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古民家調査報告 1-3 (旧森田増治氏宅)

 森田増治家主屋解体にともなう埋蔵遺構発掘調査報告(1)
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調査構成

 場 所   東京都清瀬市野塩一丁目
 所有者   森田増治
 調査期間  1984年12月13日~26日
 指 導   榊原松司
 調査者   露崎 充  米沢容一  内田祐治  坂爪義介  石川和明
 執 筆   露崎 充
 編 集   内田祐治

 
1. 調査目的と経過

 森田増治氏宅の母屋部分に対する考古学的調査は、以下の事柄を目的として実施した。
     ・家屋を支えていた礎石、ならびに土盛りの構造等の解明
     ・母屋の構築年代、および前身となる建物の有無と存在した場合の年代

 調査は、家屋の解体に継続する1984年12月13日から開始された。解体直後の様相から書き記していく。
 上屋の取り除かれた母屋跡には幾十もの礎石が整然と配置し、座敷であった所には、明治から大正時代に養蚕用として使われていたという粘土造りの炉や炬燵、また極めて堅く踏み締まった土間には、解体直前まで使用されていた竈が残っていた。
 床下にあたる部分には、母屋存続時に外部から舞い込んだ枯葉や砂塵が厚く覆い、この家の歴史の長さを想わせた。
 調査はこれら不要物の除去・清掃からはじめられ、この時点で後に炉跡R8とした粘土と焼土の分布が確認されている。この清掃作業では遺物も数多く検出されており、とくに床下に堆積した砂塵からは20枚もの古銭が拾い上げられている。
 清掃後は現況全体の写真撮影から、礎石の正確な位置を記録するための平板測量(縮尺1/50)短期の調査であるためトレンチ調査に留めざるを得なかったが、そうしたなかで礎石配置や土間面の広がり、竈位置等を考え合わせた結果、基本となる2本の交叉するトレンチを設定して調査していくこととした。生活の中心とも言える土間に対して、一方は南北方向に、他方は家屋の上部構造を考慮して大黒柱の存在した位置(礎石番付へ+一)を通す東西方向へトレンチを設定。なお、炉跡R9~11に対しては補助的トレンチを設定し、加えて遺構の確認状況により、部分的拡張もあり得ることを調査方針に盛り込んでおいた。
 調査を進めていく上でとくに留意した点は、土間部において、各時期の生活面がどのような広がりを呈しているか、そしてそれらの重複状態の把握であった。
 時間的な制約もあり、生活面の一面ずつを詳細に観察しながら掘り下げることはできなかったが、結果として、土間面に大別できる二段階の生活面の存在を確認することができた。
 古い段階の土間面は、原地表をある程度整地して形成されており、後に触れる解体した母家の前身を為す建物にともなう土間面である。その上には大規模な土盛りにより造らた土間面が形成されており、これが解体した母家にともなうものである。この土盛り断面は、厚さ数ミリといった極く薄い堅く踏み締まった層の重なりとして検出されており、その中に分層した図中の第2土間面は、解体時の母屋にともなう第3土間面へ継続する古い時期の土間面である。
 このときの調査現場を見ておられた森田氏が
      ・土間を長年使っている凸凹が生じてくるが、そうした場合には高いところの土を削り、
    凹みには土を入れ込んで平坦にしたものです。

と言われたが、その言葉はまさにこうした土間断面に現れた状況を的確に説明したもので、重なる土層面の多さは、それだけ当家の歴史の長さを物語るものに他ならない。
  

 調査範囲が広がるにつれ、東西トレンチの東側部分の第2土間面下において、それよりさらに堅く締まる土間面の存在が確認された。しかも、それは当時の地表面を幾分か掘り下げてできた底の上に堆積するという特異な状況にあった。これは層位的な前後関係から推して、西に隣接する第1土間面と同じか、もしくはやや遅れて出現したものと判断された。
 このころまでの調査により、各段階の土間面とそれに相当する土層面が明らかとなってきた。
 第1および2・3土間面に対応する硬化の見られない生活面は、それを各々第1および2・3相当として土層図に示してあるが、このうち2と3相当とした面が解体された母家の床下にあたる面で、1相当は前身となる建物にともなう原地表面に対比される。
 これらは、いずれも前記の土間のごとくには土質が堅く締まらず、軟質な土層面として検出されたのだが、とくに第1土間面と同時性を示す第1相当面が前身となる建物(掘立形式) にとって、土間部を構成する位置か、あるいは床部を構成する位置か、という建物の構造のみならず内部空間の在り様を推察していく上で重視すべき問題を投げかけていることになる。
 この点については、残念ながらそれを充分に追求し得たわけではないが、調査途上の所見としては、炉跡R1・2西側に広がる第1相当があたかも炉の西脇を境として土間面と区切られているかのように観察されていたことを記しておく。

