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古民家調査報告 1-2 (旧森田増治氏宅)

 森田増治家主屋解体調査報告(2)
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・復元考察、建築年代考察
【各部痕跡】
1.土間、座敷境  現状では入側柱と大黒柱間は2間の開口部であるが、サシモノ上部に立つ束と、床下に残る束により、これは一本の柱を切断したものであることがわかった。床下に残る束は床板面で切断されたもので、その上のに敷居が渡されていた。この束には旧框跡思われる圧痕がついている。旧框を取りはずし、新しく貫を入れたものである。貫は芯には通っておらず、内側に寄った部分であった。この束には根太がホゾ差しで入り、この柱筋に入る根太にもすべてホゾがついているが、現在は貫に乗せている状態である。これはやはり、旧框に根太がホゾ差しであったが、框を取りはずして貫を新しく入れたためにホゾが自由になっている。また、このことにより、根太はこの柱がまだ切断されないで立っている頃のものであることがわかる。
 大黒柱「へ五」から「ち五」にかけての1間の柱間には建具の二本溝が入る部材(横115×縦170mm)と95mm角の面取りを施してある部材を継ぎ合わせたものを転用し、ドマ側の表に出る面に当て板をしている。すぐ際には、イロリの跡が残されている。畳が敷かれない頃に使用されていたものであろう。根太は、残っているイロリの大きさに合わせて入れられているが、その後に一時、イロリを小さく仕切って使っていた時期があるらしく、イロリの上に根太を置き狭くしている。この時に、転用の框が入れられた。
 また、この炉跡には直接関係はないが、すぐ脇の根太に長さ1090mmの欠込みがある。これは、現在残る炉の以前の炉縁跡と思われる。大黒柱通りから680mm離れた位置であり、ザシキ、カッテ境がなく、ヒロマであった頃の炉跡であろう。
 「ち十一」から「ぬ五」に入る框は、両側の柱にホゾ差しであり、部材も古く当初材とみられる。この2ヶ所の柱間に入っている敷居は、床板の上に渡されたものであり、また鴨居も框の下面に取りつけられた部材であることから、当初この部分には建具は入らず、開け放しであった。
 「ぬ十一」柱南面の敷居上465mmには縦27×横65mmの穴が残る。

2.カッテとザシキ境

 現状では2間半の開口部である。サシガモイは成(せい)が545mmであり、かなり太い。 鴨居は待ちホゾで大黒柱に止められている。

3.ザシキ南縁境
 「ろ十一」~「ろ十三」
 「ろ十三」~「ろ十六」
 
 「ろ十一」柱西面には2段のやや縦長の平行四辺形の埋木と、その間に3段に2ヶずつの痕跡がみられる。これに対応する痕跡は「ろ十三」柱にはみられない。この柱は、当初材と思われるため、対応する柱が取り払われたと思われる。これは、武者格子を中程に2段入れ、横組子を2本ずつ入れた「狭間」ではないかと思われる。
 この柱面は風蝕がみられ、埋木自体も同様に風蝕しているため、かなり初期の段階での痕跡と思われる。
 「ろ十六」東面、敷居上500mmの高さに、組子の跡のような痕跡がみられる。柱面に浅く入り込んだもので、柱が風蝕されているため、わかりにくい状態である。何の痕跡であるのかは、対応する痕跡がないために不明である。
 この柱通りは、7尺5寸間に柱が立つが、痕跡が合致しないため、改造されていることも考えられる。この部分が改造されていると思われる点に、地貫がある。ここに使われている材には、貫や小舞と思われる痕跡のある部材を割って使用したもので、明らかに転用材である。ホゾを作って柱に入れてあるが、その仕口面には、貫に欠込みをして入れてあるなど、当初からのものではない。しかしながら、柱を取り除いたという痕跡はみあたらない。
 内法上部には欄間が設けられているが、柱面に貫小舞跡がみられ、欄間は当初からではなく土壁であったことがわかる。
 「ろ十六」~「へ十六」ザシキ、デイ境中央には、床面に柱を切断した跡があり、床下に束として残っている。サシガモイ上部の束もその下面がサシガモイに合っていなく、束として考えるには、径が太い。当初は柱であり、それが切断されて残されたのである。当初この部分は1間おきに柱が立っていた。

