違いの障子板戸が建て込まれているが、内側に大戸が残されている。また、背戸口にもガラス戸と併用して大戸が入れられている。
フスマは奥ザシキとヘヤ(ナンド)境のみに入る。
ザシキ、奥ザシキの南側開口部上部には引違い障子戸の入る欄間が設けられている。
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〈各室〉 |
ザシキ |
…十畳の畳敷き(ヘリなし)。天井は棹縁天井。 |
奥ザシキ |
…十畳の広さでヘリのついた畳敷き。天井は棹縁天井。 |
ナンド(ヘヤ) |
…九.五畳の広さで畳敷き。天井、壁ともベニヤ板を貼ってある。 |
カツテ |
…十畳の広さで天井は棹縁天井。天井板はベニヤ板を使用。ヘリなし畳敷き。 |
三畳間 |
…畳敷き。天井、壁ともにベニヤ板貼りつけ。 |
ダイドコロ |
…張り出し部分は一部板貼りを残し、畳三畳を敷いてある。 |
旧機場 |
…八畳の広さで板敷き。天井は梁を現した根太天井。 |
風呂場 |
…三畳の広さで土間コンクリート打ち。
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縁 |
…巾80mmの縁板を長手方向に貼り、天井を貼っている。 |
その他 |
…旧機場と風呂場上部は、厨子二階が設けられ、小屋裏へ通じる。 |
ドマ上部 |
…竹スノコが桁方向全面に貼られており、さらに居室部分の上部、つまり小屋裏全体に貼られている。 |
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〈小屋組〉 |
叉首(さす)構造、折置組の形式をとる。
入側柱に梁を渡し、その上に桁(地廻り)をまわす。梁間は4間。その入側柱から半間内側へ入った梁上に束を立て、3間の長さの陸梁を渡す。この陸梁の両端に母屋(もや)を渡し、叉首(合掌)を立てる、四方下屋造りとなる。
この小屋組方法が当家の場合の基本的な組み方となっている。陸梁と叉首で組まれた三角形の構造の下に曲がり梁がきて屋根の荷重を柱に伝える。この場合、梁に比べ、陸梁は、ほぼ直線的な材でできている。
大黒柱通りでは、入側柱から1間の長さのつなぎ梁を入れ、その中央にあたる入側柱から半間の位置に束を立て、陸梁を渡している。大黒柱でこの陸梁を支える形である。(復元考察で述べるが、当家の大黒柱は3本並んでいたため、陸梁は3本の大黒柱で受けていた)
梁間方向におけるつなぎ梁の役割を担う材が、ドマ上部と西側奥ザシキ、ナンド上部に入れられている4本の隅梁である。入側柱から半間内側に入った、隅梁上部に束を立て陸梁を受けることで、母屋が4方向に渡り、叉首が立つ、四方下屋造りとなる。
小屋裏には、貫、束等は何もなく、構造的には簡明な方法である。
陸梁から下部の構造は、柱筋によってそれぞれ異なるが、陸梁、母屋、叉首で組まれている上部の小屋組は一定している。
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