 土間面の調査と併行して行われていた竈の調査は、現存する竈(K4~6)の初源的位置、および変遷過程が判明した。
 これらの竈に対しては、縦割りのトレンチを設定して確認につとめたが、そのトレンチ断面に未確認の埋没していた古い段階の竈跡K1~3が掛かり、総じて第1もしくは第2土間面にともないつつ、K1~3へと順に造り替えられ最終的に大釜と呼ばれるK4へ連なる状態を断面観察することができた。そのことに加え、森田氏の指摘によりすでに掌握していた現存する竈K4へのK5・6の同時付設もこのトレンチ断面で検証され、すべてが前身となる建物から連続して築かれているという重要な現象が解き明かされるに至った。
 さらに、竈K4~6の焚き口に設けられていたコンクリート製の囲いについては、それを取り外すさいに裏側から「大正14年7月2日」を刻する時事新報夕刊の新聞紙が貼り付いた状態で検出された。
 状況からしてコンクリートを流し込むための枠代わりに用いられたことが考えられるが、日付の解読が可能であったことは、この囲いの構築時期のみならず、以下に記す玉石利用の囲いの存続年代さえも推測可能なものとした。
 この方形に置き並べられた玉石列は、前記したコンクリート製の囲いと類似する規模・配置で築かれていること、またK4の焚き口位置に一致することから考えて、その前身形態であると判断された。

 解体時の母屋の前身となる、掘立柱の建物跡にともなう柱穴の存在が確実となったのは、炉跡R10を半截調査している時のことである。それまでの調査前半の段階では、P12~15など、柱穴とは積極的に言い得ない遺構だけであったが、ここにおいてはじめてP1とした確実視される柱穴跡の出現をみた。このことにより、石場建形式に先行する建物が掘立形式である可能性が示されたことになった。しかも、それは第1土間面上の炉跡R2を切り込み、かつ第2土間面形成前の遺構であることが判明するに至っては、その年代的位置づけは無論のこと、共伴遺構の割り出しも容易となった。このことに関し、柱痕内へ流入した状態で磁器碗破片(陶5) が検出されおり、廃絶年代を想定するための重要な資料となっている。
 こうした柱穴の検出は、その後もP9・10と引き続き、掘立形式の建物跡の存在は益々色濃くなってきた。しかし、それが断定できるにはP2とした柱穴の検出を待たねばならなかった。

 この段階では調査の最終日が差し迫り、それまでに観察してきた断片的な事象を総合し、論理的に検証していく他に時間的な余裕は残されていなかった。その調査方針は、掘立柱建物跡の軸線を解体時の母屋の軸線と同じものと仮定した上で、柱穴を検索する方法。つまり、柱穴であることが確実視されるP1を基準にし、柱間距離を六尺代に想定するものであったが、その検索作業の過程でP2の存在が割り出されたのである。
 このP2は、規模、状態、層位的位置関係がP1と一致し、相互に強い関連性をもつ柱穴として認知され、ここに掘立柱形式の建物跡の存在が確認されるに至ったのである。
 以上が調査経過の概要であり、作業は12月26日をもって終了した。