4.カッテ、ヘヤ境
 
 
 「ち十六」柱東面には、床面より310mmの位置に横145×縦115mmの埋木がされている。これは框跡とみられる。また、この柱と対応する東側4尺5寸程(芯々)の位置に、床板面に柱を切断した跡が残されていた。この場所にはこの残された束に接してコタツの炉が床下に残されていた。この束は150mm角の太さで、礎石の上に乗ったままの状態である。「ち十六」柱の痕跡と、この柱の残存により、押板が設けられていたことが推定される。 「へ十六」「ち十六」間は板戸が入り、中央3尺間の敷居上には、束柱が立てられ、ヘヤとデイを仕切るフスマの戸当たりになっている。この束柱は明らかに後補であり、また敷居、鴨居は切断された押板の柱が転用されていた。この押板の框跡の部分は、デイの炉の北側に、大引を受ける束として使われていた。
 「へ十六」~「ち十六」間の敷居は転用材であることがわかったが、この敷居を入れ替えた理由は、ヘヤとデイ境の間仕切りと関連があると思われる。
 鴨居上部の束には、内法貫のすぐ上にホゾ穴と思われる痕跡が残る。この束が当初は柱ではなかったかということも考えられるが、地貫が通っていること、礎石がなく、柱が入っていたという明確な根拠がないことから、当初から開口部であったと推定される。 

5.奥ザシキ
(デイ)
 
 
 南側、西側縁境の柱間は1間となっている。「ろ十八」柱は四面ともに内法り面板を施すためにその板厚分を削り取り、和釘で打ちつけている。面板の風蝕はかなりなされて、板目がくっきりと出ているため、早い時期に行われたものである。四面とも面板を施さなければならない理由、痕跡があったのであろうか、奥ザシキとしての見え掛かりをよくするためと思われる。
 西側縁境に1間おきに並ぶ3本の柱は、入れ替えられている。
 縁廻りに入れられている他の柱径は125mm角に近い材であるのに対し、この3本は116~118mm角でやや細いこと、柱間に入る地貫が同一の形状でないこと。
 また、この柱通りの敷居脇には、角3尺毎に床板面に柱の切り込みがみられたため、当初3尺ごとに柱が立っていたことが推測される。これについては、
   
1.…  桁の下端にホゾ穴が確認された 
2.…  3尺おきに入る根太にホゾが切られているが、柱にホゾ差しにしてあったためであろう。また、中央の柱「に二十」には根太のホゾが入らずに離れていること。 
3.…  礎石は入っていないが、その下に地業の跡が確認されたこと。 
 以上の3点から、3尺おきに柱が入っていたことは確実であろう。 また、現在3本の柱及び付書院脇の「と二十」柱には、地貫の下に小舞の跡がないが、他の部分の古材と思われる柱には、小舞跡が確認されているため、これら4本の柱は、当初材ではないことが明かである。
 この柱筋に3尺毎に柱が入ることにより、壁で閉じられ、西側は完全に閉じられた形となる。

6.ナンドまわり 

 現在設けられている床と、フスマによる間仕切りは、前述したように、床脇の柱が入れ替えられていること、間仕切りの戸当たりが後補であることにより、当初から当初から設けられていたものかについては疑問が出された。 床壁の両側の柱は、根太の上に乗せられてあるだけのもので、根太組みをした後に入れられたものであることがわかる。また、床壁を受ける見切りと床板の框を兼ねた材に、敷居の溝のついたものが使われており、明らかに、当初から床を作ろうとして行ったものでないことがわかる。
 この柱と束柱の先のホゾは、天井廻縁に入れられており、床を設けてヘヤに天井を貼ったのは同時期と思われる。
 次に、西縁に面して障子戸が一枚中引きで入れられているが、西側の柱には貫、小舞の痕跡があり、壁であったことがわかる。
 北側ぬ通りにはマグサが入り、間仕切りがなされていないが、マグサ上部の3尺おきに入る3本の束は、柱を切断したものである。
 「ぬ十六」柱の西面、「ぬ二十」柱の東面には、貫、小舞の痕跡があるため、当初は3尺おきに柱が立ち土壁であったことが推定される。
 北面、西面ともに土壁で閉じられていた閉鎖的な部屋であった。
 ヘヤとデイ境の間仕切りについては、痕跡が明確ではない。
 十六通りから西側は、梁組にも手が加えられている。
 「へ十六」から「へ二十」に入る登梁は、丸太のまま、面取りをしない状態で入れてあり、明らかに他の部材とは様相が異なる。仕口も、末口の側は下面を少し削って二重梁の上に置いてある程度のものであり、元口側「へ二十」柱との仕口も不完全である。「へ二十」柱自体が入れ替えられたと思われるため、同時期に手を加えたものであろう。また、「へ十六」の位置、束上部には、切断された梁の一部と思われる材が残されているため、当初の梁を切って取りはずし、新たに現在の丸太梁を入れたものと思われる。 
 と通りにおいても、現在の床とフスマの間仕切りが、後補であることを述べたが、「と十三」の束には、内法貫の上にホゾ穴、あるいは貫穴と思われる痕跡が残っているため、梁か貫が入っていたのであろう。この束は内法上部で切られているが、その切り口が非常に不明確で、貫を挟む形で束の下端が切られている。前述したように、柱が切断されたものと思われるが、礎石があったという確証が得られない。 