 
2.遺構

 竈跡K1  K2に先行し、竈跡群のなかでは最も古く位置づけられる。層位的位置は炉跡R3が埋められて(35層)以後の第1土間面上に位置する。
 トレンチ外に未検出の部分が多かったため、全体の規模・形状は不明瞭ながら、堀形は東西方向へやや長い190×140cmほどと推定される。堀形内には暗褐色土(34層)が堆積するが、それは竈上部構造が築かれる以前に入れ込まれた土砂であって、おそらくは使用上の熱効率を考えての施しのように推測される。
 遣形の規模については、それが崩壊しており推測が困難であるが、堀形規模や内部に堆積する層の状態から憶測するならば、燃焼部の内壁幅はせいぜい70cm程度であることから、仮に内壁の厚さを20cmとするならば竈外形幅は110cmくらいと考えても良さそうである。
 なお、当遺構の竈としての機能期間は第2土間面が築かれる直前までである。

    27層…スサ混じりの粘土とロームがブロック状に混合
      28層…27層と同系
      29層…粘土と焼土化した粘土がブロック状に混合
      30層…暗褐色土とロームの混合
      31層…暗褐色土とブロック状の粘土の混合
      32層…灰・焼土が細い互層を形成
      33層…暗褐色土と粘土の混合層。第2土間面を形成
      34層…暗褐色土
      35層…下位に焼土を含む暗褐色土。炉R3を埋め戻した土砂 

 竈跡K2   K1に継続して築かれた竈。層位的にはK1より新しく、K3・4より古い関係にあり、土間面の関係では第2土間面形成初期、すなわち石場建建物の同じ頃の構築と考えられる。
 全体については、調査区外に未検出部があるために不明瞭だが、おそらくK1と同様に楕円形の堀形であつたと思われる。推定される規模は220×160cm。
 内部の堆積土に関しては、20~22層が使用時における燃焼部床面で、その状況からすると竈内部の幅は80cm程度と思われる。一方、24層においても同様な痕跡が認められ、これについても同じ性質の層と考えるべきかもしれないが、その場合には竈内部の幅が120cmもの値を示すことになる。因みに、構築の状況が明らかなK4~6を参考にすると、竈本体は堀形内に収まるように築かれていることから、このK2に関しても同様なあり方を想定すれば24層は23~26層を含めて竈構築材とみるべきである。その土層中に炭化物や灰が多く含まれる現象も、スサ等を混入した竈構築材としての性格を示していることになる。

    17層…黒褐色土。第3土間面を形成

      18層…黒褐色土
      19層…焼土・暗褐色土・粘土の混合
      20層…灰・焼土の混合
      21層…灰
      22層…黒褐色土・炭化物粒の混合
      23層…暗褐色土・灰・ロームブロックの混合
      24層…暗褐色土・焼土ブロックの混合
      25層…黒褐色土・炭化物粒の混合
      26層…暗褐色土・灰の混合   
      36層…暗褐色土・ロームの混合。柱穴P10内に堆積する土砂

 竈跡K3   K2より後出の様相を見せ、K4~6の焚き口の位置に並ぶ玉石の囲いより先行する竈で、土間面との関係では第2土間面でも終わり頃の面に構築されたものとみられる。
 堀形の規模は120×120cm程度で、K1・2の半分の大きさ。内部には堀形底面上に灰、焼土が堆積し、この点も前記K1・2と異なるところである。なお焚き口の位置は、堀形の平面形状や機能時の堆積層などのあり方から西側と思われる。

 ・K3内堆積土
       1層…暗褐色土。第3土間面形成
       2層…黒褐色土・砂利の混合 
       3層…スサを混じえる粘土と暗褐色土の混合
           粘土は竈天井部を形成していたものと思われる
       4層…粘土ブロック・暗褐色土の混合
       5層…暗褐色土・灰の混合
       6層…スサ混じり粘土・暗褐色土の混合
       7層…粘土ブロック。多くは焼土化。天井部分の崩壊土
       8層…ロームブロック・暗褐色土の混合
       9層…粘土
      10層…灰・炭化物粒の混合

 ・K2内堆積土
      11層…灰・焼土粒の混合
      12層…黒褐色土・焼土粒の混合
      13層…焼土。天井内面の崩壊土
      14層…暗褐色土・焼土・灰の混合
      15層…焼土・灰の混合
      16層…灰
      17層…灰・黒褐色土の混合
      18層…17層と同系

  ・P9内堆積土
      19層…粗粒子状暗褐色土。柱穴跡P9柱痕内流入土
      20層…暗褐色土・ロームブロックの混合。柱穴P9埋設土

 
 竈K4   K5・6とともに母屋解体時まで機能していた竈で、外形の規模は横幅、奥行きともに90cm、土間面からの高さは35cmを計る。
 竈本体は松葉をスサとして入れ込む粘土で構築され、焚き口には直方体の切石を組み上げ、全体として強固なものに仕上げられている。その内法規模は横幅30cm、縦幅45cm。ただし、この寸法は竈が機能を開始する時点の大きさであって、少なくも、調査時点では15cmほど埋まった状態を呈していた。
  竈構築法は、本体の制作に先立ち、それより大きい堀形を掘っている。この深さは45cm程度で、焚き口を形成するための切石を埋める溝も掘られている。12・14層は構築過程に入れ込まれた灰を多く含む顆粒状の黒褐色土であるが、これは焚き口の形成とともに堆積したものである。
 この種の土砂がどのような意図のもとに入れ込まれたかは定かでないが、他の竈跡や炉跡でも同じ状態が観察されることから、そこに熱効率を考えての調整的な機能を持たせていることが推測されてくる。

     8層…灰・焼土・暗褐色土の混合。機能時における堆積土砂
       9層…灰・炭化物粒混合。8層とともに機能時における堆積土砂
      10層…スサ混じりの粘土。竈の補修土
      11層…松葉をスサとして入れ込んだ粘土
      12層…黒褐色土・灰の混合。顆粒状
      13層…粘土
      14層…黒褐色土・灰の混合。顆粒状

 
 竈跡K5・6   K4より後出の竈で、本体中央を区切ることにより二基分の竈機能をつくり出している。二基を合わせた本体の大きさは、横幅120cm、奥行80cm、土間面からの高さ30~35cm。
 本体を形成する材は、スサを混じえた粘土と切石を用いるK4と同じで、、構造・構築法も基本的には一致している。ただ、燃焼部内壁を積石で構成している点がK4と異なる。なお、7層の黒褐色土は竈構築時に入れ込まれたもので、K4で述べた燃焼効率の調整的な性格をもつ土層と考えられる。
 遺物は、瓦3がK6燃焼部の床面形成にかかわる土層中(6層)から検出されている。

       1層…暗褐色土・灰・炭化物の混合。機能時における堆積土砂
       2層…灰・炭化物の混合。機能時における堆積土砂 
       3層…灰・焼土の混合。機能時における堆積土砂
       4層…スサ混じり粘土
       5層…暗褐色
       6層…焼土
       7層…黒褐色土。顆粒状でボソボソとした質感

 
 竈K4~6焚き口の囲い   コンクリート製と玉石を置き並べた二種がある。このうち前者は解体時まで使用されていたもので、他方は第2・3土間面下の地中に埋没しており、調査によってはじめてその存在が明らかにされたものである。各々、材質に異なりはあるものの、竈の焚き口部に併設された施設である。
 コンクリート製の囲いは、北縁をK6端部に揃えるのに対して、南縁はK4からさらに南へ90cm拡張しているが、この部分の利用については森田氏から、炉として、囲いの内にて火を燃やしていたことを伺っている。
 これに対して玉石を配列した囲いはK5・6とは関連性を持たず、K4一基について造り出された位置にあり、またK4焚き口部の切石と同手のものが玉石間に混じていることもそれを裏付けるものとなっている。
 遺物としては、コンクリート製の囲いに貼り付いた古新聞紙が検出されている。
 遺物としては、コンクリート製の囲いに貼り付いた古新聞紙が検出されている。これはコンクリートを流し込むさいの枠代わりに用いられたものと思われ、「大正14年7月2日(木) 」付けの『時事新報』夕刊の文字が鮮明に読みとれた。 
 炉跡R1   R2より先行し、礎石(に+一) の壺地形に切られており、層位的には第1土間面上に築かれており、R2との関連性からすれば、土間面が出現した前半頃のものであることは確かである。
 堀形は平面長方形に掘削され、その外周には土間面より5~10cmほど低い段が設けられているが、これは後述する炉の枠造りをするための施しである。規模は平面120~105cm、土間面からの深さ約30cm
 内部の堆積土は10・11層が炉床を形成する土層で、それを裏付けるように10層のうちでも上位ほど良く焼土化し、さらにその上には灰を主体とした9層が堆積している。
 12層は炉の縁を形成する土層である。非常に堅く突き固められていて、全体に土間面より高く盛り上げられており、西側へ行くほど高まっている。この点については、R2についても同様な現象が観察され、別項で述べるところの、炉を境とした東と西側に生活面の異なる可能性を示すものとして注意される。
 なお8層は、R2構築にともなう埋め戻しの土砂で、第2土間面を形成する土砂とは時期的にも異なるものである。