7.カッテ北側(ぬ通り) 

 ぬ通りには、7.5尺間に柱が入る。角柱面には痕跡が多く残り、改造された後が伺える。ぬ通りの北側から2尺の場所に当初材と思われる柱があるため、当初カッテの北面には2尺の張り出しの棚が設けられていた。
 西寄りの柱間には中敷居が入り、2段戸棚。東寄りの柱間には中敷居の痕跡がみられないため、建具が入らない戸棚であったものと推定される。
 この2尺の張り出しは、ダイドコロの北側まで続いていたことが、「ぬ九」柱北面に残る痕跡からわかる。
 ぬ通り柱の北面上部には、つなぎ梁を切断した残りがあり、この張り出しは下屋の形であったと思われる。 

8.ドマまわり 

 桁(地廻り)が掛かる五通りについて、現状で「へ五」柱が大黒柱に相対して残り、チョウナ(平刃)仕上げである。これは間違いなく当初材であろう。その北側には、ノキが2間離れた「ぬ五」柱に掛かるが、これは後補であり、現在3尺おきに入っている束柱が当初は柱であり、壁であった。束の切り口が一定しておらず、ノキから浮いていること「へ五」「ぬ五」柱には貫、小舞の痕跡があることから、それがわかる。
 「ぬ五」柱はかなり風蝕されており、当初は外側に面して立つ柱であった。また、4面に小舞跡がみられる。
 「ぬ五」「ぬ九」の間にはノキが入り、大入れとなる。「ぬ九」柱東面には現在入っているノキとは別の仕切材と思われる痕跡があり、礎石上端より1570mm程の高さである。旧背戸口の框(ノキ)跡とも考えられる。「ぬ五」柱西面には貫、小舞が残るが、ヘッツイが設けられているため、対応していたであろう柱は、取り除かれている。
 当初は、このぬ通りか、ドマの北側柱筋であり、3尺おきに柱が入り、土壁と、背戸口となっていたと推定される。
 このことにより、現在のヘッツイ、大釜は当初のものでないことがわかる。 
 
建築年代の推考
 建築年代を知る手掛かりとなる墨書、棟札等は発見されなかったため、建築年代は推定による。その方法としては
     1.…平面形式より
     2.…構造形式より
     3.…家歴等の資料より
 平面形式は当初はヒロマ型になると思われる。さらに、西側は半間おきに柱が入り土壁となる。奥ザシキ部分の間口は南側の柱間2間分となり、またナンドはほとんど壁で囲まれ、閉鎖された部屋となる。この形式は、一般に江戸時代中期後葉あるいは後期前葉頃まで続いていたとみられている。
 構造形式をみると、梁間4間に、重ね梁を用いて、叉首を架け渡した形式である。3本の大黒柱が上屋梁を受ける形になっており、大黒柱は7寸程の太さである。
 梁間3間に梁を渡して叉首をかける本叉首構造は中期(18世紀末)頃にみられた構造法であり、当家の場合は、それよりやや構造を進めた形である。

 以上、平面形式、構造形式を考え合わせると、江戸時代中期末から後期前葉、18世紀末から19世紀初頭、天明~文化年間と推定される。
 7代目佐左衛門が嘉永3年に裏土蔵を普請しており、1代に2つの普請を考えるのは妥当とは思われない。また、言い伝えから佐左衛門、弥左衛門の頃に増改築を行ったとされていることから、6代目五右衛門(文政11年、1828年没)以前に建てられたものと考えられる。6代目が建てたか、5代目前であるかは判明しないが、5代目与衛門(寛政10年、1798年没)から6代目五衛門までの間とするのが、前述した平面形式、構造形式と照合すると思われる。

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