     1層…暗褐色土。堅く締まる土質。第3土間面形成
       2層…ロームブロック・暗褐色土の混合
    
 3層…暗褐色土・粘土の混合堅く締まり、複数枚の土間面を構成。第2土間面形成
       4層…暗褐色土・ロームの混合。
       5層…灰。腐敗していない藁を多く含む
       6層…暗褐色土。堅く締まる
       7層…砂礫。礎石(に+一)壺地形
       8層…暗褐色土
       9層…灰・焼土・炭化物粒混合
      10層…焼土
      11層…暗褐色土・灰の混合
      12層…ロームブロック・暗褐色土の混合。堅く突き固められ、炉縁を形成 
 炉跡R2   R1に後続する炉で、これも第1土間面上に位置している。R1とは平面的に直交、もしくは平行する位置関係にあり、また柱穴跡P1および礎石(へ+一)の壺地形にいずれも切られていることから、両者は継続して営まれた炉とみて間違いない。
 堀形はR1同様平面方形で、規模は一回り大きく135×125cm、深さ50cmを計る。縁造りは、これもR1同様堅く突き固められた土層が確認されたが、このR2の場合は19層が厚さ10cmほどに入れ込まれたうえで、縁となるつちを盛っている。また、この19層をも含めた16・17層は炉床を形成する土砂であり、灰を多く混じえる暗褐色土などは、他の炉や竈跡で観察されたものと同様な構築のさいの調整的機能を果たしたものと判断される。
 遺物については、当遺構に直接かかわるものは検出されていない。検出された数点は、いずれもこの炉を埋め立てるさいの土砂中(第2土間面形成土)に紛れたものであるが、とはいえ、これら土器や陶器類が第1土間面の機能していた時期に消費されていたことは充分に考えられる。

       1層…暗褐色土
 
      2層…1層と同系
 
      3層…1層と同系
 
      4層…暗褐色土・ローム・粘土の混合堅く締まる。
        
  第2土間面形成
 
      5層…暗褐色土・ロームの混合
       6層…5層と同系
       7層…砂礫。礎石(へ+一)壺地形
       8層…暗褐色土・ロームの混合。礎石(へ+一)壺地形
       9層…暗褐色土・ロームブロックの混合。礎石(へ+一)壺地形
      10層…暗褐色土
      11層…暗褐色土・ロームの混合
      12層…ロームブロック
      13層…暗褐色
      14層…灰・炭化物粒の混合。R2機能時の堆積層
      15層…灰。R2機能時の堆積層
      16層…焼土。上位ほどよく焼けている
      17層…暗褐色土
      18層…ロームブロック・暗褐色土の混合。
        
 堅く突き固められ、炉の縁を形成
      19層…暗褐色土・灰の混合
      20層…ローム
 

 炉跡R3   第1土間面の機能している期間に出現して消滅した炉跡で、埋め戻されてからは再び堅い土間面と化している。
 前記の炉跡R1・2との時間的前後関係は不明ながらも、それらが機能していた間に設置されたのは確かで、その形態がまったく異なる点からすれば炉としては同種であっても別な性格を帯びて構築されたことも考えられる。
 平面形は北東・南西方向へ延びる楕円で、規模は80×50cm、深さ10cmほどの小さいものである。
 遺物は、埋め戻しの土砂中から陶8が検出されており、その消費期間についてはR2で述べたと同様である。

 
 炉跡R4・5   いずれも第2土間面上に営まれており、調査時点ではすでに第3土間面下に埋没していた。ただし、調査経過でも述べたように、第2・3土間面は継続しているため、第3土間面下といえども時間的にはそれほど隔たりがあるものではなかろう。
 平面形は双方とも隅丸胴張りの方形を呈し、その規模以下の通りである。
    R4…平面規模100×85cm 深さ15cm
    R5…平面規模 40×40cm  深さ 7cm
 R4には、再利用品である瓦1が堀形底面にぴったりと貼り付いた状態で敷かれていたが、これは炉床として設置されたものと判断される。この他にはR5から瓦4と鉄2が検出されている。
  ・R4内堆積土
       1層…暗褐色土。第3土間面形成
       2層…灰・焼土の混合
       3層…暗褐色土・灰の混合
       4層…ローム

・R5内堆積土
       1層…暗褐色土・第3土間面形成
       2層…灰
       3層…焼土・灰・炭化物の混合

 
 炉跡R6・7   いずれも第2土間面上に設けられた炉跡で、その平面形・規模および位置からすると同種の機能・性格を帯びたものであったようである。
  形状は南北方向に長い溝状に掘られおり、長さは75~90cm、幅15~20cm、深さ10cmほどである。
 遺物は、R7内に堆積する灰層中から近・現代物の素焼き硬質の植木鉢小片が1点検出されている。

 
 炉跡R8   調査当初の清掃時にすでにその存在が確認されていた遺構で、焼土・灰・炭化物粒を含む粘土の存在をもって炉跡と判断したものである。層位的には第2土間面が形成されて以後に築かれている。
 前記の焼土・灰などは混合物として広さ115×100cm、深さ4cmほどの浅い隅丸方形様の凹み内に堆積していただけであるから、その本体の構造は推測すらも不可能である。ただし、重複して一辺90cmの方形に配された石(礎石か? ,粘土を敷いた上で配置していることが注意される) の存在や、それを避けるように置かれていた礎石(は+十八、ほ+十八)の位置から、家屋の上部構造と密接な関連性を持つことが指摘できる。
 遺物は古銭11が、堀形底面と粘土に挟まれるようにして検出されている。これは、当炉跡が築かれるさいに入り込んだものであり、構築時期を知る唯一の手掛かりであるが、銭の流通後の一般的なあり方を想起すれば、一概にその製造年代をもって炉の構築時期とすることは慎むべきであろう。

 
 炉跡R9   母屋床下に遺存していた養蚕用の炉で、層位的には第2土間面が形成されて以後の土間面上にある。
 構造については多少の説明を要するので、制作工程を想定しながら記述していくことにする。
 本炉は床を外して使用するため、地表から床下の高さ分だけ造り出されている。その基本構造は木と竹を用いた外枠造りで、木は径4cmの先端を尖らせた4本の杭を四方の地中に打ち込み、炉の外法を造り出している。その規模は133×60cm、高さ55cm。
 次に杭の上・下位二段に細竹8本を井桁にくくり付け、その四辺の内側に細く割り裂いた竹を密に立て並べ、塗り込められる粘土の外枠としている。
 粘土は炉床から築かれているが、それには漆喰片(不用となった物の二次利用と思われる) がスサ代わりとして多量に混ぜ込まれている。塗りの厚さは12cmほどである。
 最後に炉の内壁が築かれるが、この粘土には漆喰は混入されず、切り刻んだ藁がスサとして用いられている。厚さは9cmほどに塗り込まれており、その上端部を内側へ傾斜させている

       1層…焼土
     2層…スサを混じえる粘土。壁を補修した粘土か 
       3層…灰
     4層…焼土
       5層…暗褐色土
     6層…灰
       7層…スサを混じえる粘土
       8層…漆喰片をスサとして混じえる粘土
       9層…ローム

 
 炉跡R10   R9と同様にして、第2土間面形成以後に構築された養蚕用の炉跡である。
 基本構造はR9と同じで、漆喰をスサとして混じえるところなどは、あたかも2基が同時期に営まれたことを想像させる。ただ、骨組はR9とはやや異なり、直にうち並べた木杭に細く割り裂いた竹を密に編み込んでいる。規模は外法140×100cm、高さ60cmである。
 なお、当初築いた炉の中には、後に内法60×30cmの小さな炉が設けられており、この時点では別な機能をもつ炉として使用しているようである。

       1層…スサを混じえる粘土
       2層…灰
    
 3層…スサを混じえる粘土
       4層…漆喰片をスサとして混じえる粘土
       5層…暗褐色土
       6層…灰 
 炉跡R11   形態は異なるが、R9・10と同じく母屋構築より後出する炉跡で、森田氏によれば炬燵用として使っていたとのことである。
 構造は、径4cmほどの丸木杭を内傾気味に円形に打ち込み、そこにR10同様割り竹を編み込んで骨組みを造り出している。
 藁スサを混じえた粘土を内側に塗り込め、炉床と壁とに分けた造りにしている。図に示したように、炉床は断面台形に盛られ、そこに壁をくさび状に組み込んでいる。規模は開口部の内法が一辺30cmほどの隅丸方形。
 なお、当炉跡は使用中に改修がなされており、炉の上にさらに粘土を盛り上げているために、炉床は従来より20cmほど高くなっている。
       1層…灰
       2層…スサを混じえる粘。補修部 
       3層…灰・炭化物
       4層…スサ混じり粘土
       5層…4層と同系
       6層…暗褐色土・ロームの混合

 
 柱穴跡P   柱痕を内部に残すことで、明らかに柱穴跡と断定できるものはP1・2・5~9の7箇所である。これらのうち、土間面との関係が捉えられるのはP1・2の二つの柱穴で、双方ともに第2土間面形成前の掘削であることが確認されている。なかでもP1は炉跡R2を切る関係にある。(他にも柱穴堀形の形態に準ずるものもあるが、いずれも柱痕が認められないために、積極的に柱穴とは言い得ない状態である。ただし、遺構名および番号は柱穴扱いとしている)
 この二つの柱穴の関連性については、P2の検出に至るまでの経緯が重要な点となる。すなわち、P2はP1の存在する位置や解体された母家の軸線、および推定柱間距離六尺代という三要素を基準として検出できたもので、この経緯こそ二つの柱穴が同一の建物の構成部分であることを明らかにしている。
 これらの土間面との関係は、いずれの土層観察面においても第2土間面形成前の構築と言うことだけで、それ以上は推測するしかないのが実情である。しかし、この柱穴を解体時の礎石配置図に当てはめてみれば明らかなように、両者は類似した状況にあり、加えて後述する柱痕規模をも考え合わせるならば、それらが石場建形式の建物(解体時の母屋)に先行する掘立形式の建物の柱穴であることに疑いを挟む余地はない。そして、第1から第2土間面への推移する状態からは、第1土間面の存続期間にこれら柱穴の共存していたことが知られるのである。
 なお、柱穴堀形規模はP1・2とも径45~50cm、深さは80cmほどで、柱痕から推測される柱の太さは約20cmである。
 遺物は、柱痕内の堆積土中から陶5が検出されているが、これは柱が抜き取られた時点で外部から流入したもので、この掘立柱建物の存続していた頃までに消費されたものと判断される。

 
 壺掘地形跡J   トレンチに掛かる礎石下には、壺掘による地形跡が確認されている。その堀形規模は必ずしも一定したものではないが、径50cm前後で、深さは20~30cmのものが一般的である。
 内部には砂礫・ローム・暗褐色土が交互に入れ込まれ、その状態は礎石を受けるために極めて堅く突き固められている。この砂礫に関しては、この辺りでは地表下かなりの深さまで掘らねば存在しないが、このことについては土地の人から次のような話を聞いている。
    砂礫は井戸砂利で、壺掘地形には適したものである。井戸を掘るさいに 
      出るこの砂利は捨てずに、こうしたときに備えてとっておく。
 なお、トレンチ外においても数ヶ所の壺掘地形の確認をしたが、その結果は以下の通りである。

  ・地形あり    に二十からろ二十間の中央
               へ二十からに二十間の中央
               ち十六からへ十六間の中央
               ち又十四
   ・地形はなく、礎石が置かれているのみ
               と十八 

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間取り 基礎石伏
番付
調査区域
検出遺構
土層断面 遺構
土層図1
遺構
土層図2
遺構
土層図3
  
 

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Ⅰ期
 
(19世紀初頭頃) 
Ⅱ期
 
 
Ⅲ期
 

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